今でも入日を思い出す

吉田なた

第1話 大和国 宝大君二(643)年十一月 斑鳩上宮の事

 空は赤いが日は既に暮れ切っている。上がる炎は宮を焼き、空までもを赤く照らす。この日、斑鳩いかるが上宮かみつみやは兵士らに包囲されて火をかけられた。

 先鋒に立つのは蘇我氏そがうじを始めとする豪族の私兵、そして都の外の任務に就く民兵達だ。対する上宮王家の私兵など高が知れている。蘇我や大伴のそれよりも遥かに少ない。火がかけられる以前にも、抵抗など殆どしていない。宮の主は武力での反撃を愚かしいと判断し、家臣らに投降を命じている。逃げ出してきた者らは、兵士に囲まれひとかたまりになる。この者らは怯えさせるのは、突き付けられた抜き身などではない。夜空に上がる火の粉と煙、そして焼け落ちようとする宮殿の影だろう。

 歩兵らの後ろで騎馬の指令らは、手綱に手をかけたままで炎を遠めに見る。私たち大君おおきみの親衛隊は、更に後ろでただ眺める。派遣されたのも一小隊のみで、実践に加わるはおろか、宮の包囲にも、火をかける命令にも全く関与していない。各氏の精鋭、労役の民兵、王宮の衛士、そのような者らの実力行使を黙って見ていた。

 駆け出しの士官の私は、身軽な皮の甲冑よろいかぶとを身に着け、大刀たちを履いて馬の背にまたがる。大刀を抜くどころかさやに手をかけすらしていない。

 背後から馬の足音が近付く。振り向いて相手を確かめる。黒い冑に着けた山鳥の尾羽で軽皇子かるのみこだと分かる。瘦身で小柄な身に黒い甲冑はひどく重そうに映る。

御身おみ様の言った通りになりましたね、伯父上」横に馬を並べたところで私は声をかける。

「私の言うた通りとは」前を見たまま軽皇子は問い返す。

 少し高い声が、心なし震えて聞こえる。興奮しているとも怖じているともとれる。

「私たちの出番などないと言われた事です」

「そうであろう。蘇我大臣そがのおおおみの手勢だけで事は済む。大伴や巨勢こせの手勢も必要なかったであろう」

「まあ、この奇襲の意味を理解しているのも、蘇我大臣とその周辺だけでしょうな」

 理解していない故に嫌味の一つも言いたくなる。

 伯父は無言のまま横眼使いに私を見る。この人は武官ではない。大君の同母弟なので、皇族代表として行動に加わった。私同様、飾りの将として馬上で高みの見物をする。斑鳩上宮の包囲に、目に見える権力と豪華さを大君や大臣おおおみが欲したに過ぎない。

「無残なものだ。炎に意思はあるのか」伯父が独り言のようにつぶやく。

「有りますまい」私は乾いた答えを返す。

 意味のない問いかけだ。

「そうだな。今、何を灰にしようとしているのか、炎には全く構わぬ事だ」

 面白くもない感傷だ。笑おうとしたが、溜息にもならない息が漏れた。私もどこかで怖気づいているのかもしれない。

 兵士らも投降した者らも、立ち尽くして炎上する宮を見つめる。先程までの怒声も悲鳴も、とうの昔に止んでいる。冬の風が更に火を煽り、人々の顔に影を落とす。


 宝大君たからのおおきみ(皇極天皇)が即位して二年目は、私の武官出仕も二年目にもなる。私の母は大君の妹なので、甥として名ばかりの小隊長に任命された。そして形ばかりの部下を率いる士官にもなった。この冬の斑鳩宮襲撃事件は、私という若輩者が初めて関与した忘れられない事件となる。そしてそれ以上に、皇嗣問題に大きな影響を及ぼした事件でもある。


 皇嗣問題は先の田村大君たむらのおおきみ(舒明天皇)の即位以前からあった。先々代の炊屋姫大君かしきやひめのおおきみ(推古天皇)が、明確な後継者を定めずに崩御した事も大きな要因だった。更に先代の大君らは、病気や争いで早世している。こうした不安定な皇統が、今に至る原因となっている。

 炊屋姫皇女かしきやひめのひめみこ訳語田大君おさだのおおきみ(敏達天皇)の大后おおきさきだった。大君崩御後は、大后の同母兄の橘皇子たちばなのみこが即位した。ところが、この人はたった二年で崩御した。橘大君たちばなのおおきみ(用明天皇)には何人かの皇子がいたが、いずれも幼く、嫡子の厩戸皇子うまやどのみこですら十五歳だったという。

 後を継いだのは異母弟の泊瀬部皇子はつせべのみこだった。だが、この大君(崇峻天皇)はあろう事か、五年目の冬に臣下によって殺害された。

 こうして二人の兄弟に先立たれた炊屋姫大后かしきやひめのおおきさきは、群臣の推挙によって高御座たかみくらに即く事となった。

 炊屋姫大君が左右の腕と頼んだのは、母方の叔父の蘇我馬子大臣そがのうまこのおおおみ、そして甥の厩戸皇子だった。この人こそが、斑鳩上宮いかるがかみつみやを起こした人だ。

