キスの仕方がわかりません
慶野るちる
1 衝撃と
なにこれ。僕は。一体。どうして。
涙が止まらない。走っても走っても頬は乾かなくて、ついでに寮へもたどり着けなくて。そんな遠くにあるわけじゃないのに。学校の門を出ればすぐそこにあるのに。
どこかおかしいだろうか。ちゃんと制服は着れているだろうか。破れたりしていないだろうか。誰かに見られていなかっただろうか。
そんなことを思いながら走ってきた。誰にも会わないように。泣いた顔を見られないように。通学鞄を抱えて下を向いて、全力で走る。
多分本当は、学校を出てから寮につくまで十五分もかかっていない。足がもつれて上手く走れなくて。小さな嗚咽で息が上手く吸えなくて。
僕の部屋は二階だ。寮のガラス扉を開けて、靴を脱いで靴箱に仕舞って目の前の階段を駆け上がる。僕の部屋は階段のすぐそばだから。 部屋に入ればもう大丈夫。
「
勢いよくドアを開けて部屋へ入って鞄を床に投げ置き、ベッドに飛び込んで頭から布団をかぶった。
その間に相部屋の
早くこの身を隠したくて隠れたくて。忘れたくて。いっそ気を失いたいほどだ。目が覚めたら全部なかったことになってればいい。なんでこんなことに。
「市原? どうした? 何かあったのか?」
布団にもぐって、ふと気が緩む。もういないのだと。ここは安全な場所だと。そう思うとまたぶわっと涙があふれてきた。ほとんど止まっていたのに。
松川は多分僕のベッドの前に立っている。そんな距離で声がする。
「い……っ……ずずっ」
挙動がおかしいにもほどがある。いきなり部屋に入ってきて無言でベッドに飛び込んで頭から布団をかぶって。おかしいと思わないはずがない。気になって当たり前だ。
「……どうしたんだ? 怪我でもしてるのか? 具合が悪いのか?」
立て続けに投げかけられる。
「あ……ぅ……」
説明は難しいけど返事ぐらいはしたい。なのに上手く声が出ない。嗚咽が止まらない。泣き声まで聞こえてしまっているだろうか。
「市原、布団剥ぐぞ」
要領を得ないと思ったのだろう松川が布団をぐっと握る。
え。いや、待って。
まだ。顔がぐちゃぐちゃで。顔を拭うのが先か布団を死守するのが先か、なんてことを考えていたら、ものすごい勢いで布団が剥がされた。
「……」
たまたま松川には背中を向けていた。だから僕は松川がどんな顔をしていたのかわからないけど松川は無言で。この妙な沈黙は僕が破らなければならないだろうか。でも何を言えば。気付けば嗚咽は止まっていたのだけど。
「……それ」
地の底からのような、聞いたこともない松川の低い声。
「その背中の跡……どうしたんだ」
背中……? もしかして上着破れてる?
僕はそろそろと背中に手を回した。ベッドに飛び込んだ時、勢いで上着とワイシャツがめくれ上がったようで松川には貧相な背中(はだ)を見せていたらしい。
でも跡……って?
「市原それ、たくさんある背中の赤い跡、キスマークだろ」
「!」
……キ、スマーク?
「誰がやったんだよ」
は? え? ちょ……待って、そんなものが背中に?
僕は慌てて、ワイシャツと上着を下げ、背中を隠した。
「お前の様子だと同意じゃないよな?」
や、ちょっと、ま……松川にバレた?
「あ、あのっ……ま、つかわ、あのさ、そのっ」
泣いてる場合じゃない。知られるなんてとんでもない。僕はベッドからがばっと身を起こした。言い訳を。早く、とにかく。
「ネクタイはちゃんと締めてない、ワイシャツもちゃんと入ってない上にボタンがちぐはぐに留めてある。上着も皴が多い。そんな汚い制服の着方、お前はしない。急いで逃げてきたんだろ? 誰にやられたんだ」
起きたと同時に松川の顔がぐっと僕に寄って、二人しかいない部屋なのに声を潜めた。
「や、ちょ、だから、待っ……」
性急で僕の話を聞く気ないんじゃないのか。僕があんな様子で無視するような形で布団にもぐったのが悪いけど、松川に怒られるのはおかしい。……怒られているわけではないのかもしれないけど、怖い顔で。
「制服ひん剥かれて体中舐められて、いれられたのか?」
な、何言っ……。瞬間、背中に這ったぬめぬめとした濡れた感触が蘇って。
「ああっ!」
僕はベッドに思わず突っ伏して丸まった。ぎゅっと自分で体を抱きしめて。再び涙腺が崩壊して、松川の前だというのに堪えることができなくて。高校生にもなってみっともないとわかってるのに。
「いや、だ……っ……まっ……て……うっ……」
最初から思い出してしまった。突然小さな部屋に突き飛ばされて、後ろから抱きすくめられて、首筋を舐められたかと思うと、制服の上着を脱がされネクタイを解かれ。開けたワイシャツの中に大きな手が滑り込んで胸から腹を撫で回されて。怖くて、身動き一つできなくて。
「市原っ」
慌てた松川に剥ぎ取られた布団を頭から被せられた。見られたくないと察してくれたのだろう。
「ごめん、責めるような言い方してごめん。お前が悪いわけじゃないのわかってるのに」
地の底から帰ってきたのか松川はいつものハスキーな優しい声に戻っていた。
「俺、ずっとここにいるからさ、落ち着いたら声かけてくれると嬉しい。いない方がいいなら部屋から出るけど」
布団越しに頭をゆっくり撫でてくれた。
だけど震えが止まらない。また返事ができない。でもいない方がいいなんてことは思わなかった。ここは安全だから。
かろうじて頭を横に振ることができた。気遣いには応えたい。布団越しだから伝わっているか不安だけど。
「俺は絶対お前に危害を加えたり嫌だと思う事はしないから、安心して」
そう聞こえて、その後、向こうのベッドが小さく軋んだ。松川は自分のベッドに転がったのだろう。ドアを開けた時に松川が何をしていたのか、今となっては思い出せない。二人部屋と言っても少しも広くはない。目の端ぐらいには映ったはずなのに。勉強、してたんじゃないだろうか。僕のせいで続きをすることができなくなったかもしれない。
ごめん、松川。でも僕にとって今のその距離はとても安心して。いないわけでもなく近すぎなわけでもなく。松川には何にも関係のないことだけど。
松川は入寮日からずっと優しい。都会の伝統校に入学するために地方の田舎から出てきた僕を気遣っていろいろ声をかけてくれた。見て見ぬふりをできないほど鈍臭かったのだろう。それは間違いないのだけど。つんつんした怖い人たちばかりかと思っていた僕はこの部屋がとても居心地が良い場所になっていた。クラスでも少しだけどみんなと話ができるようになって。それは同じクラスでもあった松川のおかげだ。
五月も半ばになって、ようやく学校に慣れてきたと実家に手紙を書いたばかりで。
僕は気が緩んだのか、すうっと意識がなくなっていった。
終
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