21 嫉妬

「どうしよう、俺」

 怒りが収まらない松川を何とか歩かせて、寮の僕たちの部屋まで戻ってきた。途中にある自販機で黄色い箱の栄養補助食品と飲み物を買って。何か口に入れるとちょっと落ち着くかなっていうのと僕が少しお腹が空いたっていうのもあって。チョコ味とフルーツ味を買って半分こした。

「うん?」

 部屋で二人きりになって、もぐもぐと食べて。

 松川もいつもの声色に戻った。よかった。

「近藤さんのこと、いつも睨むように見てた」

「ああ聞いてたんだからそうなるよ」

 松川が悪いことは何もない。みんなの優しさが今の松川を苦しめているのかもしれないけど、きっと中学生の時に知るよりダメージが少なくて、考えをめぐらすことができたんじゃないかと思う。一時的にカッとなったとしても。

「お前に偉そうに言ってたのに、自分の兄貴は人を弄ぶクズって」

「そんな風に言うもんじゃないよ。それにお兄さんと松川は関係ないだろ?」

 お兄さんがどうであれ、松川は松川で。リンクさせる必要はない。僕だって兄と一緒にされたくないって思うし。兄弟だけど何もかも同じなわけじゃない。

「俺だけ知らなくてさ、近藤さんのこと罵って」

「本当のことを今知ったんだからいいんだよ。松川も桜野さんも近藤さんも誰も悪くない。お兄さんだって」

「いや、あいつはクソだろ」

「人の好きになり方は人それぞれなのかもしれないし、ただ近藤さんとは最後のピースが合わなかったんだよ」

 感情の熱量や方向はお互い同じなら嬉しいと思うけど難しいものなのだろう。きっと多すぎては重いし、少ないと淋しい。

「謝りたいと思うなら謝ればいいと思うけど近藤さんは気にするなって言うと思う」

 近藤さんがそういうことにしたかったのだから。

「桜野さんにも怒っちゃ駄目だよ? 騙してたとかそういうことじゃないんだから」

「……わかってるよ。ちゃんと頭ではわかってる。でも近藤さんには謝りたい。やっぱりいい気持ちはしなかったと思うし」

 僕も松川だったらそうする。しなくてもいいと言われてもしたいと思う。

「うん、松川らしい。いい男だね」

「惚れんなよ? 俺は由貴さんのだから」

 俺のもの……か。

「……うん、わかってるよ」

「市原?」

「大丈夫だよ、松川には敵わないし」

「違う。お前、今何考えたんだ」

「うん? 何も、っていうか松川元気になってくれてよかったなって」

「……そうかよ」

「本当だって、僕が他に何を考えるっていうんだよ」

 その時、僕のスマホが震えた。

「ごめん、見ていい?」

「もちろん」

 ロック画面に表示されているメッセージアプリの通知は桜野さんからだった。隠す理由もないので画面を松川に見せる。

「由貴さん?」

「話がしたいって」

「あー……一番迷惑をかけられたのはお前だもんな」

「そんなことないよ。そんなことないんだけどさ、桜野さんの部屋まで来てって言われて……桜野さんの部屋、どこにあるの?」

 当然僕が知るはずもなく。松川に訊けってことだよね。一緒にいるのはわかってるんだから。

 松川はくすりと笑う。

「そうだよな、お前由貴さんの部屋知らないんだもんな。スマホに送るよ」

 そして松川は自分のスマホを取り出して何やら操作すると僕のスマホにメッセージが飛んできた。

 あれ……三桁の数字が二つ並んでいる。数字しか書いてないけど部屋番号だろう。

「由貴さんとあともう一つはおまけ」

 おまけ?

「必要になった時わざわざ俺に訊かないで済むように」

 ん?

「飯は先に食っとくからどうぞごゆっくり」

 そう背中を押されて僕は部屋を出て。

 ごゆっくりって。松川はそれでいいのだろうか。仲直りで結びつきが強くなったのか。だから僕ごときではもうヤキモチも焼かないのだろう。まあ、僕だし……と言うと人として魅力ないんだろうなと凹まないこともないけど。

 三年生が住む二番館には初めて足を踏み入れる。用事も、訪ねる人もいないし。

「ごめんね、わざわざ。本当は僕がエツミちゃんのところへ行くべきなのに」

 松川が教えてくれた部屋番号のドアをノックするとすぐに「開いてるよー入ってー」といつもの気さくな声がして。勉強机の椅子に座っていた桜野さんに狭くてごめんね、とベッドに座るよう言われて腰を下ろしたら、両手を合わせられた。

