第25話 三輪から多武峰へ
しかし、眠れない。寒さのせいではない。明らかに気が高ぶっている。何度も寝返りを打つ。一向に訪れない眠気に嫌気がさし、思い切って起き上がる。寒い中、大急ぎで身支度をする。庭に出て振り仰げば、西の山並みに
父ならば
厩の戸を開けると、気配を感じた馬が微かに
「何をしている」唐突な背後からの声にすくみ上る。
目の端に明かりが見え、一呼吸ついで振り向く。
「
相手を確かめ、大きく息を吐く。
「驚いたのは私の方ですよ。何をしておいでです、
「良い所に来た。これより出かけようと思う。供をせぬか」
「いくら何でも、出仕には早すぎますよ」まさに迷惑そうな答えが返る。
今宵の
同い年という事もあり、私はこの男を子供の頃から、気の置けない存在に思っている。屋敷の者は大抵、多少とも百済語に通じている。百済系の祖母のいる檳榔は殊に堪能で、冗談や皮肉まで良く解してくれる。おかげで尚更、気軽な仲間意識が生まれる。
「そうと決まれば、
「何が決まったのです、まったく」
「吉野に行くぞ」
「何を酔狂な、この寒い晩に」殆ど驚きもせずに文句を言う。
それでもこの男が命令を拒否する事は滅多にない。
飛鳥から吉野へは、
「吉野に何があるのです。昨日、武装した一団が飛鳥に向かうのを見たと、家の者が話しておりました。その一団は吉野へ向かったのでしょう」檳榔の声は依然として不機嫌だ。
家の者が見たのならば、阿倍氏の私兵だろう。
「明るくなる前に
三輪の南一帯は、まさに阿倍氏の本拠だ。悠長にして見つかる訳には行かない。人里を行く整備された道ならば、それ程の危険もなかろうと松明の火を消す。月のない夜明け前は一層暗い。互いの表情も見えない。しかし、夜目の利く馬は本能に従ってか、何度も通った道を危なげなく行く。
「やはり、吉野に向かった一団に用事があるのですね」
「そういう訳ではない」私は曖昧に答える。
檳榔の反応は分からない。言うまでもないが、阿倍の私兵になど用事はない。
多武峰に向かって道の登りがきつくなる頃、夜は白み始める。既に三輪の屋敷では、私と檳榔がいない事に気付いているだろう。二人して夜這いに行ったなどとは、間違っても思ってくれまい。兵士を見たという昨日の今日で、いささかな騒ぎになっているかもしれない。それでも
日差しに温かさが加わり、道端の霜も解け始めた頃に峠を過ぎる。少しばかり休憩だと、ようやく馬を休ませる。手近な木の枝に馬を繋ぐと、檳榔は水を汲みに行くと、谷筋に降りて行く。私も道の下の物陰で小用を済ませる。そして道に戻りかけた時、慌て気味に駆け上がって来る檳榔に遭遇する。
「
「阿倍の私兵か」思わず聞き返す。
「何故、阿倍なのですか」途端に口調と顔色が胡散臭げになる。
「何故かと、阿倍の家が一番、近かろうから」我ながら説得力のない答えだ。
「とにかく、あの者らに見られてはまずいのでしょう」
怪訝な顔のまま、隠れろと近くの藪を顎で示す。妙な所に勘が鋭い。
「何と言っていた、あの者らは」
二人の
衛士らに
「子供を連れた女を見なかったかと。もしかしたら、若い男も一緒かも知れないとも。子供を連れた若夫婦かと聞いたのですが、違うの何のと、曖昧な事を言っておりましたよ」
「他には」あちこちに着いた枯れ草を払いながら聞く。
「特には」檳榔は答えながら、私の頭から枯葉を払い落す。
「吉野から登って来たのだろうな、あの者らは」
「吉野には
「ああ、そういう事だ」
隠し立てなどしても、じきに知れる事だ。
「では、兵士らが捜すのは、大兄皇子様の縁者……御妃や御子ですか」
兵力動員の目的は公にされていない。しかし、吉野に向かったと聞けば、多少とも趨勢を知る者は古人大兄皇子に結び付けて当然だ。
「妃や子供が逃れたとなれば、皇子本人は」私は言いかけて口を閉じる。
檳榔も神妙な顔で頷く。言いたい事は分かったようだ。
「古人の妃は蘇我本宗家の
「御妃とは限りませぬ、
「乳母か。いずれにせよ素性は知らぬな。それに子供は
「ともあれ、我々も探しましょう。そのために来たのでしょう、
そうだとは即答できない。確固たる目的もないまま、気が急くという理由だけで来たようなものだ。
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