20 誤解

 松川先生の教えにならって、もうしばらく僕は僕を放っておくことにした。あの日以来、近藤さんとはそういった話をすることもなく、普通にお手伝いをしている。でも、近藤さんのことが嫌いではないということは認めるしかなくて。無理強いは最初だけで、無茶はあったけど最後の一線を越えることはなかったから。ことあるごとに好意を口にしてくれるけれど。

「少年。この計算、合ってるか確認頼む」

 今日は北見さんに頼まれて、ずっと電卓を叩いている。北見さんのお手伝いはワープロ清書と計算の確かめが多い。数字だけは間違うわけにはいかないと何重もチェックを入れるんだとか。

「由貴ー! ノートありがと、返しにきたよー」

 生徒会室のドアがノックなしで開いたかと思うと、楽しげな、フレンドリーな口調が部屋に響いた。

 桜野さんを名前で呼ぶ人なんて一体どんな人だろうと顔を上げたら、その人と目が合った。

「新人ちゃん? いや、執行部は四人だよね?」

 その人は目をぱちくりさせて僕をがっつり見た。

「あ、えと……お手伝い、を」

奏多かなた、ノックぐらいしろ」

 しんと静まり返ってしまった中、桜野さんが立ち上がってドア口まで歩く。

 かなた? どこかで聞いた……。

「和臣も元気そうで。久々に会えて嬉しいな」

 ……呼び捨て。近藤さんを。ここの人が誰もしない呼び方を。

「松川ー、生徒会室には用事ない人が来ちゃいけないんだけど?」

 え?

「多田も堅いこと言うなよ。由貴は幼馴染で和臣は俺のじゃん」

 あ。

「奏多さん、やめてください」

 近藤さんも席を立つ。かなたさん、と下の名前で呼んで。……僕は怖くて、声の硬い近藤さんの顔を見れなかった。

「何? この子には秘密なの? だったらごめんもう遅いね。新人ちゃん、和臣は俺のものだから。好きになっちゃダメだよ」

「奏多さん!」

 突然にぎゅっと胸が締め付けられた。

 松川……奏多……この人がお兄さん。三年生だったのか。誰もそんなこと言わなかった。学校にいるなんて。少しでも可能性を考えなかった僕が間抜けなのか。

 そこそこがっしり体型の松川と違ってほっそりしていて、どこか中性的で一瞬で目を奪われる、そんな人だった。人懐こそうでもある。もちろん顔は違うけど、感じが桜野さんに似ている。だけど桜野さんより早口で少し軽い。僕の偏見かもしれない、桜野さんと同じはずはないと思いたいのかもしれない。

