16 怒涛の
「悦己……」
僕の名前を呼んでる。兄ちゃんか。
もう少し寝てたいんだけどな。いつも僕より起きるのが遅いくせにたまに早く目が覚めると僕を叩き起こす。んー、でも起きないといつまでも耳元で名前を呼ぶしな……起きるか。
半分いやいや目を開ける。
けど……あれ? 何か、違う……。見覚えのある天井じゃない? ここどこ……。
ふと目の端に何か映って。そろりと視線を左に移すと制服姿の。
「……」
一瞬にして思い出す。ここは寮だ。寮の部屋。家なんかじゃない。僕は何言ってんだ……。
近藤さんがいた。椅子に、座って。僕の机の椅子だろう。どこか不機嫌で。でもこの間までのとは少し違うように感じた。うまく言えないけど、温度がある。
「こ……」
「しっかり眠れたのか?」
……そう言われれば。随分すっきりした気分ではあった。だけどどうしてベッドで寝ていて、さらに近藤さんがここにいるのだろう。今何時だ。
何もわからないけど僕が何かやらかしたのだろうことは想像がつく。じゃないと近藤さんがここにいるはずがない。不機嫌な顔をして僕の部屋になんて……。はっとして首を動かして部屋をぐるりと見たけど松川の姿はなかった。
僕は……生徒会室に行かなかったか?
「すっきりはしてます……皆さんに僕は何をやらかしたのでしょうか」
「ちゃんと眠れたのならいい。お前が寝不足で寝たいと言ったから部屋へ連れてきただけだ」
それってどういう流れで……。いや、ちゃんと考えろ、自分の行動ぐらい思い出せ。放課後、生徒会室に行った。そしてどうしたっけ。ええと、多田さんと近藤さんしかいなくて。
「お前がボールペンがどうのと意味不明なことを言い出して、多田さんが寝かせとけば大丈夫だろうって言うからお前はここで寝不足を解消した、それだけだ」
その説明はちょっとわからない。でも。ボールペンのくだりは胸にずきりときた。そうだ。僕は七限に赤ボールペンを落として松川が拾ってくれて。
「昨日今日とどうしてお前は寝不足だったんだ。俺が言うのもなんだが何か気になることでもあるのか?」
この人に言ってもいいだろうか。いやでも。関係のないことだし。桜野さんは言ってほしいと言ってはくれたけど。
いや。
待って。僕はなんでこんなさらっと近藤さんと自然に話してるんだ。部屋にまで入れて。いや、部屋は仕方ないのか運んでくれ、た?みたいだし。でも、でも。
急に心臓がばくばく鳴りだして。横になったままではいられなくて僕は飛び起きた。
「いやっ、あのっ……ああもうっ」
頭がぐちゃぐちゃだ。僕は一体何をどうしたら。
「市原?」
至って普通に近藤さんは首を傾げているが。
「ええと、あの、そのっ」
その時、ドアが勢いよく開けられ、人が、松川が部屋の中に走り込んできた。尋常じゃない勢いに僕も近藤さんも呆気にとられて。
どうしたのだろうと思った時、閉まりかかっていたドアの隙間に爪先ががつっと挟まった。
「!」
僕も近藤さんも、そして松川も声が出なくて。ホラー映画でも見ているかのようで。
「陽人!」
続いて指先がドアにかかり。
はると? その名が松川のことだと思い出したのは声の主がドアをバンと怒りに任せたように開けた時だった。
「由貴さん来ないで!」
ゆきさん……松川がそう呼んだ人は桜野さん、で。確かに桜野さんは由貴さんて名前だけど。
……え?
「そうはいくか」
桜野さんは部屋に入ってくると開けた時と違って優しくドアを閉めた。
「エツミちゃん、ごめんね」
桜野さんが僕を見る。な、なにが……だろう?
僕は何がなんだかわからず、ただただ目の前の光景に疑問符を張り付けるだけで。近藤さんといえばニヤニヤして松川と桜野さんを見ていた。この人は事情がわかっているのだろうか。
「お前は何つまらないことしてるんだ」
桜野さんが松川との距離を詰める。
「つまらない? なにが? どれが?」
……そう松川が食って掛かってるんだけど、敬語ナシで。遠慮という感じが全くない。相手は三年生で生徒会長なのに。
「エツミちゃんの前に僕に言うべきだろ」
「だって!」
僕?
