第20話 大原 中臣鎌子の屋敷にて

 宝大君たからのおおきみの譲位も、軽皇子かるのみこの即位も、葛城皇子かづらきのみこは話題にしようとはしない。それを幸い、新たな大臣おおおみに就任した倉山田石川麻呂くらやまだいしかわのまろも、阿倍臣あべのおみ大伴連おおとものむらじらも、葛城が納得していると一方的に判断する。

 一連の騒動の実行役となった若い親衛ら、そして私も納得などしていない。軽皇子擁立を最初から掲げていたなら、佐伯子麻呂さえきのこまろらが、最も危険な役割を承知したとは思えない。上官命令で逆らえないにしても、動けないまま仕損じていただろう。何故なら、私も葛城も動くはずがない。やはり失敗したと、内心で苦笑しながら見物していた事だろう。

 意外なのは中臣鎌子なかとみのかまこの様子だ。年寄どもに倣って、こちらを無視する腹かと思ったが、そうではない。王宮の騒ぎから十日も経った頃、三輪の私の家に使いをよこした。大原にある中臣連なかとみのむらじの屋敷に招きたい。日時はいつでも構わないので返答されたし。先延ばしも気持ちが悪い、明日の仕事が引けた後、直接に向かうと返事をする。


 昼過ぎにまでに片付けるつもりの仕事は夕刻までかかった。日の長い時季なので、早々に暗くなる事はない。大原へは法興寺の脇を抜けて行けば造作もない。資人とねりを一人連れ、中臣鎌子の屋敷に赴く。

 あの男と言葉を交わしたのは、甘樫丘の焼け跡でが初めてだ。思わせぶりな事をやたらに言っていたが、何の下心があってなのか未だに分からない。どう身構えて会うべきか、迷っている内に古びた屋敷の門に至る。

 応対に出て来た初老の男は、東国の者らしいなまりが微かにある。この家の先代は長く常陸国ひたちのくににいたと聞いている。その頃から仕えている者か。その者に付いて奥に進めば、あるじは自ら庭に出て私を迎える。脇に見える厨屋くりやから夕餉ゆうげの支度の煙が上がる。しかし、使用人の気配は希薄だ。中臣連鎌子という男に、何人の妻女や子供がいるかは知らない。この生活感の無さでは、いずれも共に住んでいるとは思えない。

 夕餉の支度が整い次第、奥に運べと資人に命じる。そして私は、奥の大きな殿へと招かれる。燭台の小さな火と、二つの円座わらざだけが室内に置かれている。今宵は下弦か、月の昇るのは遅く、大して明るくもなるまい。


「私に尋ねたい事が御有りなのでしょう、御身おみ様も」座るなり鎌子が口を開く。

「私もとは、どういう意味か」

葛城皇子かづらきのみこ様は御尋ねになりたいよう、御見受けします。しかし、人目もあってか、終始私を無視しておられますので」

「まあ、そうであろうな。では、御身の知っている事を洗いざらい、と言いたいところだが、御身に差し障りのない範囲で教えて頂きたい」取って付けたように言葉を検め、頭も下げて見せる。

「今となっては、差し障りなどございませぬ」軽い笑いが口元に浮かぶ。

「そうか」笑いと言葉の意味を訝しみながら、私も笑い返す。

「しかし、長話の前に腹を落ち着けるのも、一つの手でしょう」妙に屈託なく言う。

 夕餉の支度は、間もなく運ばれてくるのだろう。


 蘇我大臣そがのおおおみ家失脚の計画を最初に言い出したのが、阿倍臣なのか倉山田臣なのかは知らないと鎌子は言う。案外、葛城皇子ではないのかと私が言えば否定しない。鎌子に話を持ち掛けて来たのは軽皇子だった。互いに顔は知っていたが、身分の違いにこだわる軽皇子では、神祇伯じんぎはくの息子ごときに親しみなど覚えない。その皇子が唐突に声をかけて来た。裏があると怪しまない方がおかしい。今思えば、常日頃より鞍作入鹿くらつくりのいるかと喧嘩をしていたのが、印象に残ったという程度かも知れない。

