3 貴方(きみ)の名は
本当に松川はシャワー室の脱衣所で待っててくれて。にもかかわらず、僕は丹念に身体を洗った。申し訳ないと思いながら適当にはできなかった。
……あれは暴力だ。頬を叩かれたのは一度だけだったけど。そして最後何かをつぶやかれたものの僕は気が動転して何を言っているのかわからなかった。
いや、もういい。いつまでも考えても仕方ない。終わったし、松川はいるし。僕たちの部屋にいれば大丈夫だ。そう思えた。
「こっちしか売ってないカップうどんだからさ、多分市原知らないと思うけど」
「うん、美味しい」
伸びきってしまった方は俺が食うからと取り上げられ、松川はもう一つ新しくお湯を入れてきてくれた。
洗った髪の毛は乾かさずにシャワー室から戻ってきた。その方が身体を清めた感があっていい。運よく誰にも会わずに部屋へ戻ってこれて僕は遅い夕食を松川ととっている。……松川は二度目の夕食になったけど。
「綺麗な食べ方するんだな」
「え?」
ごちそうさまでしたと手を合わせて汁まで飲み干した空のカップを机の上に置くと、松川がぽつりと言った。
「うどんってすするけど、それでもお前の食べ方綺麗だなって」
「……両親が教師のせいかやたらと躾には厳しくてさ。箸の持ち方もしつこく直されたよ」
「厳しすぎるのもどうかと思うけど、そういうので第一印象って変わるものだしな。市原をいいとこの坊ちゃんかもって思ったのはそういうところから来てんのかも」
「あはは、ありがと」
「やっと笑ったな、よかったよ」
「……松川のおかげだよ、ありがとう」
ここが僕の一人部屋だったら。シャワーも浴びることなく、うどんだって食べてなかったはずだ。
「でさ、もしよかったら俺に話してくんないかな」
「え?」
何を、とは問えなかった。訊くまでもない、僕が部屋に戻ってくる前の事だ。世話を焼いた見返りに話せということではないだろうけど。こんな話聞いても松川にメリットはない…………と、思う、け……どまさか? 聞いて弱みを握りたいとか? そして僕をあの人みたいに?
「違う違う。俺は犯人を懲らしめたいだけだ」
もろに不信感が顔に出ていたのか、松川は慌てたように付け加えた。犯人って、懲らしめたいって、そんな、それは。そこまでは。
「他言は絶対しない。お前をちゃんと守る。だから話してくれないか。助け合うのは同室者の務めだろ。一人で抱えて辛いままでいてほしくないし」
「気持ちは嬉しい。けど」
「けど?」
松川は僕の返答が想定外だと言わんばかりの顔をした。
「僕は仕返しをしたいなんて思ってないし、相手の名前を知らない」
「へ?」
「松川の言うところの、制服をひん剥かれて身体中を弄(まさぐ)られたけど、誰だかわからない」
そういうことなのだ。
「ゆきずりって……お前、それじゃホントにレ」
「でも僕が知らないだけで他の人は知ってる人なのかもしれない」
「? どういう……」
「場所が、その……」
「場所? そういや市原、SHR後はクラスマッチのメンバー変更の紙を出しに行ったんだよな」
僕と松川は同じクラスだからか、結構僕の動向は松川に知られている。くじで引き当ててしまったクラス委員長の僕は近々開催されるクラスマッチのメンバー表の訂正を持って行ったのだ。
「うん、生徒会室に」
「ってことは……いや、あそこ閉まってただろ?」
「開いてたよ」
「だって今、三年は修学旅行中で誰もいないから開いてるはずは……あっ」
何かを思い出したらしい松川は目を真ん丸にして。
「近藤さんだ……」
一人の名をつぶやいた。
「その人が」
なんだというのだろう。
「お前が行った時に生徒会室にいた人」
……。
「松川の知り……合い?」
だとするならば。僕は話さない方がよかったのかもしれない。僕のためにも松川のためにも、いや、僕のために。
「知り合いというか……まあ知り合いかもしれないけど俺以外にも知られてる人で、遠目にお前も見たことある人、ではある」
なんだそれ。なぞなぞ?
「生徒会副会長」
考える間もなく、松川は答えを言った。
「え?」
「二年生ながら選挙で三年を破って当選した副会長の近藤(こんどう)和臣(かずおみ)」
ふ、くかいちょう……?
「会長と書紀と会計は三年生だから修学旅行でいないけどあの人二年だから普通に学校にいるんだ。だから生徒会室は開いてて……」
「でもその人じゃないかもしれないよね?」
そんな学校の中で偉い人が、生徒の代表である人が僕を……? でも人違いってこともある? 生徒会室には誰でも入れる?
「執行部の四人しか基本的に常駐してないし、会長不在で何の関係もない人が一人であの部屋にいることはないと思う」
確かに僕の持ってきたメンバー表を普通に受け取ってくれて。確認してくれて。その後。急に……。
「松川はその……近藤、さんと親しいの?」
その人で確定だとしたら。
「いや、親しいと言うわけではなくて互いに認識はしてるけど」
「ってことは話したことあるんだよね?」
「え、まあ……あるにはある」
歯切れが悪い。やっぱり松川に話すべきじゃなかった。今回のことを知らなかったにしても松川は向こう側の人かもしれない。生徒会のことに詳しいし。いつの間にか犯人だの懲らしめてやるだの言ってた勢いはないし。
「……松川、今日は本当にありがとう。おかげで元気が出たよ。先に寝ていいかな」
人を疑うのはよくないとわかってるけど、親身になってくれたけど、これ以上は話さない方がいいと思う。
「え、あ、おう」
「明日が土曜日でよかった。寝坊するかもしれないけど、起こさなくていいし、朝食も先に行ってね」
食事は誘ってくれることが多かったけど、明日はやめておこう。先手を打っておけば松川は何も言ってこないだろう。
「わかった」
僕は消灯時間前にベッドに潜り込んだ。松川のベッドに背を向けて。
敵だとか、そんな風に思ってるわけじゃない。だけど、知り合いだと聞いたとたんに僕の心は少し凍ってしまった。
ごめん、松川。
終
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