19 トマトジュース

 つい零した一言に近藤さんは寮の裏にひっそりと建つ、意外と穴場の東屋に誘った。二箇所ある表の方はいつも誰かが使ってるが、裏は桜も緑も花壇もなく景観が良くないからか人がいる時の方が少ないらしい。男子高校生だって自然や花に癒やされたいのだ。だから密談にはもってこいなのだと近藤さんが教えてくれた。

 東屋に着くまでに小さいサイズのお茶を自販機で買ってくれて。

 遮るものが何もない、屋根しかないから僅かな風でも心地良い。僕と近藤さんは微妙な間を空けて横に並んで座る。先輩とこそこそ話すならベストポジションだろう。

「兄貴とうまくいってないのか」

「今に始まったことではないので」

 いつからだろうとわからないほどには昔からだ。小学生ぐらいからじゃないだろうか。

「諦めたような顔をするな」

 諦めないとやっていけないし、兄の望む姿にもなりたくもないし。兄は出来損ないの弟が欲しかったのだ。そういう弟なら可愛がれたとはっきり言われた。出来損ないなんて嫌だし、そうであることを強要されたくもないし、兄を立てて愚弟を演じるなんてことも馬鹿馬鹿しい。

「あの人にとって僕は邪魔でしかなくて」

 嫌な気分にさせようと、わざわざこんなところまで来るほどに。

「いなくなればいいと思ってると思います」

「そんなことないだろ。実の弟なのに」

「他人なら許せることでも弟だから許せないんだと思います」

 両親を蔑ろにしないし、出会った人も大切にする。普通に優しいところもある。ただ僕だけが許されない。別に兄を出し抜こうだとか、踏みにじろうだとか思ったことはないのに。多分、本当に兄は僕が生理的に気に入らないのだろう。

「兄はここへ来たかったんです。県内一の進学校に進んでも」

 極めつけが僕の入学だ。

「それを知ってたから僕は先生に話を頂いた時迷いました。でも来年の子のためにもって言われて」

「そんなにここへ来ることがステータスなのか? 特に何かあるわけでもないだろ、古いってだけで」

 兄の代は違う人がここへ来たということだ。兄は声を掛けられなかった。選ばれることを良しとする兄は、当時、自分が漏れたことを心底悔しがっていた。俺じゃないのは何故だと、俺は学年一位だろ、と。僕は小学生だったけどよく覚えている。

「ここは、穏やかで楽しい人が多い気がします。上昇志向が強くてガツガツしている兄には多分合わない」

「言うね。お前も兄貴が気に入らないのか?」

「……いや、そこまでは。小さな頃はよく一緒に遊んでたと思うんです。うちは共働きだったから。僕は兄が鬱屈した気分を発散できる唯一の相手なのかなと思ってます」

 外に迷惑をかけてないのだからそれでいいのだろうとも思う。

「達観してるな」

「兄の改善を願ってるわけじゃないし、気分も悪いのでそうでもないです」

 意地悪されるのは僕のことが嫌いだからなんだとわかったから受け流せるようになったというだけで、負の感情を向けられるのが好きというわけでもないし何も感じないわけでもない。

「お前はいい子だよ。でも無理はするな。兄貴の世話を焼くのはもういいだろ。あれは一生続きそうだぞ、改心しそうにない」

 もちろんそう思うし、微塵も期待してない。

「だから僕が視界から消えればいいんです、兄だって平穏に暮らせるでしょう」

「おい、どういう意味だ」

 近藤さんは眉を寄せた。物騒な話に聞こえただろうか。

「命の話じゃないですよ、僕だって兄のために人生終わりたくないです。僕は思ってくれてるほどいい子じゃないですよ。僕は僕の道を生きていきたいですし」

「……それならいいが」

「僕は近藤さんにも桜野さんにも松川にも心配されてばかりで、嬉しくも思いますが、そんなに頼りないですか?」

「そうは言ってないだろ。大事なものが傷つくのは許せないってだけだ、お前の身内であっても」

「……」

 優しい人たちだと思う。多田さんも北見さんも麻生もみんな。

「胸はいつでも空いてるから、泣いてもいいぞ」

「どうして僕が泣くんですか」

「泣きたいほど嬉しいだろ?」

 ……そんなことを言われては泣くに泣けない。近藤さんの言葉に異存はなくても。

「そう言えば。そんなにトマトが好きなんですか?」

 今も横に置いてあるトマトジュースの入った紙袋。

「いや別に」

「へ?」

「お前がトマト嫌いなんだろう?」

 !

