5 真夜中の

 夕食も松川に頼って、カップ焼きそばを食べて。

 少し体は楽になったようなならないような。気持ちだけは確実に軽くなった気がする。松川と言う味方ができたから。

 消灯時間が過ぎて部屋が真っ暗になってどれくらい経ったか、すっかり寝入っていてわからない頃、頭のあたりで「市原」と名前を呼ばれた。

 たまたま松川側を向いて寝ていて。ぼんやりとしたままゆっくりと目を開けると、小さな薄暗い明かりがあった。懐中電灯……?

「……松川?」

 なんとなく違和感を感じながら視線を上げると。

 ちが……っ。

 明かりでぼんやり見えたその姿は松川ではなく。

  なっ……んで……。

 僕は今の精一杯で急いで身を起こしてベッドの上で後ずさった。目の前に立っているから本能的に後ろに逃げて。だけど背中はすぐに壁に当たる。

 懐中電灯の明かりを借りる形で向こうを見れば、ベッドは綺麗に整えられていて寝ていた形跡がない。

 うそ……松川いない!? いつから!?

 いや、一緒におやすみを言って部屋のシーリングライトを消したはずが。まともに動けない僕ではなく松川が消してくれたのだ。

 いや、まって。こんな夜中に、この人がどうして!

 目が覚めるどころか、頭がちゃんと働かない。どうしてという言葉ばかりが頭の中を回って。焦るばかりで。

「来なかったな、お前」

 ぽつりとそんなことをこの人……近藤、さんが言う。

 え……? 今日? いつ行くだとか、そんな話はしていない。そもそも目も合わせていなければ一言も言葉を交わしていない。だいたい名乗らず部屋もわからず。どうやって訪ねて行けと言うのだ。

 いや、だから僕は逃げないと。でもどこに。

「だから待てなくて来てしまったが」

 そう言うと近藤……さん、は僕の机のライトをつけた。消灯時間後は机の明かりでまかなう決まりだ。緊急の何かがあれば別だが。いや、今が緊急だろっ。

 だけど部屋の明かりのスイッチはドア横にある。僕はそこまでベッドから立ち上がって歩いて行かねばならない。二人分の勉強机とベッドでほぼ部屋が埋まる狭い部屋だから数歩のことだけど、近藤、さんの横を通って。僕は竦んで動けない。松川、助けて。早く帰ってきて。

「松川はしばらく戻ってこないかもな」

 心を読んだかのように近藤、さんが俯いている僕に言う。どうしてそんなことがわかるのだろう。松川が出ていったことを知っているから来たのだろうか。この人を大嫌いだと言った松川が自分の不在を教えることはない。まさか見張ってたとか。いやまさか。

 それにしてもどこに行ったんだ。外に出て一人で素振りでもしてるのか? こっそり消灯後に?

「あいつがいなければ別にどこでもいい。鍵を返す」

 近藤、さんは机の上に鍵を置いた。ちりんと鈴の音がする。

 その音に我に返って。

 あ……。

 ほんの少し落ち着いた、かもしれない。それでも僕の息は浅く、怖いことには変わりないのだけど。

「あ……りがとうご、ざいま、す」

 落としたのは僕だ。お礼は言わないといけないだろう。あんまり言いたくないけど、あれとは別だ、一応。

「で、なんで来なかったんだ?」

 ……答えなきゃいけないのか? この人と会話をしなければいけないのか? 答えなければ帰ってくれないのだろうか。できるなら松川が帰ってくる前にいなくなってほしい。鉢合わせさせたくない。

「おい。無視か」

 ! 急にベッドのマットレスがわずかに傾く。イラついた声とともに、近藤、さんがベッドの縁に腰を下ろしたのだ。僕は驚いて腰を浮かしたがそう機敏に動けるはずもなく、それを察したらしい近藤さんは腕を伸ばすと、僕の腰をぐっと掴んで自分の方へ引き寄せた。

「うぁっ」

 その力強さに恐怖を感じ。完全に自由を奪われたわけではないのに僕はカチカチに体が固まってしまった。

 近藤さんの片腕の中にこの身は収まっていて。鼓動が右肩上がりで早くなっていって目が焦点を結ばない。

 また、される。その思いが頭を支配する。逃げなければ。でも無理だ。焦りと絶望が混ざり合ってやっぱり僕は動けない。

「答えろ」

「な、なま、えも聞い、て、ない、し、部屋、だっ……て、しらな……」

 命令されたような物言いに、考える間もなく答えていた。松川から名前を教えてもらえたのは偶然に近い。

「お前……俺のこと知らないのか」

 少しの間の後、頓狂な声がした。僕はこくんと声なく頷くだけで。

「俺は、生徒会副会長の近藤和臣だ。そうか、知らなかったのか……俺が空回りか」

 僕の腰に回されている近藤さんの手の指先がするりと寝間着代わりのTシャツの中に入る。

「ひっ」

 冷えた指先がそろそろと肌の上を動いて、ぞわりと背中に何かが走った。

「やっ……やめ……てくださ」

「静かにしろ」

 !

