第二話 来訪者

 黒い――分厚い雲が空を覆った。

 時が来たと里に告げる様に、雲はゴロゴロと唸りながらも光を帯びて、時に大きく轟く。今にも稲光が地を穿うがちそうなまでの曇天。そんな予感が立ち込める中、ぽつり、ぽつりと雨滴が舞い降りた。次第に粒は大きくなり、雨滴は増える。ザア――ドドド――と、今まで溜め込んでいた水を全て地に落とす様な土砂降りへと変じたのは、雨が降り始めて間も無くの事だった。


 里人は雨が来たとはしゃぎながらも、滝壺かのように打ち付ける雨量に皆がそれぞれの家へと逃げ惑う。そんな中、一人の里の男が何かに気づいてふつと足を止めた。

 雨の向こうに、何か見えた様な。ほんの数歩近づけば、里では見かけない長い黒髪に黒い着物の男が畦道に立ち尽くしていたのだ。はて、誰だろうか。首を傾げて、いぶかしみながらも里人は黒へと近づく。雨のせいで視界は悪い上に、殆ど雨以外の音も聞こえない。それでもやっとこ近づいて、雨が痛くて頭が上がらないお陰で、まじまじと男を見る間も無く話しかけた。


「あんたどうした。迷ったか?」


 稀にだが、うっかり街道を外れた旅人が、里に辿り着く事がある。または、山を越えようとして、雨に見舞われたか。どちらにせよ仮宿は必要だろう。里人は親切心で、できる限りの大声で話しかけていた。

 しかし、黒い男は身動ぎも――それこそ僅かな機微も見えない。だが、突如として里人の耳へと声が降り注いだ。


「妻を迎えに来た」


 豪雨の、それこそ里人は自分の声すらも聞こえるかどうかの状況だった。されど、黒い男の声だけは唸る空よりも、耳を塞ぐ雨音に紛れる事もなく、はっきりと聞こえたのだ。声だけではない。里人は違和感に気が付いて目線を上げる。黒い男の着物、長い黒髪、そのどちらも雨滴の一つも染み込んではいない。そうして、持ち上げた目線の先――黒い男の瞳と勝ち合う。金色の――人ではないと示すその色に、里人は背筋が凍りつきそうだった。雨に濡れたからだろうか。黒い男と目が合った途端に身体が冷えて、ガタガタと震えが止まらない。黒い男から逃げ出したいのに、足は思うように動かなかった。


「お待ち申し上げておりました」


 突如、雨に紛れた低い男の声が今度は背後から聞こえた。里人は聞き慣れた声に安堵して、気が抜けてその場に尻餅をつく。背後へ目線を向ければ、杜氏とうじが雲水僧を伴って黒い男へと近づいている所だった。里の男は漸く自分が対峙していたものが人でないと気が付いた。ああ、本当に来たのだと。未だ恐怖心に支配されながらも得心して――だが、腰が抜けて思う様に動けない。そんな様子に気が付いたのか、雲水僧が里人の肩をぽんと叩いた。


「ほれ、家に帰ってろ」


 恐ろしい何かがそこにいるとは思えない明るい調子の雲水僧の言葉だったからなのか、里の男はすんなり足に力が入って立ち上がる。けれどももう、黒い男の姿が見たいとは思えずに、土砂降りの中、一目散に家へと駆けて行ったのだった。


 ◇


「この地の者は如何なる存在にも動じなかったと思っていたが……」


 逃げる里の男の背を金の目で追いながら、黒い男がボソリと言った。激しい雨音だと言うのに、すんなりと耳に声が入り込んで、斎郎は背筋が強張る。今まで、精霊しょうりょう――山神と呼ばれる存在と同等に接してきた経験か、耐えられはするが、それでも槐よりも余程恐ろしい気配が終始まとわりついた。

 

「それはもう、古き時代の話。今はもう、そこらの人と大差ありません」  

「そうか……矢張り、そうなのか……」


 黒い男は薄弱と、見えなくなった里の男が走り去った方角を向いたままだったが、それも束の間。男の金色の双眸が、斎郎と芳雀をそれぞれに認めた。


「それで、考えは纏まったのか」

「はい、こちらへ。準備は出来ております」


 斎郎が自身の家を指し示せば、黒い男はそちらへと足を向けた。斎郎と芳雀は後を追う。これから何をするか、どうなるかを理解しているのか、二人は黒い男の名前すら知らない状況でも、何を尋ねる事も無かった。

 もう、腹は決まっているのだ。


 だが、漸く辿り着いた杜氏の家の前。十数人の――老齢の四人の男を筆頭とした者達が、斎郎の家の入り口を塞いでいた。


「四ツ家め、納得したふりだったか」


 芳雀が忌まわし気に毒づいて前に出ようとする――が、黒い男がそれを遮った。そうして、真正面から四ツ家の者達を見据えて口を開いた。


「我が名はたかおかみ。契りを交わした妻を迎えに来た。邪魔をしないのであれば、我は妻と共にこの地を去る。この地は変わらず穏やかなままだろう」


 それは、四ツ家をこの里の主として対話しようとしたのだろう。斎郎と話をした時よりも、声は聞きとり難く、しかし不思議と声は正面のもの達の耳にも確と届いていた様だった。だが、黒い男――たかおかみが何者かを理解していないのか、顔色は一様に芳しくは無い。それどころか、


を連れて行かれては困るのです。は、神便鬼毒酒を造るために必要。この里の別の女を捧げます故、どうかそれで納めて頂きたい」


 四ツ家の中でも一等老齢の里長が、声を震わせながらも気丈に立ち振る舞いを見せた。それが、悪手とも知らずに。


『我が妻を、などと宣うか。人間風情が』


 ごう――と、たかおかみの怒りが天雷を呼んだ。激しい稲光と雷鳴に、その場に居た誰もが肩を竦ませる。その怯んだ拍子、


退け』


 一瞬だった。たかおかみの一声で、道を塞いでいた四ツ家の全てが、一斉にその場に倒れ伏していた。


「何を……⁉︎」

「死んではいない。さて、邪魔者はいなくなった。案内しろ」


 たかおかみはさして気にする様子もなく、早く家へ入れろと促す。斎郎は四ツ家を気にするも、現状で先決すべきは槐。言われるがまま前に出て、家の戸を開き、たかおかみを招き入れた。

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