「あれ? ビックリしてる? 刺激が強すぎたかな」

 近藤さんに捨てられたんじゃなかったのか。俺のものって……。

「失礼します」

 そこへ廊下から声がして。開いていたドア口に立った人物を見た桜野さんが天を仰いだ。そんな桜野さんを初めて見た気がする。

「おや陽人。お前も何だか久しぶり」

「兄貴……」

 ドア口に立つ松川が心底驚いていて。ここでお兄さんと会うとは微塵も思っていなかったのだろう。

「エツミちゃんと一緒に食事してる子って、松川の弟だったのか……」

 いつも楽しそうな多田さんが渋い顔をしている。

「そう。エツミちゃんは誰か知らないけど、こいつは俺の自慢の弟」

 松川のお兄さんは親指で松川を指した。

「悪いけど今取り込んでるからとりあえず提出書類を置いて戻ってもらえるかな。何かあれば後で連絡するから」 

「練習試合の報告書です」

 桜野さんの言葉にそう返して書類を置いたけど、松川は帰ろうとしなかった。

「ごめんね、今日のところは戻ってくれるかな」

 もう一度帰れと桜野さんは言ったけど。

「怖い顔してどうした、陽人」

 松川のお兄さんが不思議そうに首をかしげた。

「兄貴は近藤さんのこと、まだ……」

「ん? まだ、なんだ?」

「自分のものだと思ってんのかよ」

 松川の声が少し震えているように聞こえる。

「当たり前だろ、和臣は俺の中での最近のランキング一位なんだよね」

「その人は兄貴を捨てたんだろ!? 他に男何人も作って!」

 ちょっ……そんな大きな声で。震えるほどの怒りの声は部屋中に響いた。ドアは空いたまま、廊下まで聞こえかねない。人の通る気配はないけど。

「へ? お前何言ってんの? 和臣は俺を捨てたりしない。俺一筋だよ。ただ、俺の中で三位に後退してただけ」

 そんな松川に動じることなく、お兄さんはくすくすと笑った。しかし。

「三位? 兄貴こそ何言って……」

 お兄さんの言葉に僕も耳を疑った。ランキング……? いやそれよりも。この人が近藤さんのことを名前で呼び捨てにする度に僕は苛立って。捨てたりしないって、一筋って。

 ……違う。

「近藤、どうなってんの?」

 多田さんが近藤さんを振り返る。その顔に疑問符をたくさん貼り付けて。

「桜野、これはお前の差し金?」

 無言の近藤さんを諦めたのか桜野さんに振る。

「多田さん、違うんで。桜野さんじゃなくて俺が」

 慌てて口を開く近藤さんを桜野さんが制した。

「中学生に本当のこと話せるはずないって、和臣君と話したんだよ。まだ綺麗なままでいてほしいからって」

「……じゃあもう高校生だもんな、本当のことを知ってもいいんじゃないのか? なあ弟君」

 多田さんは怒っていた。初めて見る……。

「多田、やめとけ。お前が言うことじゃないだろ」

「そうだけど、近藤がこれじゃ可哀想じゃないか? あんなに懐いてたのに急にほったらかしにされて。俺でも疲れて近藤と同じようにバイバイするわ」

 北見さんが止めるも多田さんはやめなかった。この人、これまであまり見えてなかったけど近藤さんを本当に大事に思ってたんだ。だから怒って。

「あの、それ……どういうことですか?」

 松川の顔は青ざめていた。両手をぎゅっと握りしめて。

「逆だよ、弟君が聞いたのは逆の話。捨てられたのは近藤の方」

 捨てられた? 近藤さんがそんな扱いを受けるなんて。ありえない。少し不遜で強引なこの人が……?

「やだな、捨てたわけじゃない。和臣が三位になったから二位の子と一位の子と遊んでて、和臣はお休みしてるだけ。それを良しと思ってくれなかったのは和臣で、お前からギブアップしたんだろ? 俺はまたいつでもいいんだよ?」

 そしてお兄さんはあっけらかんと否定した。しかも到底理解できないような理由で。

 その口調が、その言葉が。

 ……無性に腹が立つ。

「俺は……嘘を聞かされてたんですか」

 松川は俯いてぽつりと言った。

「桜野と近藤はお前の心を守りたかったんだろう。言っちゃあ悪いがお前の兄貴は自由奔放すぎる」

「北見ー、言ってくれるね。お前に俺の気持ちがわかるはずないよね? みんなから愛されるから俺だってみんなを愛してるんだよ」

 どうやったらこんな言葉が出てくるのだろう。本当に理解できない。その中に近藤さんがいるというのなら、僕は。僕が。

「もうやめろよ兄貴。こういうのは順番じゃない。二位も三位もないだろ!」

「お前もいつかわかる時が来るよ。俺の弟だからね。一人に愛されるだけじゃ、物足りなく」

「わかるかよ!」

 顔を上げた松川はお兄さんに掴みかかろうとした。

「わかりたくもない!! このク」

「松川、駄目だ」

 すんでのところでなんとか僕は松川を抱き止めた。一番近くにいたから間に合って。その気持ちはわからないでもないけど、やっぱり越えてはいけない一線はある。

「俺は嘘を吐かれてて、ずっと憎まなくてもいい人を憎んで、馬鹿みたいだろ、兄貴のせいで!」

 松川は近藤さんに悪いと思ってる。その血を吐くような苦しい声は近藤さんにも他の人にも届いてるから。松川は悪くないよ。悪いのは……いや違う。悪者はいない。

「松川を守りたかったってことだろ? もう行こう、部屋に一緒に帰ろう。僕はこれで失礼します」

「エツミちゃん、ごめん、頼む」

 桜野さんが悲しそうな顔で僕を見る。

 怒りに震えている松川を何とか生徒会室から引きずるように出して。松川は一度も桜野さんの顔を見なかった。

「奏多さん」

 静かに呼ぶ近藤さんの声を背中に聞きながら僕は生徒会室のドアを閉めた。


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