 話に出て来る協力者は、私の知る以上ではない。だが、名の知れた者以外にも、少なくない数がいるだろう。鎌子自身も重要な役目を担っている訳でもなさそうだ。

「佐伯子麻呂らも、軽皇子擁立は知らなかった。親衛らは利用されただけという事か」私は聞く。

「そういう事です。それどころか、事の成り行きによっては、消せという命令も下っていました」

 室内は既に暗い。侘しく灯された燈火では、鎌子の表情は窺えない。鎌子にしても、私の顔はほぼ見えていないだろう。

「あの時、衛士の数がやけに多かった。その者らが役目を担う予定だったか」

「そうです」落ち着き払った声に、思わず嫌悪感を覚える。

いましの役目は何だ。御大層に弓など構えていたが」我ながら嫌味な物言いだ。

「合図を送る役です。佐伯らが仕損じた時、衛士らに動けと」

「そのついでに、親衛らの口を封じろと」

 肯定はしないが、否定の言葉も返らない。年寄りどもの計画通りに事が運べば、実行犯らの口を塞いだ後、諸臣まえつぎみを前にして大君に譲位を促す。そして軽皇子の擁立を宣言する。当たらずしも遠からずだろう。

「あの時、手を下したのが葛城ではなく俺ならば、衛士どもは俺を切り捨てた訳か」

「滅相もありませぬ。御身様でも葛城皇子様でも、衛士らは手を下せますまい。そのような事が起これば、衛士のみならず、少なからぬ上位者も責任が問われましょう」

 それはそれで、邪魔者を遠ざける一因に利用されるだろう。私の存在など、葛城皇子に比べたら取るに足りない。言い訳はいくらでも立つ。

 いずれにせよ、この男は本心を語ってはいない。鎌子や高官らにとって、葛城皇子も私も、場に据えられた石程度の存在だった。事もあろうか、その石が勝手に動いて、計画をおかしな方向に導いてくれた。内心は複雑な事だろう。

「それで汝としては、私を通じて葛城に詫びでも入れたいのか」我ながら、相変わらず嫌味な言葉を吐く。

「まあ、そうなのやも知れませぬな」曖昧かつ、どうでも良さそうな返事だ。

「詫びを言う前に、俺に何かさせたいのか」

「滅相もございませぬ。実のところ、私自身、軽皇子様の擁立など考えておりませなんだ」

 つまり、伯父御はその器ではないと、暗に言いたいようだ。

「蘇我本宗家を倒す事も、考えていなかったのか」

「諸臣の一部に、そのような企てがあると、耳にしておりました。だがまさか、現実になるとは思うてもいなかった」

 この言葉が本心ならば、鎌子も私と大して変わらない程度の関わりなのか。

「要するに汝は、大伴の叔父御への義理で、この動きに加わった」

有体ありていに申せば、そうなりましょう」

「そして、若い者らに一目置かれる葛城皇子をそそのかし、計画に引き込んだか」

「そそのかすとは、言葉が悪うございますな」

「では、説得してか」

「説得もしておりませぬ。あの御方は誰よりも積極的でした」

 やはり、計画を最初に口にしたのは葛城皇子なのかもしれない。

「葛城としても、汝らに協力を仰ぎたかった。そして阿倍臣らがそれに付け込み、自らの都合の良い方向に事を捻じ曲げた。この分では軽皇子も、あの者らにそそのかされた可能性が高い」

「そちらは否定致しませぬ。軽皇子様は、当初より即位には躊躇とまどっておいでの御様子でしたので」いくらかの憐れみが籠る声で言う。

 つまり、今でも即位には前向きではない。伯父御自身、高官らに踊らされている自覚は有るのかもしれない。

「汝から見てどうだ、軽皇子は皇位に相応しい御仁ごじんか」今更に意地悪く聞く。

「分かりませぬ。古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ様よりは、ましかと思うたのが正直なところです」

「古人が気の毒な言いようだな。では、葛城皇子は如何いかがか」

「苦しい事を御聞きになられますな。それは先日も申した通りです」

「本当に位に相応しいのは云々、というやつか」

「しかし、葛城皇子様では若過ぎる。数年以上、十年は待つ必要がありましょう」

「その十年、汝はどのように待つ。軽皇子に仕えて待つのか」

「いいえ。暫くは身を引くつもりでおります」

 なるほど、下手に権力の近くにいれば、自らの身もどうなるか分からない。この男なりに、きな臭さを感じているのか。これより新たな大君を擁立し、次の主導権を巡る内部抗争が始まる。駆け出しの舎人とねりにすら想像の着く事だ。

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