10 休日出勤

 ノックをして生徒会室に入ると誰もいなかった。

 土曜日で生徒は授業もなく基本休みなのだけど、仕事の都合や部活があったりと、校舎は一応年中開いているらしい。

 あれ……? 印刷室にでも行ってるのだろうか。と思ったら奥の部屋でガタガタと音がする。誰もいないわけではないようだ。

 奥の小さな部屋は倉庫になっていて、生徒会の備品が置いてある。そして僕が近藤さんに連れ込まれた場所。ここにお手伝いに来るようになってからはほぼほぼしゃべってないし何かがあったわけでもない。だからその記憶は少し曖昧になって僕の中でトップページにはない。一人で倉庫へ入るのは抵抗がないわけじゃないけど多田さんと一緒だし、他の人も生徒会室の中にいるしで。

 なんだけど。

「……お前」

 倉庫から姿を見せたのは。

「お……手伝いにきました」

 僕を見る目はいつも不機嫌だ、近藤さんは。

 どうやらこの人一人しかいない。会長さんたちはそろって外に何か備品でも取りに行っているのか。

「……真面目に言ってんのか?」

 いつもの通り無視されるのかと思ったが、近藤さんは口を開いた。僕たち以外誰もいないから開かざるを得なかったのかもしれない。不機嫌なのは変わらないのだけども。

「もうみんな帰ったぞ」

「え?」

 どういうこと? 仕事は中止?

「お前が来ないって多田さんがしょんぼりしてたし、連絡もなく休むなんてらしくないって北見さんも言ってたぞ」

「え?」

「今日は九時集合十一時解散だったが?」

「ええ!?」

 ……今十一時だ。予定より早く終わったのだろう。としても。

「十一時からって聞いたんですけど……」

「桜野さんか」

「はい」

 メッセージアプリに飛んできた桜野さんのメッセージは「午前十一時から始めるので来てね」だった。だから僕はわかりましたと返信して。

「っとにあの人は……見ての通り終わってるから寮へ帰れ」

 近藤さんは舌打ちした。どうやら僕は騙されたというか嵌められたというか、一人でここで待ちぼうけを食らうところだったのか、もしくは近藤さんと二人っきりにさせられようとしていたのか。正解はわからないけど、現在、後者の状況で。

 近藤さんも会長さんによって居残りさせられたのだろうか? 僕と鉢合わせさせるために?

 ……お手伝いのことといい、会長さんはどういうつもりなのだろう。意地悪なのかそうでないのかもよくわからない。実害みたいなものは何一つないから。今のところは。僕は楽しくお手伝いさせてもらっている、と言ってもいい。近藤さんに無視されている件を除けば。

「……近藤さん、は?」

 副会長に帰れと言われているのだから、帰った方がいいのかもしれない。逆らっても機嫌を更に損ねるだけで。

「もう少しやってから帰る」

「僕にお手伝いできることは?」

 でも僕だってせっかく来たのに。

「ない」

「今、何をやろうとしていたのですか?」

 近藤さんだから食い下がるのではない。お手伝いに来て帰れと言われてそのまま帰るのも間抜けだろう。

「紙の裁断」

 近藤さんは手にしていた紙の束を長机の上に置いた。その横に大きめの長方形にレバーが付いた機械みたいなものがある。

「それやります」

「裁断機使ったことないだろ。ウチのは古い上にクセがついてて使いづらいし」

 裁断機というこの事務用品?を見たのは今が初めてで。

「教えてくだされば大丈夫です」

 誰だって最初はある。

「……」

 無言で近藤さんは僕の前で紙を裁断してみせた。数枚重ねた紙を長方形の台の端にセットしてレバーを下ろすと紙が切れ、A3だった紙が半分のA4になった。

 何も言わずに裁断機の前から離れたのでやってみろということなのだろうと、僕も同じようにやってみた。

 ら。

「あっ」 

 思わず声が出るほど……の大失敗だった。ざっと血の気が引く。

「す……すみませ…………」

 簡単にやっていたから見様見真似で簡単にレバーを下ろしたら、紙がぐしゃりと横にズレて、切り口が斜めで皺が寄って。

 謝って済むようなミスではない。紙には何かの表が二つ印刷されていてそれを二分割するものだったのに、これではもう一度失敗分刷って足さないといけない。斜めに走った汚い切り口はどう見ても使えない。

 裁断機から手を離すのも憚られた。責任逃れのような気がして。

 横で見ていた近藤さんが大きく溜め息を吐いた。そりゃそうだろう……使いづらいと言われたのに軽率に大丈夫だと言って紙を無駄にしてしまったのだから……。

「……コツがあるんだ、ほら」

 怒鳴られるかと思ったら、その声は思いの外穏やかで。そして僕の背後に回って、紙とレバーに置いている僕の手の上から自分の手を重ねた。手取り足取り教えようというのだろう。

