第2話 飛鳥板蓋宮での事

 斑鳩いかるがへの派兵より数日後、生駒より馳せ戻った巨勢臣こせのおみ配下の兵士が報告する。

「山中にて上宮かみつみやの残党らしき者らを見たとの報告を受けました。斥候を放ち、更に捜索を続けたところ、山背大兄王やましろのおおえのみことその妻子らの姿もあったと」

 板蓋宮いたぶきのみやと呼ばれる王宮みあらかの内殿に諸臣まえつぎみが集まる。御簾の向こうに座る宝大君たからのおおきみの前に、大臣おおおみら重臣が左右に分かれて座る。その末席で、私は葛城皇子かづらきのみこと共にそれを聞いていた。

「やはり脱出していたか」葛城が小声でつぶやく。

 重臣らの後ろについて、私たちも宮の内殿を退出する。

「これだけ日が経っているのに、未だ生駒山中を彷徨っているのも奇妙だな」私も声を潜めて答える。

「確かに。既に東国にでも逃げ延びていても不思議はない」

 宝大君たからのおおきさきの嫡男、葛城皇子は十八歳、昨年より廟堂びょうどうまつりごとを聞くようになった。一つ年下の私も皇族の端くれに扱われ、同席を許された。とは言え、大臣を始めとした臣下らには、何とか子供の年を脱した若輩に見られている。

 内庭に出たところで、古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこに出くわす。葛城の異母兄のこの人も、宝大君たからのおおきみ即位後に大兄おおえの称号を与えられた。斑鳩急襲の翌日より、体調を崩したと自らの宮に引き籠っていた。そのために知らせが遅れたか、ようやくの参内と見える。

 私たちがそろって頭を下げると、年上なりに横柄な振りで礼を返す。そして落ち着きのない少し高い声で、異母弟の葛城に事の次第を質す。

「では、上宮で見つかった遺体は別人か」

 大兄皇子おおえのみこは背をかがめて声を潜めるが、私たちのどちらよりも背は低い。

「将軍の巨勢臣らは、顔形も分からないほど、焼けただれた死者を確認しただけです」私が替わって答える。葛城はあの場を見ていない。

「その遺体を山背大兄やましろのおおえらと判断し、形式上で奏上をした訳ですよ」

 どちらかと言えば長身の葛城皇子は、異母兄を斜めに見ながら言い添える。

大臣おおおみらはそれで納得をしたのか」

「納得した、むしろ、したかったのでしょう」然もないように葛城は言う。

 表向きの報告なのは誰の目にも明らかだった。遺体の確認ができていない事で、山背大兄王らの生存を疑う者も多かった。斑鳩から引き揚げた後、大臣は残党狩りの名目で兵を彼処かしこに放った。斑鳩から処方面に続く道は封鎖され、街道から外れた山野にも斥候が放たれた。

「兵を差し向けた大臣も心苦しかろう。だからと言うて、上宮王家かみつみやおうけの者らに生きていられても困る」古人皇子は独り言のように呟く。

「そこに生駒からの知らせです。鞍作くらつくりが焦るのも分からぬではない」葛城は喉の奥で低く笑う。

 蘇我大臣そがのおおおみの嫡男、蘇我鞍作臣入鹿そがのくらつくりのおみいるかを葛城はいつも呼び捨てにする。

「見つけたのが蘇我の兵ならば、事態は違うていたやも知れませぬな」葛城はなおも言う。

 山背王らが逃亡したのなら、蘇我大臣としては秘密裏に葬りたかった。しかし、生駒山中でそれらしき人々を見たのは、巨勢氏こせうじの兵士らだった。そして大君は、巨勢臣を将軍として生駒に向かわせた。

「もしも山背王が、大君に平伏して助命嘆願をし、大君がそれを許す。そのような事になれば、蘇我氏には大事おおごとになりましょう」

 ともすれば、上宮王家に謀叛の意は無かったと解釈されるかもしれない。そうなれば、皇族たる王家に刃を向けたとして、蘇我氏を始めとする者らが謀叛人の名を問われる。

「山背大兄の矜持では、相手が大君おおきみでも平伏するなど有り得まい」顎を上げる古人皇子は、小馬鹿にしたように首を振る。

「確かに有り得ないでしょうな。大君にしても許すとは思えませぬし」

「それで、入鹿いるかは追討の軍を差し向けたのか」

「さて、そちらはほうが知っているのでは」なおも笑う葛城は、私を顎で示す。

 今更に葛城から顎で扱われたところで、私としては腹も立たない。しかし、古人皇子は心なし不快な表情を見せる。相手が私ごときでも、異母弟の不遜な態度が気に入らないようだ。

