第25話 三輪から多武峰へ

 川原宮かわはらのみやから筋交道すじかいみちを通って三輪に帰る。屋敷に着く頃には、夜寒で彼方此方あちこちに霜が降り始めている。この分では、明け方に氷が張るだろう。そう思いながら床に着く。

 しかし、眠れない。寒さのせいではない。明らかに気が高ぶっている。何度も寝返りを打つ。一向に訪れない眠気に嫌気がさし、思い切って起き上がる。寒い中、大急ぎで身支度をする。庭に出て振り仰げば、西の山並みに天狼星てんろうせいが沈もうとしている。夜明けまでには、かなりの時間があるだろう。覚悟を決めてうまやに向かう。

 父ならばかげを遣う事が出来る。しかし、部屋住み扱いの私は、影を呼ぶ方法すら教わっていない。案外、父も吉野や王宮内での動きを知って、影を放っているかもしれない。河内の家に連絡を取るのも一案だが、それで安心して眠れる訳でもない。

 厩の戸を開けると、気配を感じた馬が微かにいななく。小声で呼びかけると、私だと分かったようで立ち上がる。厩の内は外よりも暗い。くらを置くにしても、外に連れ出した方が良かろう。

「何をしている」唐突な背後からの声にすくみ上る。

 目の端に明かりが見え、一呼吸ついで振り向く。

檳榔あじまさか、脅かすな」

 相手を確かめ、大きく息を吐く。

「驚いたのは私の方ですよ。何をしておいでです、王子せしむ

 資人とねり狭井檳榔さいのあじまさは、左手の手燭てしょくを突きつける。よく見れば、頭上に振りかざしたままの右手には、薪割のなたを握っている。

「良い所に来た。これより出かけようと思う。供をせぬか」

「いくら何でも、出仕には早すぎますよ」まさに迷惑そうな答えが返る。

 今宵の厩番うまやばんはこの男か、内心で安心する。檳榔にしてみれば迷惑至極だろう。

 同い年という事もあり、私はこの男を子供の頃から、気の置けない存在に思っている。屋敷の者は大抵、多少とも百済語に通じている。百済系の祖母のいる檳榔は殊に堪能で、冗談や皮肉まで良く解してくれる。おかげで尚更、気軽な仲間意識が生まれる。

「そうと決まれば、いましも馬を用意しろ」私は平然と顎で促す。

「何が決まったのです、まったく」

「吉野に行くぞ」

「何を酔狂な、この寒い晩に」殆ど驚きもせずに文句を言う。

 それでもこの男が命令を拒否する事は滅多にない。


 飛鳥から吉野へは、稲渕いなぶちから芋峠いもとうげを抜ける道が早い。しかし三輪からは、多武峰とうのみねを超えるのが近道で馴染みもある。確固とした目的があるのではないが、行き慣れた道を取る。冬場とは言え、山犬などに遭遇する危険もある。松明たいまつの予備も持って屋敷を出る。民家が一旦途切れた辺りで火をつけ、少しばかり嫌がる馬をなだめる。全く乗り気でない檳榔あじまさは、私の後ろに馬を連ねる。だが、海石榴市つばいちを過ぎた辺りで開き直ったか、私にくつわを並べて来る。

「吉野に何があるのです。昨日、武装した一団が飛鳥に向かうのを見たと、家の者が話しておりました。その一団は吉野へ向かったのでしょう」檳榔の声は依然として不機嫌だ。

 家の者が見たのならば、阿倍氏の私兵だろう。筋交道すじかいみち嶋庄しまのしょうへと抜け、飛鳥に集結してから吉野に向かったはずだ。

「明るくなる前に倉橋くらはしを抜けたい。阿倍の家の者に見られたくない故に」質問を無視して言う。

 三輪の南一帯は、まさに阿倍氏の本拠だ。悠長にして見つかる訳には行かない。人里を行く整備された道ならば、それ程の危険もなかろうと松明の火を消す。月のない夜明け前は一層暗い。互いの表情も見えない。しかし、夜目の利く馬は本能に従ってか、何度も通った道を危なげなく行く。

