15 睡眠不足

 あまり眠れていない自覚はある。

 寮の玄関で会ってから消灯時間まで、僕が部屋の電気を消すまで戻ってこない松川がやっぱり気になるし、今のままでいたくないから捕まえて何とか話をしたいと思って、帰ってきたら夜中でもいつでも起きなければと思いながらうとうとしていて。それでもいつの間にか眠っていたらしく気付けば朝だった。

 いつ帰ってきていつ学校の準備をして出ていったのかわからない。話をしたいのに。

「眠そうな顔してるな、あと一つだから頑張れ」

 今日の授業は七限目を残すだけ。休憩時間にそう言ってくれたのは麻生で。同じ教室にいるのに、もっと言えば僕の席の前なのに、松川と目が合うことはない。……背中はよく見えるのに。

「うん、ありがと」

「ところでさ、松川と喧嘩してんの?」

 麻生は声を潜めた。景気のいい話ではないから気を遣ってくれたようだ。

「一目瞭然だろ、松川がお前のこと全然構ってないじゃん」

 麻生が教室を見渡した先、教壇のあたりで松川は楽しそうに他の奴と話していた。

「まあ……喧嘩っていうか、すれ違ってて」

 喧嘩なら言葉を交わす。それすらもない。

「間に入ってやろうか? 声を掛け難いなら」

「ありがとう、自力でなんとかするよ。それで駄目だったら頼むかも」

「おう」

 チャイムが鳴ったので強制的に会話は終わった。

 あと一限、わかってるのに瞼が落ちてくる。授業だけはちゃんと聞いておかないと進みが速いからわからなくなる。中学でも授業で寝たことがないのが自慢なのに。この先生は出席番号順にあててくる。だから今日は当たらないのが救いだ。先生の声が上滑りして頭に入ってこない。それでもせめて聞いているフリはしないと。

「次を松川、訳して」

 松川、という言葉に過剰に反応してしまった僕は机の上のペンケースに手が当たって派手に落としてしまった。しんと静まり返っていた教室にカシャンと響き渡る。ついでに目も覚めて。

「お、市原。お前が答えたいのか?」

 先生の冗談にみんなが笑う。

「いえ……すみません」

 松川が立ち上がって教科書の訳を淀みなく読み上げている間、僕はやや小さくなりながら床に手を伸ばしてシャーペンやら消しゴムやら定規やらを拾う。全部中身が出てしまっていて。

 拾い終えたと思ったら赤ボールペンが松川の椅子の下に転がっていた。気後れする、しゃがんで手を伸ばすのが。先生にあてられて答えている最中だし。授業が終わった直後に拾うのがいいかもしれない。どうせ松川は席を外す。僕は諦めて、進んでいた教科書のページを捲った。

「OK。座って」

 訳し終えた松川が椅子に座ると同時に後ろに腕が回って、僕の机の上に赤ボールペンが置かれた。振り向かずに背中越しで、無言で。

「……ありがとう」

 小声で礼は言ったものの、松川の背中は当然のように反応せず。

 ……とうとう一言も発しなくなった。目の前にいるのに。授業中だからというわけではないだろう。踏みつけたりせず、拾ってくれただけいいのかもしれないけど。きゅっとお腹が痛くなった。締め付けられるような。

 もう駄目なのだろうか。よくわからないままに松川とは壊れてしまうのだろうか。

 それも仕方ないと受け入れて。松川だって僕といたくないだろうから部屋替えを本気で考えた方がいいのかもしれない。

 放課後、生徒会室へ行くと多田さんと近藤さんが長机の上に置かれた小さめの箱を囲んでいた。桜野さんと北見さんはまだ来ていない。

「こんにちは」

「いらっしゃいエツミちゃん」

 そう言って多田さんがちょいちょいと僕を手招きする。

「文具屋さんから宣伝の入った赤ボールペンを大量にいただいちゃってさ、どうしようかって近藤と話してたんだけどエツミちゃん何かアイデアある?」

 僕が二人に寄っていくと空いた箱から赤い胴のペンが綺麗に並んでいるのが見えた。

 赤いボールペン。

 ああ……。

「市原、顔色が悪くないか?」

「大丈夫です……」

 僕のじゃない……。

「いや、俺から見ても顔色悪いよ。今日も寝不足? あまり無理しちゃダメだよ」

「寝不足……赤いボールペンがたくさんあって僕が悪いんでしょうか……」

「お前何言ってるんだ」

「エツミちゃん?」

 ずん、と体が下へ落ちるような気がした。

 寝不足。寝たら治るだろうか。落とさなければよかった。眠たい。お腹が痛いのも寝たら治る? 眠ったら松川がいてくれるだろうか。

「寝ても……いいで、すか……?」

「おい待て!」

 もう待てない。いくら待っても無駄だった。

 立っていられなくて、長机に両手を置いて。膝から力が抜けていく。なるようになれ、なんて無責任なことを思って。

「ああいいよ、後で起こしてあげるから眠るといい」

「多田さん、そんないい加減な!」

「エツミちゃん、俺と近藤がいるから大丈夫だよ」

 誰かが支えてくれた気がする。声が近いから多田さんかな……やっぱり優しいな……。

 目の前が黄色になって黒になって。

 そしてわからなくなった。


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