最終話 夢うつつ

 槐が次に視界が開いた時、そこはもう里では無かった。雨は上がったが、辺りは霞みがかって視界は不明瞭だ。だが、見えるものもあった。


「ここは?」


 眼前には大きな岩。叢雲よりも一回りも二回りも大きな。けれども、その大岩は真ん中で割れて、しかし互いに支え合って崩れる事は無い。沢の境目で、苔むしては今も水が湧き続けていた。


「此処で、はるけき世に水分神みくまりのかみが神気が溜まり過ぎた大岩を割ったんだ。神気が溢れ、様々な命が生まれ育まれた。お前の母も、その一人だったのだろう」


 清涼な、神気含む水故だろうか。鳥も、虫の音も、風も無い――静寂と冷えた水が創り出す空気は異界にも等しかった。その水が、山々へと流れ、里へと流れ、今は無き、常春の世を築き上げたのだ。


「そう」

  

 槐にはもう見る事のない常春の世。だが、今も槐の中には母から受け継いだ記憶がある。物珍し気に辺りを眺めていると、叢雲は懐から一つの杯を取り出して――その湧き水を杯へと注ぐ。すると――清水が仄かに輝きを帯びた。


「槐、水分神みくまりのかみからの祝酒だ」


 杯に満たされたそれは、馨しい春の香りに包まれる。酒精にも似た香りを帯びて、まるで――


「お酒?」

水分神みくまりのかみの記憶を込めたそうだ。実際には水だ」


 叢雲は槐の手をとり、杯を渡した。顔を近づければ、藤花幻夢の如く花の濃い香りが鼻腔を掠め、槐は顔が綻んだ。しかし反対に、叢雲の顔は慎重だった。


「大岩の最後の神気をお前に託すそうだ」

「……私には水分神みくまりのかみの声が聞こえない……どうして?」

「人の近くで生きてきたからだろう。あれは、人の形を持たない神だ。だが、で生きれば、そのうち聞こえるようになる」

「これを飲めば良いの? 何のお祝い?」

「俺と契りを結ぶ為の」


 槐は以前言っていた、正式な契りというものを思い出して、顔を上げる。ああ、これが。槐が一人納得していると、叢雲は殊更寂しげな顔を晒してポツリと溢した。


「槐、杯を交わすのであれば、半分飲んで俺に渡せば良い。だが、全て飲み干しても構わない」

「どうして?」

「これだけの神気が込められていれば、お前が一人で生きていくには問題無いだろう。無理に俺の力を借りる必要はない。勿論、お前には恩を返し続けるつもりだ」


 槐は叢雲の言葉に何も返さなかった。槐の瞳はもう揺らがぬ決心が宿り、その眼差しは杯を見つめて、そっと淵に口を付けた。こくり、こくりと嚥下する度に、喉に、鼻に、芳醇な花の香りが漂って、舌には甘味が絡み付く。ああ、これが。槐は漸く、母が言っていた味を知り、満足げに笑んだ。もうその時には、杯には半分程度の清水が残されているだけだった。


「叢雲、私……境目が壊れた時、思い出したの」


 槐はゆっくりと杯を叢雲へと差し出して、そして言った。


「私の真名まなは、胡蝶こちょう。夢と現を渡り、決して土地に根付く事の無い蝶」


 叢雲は淡く微笑んだ。


「そうか……胡蝶か……」


 叢雲は噛み締めるように呟いて、杯の中身を飲み干した。それはそれは、槐の血を味わった時のように悦に入る。


「ああ、この味だ」


 叢雲は古い記憶の味を思い出したように、満足気に息を吐く。そうして、二人はその地を去っていった。



 


 昔々、水分神みくまりのかみが治める地にて、神気を纏った大岩があった。水分神がその大岩をると、神気が溢れ、山は豊かに。神が訪れ、精霊が生まれ、妖が集まり、様々な獣や植物が生命を育んだ。そこへ、不可思議な人の一族も紛れ込んだ。酒が好きで、美味い酒を求めるが故に、水分神の地まで辿り着いたという。その一族は、山を気に入り、酒造りを始めた。大岩から流れる神気を含んだ清水を人はあっさりと扱う。そうして人は、春を閉じ込めた様な酒を造り出してしまった。


 水分神はあまりの美味さに驚き、人が山に住む事を許し、一族に『石清水』という名を与えた。

 石清水の名は、各地に轟いた。美味い酒が飲めるとあって、酒を求めて訪れる神までいた程だ。神も、精霊も、妖も、獣も――そして人も分け隔てなく、酒を酌み交わして、常春の山は大層に賑やかだったという。


 今はもう、昔の話。

 ただ酒を振る舞う事が好きだった石清水の一族は、外から来た欲望を持つ者達に毒されて、楽しかった宴会の事など忘れてしまった。

 時が経ち、次第に神々の来訪は減り、精霊や妖は姿を消し、獣達から意思は消えていく。もう、あの時代を覚えている者は少ないだろう。


 今も尚、石清水の一族は酒を造り続けている。酒造統制が行われ、今は寒造り(冬季のみ酒を作る事)以外は許されていない。それでも、彼らは古の伝承と共に酒を造り続ける。古い思い出を忘れない為に。


 

 

 ◆◆◆



 春にも似た心地が、女の身体を包み込んだ。

 藤棚の下、女は藤の蔦に身を預け、うっとりとあたりを一望する。春が咲き乱れる景色には、梅に、桃に、桜に、藤に、花水木。水仙や蒲公英に菜の花まで。他にも様々な草花が槐を囲んで、賑やかしい。しかしそれは景色だけの話ではなく――


「胡蝶」


 それまで胡蝶の隣で眠っていたのか、身を起こしたのはまだらに鱗がある男。鱗の男は女の隣に寄り添って、日常の一つのように女へと甘く口付けた。すると、女は当然と言うように鱗の男の腕に手を添えて、鱗の上部を繰り返し撫でる。


 雨粒が、葉に、花に落ちる音が、ぽつりぽつりと鳴り響く。

 花々は香り、雨が匂い立つ。

 此処は、人が住む世から離れた遥か高みの山の上。二つの夢路が交わって、幻夢は時に雨降る常春の世。

 もう誰にも邪魔されない夢の世は、人が神々の存在を忘れるその時まで続くだろう。



 藤花幻夢の御伽鬼譚 これにて了

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