第10話 摂津国難波 四天王寺にて

 百済くだら新羅しんらから公式の使節が来たのは三年前、先の大君おおきみへの弔問使が最後だった。それ以来、倭国も使節派遣はしていない。殊に百済には、父や叔母、高官ら亡命の事がある。互いに腫れ物に触るような事をしたくない。

 新羅は元々、倭国には素っ気ない。筑紫つくしより聞こえる近況では、百済からも高句麗こうくりからも国境を脅かされ、対外交渉の余裕もないらしい。

 この三月末、大宰府から知らせが来た。高句麗からの使節が筑紫のに着いた。こちらも三年ぶりになる。

 前回の訪問に際し、使節が告げたのは国王の交代だった。三年前の先の年と言うから今から四年前、王の弟が薨去したと使節は言った。これに続き国王も崩御して新たな王が立った。若い王の後見は将軍が務めている。その将軍の名に覚えがない。疑問の残るまま、弔意と国政の要点だけを告げて使節は帰国した。 

 周辺の国との国交が途絶えているので、詳しい事は分からない。いくつかの情報を照らし合わせて見えて来たのは、高句麗国内の政権争いの状況だった。

 唐との戦いにより台頭して来た将軍は、和睦を目指す国王と対立していた。双方の仲裁をしていたのが王弟だった。王弟の薨去で、国王派の大臣らは将軍と軍事貴族らの誅殺を図る。それを知った将軍は酒宴を開き、百人に及ぶ政界の要人を招く。一網打尽、返り討ちにした。そして王宮に攻め入り国王を殺害し、王弟の子を新王に擁立した。聞くからに、周到に計画された行動だ。

 この度の使節には、国王交代に関する多少の情報を得て対面する事となる。


 四月、高句麗の使節は難波津なにわづに入る。難波の館堂むろつみは二年前に火災に遭い、昨年に再建されている。初めての使節として高句麗使を迎える。

 摂津国司、蘇我大臣そがのおおおみ家、倉山田石川くらやまだのいしかわ家をはじめ、摂津や和泉に屋敷を持つ豪族の代表が挨拶に来る。高句麗使は百済王の兄王子や元宰相が倭国にいる事を当然承知している。しかし、公式の対面は父としてもはばかりたい。私を難波に呼び、代理として豪族の列に並べと命じる。

 高句麗の大使は、あえて国情を告げようとしない。父や元宰相らが独自の人脈で知った高句麗の内情は、決して楽観視できない。

 この度の国王交代に、唐は表向きには冊封さくほう(皇帝が王を臣下として認め、爵位を授ける事)を行った。しかし、和平を探った先王を殺した将軍の意図は、更なる対抗だろう。新王は傀儡くぐつとして表に立ち、将軍は裏で実質の権力を握る。どこの国でも覚えのある構図だ。

 更には新羅王も唐に対し、高句麗の度重なる国境侵害を訴える。この状況を危機と捉えるか、むしろ好機ととらえるか。唐の皇帝は先代、それどころか先王朝のずいから引き続く、高句麗への派兵を再開する兆しすらうかがえる。これが父が知りえた現状だ。


 私は今、父に従い難波の四天王寺にいる。この大寺は、小郡宮おごおりのみや鴻臚こうろ館堂むろつみと並ぶ、難波津を臨む大きな施設だ。

 寺の管主への挨拶も済み、再び金堂の本尊に参拝するため伽藍がらんに入る。案内の僧侶が急用で庫裏くりに呼ばれたため、二人だけ先に金堂へと向かう。これまで何度も訪れている父にとっては、勝手知ったる境内だ。

「高句麗の状況が倭国と似ている。いましはそう言いたい訳なのだな」眉を潜めながらも、父はどこか暢気のんきな調子で言う。

 相変わらず百済語で話しているが、幸いにして金堂の周辺には誰もいない。この大寺の僧侶ならば、唐や百済の言葉に通じる者も多いだろう。

「しかし、蘇我大臣は蓋蘇文がいそぶんのような実力行使はしないだろう。人を動かすにせよ、除くにせよ、もう少し穏便に運ぶのではないのか」

 高句麗国王を殺害した将軍の名前は、えん蓋蘇文がいそぶんという。傀儡の王を擁立した後は、宰相らも配下の者から選び、事実上の最高権力者の地位にいる。

「先の斑鳩いかるがへの派兵は、決して穏便とは言えますまい」

「派兵は大君が御許しになった。汝もそれは承知していよう」

「しかし、親衛軍の派兵を許した訳ではありませぬ。軽皇子も私も、ただ、様子を見て置けとの命令で、小隊を率いて出向いたに過ぎませぬ」

「そうだな。汝らは大君の命令に従った。蘇我の私兵らには命令は下っておらぬ。しかし、大君は蘇我を罰してもおられぬ」どうでも良さそうな口調で父は言う。

 初夏四月の日差しは強い。父は辟易とした表情で、塔の水煙を見上げる。私は相変わらず無知な子供として、父の目に映る。ようやく成人し、体ばかりが大きくなった。表面だけを見て、物事を捉えようとする世間知らず。生半可な知恵で、口先だけの言葉を吐こうとする浅はか者。そのように思われている、自覚は有るつもりだ。