「やはり、吉野に向かった一団に用事があるのですね」

「そういう訳ではない」私は曖昧に答える。

 檳榔の反応は分からない。言うまでもないが、阿倍の私兵になど用事はない。

 多武峰に向かって道の登りがきつくなる頃、夜は白み始める。既に三輪の屋敷では、私と檳榔がいない事に気付いているだろう。二人して夜這いに行ったなどとは、間違っても思ってくれまい。兵士を見たという昨日の今日で、いささかな騒ぎになっているかもしれない。それでも家司いえつかさの機転で、あるじは急病で出仕を休むと、資人とねりを飛鳥に遣わせてくれているだろう。


 日差しに温かさが加わり、道端の霜も解け始めた頃に峠を過ぎる。少しばかり休憩だと、ようやく馬を休ませる。手近な木の枝に馬を繋ぐと、檳榔は水を汲みに行くと、谷筋に降りて行く。私も道の下の物陰で小用を済ませる。そして道に戻りかけた時、慌て気味に駆け上がって来る檳榔に遭遇する。

王子セシム、兵士が来ます」どこか間の抜けた百済語で早口に言う。

「阿倍の私兵か」思わず聞き返す。

「何故、阿倍なのですか」途端に口調と顔色が胡散臭げになる。

「何故かと、阿倍の家が一番、近かろうから」我ながら説得力のない答えだ。

「とにかく、あの者らに見られてはまずいのでしょう」

 怪訝な顔のまま、隠れろと近くの藪を顎で示す。妙な所に勘が鋭い。


「何と言っていた、あの者らは」

 二人の衛士えじが峠に向かうのを見届け、私はようやく枯れ藪から這い出す。阿倍氏の私兵ではなかったものの、衛士ならば尚更、私の顔を知っていそうで厄介だ。

 衛士らに誰何すいかを受けた檳榔は、三輪から来た者だと答えた。馬鹿正直なと思ったが、この先に住まいする兄が急病と聞いて、訊ねて行く途中だと出まかせを言う。そして連れは、腹を壊して川辺に用を足しに行った祖父だと言う。どうやら私の事らしい。その後の会話は小声になったため、あまり聞き取れていない。

「子供を連れた女を見なかったかと。もしかしたら、若い男も一緒かも知れないとも。子供を連れた若夫婦かと聞いたのですが、違うの何のと、曖昧な事を言っておりましたよ」

「他には」あちこちに着いた枯れ草を払いながら聞く。

「特には」檳榔は答えながら、私の頭から枯葉を払い落す。

「吉野から登って来たのだろうな、あの者らは」

「吉野には古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ様が居られる。大兄皇子様に何かあったのですか、兵士が向けられるとは」

「ああ、そういう事だ」

 隠し立てなどしても、じきに知れる事だ。

「では、兵士らが捜すのは、大兄皇子様の縁者……御妃や御子ですか」

 兵力動員の目的は公にされていない。しかし、吉野に向かったと聞けば、多少とも趨勢を知る者は古人大兄皇子に結び付けて当然だ。

「妃や子供が逃れたとなれば、皇子本人は」私は言いかけて口を閉じる。

 檳榔も神妙な顔で頷く。言いたい事は分かったようだ。

「古人の妃は蘇我本宗家の媛御ひめごだ。頼るべき相手がいるのか」

「御妃とは限りませぬ、乳母めのと采女うねめかも知れませぬ」

「乳母か。いずれにせよ素性は知らぬな。それに子供は皇子みこなのか、皇女ひめみこなのか」

「ともあれ、我々も探しましょう。そのために来たのでしょう、王子セシム

 そうだとは即答できない。確固たる目的もないまま、気が急くという理由だけで来たようなものだ。

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