 言ったっけ、そんなこと。

「一緒に飯した時、お前一番最後にトマト食っただろ」

「……ええまあ」

「だから兄貴がトマトジュースを持ってきた」

「……」

 なんでもかんでお見通しで。 

「僕はどうしたらいいですか?」

「何がだ」

「あなたに白旗を上げるしかないようです。敵いません」

 会話に割って入ったのは僕を助けてくれるためで、それがトマトジュースでもミックスジュースでも引き取ってくれたのだろう。きっと僕を好きだと言ってくれたあなただから。

「市原、簡単にそんなことを言うな」

 それが嘘でも冗談でもないことはもうわかったから。

「俺はお前がこれで落ちるだろうと思ってやったわけじゃない」

 それは、僕が訊かなかったらわからないことだったってことだろうか。トマトが大好きな人なのだと僕に誤解させたままで。

「地獄へは堕ちたくありませんが」

「何のことだ」

「初めて会った日の生徒会室の倉庫で、そんなことを言ったでしょう?」

「……そうだよな。あの時、俺の声が届くはずがない。自分がかけた呪いインプリンティングに首を絞められてるわけだ」

 近藤さんは大きく息を吐いた。

「俺はお前が好きだから割って入った。それだけだ」

 僕の言ったこと、伝わらなかったのだろうか。

「俺の言ってることとお前の白旗は違う」

 違う?

「トマトジュース、戦利品として桜野さんと一本ずつもらっていいか?」

 疑問符を顔に張り付けた僕を無視するような形で話題を変えた。

「……はい」

 一リットル紙パックのトマトジュースが三本、紙袋に入っていたのだ。結構重たかったはずだけどそれでも兄ちゃんは持ってきた。嫌がらせのために。僕が嫌いなら近寄らなければいいのに何かしらダメージを与えないと気が済まないらしい。損な性格だ。

 近藤さんは二本を一本ずつ両手に持つと立ち上がった。

「桜野さんに礼なんて言わなくていいからな」

「え、でも」

「いいんだ、あの人は松川の希望を叶えただけだからな」

「わかりました」

 近藤さんはじゃあなと先に東屋を出ていった。

 一人でここにいる理由は僕にはない。僕も近藤さんの姿が見えなくなってから立ち上がって。

 ……この残りの一本、捨てるという選択はないので松川が飲んでくれるといいなと思いながら東屋を出て、部活から帰ってきた松川にお伺いを立てると。

「俺、トマトジュース飲めるぞ」

 色好い答えが返ってきた。よかった。どんと目の前に一リットルを置くと少々たじろいでいたが。

「どうしたんだ? これ」

「……兄が持ってきた」

 そりゃ説明しないとわからない。一リットルパックなんて自販機では当然売ってないし。

「なんだ、俺の取り越し苦労だったのか、会えてよかったな、市原。一緒に飲もうぜ」

 ほっとした顔をしてくれたけど。

「ううん、違うんだよ。松川が当たってる。僕はトマトジュースが飲めないんだ」

「……つまり、嫌がらせか」

「そうとも言うね。まあそれはいいんだ。松川の気遣いで助かった。ありがとう」

 松川の顔を曇らせたかったわけじゃない。お礼を言いたいのだ。

「いいって、お前……。俺は何もしてないんだよ。由貴さんが動いてくれた」

「リレーだね。最後は近藤さんが割って入ってくれた」

 近藤さんが来てくれたのも桜野さんが呼んだからで、桜野さんに僕を託したのは松川だ。どうなったのか話しておくのは当たり前だ。

「……近藤さん?」

「桜野さんが呼んでくれたみたいで」

「どうして由貴さんは市原の嫌がることをするんだろう」

 ええと、それは……。言ってもいいだろうか。近藤さんは僕に嫌がらせをしたわけではないことを。

 いや待て。僕は一つ近藤さんに確かめてないことがあった。最初のアレは何だったのか。そのあとはそう無茶なことがなかったためにすっかり忘れていた。嫌がらせではないと思ったのは僕の推測でしかない。好きだとか言われたからついそれもそういうことなのだろうと勝手に思っていただけだ。でも、それが今にどう影響するのかと訊かれればないようにも思う。が。