「私の立場では、然程、詳しい事は分かりませぬ」

 頭半分ほど低い所にある古人皇子の顔を見下ろし気味に、私は慇懃な前口上を述べる。古人皇子は、もったいぶった様子でうなずく。

鞍作臣くらつくりのおみは、親衛隊長の高向臣たかむくのおみに出動を命じようとしました。しかし、大君が既に巨勢臣を遣わせている故、高向臣の出動許可は今のところ降りていませぬ。この様子では、鞍作臣が自らの手勢を差し向けるのではないか、そのような推測が出ております」

「入鹿が自ら向かうというのか」鼻白む表情で古人皇子は呟く。

「自ら向かわれるかは存じ上げませぬ。あの様子では、可能性があると皆が言うている状況です」あくまでも客観的に答える。

「あってはならぬ」

「何があってはならぬのです、兄上」わざと暢気のんきな声で葛城が問う。

「入鹿が、いや、臣下が皇家の皇子を討つなど、あってはならぬ」

「さて、声高に言う者はありませぬが、鞍作の祖父おおじの頃にはあったのではありませぬか」

「戯けた事を言うな。いましには事の重大さが分かっておらぬ」不機嫌そのものの顔で、焦りも露わに古人皇子は言う。

 そして、話にならないので大君や大臣に会うと言い捨て、内殿の門を潜って姿を消す。


「事の重大さか。確かに古人にとっては重大だろうな。ここで鞍作に謀叛人の汚名を着てもらっては困る。最大の後ろ盾が謀叛人では、いかに大兄皇子おおえのみこでも打つ手もなかろう」

 古人大兄皇子の母親は蝦夷大臣えみしのおおおみの妹で、妃は大臣の娘だ。蘇我氏からしても、古人皇子こそが手中の珠となる存在だ。だからこそ、根回しをしても大兄皇子に昇格させた。

 日嗣ひつぎに相応しい皇子は、大兄の称号を付けて呼ばれる。だがこれも、唐や百済くだらのように確固とした太子を示すものではない。それどころか大君すらも、豪族らの曖昧な連合体に祀り上げられる存在だ。唐の皇帝のような絶対権力はない。むしろ、貴族会議に牛耳られた、三韓の国王に近いかもしれない。

 このように不安定な体制下、山背大兄王も古人大兄皇子も、多数の豪族から承認を得なければ地位が危うい。

御身おみは古人大兄皇子の味方ではないのか、実の兄なのだし」

「心外な事を言うな、扶余ふよほう

 この男は時々、私のうじも名も呼ぶ。

「山背王の味方ではなかろう」

「この件については、私は日和見ひよりみを決め込む。誰が殺し合いをしようと、こちらにやいばが向かぬ限りは、高みの見物をさせてもらおう」そしてまたもや笑う。

 この笑い方は、慣れない者にはかなり気に障るかもしれない。

「では、蘇我の娘を娶ったのは、どういう了見だ」

「あれは向こうがよこした。遠慮するのも、私らしくなかろう」

 蘇我氏と言っても一枚岩ではない。本宗家は古人皇子を取り込み、第二の家となる倉山田くらやまだ家は葛城皇子を推す姿勢を示す。だが噂によれば、葛城の妻となった娘は次女で、長女は古人への輿入れを考えていた。ところが長女は叔父にあたる男と駆け落ちをしてしまった。倉山田の家では、この事をひた隠しにしたいようだが、既に殆どの者が知っている。

「私たちの婚姻に、惚れたの腫れたのが通用するか。家のため、親兄弟のため、挙句は国のためだ。それこそ、御身自身が一番に知っておろうが」葛城は肩をすくめる。

「ああ、まったくだな」私には反論の余地もない。

 私の両親こそ、国のための婚姻に巻き込まれた張本人だ。

「しかし、この先、古人も立場が悪うなろうな」葛城は話を戻す。

「ああ。この一件で鞍作臣の立場が悪化するかも知れぬな」

「共に孤立し、心中を図るような事にならねば良いのだが」物騒な事を言う割には、顔色にも口調にも同情は見えない。

「それ以前に山背大兄王らはどうなるのだろう」

「裁量を下すのは大臣か、それとも母上か」

 二代前から蘇我氏は、皇家との婚姻で独裁に近い権力を維持してきた。蘇我大臣の妹を母親に持つ山背王は、母方の血を否定するように、皇家あっての蘇我氏だと公言する。言葉にはしないが、蘇我あっての皇家と認識する大臣らには、大兄の位を持とうが大君に相応しい器ではない。

 蝦夷大臣の代でも、蘇我本宗家の意見は大和の総意に成り代わる。上宮王家に意を通じる者は、形にもならない謀叛で罪を問われる。更に引き出した不確かな情報が、斑鳩への派兵を導いた。こうして追われる身になった山背王だが、今はまだ誰もが謀叛人とは呼んでいない。

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