第15話 六月十二日 飛鳥板蓋宮 控えの間にて

 夜はいつ開けたのか、空は暗い。風は殆ど無く、空気は湿って重い。暑さはそれ程でもないが、どこか息苦しさを感じる。

 王宮に到着しても、空は暗いままだ。低く垂れこめる雲からは、いつ雨が落ちて来ても不思議ではない。暗鬱とした天気が、嫌でも気分を重くしてくれる。

 奏上の儀式が始まるまでには、かなりの時間がある。重臣らの控えの間に行けば、開け放されたままの入口から、高向臣たかむくのおみ大伴連おおとものむらじと話し込む葛城皇子かづらきのみこの姿が見える。三人とも私が入って来た事に気付かない。部屋の入口を見張る衛士は、ただ頭を上げるだけで報告もしない。ここにいる者らは、誰もが一蓮托生、緊張も極まりないという事なのか。それにしても無防備過ぎないか。

「今日に限って私が出て行くのは、かえって不自然だと怪しまれよう」背を向けて腕を組む葛城の声が聞こえる。

「御前におられたにしても、皇子様は見届けるのが御役目です。既に何人かの若い者に命じております。その者らが手を下す手筈です」喉にかかる枯れた声は高向臣か。

入鹿臣いるかのおみが最も手薄になるのは、倉山田臣くらやまだのおみと並んで親書の上表をする間です。ここで倉山田臣に気を逸らしてもらう。そして命じられた者が動く。この機会を逃しては、諸臣まえつぎみの列に戻ってしまい、親衛らも迅速に動けませぬ」軽い手ぶりを交えて説明するのは大伴連だ。

高御座たかみくらの直前に控える親衛は誰だ」葛城が聞く。

「俺と海犬養連あまのいぬかいのむらじ勝麻呂かつまろだ」私は背後から声をかける。

 葛城の両肩が小さく跳ねると、やや訝しげな顔が向く。連れの二人も、間が悪そうにこちらを見る。本当に三人とも、私に気付いていなかったのか。

「やっと現れたか、ほう

「高御座に向かって左に蘇我鞍作臣くらつくりのおみ、右に倉山田石川臣いしかわのおみ。親衛は左が俺と稚犬養網田わかいぬかいのあみた、右が海犬養勝麻呂あまのいぬかいのかつまろ佐伯子麻呂さえきのこまろだ。この手筈てはずで良いのだな」私は大伴連に聞く。

「然様にございます」慇懃いんぎんな答えが返る。

「まさか、御身おみがやると言うのか」葛城は二人の重臣と私を見回す。

 確かに上表の二人に一番近いのは網田と私だ。そう思われても仕方がない。

ほう王子様にそのような事はさせませぬ。故に三人の手練れを選んでおります」高向臣は相変わらずの声で応える。

 手練れなどではない、不慣れな若い者ばかりだ。

「御身が大君の傍に侍らずとも、俺が見届ける」

 だが、正直に言えば私も逃げ出したい。

「分かった。御前で成り行きが分からぬのは、古人や女たちばかりか。邪魔はまず入るまいな」

「しかし、問題は天気ですな」窓の外を振り仰いで高向臣が呟く。

 空の雲は重く黒い。もしも儀式の始まる前に振り出せば、上表は大殿みあらかの内で行われる。親衛武官は、采女うねめ女孺めのわらわの後ろに下がり、大刀たちなど抜ける状況ではない。

「始まりさえすれば、途中で切り上げる訳にも行かぬ。天気がもつ事を願うしかあるまい」葛城も窓の外を見上げる。

 選ばれた若い者は、むしろ降りだす事を祈っているかもしれない。

御前おんまえに、王子せしむ」すぐ耳元に、潜めた低い声が呼ぶ。

 傍らにも前にも誰もいない。おもむろに首を巡らせて背後を見れば、入り口近くに控える衛士が私に向く。窓の外に気を取られる三人に悟られないよう、何気ない振りで何歩か入口に近寄る。

