今でも入日を思い出す
吉田なた
第1話 大和国 宝大君二(643)年十一月 斑鳩上宮の事
空は赤いが日は既に暮れ切っている。上がる炎は宮を焼き、空までもを赤く照らす。この日、
先鋒に立つのは
歩兵らの後ろで騎馬の指令らは、手綱に手をかけたままで炎を遠めに見る。私たち
駆け出しの士官の私は、身軽な皮の
背後から馬の足音が近付く。振り向いて相手を確かめる。黒い冑に着けた山鳥の尾羽で
「
「私の言うた通りとは」前を見たまま軽皇子は問い返す。
少し高い声が、心なし震えて聞こえる。興奮しているとも怖じているともとれる。
「私たちの出番などないと言われた事です」
「そうであろう。
「まあ、この奇襲の意味を理解しているのも、蘇我大臣とその周辺だけでしょうな」
理解していない故に嫌味の一つも言いたくなる。
伯父は無言のまま横眼使いに私を見る。この人は武官ではない。大君の同母弟なので、皇族代表として行動に加わった。私同様、飾りの将として馬上で高みの見物をする。斑鳩上宮の包囲に、目に見える権力と豪華さを大君や
「無残なものだ。炎に意思はあるのか」伯父が独り言のようにつぶやく。
「有りますまい」私は乾いた答えを返す。
意味のない問いかけだ。
「そうだな。今、何を灰にしようとしているのか、炎には全く構わぬ事だ」
面白くもない感傷だ。笑おうとしたが、溜息にもならない息が漏れた。私もどこかで怖気づいているのかもしれない。
兵士らも投降した者らも、立ち尽くして炎上する宮を見つめる。先程までの怒声も悲鳴も、とうの昔に止んでいる。冬の風が更に火を煽り、人々の顔に影を落とす。
皇嗣問題は先の
後を継いだのは異母弟の
こうして二人の兄弟に先立たれた
炊屋姫大君が左右の腕と頼んだのは、母方の叔父の
蘇我氏は馬子大臣の父親の頃より、急激に勢力を拡大した。皇家との婚姻により、大君の外戚となって他の豪族の上に出た。大君選出には蘇我氏の意思が大いに物を言う。実のところ、橘皇子も泊瀬部皇子も炊屋姫皇女も、蘇我氏の娘を母親とする。蘇我氏の後ろ盾の許に即位したと言っても過言でない。
炊屋姫大君の即位の年、厩戸皇子は十九歳だった。せめて五年早く生まれていれば、自らが即位する可能性もあった。炊屋姫大君は三十九歳、この叔母が亡くなった後の即位を視野に入れていただろう。大君も大臣も、厩戸皇子に期待をした事は間違いない。そろって自らの娘を妃に入れた。ところがこの二人にさえ、皇子はそうそう扱い易い相手ではなかったと見える。時が経つにつれ、皇子と大臣の離反は目立つようになっていった。
十三年目、皇子は都から斑鳩に本拠を移す。 蘇我氏が飛鳥に建てた大寺に競うように、斑鳩にも大きな寺を建立する。更に寺に接して宮を構え、上宮と呼ばせる。そしてこの地で、外政と宗教政策に重点を置いた活動を始める。
これら野心的な態度は、来るべき即位の日への布石だったのかもしれない。それを理解し、期待を持って近づいて来る者も多い。若い者はもちろん、大きな後ろ盾を持たない地方出身者や、異国より渡来した家の者も少なくなかった。
叔母の大君や老練な大臣は、事を荒立てまいと距離を置いて見ていた。だからこそ、大事は起きなかった。そのように言うのは現在の蘇我の家の者達なので、事実関係の詳細は分からない。ともあれ、飛鳥と斑鳩に分かれた状況は、この後も長く続いた。
この国には唐のように、皇帝と太子が別々の宮に住む習慣はない。それどころか唐や
炊屋姫大君の御代には、厩戸皇子が最も次期大君に近いと目されていた。そのために
しかし、事は思うように運ばない。炊屋姫大君はいささか長生きをし、上宮太子は思いの外、早くに亡くなった。それを追うように
それでも馬子大臣の頃は、蘇我氏も上宮太子に一目置いて敬う姿勢を見せていた。ところが蝦夷大臣は、最初から山背王を好いていない。その息子の
炊屋姫大君は後継者を指名せずに崩御した。そして皇嗣争いが再燃する。蘇我大臣蝦夷にとって、山背王は妹の子、肩入れして然るべき皇子だ。ところが大臣が推したのは
田村王は
昔を語る言葉によれば、晩年の厩戸皇子は斑鳩に籠り、理想論や宗教理念を説いていた。それに対して
豪族らは反目を強める。
しかし、十三年の在位の期間、あまりに災害が多かった。東国では蝦夷の反乱もあった。そしてまた、明確に皇嗣を示さずに崩御した。
この年、大君と大后の子である
再び一族の分断を恐れた大臣は、先の例に倣うべきだと言う。皇子たちが政界で円熟する時まで、
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