第三話 境目
屋根瓦に落ちる雨音。雨垂れの音。ゴロゴロと唸る雷。幾重も重なるその音は、まるで誰かの激情の様だった。槐は一人、薄闇の中で座して待ちながらも、目を閉じてそっと耳を澄ます。今までも何度と耳にしてきた筈も音が、今日ばかりは心地が良い。
そして、一際大きな雷鳴が一つ。里に落ちたのだろうか。それでも、槐は怯えよりも
ああ、もう直ぐだ。もう
――そういえば、最後に“夢”を見たのはいつだったかしら
そんな悠長な事が脳裏に浮かんだ時だった。
すうっ――と、襖の開く音がした。それもまた、耳慣れた音。だが、槐の鼓動は飛び跳ねて、瞼を開く。
――ああ、叢雲だ
名前を呼べない事が口惜しい。槐は喉につかえた言葉を飲み込んで、しかし叢雲が目の前にいると言う事実が触れられない格子の既まで手を動かした。
「あなたに、会いたかった」
焦がれ続けた想いを乗せた言葉に、叢雲は甘く微笑む。
『槐、行こう』
そう、叢雲が発したと同時だった。
ぱん――と、幾重にも重なった
槐は呆然と、足下に散らばったそれらに目を落とし、しかし視線はもう一度、叢雲へと戻る。もうその時には、叢雲の手が槐の眼前へと差し出されていた。
槐はそっと手を伸ばす。未だ、そこに境界があるような気もして、どうしてもては恐る恐ると。そうしてやっと、槐の手が叢雲のそれに重なる。
「やっと、触れられたな」
甘やかに叢雲が囁く言葉は耳を擽って、男性的な硬い手の感触は槐のそれを温める。強く握られ引き寄せられたなら、互いの身体の体温に槐は涙を浮かべた。
そして、脳裏に一つの言葉が浮かぶ。
「……あ、私……」
「それよりも今は、外に出よう。石清水の者達も雨の中待ち兼ねて位いるだろうから」
叢雲は槐の手を引いて、廊下へと歩み出る。
薄闇に包まれたそこは、異界と異界を繋ぐ境目。開かずの間は異界へと繋がる道であり、精霊を封じ込める程に力を帯びた隔たりでもある。
しかし、
そう、数百年。槐は生まれて初めて、外界へ出るのだ。
ぎしぎしと踏む板の感触すら、生まれて初めて。肌に触れる空気は異質に思えて、肌に突き刺さるよう。今自分が、暗闇から生まれるような。未知数としか言いようの無い先行きに、思わず握る叢雲の手の力が強まった。
「槐、大丈夫だ」
現世の誰よりも、甘く柔らかな声音。槐は薄闇の中でそろりと目を上げる。金色の双眸が、炯々としながらも槐を安心させようと目を細めていた。そうしてもう一度、「大丈夫だ」と甘い声色で囁く。
その声が、槐の中に生まれ始めた恐怖を跳ね飛ばし――開かずの間の入り口へと辿り着いた。
それからはもう、槐は前に進むだけだった。家という代物すらも知らない槐にとっては、全てが真新しい。しかし、だか興味は惹かれない。槐にとっては、自身を閉じ込めていた囲いの一部程度の認識だったのもあるだろう。それよりも、目指すべきは外だった。真っ直ぐ続く廊下。何故だか、その先へ進めば外に出られるのだと理解して、叢雲が案内するまでもなく槐の足並みに迷いは無い。だからと言って焦る様子もなく、淡々と進んだ。
そうして、漸く。戸口へと辿り着く。境目の向こうでは、未だ大雨が続いて激しい雨音が藤花のささめきの如く叫んでいた。
そして、開かれたままのその戸を潜り抜けた先――
「雨が……」
明かり取りの小窓からは見えない景色が、槐の視界に広がる。
けれども、槐はその景色を形容する言葉を持たない。何せ、何も知らないのだ。
まばらに建つ家家も、家家を繋ぐ道も、道の先にある畦道も、畦道と共に並ぶ田んぼや畑も、槐は何一つ知らない。
しかし、視界には見知った顔が幾つか。
「斎郎……」
斎郎を筆頭に、六人の男が槐と叢雲の前に立ち並んでいた。大雨に濡れる姿は、座敷牢で見てきたそれとは違う。神妙でいて、しかしどこか晴れやかだった。
「槐、どうか幸せに」
ひっそりと、雨に紛れるような声だったが、槐は確かに聞こえた。
「斎郎も」
その声が聞こえたかどうか。槐は叢雲に引き寄せられると同時に、視界が暗転した。
◇
槐と
もう、話す事は無かった。だが、ただ一つ。
「槐、どうか幸せに」
ひっそりと、雨に紛れるような声だった。槐には、聞こえたかどうか。だが――
『斎郎も』
雨の中に槐の声がはっきりと聞こえた。それと同時、高龗の身体が揺らいだ。金の瞳はより炯々と。その肌は槐が手にしていた鱗と同じ黒色へ変じる。体躯は蛇のように長い身体。しかし、蛇ではない。
――やはり……
龍は槐を包み込むと同時に、雨足が強くなり視界が霞んだ。だがその霞む視界の中、黒い龍が空へと昇っていったような気がした。
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