第2話 飛鳥板蓋宮での事
「山中にて
「やはり脱出していたか」葛城が小声でつぶやく。
重臣らの後ろについて、私たちも宮の内殿を退出する。
「これだけ日が経っているのに、未だ生駒山中を彷徨っているのも奇妙だな」私も声を潜めて答える。
「確かに。既に東国にでも逃げ延びていても不思議はない」
内庭に出たところで、
私たちがそろって頭を下げると、年上なりに横柄な振りで礼を返す。そして落ち着きのない少し高い声で、異母弟の葛城に事の次第を質す。
「では、上宮で見つかった遺体は別人か」
「将軍の巨勢臣らは、顔形も分からないほど、焼けただれた死者を確認しただけです」私が替わって答える。葛城はあの場を見ていない。
「その遺体を
どちらかと言えば長身の葛城皇子は、異母兄を斜めに見ながら言い添える。
「
「納得した、むしろ、したかったのでしょう」然もないように葛城は言う。
表向きの報告なのは誰の目にも明らかだった。遺体の確認ができていない事で、山背大兄王らの生存を疑う者も多かった。斑鳩から引き揚げた後、大臣は残党狩りの名目で兵を
「兵を差し向けた大臣も心苦しかろう。だからと言うて、
「そこに生駒からの知らせです。
「見つけたのが蘇我の兵ならば、事態は違うていたやも知れませぬな」葛城はなおも言う。
山背王らが逃亡したのなら、蘇我大臣としては秘密裏に葬りたかった。しかし、生駒山中でそれらしき人々を見たのは、
「もしも山背王が、大君に平伏して助命嘆願をし、大君がそれを許す。そのような事になれば、蘇我氏には
ともすれば、上宮王家に謀叛の意は無かったと解釈されるかもしれない。そうなれば、皇族たる王家に刃を向けたとして、蘇我氏を始めとする者らが謀叛人の名を問われる。
「山背大兄の矜持では、相手が
「確かに有り得ないでしょうな。大君にしても許すとは思えませぬし」
「それで、
「さて、そちらは
今更に葛城から顎で扱われたところで、私としては腹も立たない。しかし、古人皇子は心なし不快な表情を見せる。相手が私ごときでも、異母弟の不遜な態度が気に入らないようだ。
「私の立場では、然程、詳しい事は分かりませぬ」
頭半分ほど低い所にある古人皇子の顔を見下ろし気味に、私は慇懃な前口上を述べる。古人皇子は、もったいぶった様子でうなずく。
「
「入鹿が自ら向かうというのか」鼻白む表情で古人皇子は呟く。
「自ら向かわれるかは存じ上げませぬ。あの様子では、可能性があると皆が言うている状況です」あくまでも客観的に答える。
「あってはならぬ」
「何があってはならぬのです、兄上」わざと
「入鹿が、いや、臣下が皇家の皇子を討つなど、あってはならぬ」
「さて、声高に言う者はありませぬが、鞍作の
「戯けた事を言うな。
そして、話にならないので大君や大臣に会うと言い捨て、内殿の門を潜って姿を消す。
「事の重大さか。確かに古人にとっては重大だろうな。ここで鞍作に謀叛人の汚名を着てもらっては困る。最大の後ろ盾が謀叛人では、いかに
古人大兄皇子の母親は
このように不安定な体制下、山背大兄王も古人大兄皇子も、多数の豪族から承認を得なければ地位が危うい。
「
「心外な事を言うな、
この男は時々、私の
「山背王の味方ではなかろう」
「この件については、私は
この笑い方は、慣れない者にはかなり気に障るかもしれない。
「では、蘇我の娘を娶ったのは、どういう了見だ」
「あれは向こうがよこした。遠慮するのも、私らしくなかろう」
蘇我氏と言っても一枚岩ではない。本宗家は古人皇子を取り込み、第二の家となる
「私たちの婚姻に、惚れたの腫れたのが通用するか。家のため、親兄弟のため、挙句は国のためだ。それこそ、御身自身が一番に知っておろうが」葛城は肩をすくめる。
「ああ、まったくだな」私には反論の余地もない。
私の両親こそ、国のための婚姻に巻き込まれた張本人だ。
「しかし、この先、古人も立場が悪うなろうな」葛城は話を戻す。
「ああ。この一件で鞍作臣の立場が悪化するかも知れぬな」
「共に孤立し、心中を図るような事にならねば良いのだが」物騒な事を言う割には、顔色にも口調にも同情は見えない。
「それ以前に山背大兄王らはどうなるのだろう」
「裁量を下すのは大臣か、それとも母上か」
二代前から蘇我氏は、皇家との婚姻で独裁に近い権力を維持してきた。蘇我大臣の妹を母親に持つ山背王は、母方の血を否定するように、皇家あっての蘇我氏だと公言する。言葉にはしないが、蘇我あっての皇家と認識する大臣らには、大兄の位を持とうが大君に相応しい器ではない。
蝦夷大臣の代でも、蘇我本宗家の意見は大和の総意に成り代わる。上宮王家に意を通じる者は、形にもならない謀叛で罪を問われる。更に引き出した不確かな情報が、斑鳩への派兵を導いた。こうして追われる身になった山背王だが、今はまだ誰もが謀叛人とは呼んでいない。
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