第4話 思い出、そして故国の事

 今でも入日いりひを思い出す。それは幼い頃に離れた故国の空か。しかし私には、はっきりとした故国での思い出はない。

 父も母も国の事を滅多に口にしない。周囲の大人たちの話をつなぎ合わせれば、私の祖父は百済くだらという国の王だった。父は祖父にとって惣領息子、太子だった。しかし、倭国やまとから来た私の母を正妃として迎えた事で、臣下らの物議をかもした。そして太子の地位を異母弟に譲った。更には大使として、母の国に派遣される事を申し出た。父にとって、これが故国との決別だった。新たな太子となった異母弟は、邪魔な兄を派閥ごと海の向こうに追いやった。私が五つの時だった。それが故国の入日を見た最後の時だろう。

 幼少時の思い出で、割合にはっきりしているのは、波と風に怯える狭い船室か。荒れる海の上で波飛沫なみしぶきを浴びる水夫かこらが、大声で叫び合い、慌ただしく行き交う。それが恐ろしく、船室に引き籠り、両親と幼い妹と身を寄せ合った。しかし別の記憶の水夫は陽気で親切だ。空は明るく青い。海は黒く見える程の深いみどりで、白い波は決して高くない。海鳥の飛ぶ数が増えた、陸が近いと誰かが言う。

 海の記憶はこの程度だ。後に得た知識によれば、百済の最南端の島を出て、倭国の対馬に向かい、更に先の筑紫という大きな島の港に着く。人々は訛りの強い倭国の言葉を話すが、百済語に堪能な者も多い。風を待って内海うちうみに入り東に向かう。島が多く、船の扱いに難儀する早瀬もあるが、良い港も各所にある。寄港して水や食料を得て、更に東を目指す。やがて難波なにわという静かな港が船を迎える。

 少し高くなだらかに伸びる大地の上に、奇妙な形の多重の塔が見える。これは後に訪れた難波津なにわづの記憶かもしれない。百済の都では川に日が沈んだ。難波では海に沈む。難波は私にとって印象深い土地だ。

 大使の屋敷は難波にある。少しの間、家族で難波で過ごした。私たちはここが気に入っていた。しかし、都にいる大后おおきさきが母を呼び戻したいと所望する。大后は母の姉だという。

 大道だいどうと呼ばれる道を馬と輿こしが進む。峠で振り返り、難波の方を見る。幾筋もの川が銀色にうねり北に向かって流れる。それが一つに集まり、大きくなった流れはさらに北上する。流れはやがて西に向きを変える。そして私たちの発った難波の入り江に注ぐ。難波と各地の往来は、これらの川を船で行く事が多い。

 峠を越えると、曲がりくねって下る道の先に、徐々に視界が開けて行く。そして大和やまと盆地に入る。四方を山に囲まれる大和の都、飛鳥あすかは難波に比べると窮屈で寒々しい。東に連なる山の上に日が昇るのは遅い。南にも山が迫って息苦しい。土地は北に向いて下がり、そちらにいくらかの視界が開ける。だが、西の山並みは遠い。空を染める入日も美しい。人々は山並みを葛城かづらきと呼び、古い神のいる地だと語る。

 こうして記憶の大半は、倭国に来てから蓄えられた。故国をほとんど知らない私に、ここが故郷となる。この後も一介の貴族、もしくは皇族の末端として暮らしてゆくと信じている。


 父は大使として倭国に来たが、言葉にはやはり不自由している。それでも積極的に、さまざまな人と交わり友好を結ぶ。すぐに倭国語を覚えた私は、程なく通詞つうじを務められるまでになる。子供の頃から父に付いて為政者らに接し、時には豪族館ごうぞくやかたに招かれた事もある。こうして私も、大和の人々に親しんで行く。

 しかし、母はそれが気に入らないようだった。難波にいた頃には、父母が子供の前で言い争うような事はなかった。大和に来てからは些細な喧嘩が増えた。自らの祖国を母は嫌っているのか。大和に来てから何年もしない内に妹が死んだ。それ以来、母は気鬱の病に塞ぐようになった。


 母が百済王室に嫁したのは、あの上宮太子かみつみやのたいしの国交政策によるものだと聞いている。倭国が百済を始めとする諸外国と婚姻関係を結んでいたのは、百年以上の昔だった。その廃れた関係を改めて起こし、国同士の締結を考えたのが、上宮太子こと厩戸皇子うまやどのみこだった。

 上宮太子は中原を統一したずいにまで使節を送り、返礼の使者の来朝も果たした。この成功で、外交関係に野心的になった。近しい関係の百済や高句麗こうくり新羅しんらに対し、使節往来以上の国交を求めた。果たして、この申し出を受けたのは百済だけだった。

 倭国では三世、四世程度の皇族から、異国に嫁す女王ひめみこが選ばれる。それが私の母だった。百済から倭国に来た王族の姫は、上宮太子の弟皇子の妃になった。その姫も夫の皇子も早世したので、先の斑鳩の事変には巻き込まれていない。忘れ形見の女王が一人、葛城の地に住んでいると聞く。

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