「大伴と阿倍に注意をしろと、糺解くげよりの伝言です」百済語の囁きが耳元に届く。

 どういう意味かと問いたいが、私が声を出せば葛城たちが気付く。

「軽皇子様と大伴連が、頻繁に接触している様子が見られます。具体的な目的は不明ですが、葛城皇子様はあずかり知らぬ可能性が強いようです」

 分かったという代わりに、微かにうなずく。そして衛士はあらぬ方に顔を向け、部屋の入口から音もなく離れる。

「何をしている、豊」葛城が私に声をかけた時には、衛士の姿はない。

「入口が開いておる故、不用心だと見に来ただけだ」

 外に立つ衛士が先程の者でない事を確かめ、私は戸を閉める。

 百済の王にはかげが従う。先程の衛士はぎょう王子の使う影だ。影と呼ぶ輩は父にとっては当たり前の存在で、私や弟も子供の頃から疑問に思う者ですらない。むしろ、大和の皇家にそのような者がいない事が疑問だ。

「佐伯子麻呂らは如何いかがしている。御身と一緒ではないのか」

「三人とも、ここには来ておらぬ。気を落ち着けるのに躍起になって居ような。直前に実行役を命じられたのでは」私は然も他人事のように言う。

 他人事と思わなければ、こちらもやり切れない。同じ親衛にも関わらず、私だけが役割を与えられていない。今朝がた子麻呂らは高向臣より、蘇我大郎たいろう鞍作臣くらつくりのおみ入鹿いるかの誅殺を命じられた。漠然とした予感はあったにしても、本当に命令として下るとなれば、覚悟を決めるにも程がある。人に向けて刃を振るった事はない。更には、暗殺を命じられた相手に、殺意を抱いた事すらない。

 入口の向こうで入室を求める声がする。入れと葛城が命じると一人の衛士が現れる。先程の者ではない。そして葛城は、大君に呼ばれたと出て行く。閉められた扉の向こうで、衛士に紛れた影は、私たちの様子を窺っているのだろうか。


 大伴と阿倍に注意しろと糺解くげが言う。軽皇子の動向にも不審な点がある。影の伝言だ。軽皇子が阿倍や倉山田と接する事は不思議ではない。いずれも妃の実家だ。大伴も妃を勧めているのか。いや、いくら父でも、そのように能天気な事を、この時期にわざわざ忠告する訳がない。

 大殿みあらかの前の朝廷では、儀式の用意に舎人とねりたちが動く。参内した諸臣まえつぎみの姿も増えつつある。私は殿とのの左側に張られた幕舎から様子を見る。幸いにして、雨の降りだす気配はまだない。

 諸臣の列より前に、大兄皇子おおえのみこの列がある。いつもここには、古人大兄皇子が一人で立つ。諸臣の最前列には軽皇子、蘇我入鹿臣、蘇我倉山田石川臣、阿倍内麻呂臣が並ぶ。伯父御と阿倍臣は間近で見物か、内心で強引に笑う。大伴連はその後ろだ。阿倍、大伴、そして軽皇子、この三人で企む事があるのか。まさか、直前に計画の阻止をして大臣側に寝返るのか。

 気を取られているところに、突然、肩を叩かれ飛び上がりかける。

「私も御身と共に、見届ける役に選ばれた」

 振り向いた先で、葛城皇子が口元にひきつった笑いを浮かべる。この男でも怖気に駆られていると見える。

「もしかして、古人と並ぶのか」

「まあ、そういう事だな。母上の横車のようなものか」

 葛城にもいずれ大兄皇子を名乗らせると、大君の声なき宣言の一環だろう。

 大殿のひさし高御座たかみくらは置かれる。大君の周囲に侍るのは采女うねめ女孺めのわらわだけだ。御調みつきの並ぶ低い棚は、大君の出御の後に高御座の前に並べられる。そして私たち親衛武官は廂の下、きざはしを挟んで控える。

「せっかく、こういう獲物まで用意したのだが。まあ、特等席をもらった。良しとしようか」

 どこから持ってきたのか、衛士の持つような歩兵用の長槍を無造作にかざす。そして、脇にいた稚犬養網田に押し付ける。

「たまには皇子らしゅう、古人と並べとの御命令だ。古人が出たなら私も出る。御身らも速やかに護衛の位置に着け」

 右の幕舎を顎で示し、網田と私の肩を叩く。網田は長槍を握りしめたまま、殆ど無表情で頷く。私が槍に手をかけると、持っていた事を思い出したか手の力を抜く。そのまま槍を取り上げ、その辺りの地面に横たえる。幕舎の内には、これから起こる事を承知している者しかいない。葛城は私たちを見回し、再び確認するように頷きかける。

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今でも入日を思い出す 吉田なた @shima_nata_tamu

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