 反対の手の平で口を塞がれた。嫌だ。もう嫌だ。あんなことはされたくない。

「優しくする。騒がないでくれ」

 何言ってるんだ。性的な嫌がらせに優しいも何もあったもんじゃない。体中舐められて体中まさぐられて自分で慰めたことしかない性器を擦(こす)り上げられて出したくもない精液をこの人の手の中に出して。屈辱と恐怖を与えるためだけの行為。殴られた方が何百倍もマシだ。

 だけど体格の差は力の差でもあり、あの時も容易に抗えず手足をバタバタさせるしかなかった。酷く情けない姿だったと思う。

「俺が怖いか」

 口を塞がれて余計息が上がる。

 ここで怖いと正直に言えばいいのか、黙ってこの先を耐えてやり過ごすのがいいのか。言って更に怒りを買って、もっと酷いことをされるのではないか。何かわからない許しを乞うて嗜虐心を煽っても同じことで、反抗した態度をとっても同じことで。何が正解なのかわからない。

 でも何も応えないのもまた同じことのような気がした。できるだけ呼吸を整えて。

 僕は口に当てられた手にそっと自分の手を添えて近藤さんの手を剥がすことを試みた。

 すると何の抵抗もなくそれは外れて。拍子抜けするほど。少し体の強張りが取れた気がした。

「……僕は貴方の何を怒らせたのですか」

 目は合わせられなかった。

「なに?」

「理由を教えてください。僕は謝ります。二度と貴方の前に姿を見せません」

「何を言ってるんだ。怒ってはいない」

 え? 怒ってない……?

「じゃあ貴方の大事な誰かを傷つけましたか?」

 その人の代わりに僕に報復を。

「違う」

 近藤……さんは大きな溜息をついた。

「俺は鍵を返しただろう?」

 それが何だというのだ。

「お前をどうにかしたいなら鍵なんか返さないしもっと他にもやり方があるだろうよ。松川がいなくなったのを見計らってわざわざここまで来るか」

 何が言いたいんだ。こんな夜中に、松川がいない間にここへ来て。嫌がらせにしては労力使ってるとは思うけど、そこまで僕が憎くてどうしても痛めつけたいということなのだろう。

 そうか。

 僕はここにいてはいけないのかもしれない。兄は反対していた。お前みたいな田舎者が行くような学校じゃないと。両親は学業以外でも勉強になるからと快く送り出してくれたけど、兄の言う通りだったのだ。入学して間もなくでこんなことになってたんじゃこの先ちゃんと学校生活を送れる自信がない。楽しい高校生活なんて想像つかない。毎日怯えて過ごすのは嫌だ。

 帰ろう、家に。高校はまた来年地元を受験すればいい。転校できるならそれがいいけど。幸い学費も寮費も免除だったから収めた学費云々の問題もない。地元から来年ここに来る子たちに迷惑がかからないかが気掛かりだけど。

 ならば、もういい。好きなだけ嬲ればいい。もう会うことはないのだから。

「いいですよ、貴方の気の済むようにしてください」

「……お前、俺の話を聞いてたか? その上でそう言うのか?」

「そうです。ちゃんと罰を受けてから家に帰ります」

「お前の家は今はここだろう? ……いや俺が悪い。お前がいきなり目の前に現れたからな」

 腰に回されていた手が離れて。離れることを願ってはいたけど、離れたら離れたで次何をされるのだろうかと新たな恐怖に体が強張る。

「最初からやり直しだ」

 そう言った後、顔が近付いて。

 僕の唇に唇がそっと触れて離れた。

「おやすみ」

 ベッドが再び小さく揺れ、立ち上がった近藤さんは部屋を出ていった。

 今の、なに……?

 僕の頭は完全に思考停止して、とにかく寝なければならないと、それだけが思い浮かんで。

 プログラミングされたロボットのように、何かを考えることもなく机の明かりを消してベッドに横になり。

 布団を被って、目を閉じた。


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