「好きな人が目の前にいたら、すぐにでも、だ、抱きたい?」

「……俺が?」

「……うん」

 何で松川とこんな話をと思うけど、松川にしか話せない。桜野さんは近藤さん寄りって言ったし、僕は上手く丸め込まれそうで。

「質問を質問で返すのはどうかと思うけど、それ、近藤さんとお前のことを言ってる?」

 話が早すぎてそこまでまだ察してほしくはないんだけど……。うんと言えばいいのやら無言を通せばいいのやら。

「実は由貴さんに怒られた時、お前と近藤さんのことはそっとしとけって言われたんだよ。あの人不親切でそれ以上は話してくれないから俺はてっきり癒えようとしてる傷にこれ以上触るなってことかと思ってたんだけど。お前はその意味を知りたいんだな」

 近藤さんも松川も桜野さんのことをあまり褒めない。それでも好きなのだからやっぱりいい人なのだろう。

「正直俺には複雑な話でさ、近藤さんのことは許せないし、でもお前のことは応援したいし」

「いやいやいやいや、応援とかそうじゃなくて。さっきの僕の質問はどう思うって話で」

 それは僕を追い抜いてるよ、松川。

「好きだったら同意なしの強姦まがいでも許されるかってことだろ? お前に近藤さんがやったあの事だよな?」

「そ、そんな露骨に……」

 居たたまれない……。

「好きで好きでたまらない人が目の前に現れてずっと気持ちが伝わらなくて全然気付いてもらえない切羽詰まった状態ならありうるかもしれない。一か八か賭けにでるかもしれない」

「松川も?」

「俺は由貴さんにそうしたわけじゃないし基本ダメだと思うけど最後はお前が許すかどうかの話だろ。それに今そこなのか?」

「え?」

「なんだかんだ毎日同じ空気吸ってるだろ」

 まあ……。

「でもなあなあに流されて察しろはムカつくよな。なのにこっちから訊くってのもあれか」

 いやいや、そこまでは思ってない。でもそれを訊いてしまうと後戻りはできなくなりそうで。

「もしかして、俺に話そうとしてた?」

「うん……でもお兄さんのこともあるし迷ってはいた」

「そっか……ごめん。俺がやらかしてる間に近藤さんから何かそういったアクションがあって、お前も好意的に意識するようになったってことなんだよな?」

「……うーん、そう」

 ああ……言ってしまった。松川がちゃんと僕の話を聞いてくれようとしてるからつい。

「それで僕はもういいかなって思ったんだけど、近藤さんはそうじゃないって」

「……ん? もういいって? 相手にしないってこと?」

「いや、その、されて、もいいか、な……って」

「お前さ。されてもいい、ってどういうこと?」

「え?」

「何度も言うけど俺はあの人が嫌いだ。でもお前があの人のことが好きであの人もお前のことが好きだっていうんなら仕方ないのかもしれないって思うんだよ。でもそれじゃ、奉仕とか生贄みたいじゃん」

 生贄……って。

「そう思えるほどお前にはいい人なのかもしれない。だけどそれは身体を繋げたいと思う好きじゃないだろ。そう思ったからあの人だって違うって言ったんだと思うぞ」

 松川も違うと言う。

「何にせよ焦るものじゃない。いい意味でさ、ほっとけば?」

「……近藤さんを?」

「お前自身」

「僕を?」

「返事しろとか言われた?」

「いや……一切」

 わからないと濁したままだ。僕が。濁したというより本当にわからなくてそう言っただけだけど、結果として答えを出してない。

「じゃ、いいんじゃね? 時間が経って駄目になるならそれも良し」

 人生相談の先生みたいだ。そう言ったら松川は怒るだろうか。

「うん、ありがとう。参考にする」

「なんの、トマトジュース一本分ってことで」

 松川は共同冷蔵庫に冷やしてくると言って部屋を出た。


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