第15話 六月十二日 飛鳥板蓋宮 控えの間にて
夜はいつ開けたのか、空は暗い。風は殆ど無く、空気は湿って重い。暑さはそれ程でもないが、どこか息苦しさを感じる。
王宮に到着しても、空は暗いままだ。低く垂れこめる雲からは、いつ雨が落ちて来ても不思議ではない。暗鬱とした天気が、嫌でも気分を重くしてくれる。
奏上の儀式が始まるまでには、かなりの時間がある。重臣らの控えの間に行けば、開け放されたままの入口から、
「今日に限って私が出て行くのは、かえって不自然だと怪しまれよう」背を向けて腕を組む葛城の声が聞こえる。
「御前におられたにしても、皇子様は見届けるのが御役目です。既に何人かの若い者に命じております。その者らが手を下す手筈です」喉にかかる枯れた声は高向臣か。
「
「
「俺と
葛城の両肩が小さく跳ねると、やや訝しげな顔が向く。連れの二人も、間が悪そうにこちらを見る。本当に三人とも、私に気付いていなかったのか。
「やっと現れたか、
「高御座に向かって左に蘇我
「然様にございます」
「まさか、
確かに上表の二人に一番近いのは網田と私だ。そう思われても仕方がない。
「
手練れなどではない、不慣れな若い者ばかりだ。
「御身が大君の傍に侍らずとも、俺が見届ける」
だが、正直に言えば私も逃げ出したい。
「分かった。御前で成り行きが分からぬのは、古人や女たちばかりか。邪魔はまず入るまいな」
「しかし、問題は天気ですな」窓の外を振り仰いで高向臣が呟く。
空の雲は重く黒い。もしも儀式の始まる前に振り出せば、上表は
「始まりさえすれば、途中で切り上げる訳にも行かぬ。天気がもつ事を願うしかあるまい」葛城も窓の外を見上げる。
選ばれた若い者は、むしろ降りだす事を祈っているかもしれない。
「
傍らにも前にも誰もいない。おもむろに首を巡らせて背後を見れば、入り口近くに控える衛士が私に向く。窓の外に気を取られる三人に悟られないよう、何気ない振りで何歩か入口に近寄る。
「大伴と阿倍に注意をしろと、
どういう意味かと問いたいが、私が声を出せば葛城たちが気付く。
「軽皇子様と大伴連が、頻繁に接触している様子が見られます。具体的な目的は不明ですが、葛城皇子様は
分かったという代わりに、微かにうなずく。そして衛士はあらぬ方に顔を向け、部屋の入口から音もなく離れる。
「何をしている、豊」葛城が私に声をかけた時には、衛士の姿はない。
「入口が開いておる故、不用心だと見に来ただけだ」
外に立つ衛士が先程の者でない事を確かめ、私は戸を閉める。
百済の王には
「佐伯子麻呂らは
「三人とも、ここには来ておらぬ。気を落ち着けるのに躍起になって居ような。直前に実行役を命じられたのでは」私は然も他人事のように言う。
他人事と思わなければ、こちらもやり切れない。同じ親衛にも関わらず、私だけが役割を与えられていない。今朝がた子麻呂らは高向臣より、蘇我
入口の向こうで入室を求める声がする。入れと葛城が命じると一人の衛士が現れる。先程の者ではない。そして葛城は、大君に呼ばれたと出て行く。閉められた扉の向こうで、衛士に紛れた影は、私たちの様子を窺っているのだろうか。
大伴と阿倍に注意しろと
諸臣の列より前に、
気を取られているところに、突然、肩を叩かれ飛び上がりかける。
「私も御身と共に、見届ける役に選ばれた」
振り向いた先で、葛城皇子が口元にひきつった笑いを浮かべる。この男でも怖気に駆られていると見える。
「もしかして、古人と並ぶのか」
「まあ、そういう事だな。母上の横車のようなものか」
葛城にもいずれ大兄皇子を名乗らせると、大君の声なき宣言の一環だろう。
大殿の
「せっかく、こういう獲物まで用意したのだが。まあ、特等席をもらった。良しとしようか」
どこから持ってきたのか、衛士の持つような歩兵用の長槍を無造作にかざす。そして、脇にいた稚犬養網田に押し付ける。
「たまには皇子らしゅう、古人と並べとの御命令だ。古人が出たなら私も出る。御身らも速やかに護衛の位置に着け」
右の幕舎を顎で示し、網田と私の肩を叩く。網田は長槍を握りしめたまま、殆ど無表情で頷く。私が槍に手をかけると、持っていた事を思い出したか手の力を抜く。そのまま槍を取り上げ、その辺りの地面に横たえる。幕舎の内には、これから起こる事を承知している者しかいない。葛城は私たちを見回し、再び確認するように頷きかける。
今でも入日を思い出す 吉田なた @shima_nata_tamu
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