「由貴さんは笑い飛ばして何も答えないだろ!?」
松川だけがキャンキャン吠えていて桜野さんはいつも通り。流石に微笑んではないけど穏やかで。
「僕はそんな甲斐性なしじゃないよ、馬鹿だな」
……僕たちはここにいていいのだろうか。わからないことだらけだけど、松川は聞かれたくないんじゃないかと思う。桜野さんに来るなと言ってたし。ちらとも僕たちを見ないけど、まさかいることをわかってないってことはないと……。
「この人悪い人じゃないけどひねくれてるからな、付き合いの長い松川は確実にそう思うだろうな。俺でもそう思う」
???
こそりと僕に近藤さんが耳打ちする。
「……俺たちは当て馬でこっちが本命だったのかもしれないな」
?????
「陽人、お前が素直に、嫉妬でどうしようもないほど由貴さんが好きで」
「わあああああああああああああ」
松川の叫び声で桜野さんの言葉はかき消された。松川の顔は真っ赤で。やっぱり僕たちがいることをちゃんとわかってるらしい。
で、それって。僕は正解を知りたくてなんとなく近藤さんを見てしまった。
「いや、多分お前が思ってる一歩先だ」
?
「こんなに拗らせるとは思ってなかったよ。エツミちゃんに謝れ。優しくしておいて突然突き放すのは最低だ、陽人」
「だからそれは由貴さんが……」
「僕がエツミちゃんを構いすぎだって? お前が弟みたいに可愛いってずっと言ってたからだよ。僕だって嫉妬ぐらいする。まあ実際、エツミちゃんは可愛かったけど」
へ?
「……市原、ベッドから出られるか?」
「もう大丈夫です」
近藤さんが言わんとしていることはわかった。二人っきりにしてやろうってことだ。
僕は松川の顔を見ないようにベッドから降りて、近藤さんと部屋を出た。桜野さんは謝れって言ってたけど後でいいし、まあ……少しは松川の事情がわかったからちょっとすっきりしていた。
「多分、お前が知りたいことを俺は話してやれると思うが」
部屋を出て、一階の自販機コーナーまで何となく歩いてきた。僕が戻る部屋は今はないし、まさか近藤さんの部屋に行くなんてことは。近藤さんもそう誘うことはなかった。ここにはソファやら長椅子やら置いてあって、寛げるようになっている。風呂場に近いから上がった後にここで一服していく人も少なくない。
知りたいこと……近藤さんは松川と桜野さんのことを言ってるのだろう。だけど、それは聞かせてもらえるなら松川から聞きたい気もする。
それに。僕は他に訊きたいことがあった。
「桜野さんも近藤さんもお仕事はよかったんですか?」
腕時計の時間はまだ生徒会室にいてもいい頃だ。会長と副会長がいなくてもいいのだろうか。
「多田さんと北見さんがいるから大丈夫だ。それよりお前水分とった方がいい。ココアでいいか?」
近藤さんはポケットから財布を出して自販機の前に立つ。風呂上りじゃないからか今は誰もいない。
「……」
ココア。そう言えば、僕がストレートティーの紙パックを持ってたのを松川がガン見してたっけ。あれがさらに松川を怒らせたのかもしれない。桜野さんの愛飲だから。何かを勘違いして。
近藤さんは何も悪くないのだけど、少しだけ恨みがましく見てしまう。
「ん? 違うのがいいのか?」
「あ、いえ。ココアで」
ガコン、と落ちてきたココアを取り出して僕に手渡してくれた。
「ありがとうございます」
すっかり奢られ癖がついてしまった。ちゃんとその内お返しをしなければ。
近藤さんと長椅子に並んで腰を下ろす。買ってもらって飲まないのも失礼だし、喉も乾いていたからパックに付いているストローを外して早速飲んだ。ストレートティーも美味しいけどココアが一番好きだ。
「桜野さんと松川は両想いとかそんなんじゃなくて、付き合って二年になる」
近藤さんがぽつりと言った。
え。二年……。ってことは、松川が中二で桜野さんが高一の時。学校が違うのに。
「同じ中学出身で幼馴染らしい」
なるほど……。顔に出ていたのか僕の疑問に答えてくれた。
そんな年季の入った関係なのか。あ、でも最初知らない感じで接していた、のは。
そのまま訊くと、
「人に言って回ることでもないしな。気付かれないならその方が面倒もない」
確かにそうかもしれない。麻生個人はどっちでもと言いながらもありえない、なんて言ってたし。好奇の目で見られることだって。
「二人のこと、詳しいですね」
「まあ……松川だしな」
? どういう……。
「聞いたんだろ?」
え?