 う……。

 だけどそれは完全に背後から抱え込まれるような形になって。体が固まった。上辺では忘れていたが、体が密着するとどうしても。

「……こうなるから、俺は嫌だったんだ」

 吐き捨てるように近藤さんは呟いた。

「え……?」

「お前、俺がまだ怖いだろう? 固まるほどに」

「いや、その……」

 教えてくれているのに失礼だし、悪意を持ってこの人は何かをしようとしているわけでもない、多分。でも心臓が痛いほどに強く鳴っていて。僕の意思では止められない。あの日の記憶がそうさせているのだろう。

 おろおろしている間に近藤さんは、紙を少し台の端に出して僕の手ごとレバーを下ろした。しゃりっと軽快な音がして、紙は綺麗な切り口で細く切れる。それは僕の緊張をも少し切り落としてくれた気がした。

「台の方へ刃を寄せ気味にして擦るくらいの加減で下ろすと上手くいく」

 下ろしたレバーを上に戻した。確かに近藤さんの手の動きは左にレバーを寄せていた。台の端とレバーの刃がそれでぴったりと合うのだろう。

「ありがとうございます……」

 コツはわかったけど、無駄にした紙は元に戻るはずもなく。捨てずにメモ用紙になるとしても。

 …………。

 コツを教えてくれた。

 そして紙は切れた。

 のに、近藤さんは僕から離れない。緊張した体から解放されると思っていた僕の心臓は再びどくどくと鳴り始める。

 ……もしかして今度こそ。

 この人は僕を。

「俺にも下心はある。今にしたって。無茶をするつもりはないがお前に触れられるチャンスがあれば触れたい」

 え?

 背中で聞く近藤さんの声色はいたって真面目で。揶揄っているわけでもなく、怒っているわけでもなく、意地悪そうでもなく。怖くもなく。だけどどんな顔をして言っているのかわからない。

 わからなければ問うしかない。

「……あの。それは、どういう意味なん……ですか?」

 辱めたいのなら痛めつけたいのならさっさとやればいい。いちいち口にする必要はない。こちらの都合なんて関係ないのだから。恐怖に逃げ惑う様を見たいのだろうか。

「この間も意味がなんとかって言ってたよな。直接的に言わなければわからないんだな」

 小さく吐いた近藤さんの溜め息が僕の耳をくすぐる。

「ひっ……」

 背中を何かが走って。僕は首を竦めた。

「……俺がいろいろ悪いんだが、どうやったら怖がらなくなるんだ」

 誰ももうここへ戻っては来ないのだろうか。会長さん、多田さん、北見さん……助けて。

「俺はお前にキスをしてお前の身体中を弄(まさぐ)ってお前を気持ち良くして、俺を突っ込んでお前を俺のものにしたい」

「!?」

 なっ、なんて? 今なんて言った!?

「意味、わかったか?」

「わわわわわかりません」

 何を言ってるのか全然わからない。なんでもいいからとにかく離れて……。

「俺はお前とセックスがしたい」

 へ……?

 セッ……ク、ス……?

 思考が一瞬止まった。

 さすがに知らない言葉ではない。一応健全な男子高校生だ。

 お前と、って、僕、と?

 不意に頭の中で松川の声がした。お兄さんと恋人同士だったという近藤さん。男とそういうことができる人なのだ。すっかり忘れていたし、それは僕と関係ないことだと思っていたからだろう。

「な、なんでっ」

 そんな言葉が零れてしまったら、

「お前が好きだから」

 清々しいほどストレートに返ってきた。

 え。

「う、嘘っ……」

 その言葉は僕のキャパを超えていて。

「俺は嘘はつかない」

 だとしても!

「セ、セックスしたいって言っても、ぼっ僕の意思はどこにあるんですかっ」

 僕は自分が何を言ってるのか何を言いたいのかわからなくなっていた。そんな言葉でいいのか、どうすべきなのか頭が回らない。

「だから今から訊こうと思ってる」

「何をっ」

「お前も俺とセックスしたいかどうか」

 そ、

「そんなの、わかりませんよっ」

「……わからない、か」

「ええ、そうです!」

 そう言い切ったら、近藤さんがやっと離れた。体の力が抜けそうになって僕は両手を長机につく。

「もう昼飯だな」

「かっ帰ります!」

 そんなこと言われても返す言葉がなくて、これしかなくて。

「お疲れさん」

 いやに近藤さんののんびりした声を背中に聞きながら僕は生徒会室を小走りで出た。

 早く部屋へ帰ろう。

 帰って、松川とご飯行こう。


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