 蘇我氏は馬子大臣の父親の頃より、急激に勢力を拡大した。皇家との婚姻により、大君の外戚となって他の豪族の上に出た。大君選出には蘇我氏の意思が大いに物を言う。実のところ、橘皇子も泊瀬部皇子も炊屋姫皇女も、蘇我氏の娘を母親とする。蘇我氏の後ろ盾の許に即位したと言っても過言でない。

 炊屋姫大君の即位の年、厩戸皇子は十九歳だった。せめて五年早く生まれていれば、自らが即位する可能性もあった。炊屋姫大君は三十九歳、この叔母が亡くなった後の即位を視野に入れていただろう。大君も大臣も、厩戸皇子に期待をした事は間違いない。そろって自らの娘を妃に入れた。ところがこの二人にさえ、皇子はそうそう扱い易い相手ではなかったと見える。時が経つにつれ、皇子と大臣の離反は目立つようになっていった。 

 十三年目、皇子は都から斑鳩に本拠を移す。 蘇我氏が飛鳥に建てた大寺に競うように、斑鳩にも大きな寺を建立する。更に寺に接して宮を構え、上宮と呼ばせる。そしてこの地で、外政と宗教政策に重点を置いた活動を始める。

 これら野心的な態度は、来るべき即位の日への布石だったのかもしれない。それを理解し、期待を持って近づいて来る者も多い。若い者はもちろん、大きな後ろ盾を持たない地方出身者や、異国より渡来した家の者も少なくなかった。

 叔母の大君や老練な大臣は、事を荒立てまいと距離を置いて見ていた。だからこそ、大事は起きなかった。そのように言うのは現在の蘇我の家の者達なので、事実関係の詳細は分からない。ともあれ、飛鳥と斑鳩に分かれた状況は、この後も長く続いた。


 この国には唐のように、皇帝と太子が別々の宮に住む習慣はない。それどころか唐や百済くだらのように、はっきりとした太子の制度がある訳でもない。大君の権力も決して絶対的ではない。都の近隣に根を張る豪族らが、一枚岩には程遠い連盟を組み、大君という孤高の存在を祭り上げる。豪族らは大君の生前より、次期大君にふさわしいと思う皇子みこに肩入れする。こうして次世代の覇権を狙おうと目を光らせる。

 炊屋姫大君の御代には、厩戸皇子が最も次期大君に近いと目されていた。そのために上宮太子かみつみやのたいしと呼ばれていた。本来は大兄おおえという称号が使われるが、大陸の国、隋に理想を求めた厩戸皇子は、あえて太子と呼ばせたと聞く。その太子を取り巻く人々は、密かに大君の崩御を待っていた。

 しかし、事は思うように運ばない。炊屋姫大君はいささか長生きをし、上宮太子は思いの外、早くに亡くなった。それを追うように馬子大臣うまこのおおおみも亡くなった。こうして双方が代替わりをする。上宮は山背王やましろのみこが当主となり、蘇我の本宗家では蝦夷えみしが大臣の位を継ぐ。反りの合わない二代目同士は、甥と伯父に当たる。

 それでも馬子大臣の頃は、蘇我氏も上宮太子に一目置いて敬う姿勢を見せていた。ところが蝦夷大臣は、最初から山背王を好いていない。その息子の入鹿いるかは、父親以上に上宮王家を斜めに見る。これが大方の人々が下す評価だった。

 炊屋姫大君は後継者を指名せずに崩御した。そして皇嗣争いが再燃する。蘇我大臣蝦夷にとって、山背王は妹の子、肩入れして然るべき皇子だ。ところが大臣が推したのは田村王たむらのみこだった。

 田村王は訳語田大君おさだのおおきみの孫、山背王は橘大君たちばなのおおきみの孫で、いずれも三十代半ば。どちらが即位してもおかしくはない。こうして二人の皇子を巡り、戦闘にまで及ぶ対立が起こる。殊に蘇我氏は一族を二分して、それぞれの皇子を支持する。結局は蝦夷大臣が反対派を圧して、田村王の即位を果たした。こうして、上宮王家と蘇我氏の離反は決定的になった。


 昔を語る言葉によれば、晩年の厩戸皇子は斑鳩に籠り、理想論や宗教理念を説いていた。それに対しておみむらじらは、机上の理論だけで付き合っていた。山背王はそのような父親の元、実務経験の浅いままでまつりごとに関わっていた。この皇子が上宮王家を背負い、父親同様に理想論を説いたところで、為政者らにしてみれば高尚な世迷い事に聞こえた。

 豪族らは反目を強める。田村大君たむらのおおきみはいずれの派閥も煽るまいと、常に心を砕く。山背王を大兄おおえとし、対外交渉も積極的に行い、文化面にも重きを置く政策を進める。

 しかし、十三年の在位の期間、あまりに災害が多かった。東国では蝦夷の反乱もあった。そしてまた、明確に皇嗣を示さずに崩御した。

 この年、大君と大后の子である葛城皇子かづらきのみこは十六歳、蝦夷大臣の妹との子の古人皇子ふるひとのみこは二十一歳だった。いずれも若すぎる、大兄は山背王なのだからと、再び火種となる名が上がる。この声は蘇我氏の内でも聞こえた。

 再び一族の分断を恐れた大臣は、先の例に倣うべきだと言う。皇子たちが政界で円熟する時まで、宝大后たからのおおきさきが高御座に即いて頂きたい。これが上宮王家の台頭を願わない者らには、最良の策となった。

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

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