「松川が俺を嫌ってる理由」
あ……。
「少しだけ聞きましたけど、それは僕には関係ないことですし……」
本心だ。聞いた話はお兄さんが大変な目にあって酷い人なんだなと思ったけど、僕の目の前にいる近藤さんは、そんなことをする人……まあ、僕に対するあれはなんだったのかというのはとりあえず横に置いておいて……には見えない。二人の問題なのかなとか、近藤さんの話を聞いてないから何とも言えないだとか。擁護するつもりはないけど軽蔑するつもりもない。
「そうか……。そういうこともあって、俺も松川の事情を知ってる。
僕がどう答えていいものか考えあぐねていると、近藤さんのスマホが震えた。メールだったらしく。
「んなことできるか」
近藤さんは画面に向かって苦笑いした。
「松川と仲直り中だから後で戻ってきてほしいだとさ」
仲直り中……そ、うですか……。
生々しいというか、いろいろ想像しちゃいけないような。
「さて市原、お前さえよければ飯に誘いたいんだが」
「えっ、あっ」
「宮沢賢治じゃあるまいし取って食ったりしないぞ。お前、いつも驚きすぎだろ」
いやまあそれはそうでしょうけど。みんなのいるところでどうこうするはずもない。
今の僕に誘いを断るような重大な理由なんてものはなかった。
「あの……どうして誘ってくれるんですか?」
だけどつい。もやもやした部分がないこともない。
「はあ? お前は毎日記憶がリセットされるのか?」
「そんなことないです」
「毎日言ってほしいのか」
「何をですか?」
「お前が好きだって」
「わああああ」
こんな! 衆人環視で。いや誰もいないけど、いるかもしれないし!
「松川みたいな反応するなよ」
いや、でも!
「あ、あああああの」
「なんだ?」
「こ、こんな場所でそんなこと言っては駄目です」
「じゃあどこならいいんだ」
「そうじゃなくて!」
「お前に返事を求めてるわけじゃないだろう?」
「そ、それは……」
僕が訊かれたのは近藤さんとセックスしたいかどうかで。好きだからだと言われたもののそこについての僕の回答はよく考えれば必要とされてなかった。
そのあたりは何だか軽く飛び越えた感があって。セックスするってことは好意を持ってるからだという前提の話でフロー的にショートカットされて。それは間違いではないのかもしれないけど、僕には一秒も自問自答の時間はなくて。だからそこには好きも嫌いもなくて「わからない」としか言いようがなく。
……だけどそれは「わからない」のならいつか「わかる」時が来ると、来るはずだと思われて……? 僕は結局保留にしていて、近藤さんに気を持たせたままってことに?
わからない、ってそういうことだ。裏を返せば即答するほどに嫌悪だとか興味がないというわけではないということだ。
いや……。
「お前は長考派なのか。飯ひとつで何を考えることがある? 俺は腹が減ってるからもう行くが」
好意を押し付けられているわけでも同じベクトルであることを強要されているわけでもない。普通にご飯を食べようと言われているだけで、多分。流れ的な義理もあるのかもしれない。
「い、行きます!」
ここで行かないのは人としてどうかとも思う。そこそこ一緒にいて。
だけど僕の中ではいろいろ渦巻いていて。
……近藤さんの中はどうなっているのだろう。
終
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