「いえ、僕がこちらへ来るのが正解だと思います」

 だって、それは無理だ。三年生で生徒会長の桜野さんが棟の違う一年生の僕の部屋に来るなんて他人が見たら理由がない。悪目立ちしたくない。

「会長やってるうちは行方不明は困るからって寮内あんまりうろうろできなくてね。本当は古巣だし一番館の方へも行きたいんだけど」

 松川もいるし、かな。

「変な三年生に絡まれなかった?」

「いえ……そんな人いるんですか?」

 一学年三クラスしかないから仲は悪くないと聞いている。学年は違えど三年間寝食を共にするのだから誰だって問題は起こしたがらないだろう。

 多少、部外者的な視線はあった。仕方ない。三年生しかいない棟に一年生は異物だろう。近藤さんみたいに知られた人なら別だろうけど。

「いない。誰彼声を掛ける奴はいるけど。奏多、とかね」

 ……本題だ。

「僕が全部悪いんだ。エツミちゃん、本当にごめん。嫌な思いしたよね。君にはちゃんと説明しないといけないと思って来てもらったんだ」

「僕は部外者なので、無理に話してくださらなくていいと思ってます」

 だいたいわかったし、松川もなんとか元に戻ったし。僕は多田さんや北見さんたちより更に外にいる。二人はお兄さんの同級生で近藤さんとお兄さんの関係も知っている。僕は何も知らない、何も噛んでない、松川に教えてもらっただけの身で。

「……エツミちゃんは部外者でいたいの? 本当のことを知らなくても困らないってこと? 知りたいと思ってないってこと?」

 え……。

「それならそれでいいんだ。僕は陽人のお守りの礼を言うだけでいい。陽人を生徒会室から連れ出してくれてありがとう。まさかあそこで面子が揃うとは思ってもみなかったからエツミちゃんがいてくれて助かった。話はそれだけ。ここまで足を運んでくれてありがとう」

 にっこり笑った桜野さんが立ち上がった。当然僕も腰を上げるしかなくて。話は終わったのだから。あまりにもあっけなく終わってしまったけど、それは僕がああ言ったせいなのだろう。怒らせてしまったのか、少しだけ冷たい目で僕を見た気がする。

「失礼します」

 ドアを開ける前に頭を下げて。

 桜野さんが僕を見てるのはわかっていたけど、視線を合わせる勇気がなくて半分顔を上げた状態で背を向けてドアを開けようとしたら。

「エツミちゃん、引いてばかりじゃ何も手に入らないんだよ? 物欲しそうな目をして結局奪いに行かない、僕はそういう人間は嫌い。でもこれからも陽人の良き友人でいてね」

 辛辣な言葉が背中に突き刺さったまま、僕は部屋を出た。桜野さんに言い返すなんてことはできないし、言葉もない。

 僕に詳しく話を聞く権利なんてあるのかどうかわからないし。

 当事者でも関係者でもないし。

 知られたくないかもしれないし。

 知ってどうというわけ……。

 二番館を出て、すぐ隣の、僕たちの部屋がある一番館の玄関に入ろうとした時、猛烈な勢いで何かが胸にせり上がってきて。

 この状態では中には入れないと感じた僕は裏手の東屋へ走った。時間的に薄暗くて誰もいない。夕飯の時間だから。

 せり上がってきたのは嫌悪。どろどろとしたものが僕の中にあって、こんな状態で寮に戻って人と会ってもきっと不快にさせてしまう。きっと僕は今、醜い顔をしている。

 すごく、嫌だった。

 下の名前の呼び捨ても、俺のって言ったのも、一位とか三位とか、捨てたりしないとか、好きにならないでとか。

 無性に腹が立って、心臓が鷲掴みされたように痛くて。

 さも当然とばかりに高らかに声を上げて一つも疑わない。王様のような松川のお兄さん……奏多さんの全部が嫌だった。

 突然僕の前に現れて。優しくて大切な場所を踏み荒らされたような気分になって。

 奏多さんのものじゃない。

 僕の……。

 僕の?

「ああ……そうか」

 これは、松川の気持ちだ。松川があの時僕に感じた……嫉妬。

 好き、ということなんだ。

 取られたくない。

 僕は近藤さんのことが好きなんだ。

 そうなんだ……。


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