 もう二年もしたなら、同母弟のぜんが十五歳になる。私など放って置いて、素直で勉学好きな自慢の息子を連れて歩くようになるだろう。

「蘇我氏も諸臣まえつぎみも、それこそ廟堂の総意で上宮かみつみやの排斥を考えた。大君にも、それを否定する意は無かったのでしょう」私は売り言葉の様に、なおも言う。

「そうなのかも知れぬ。だが蘇我氏に、蓋蘇文ほどの統率力はあるまい。先頭に立って手を下した蘇我大臣らを、諸臣はどのような目で見る。大君はどのように思われている。すぐ近くで見ている汝には分かるであろう」

「好意的に見ていないのは確かです。そして大臣らは焦っている。蘇我と血縁のある皇子みこ古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこだけになった。古人皇子擁立のためにも、次の手を打って来るに違いない。そう穿って見られているのでしょう」

「大君は自らの皇子に位を継いでもらいたい。だが、葛城皇子かづらきのみこにしても大海人皇子おおしあまのみこにしても年若い。古人皇子にしても同様だ。大君とて、まだまだ御健勝だ。今日明日にどうなるという訳でもない」

「それは、時を置けば、葛城らが狙われる可能性がある。そういう意味にも取れましょう」

「汝にしても葛城皇子にしても、かなり物騒な懸念を抱いているようだな。少なくとも蘇我大臣は、これ以上の流血を伴う交代劇を望んではおられぬ」

「確信のありそうな口ぶりですね」つい、皮肉げな口調になる。

 もはや水掛け論だ。いい加減にして欲しいと、父は思っているだろう。早く案内の僧侶か寺男が来て、金堂の扉を開けてくれないものか。

「大臣は大君に、暗黙ながら譲位を示唆している」

「譲位……大君はいずれかの皇子に御位を譲るおつもりなのですか」

「希望しているのは大臣だ。そのような例が他国にあるのかと、先般、訊ねて来た」

 まつりごとには直接に関わらない父のような識者は、非日常の案件が持ち上がった時、たびたび意見を求められる。批判する声もある。その者は父が百済に帰る可能性を懸念する。倭国内での微妙な情報を安易に知らせるべきではない、そう意見する。

「唐では生前退位も譲位も例がある。しかし、我が国……百済でも倭国でも先例はないはずです」

「ゆえに、最初の例になろうとしている」

「譲位を臨むのは大臣なのでしょう。果たして大君が同意するものか」

「譲位の相手次第だろう」

「大臣の希望は古人皇子、大君は自らの皇子、葛城皇子を推すでしょうね。どちらにせよ、今日、明日に行われるとは思いませぬが」

 先の田村大君たむらのおおきみも、葛城皇子が皇位を継承する事を望んでいた。宝大后たからのおおきさきが即位を決めたのも、夫君の遺志を受けての事だ。大臣や諸臣に望まれただけでは、あの女傑は動かなかっただろう。

「葛城皇子では若過ぎる。もう数年、十年は待ちたいところだ」

「その間に大臣が横車を押す形で古人皇子を位に即けてしまえば、葛城の立場はかなり苦しくなるでしょう」

「蘇我に対立する者らは、古人皇子への譲位を阻もうとする。汝が葛城皇子の擁立を望むなら、嫌でも蘇我大臣らから敵対勢力の一角に見なされよう」

「父上の御懸念はそれですか。私の姿勢が、父上の立場を危うくすると」

「汝には私が、蘇我大臣に依存しているように見えるのか。私とて趨勢を見る目くらいはあるつもりだ。孤立しつつある者に寄りかかって居られる程、能天気ではないつもりだがな。大臣も鞍作臣も、上宮王家と同じ方向に向かっている。その事に気付かないのか。いや、気付いていても認めようとせぬ」

「蘇我が葛城皇子に目を向ける可能性はありませぬか、父上から見て」

「難しかろう。葛城皇子では大臣らに利はない。鞍作臣くらつくりのおみと葛城皇子では、更にうまく行くまい。鞍作には考え深い相手は必要ない。考えて事を図るのは自らの仕事ゆえ、担がれる者の口出しは無用。古人皇子の様に、人に流されるのも潔しと割り切る相手の方が扱いやすかろう」

 ふと、父の言葉が途切れる。向けられた視線を追えば、数人の僧侶と寺男の姿がある。玉砂利を踏む音が聞こえた辺りで、寺男が手にした鍵束をこちらに示す。一人の若い僧侶が、少し引き留めるように声をかける。少し控えていろと言いたいようだ。この難波の大寺でも、百済のぎょう王子は賓客として持て成される。

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