第7話 飛鳥川原 葛城皇子の宮

 葛城皇子かづらきのみこの宮は飛鳥あすか川原かわはらという地に建つ。飛鳥川の西岸に位置し、南に橘寺たちばなでらの三重塔が見え、北には法興寺ほうこうじの五重塔が見える。そして川を隔てた東には王宮みあらかがある。双方の宮は川の両岸に伸びる台地の上に建つ。そのため往来には、少しばかり河原に下り、川に架かる橋を渡る必要がある。大雨が降ると、この橋が度々水没する。こういう時は北へと迂回して台地を降り、両岸が低くなった位置で川を渡る。こんな状況を不満に思い、葛城の足は王宮に向こうとしない。

 川沿いに北へと行くと甘樫丘あまかしのおかに至る。周辺を牛耳るのは蘇我そが本宗家で、麓には入鹿臣いるかのおみの広大な屋敷が広がる。丘の上には大臣おおおみの屋敷もあり、四方を睥睨へいげいしている。蘇我氏由縁の尼僧寺、橘寺も川原より高い台地に建つ。さらに上には、先の大臣おおおみ蘇我馬子そがのうまこの築いた大邸宅、嶋第しまのだいが大きな池を伴って建っている。

 こうして北からも南からも、蘇我に見下ろされる。葛城にとっては王宮との位置関係以上の不満材料だ。


 この日、葛城皇子は王宮で私を待ち構えていた。そして川原宮かわはらのみやに来いと命じると、こちらも返事も待たずに引きずって来る。この皇子みこは見かけによらず人見知りをする。立場上仕方がないとはいえ、同世代の親しい友人も少ない。世間の風評によれば、葛城と私は似た者同士の友人に認定されている。

 南北の戸を開けて風を通すと、室内でも思いのほか涼しい。日も高い内から出て来た酒を口にして、最初は他愛もない世間話をしていた。ところが気が付けば、私の身の上話に移行する。

「今更に言う事でもないが、俺には根を下ろす場所がない。それ以前に根もないのやも知れぬが」

 机上に頬杖を突く私は、橘寺の堂宇を眺めながら愚痴を言う。

「何やらたわけた物言いだな」

 窓際の椅子にふんぞり返るように座る葛城は、腕を組んで顎を突き出し気味に苦笑する。

「戯けているというよりも、無節操なのだろう。落ち着ける場所があるのなら、特に相手も選ばぬというところだ」

「要するに日和見ひよりみか、御身おみも。では、その様な態度はそろそろ改め、私の味方になれ」背もたれから身を起こして言う。

「御身の味方か」

 少し前にも、この男は同じような事を言った。

「私はいずれ事を成す」

「しかし、まだその時ではないのだろう」

「勿論、時を選ぶ事は肝要だ。まずは人材の確保をせねばならぬ」

「俺は人材か」

「御身、間人はしひとが欲しいのであろう」

 突然に変わった話に脈絡が見えず、私は葛城の顔を見返す。

「大きな声では言えぬ。御身を身内と思うて話す。大兄おおえの位は、いずれ私が手に入れる。その時には、周囲の反対を蹴ってでも、御身の良いように図ろう。悪い申し出ではあるまい」

「御身の同母妹いもうとの配偶者として認めるという意味か」

「御身が根を下ろす場所を与えてやる」

 大兄になるという事は、いずれ即位を見越している。大君おおきみの甥から大君の義弟になる。能天気に構えても悪くない話だ。

「意外だな」自らの想像がおかしくて、つい口に出す。

「何がだ」然も怪訝そうに葛城は問い返す。

「御身からは反対されているのかと思っていた、間人との事は」

「まあ、諸手を挙げて賛成はしておらぬ。だからと言うて、他の誰が妹に相応しいのか、私としては決めかねる。何よりも一人でも多く味方が欲しい、こちらが本音だな」

「俺を味方にすれば、秦氏はたうじ東漢氏やまとのあやうじの心象が、多少とも良くなるかも知れぬな」

「そうだな、それも期待したい」

 秦氏も東漢氏も、遥か昔に半島から倭国に渡って来た一族の末裔だ。大和の朝廷から氏名うじなをもらい、住む場所も与えられて今に至る。全てが同族という訳でもないが、同じ氏を名乗る事で同一意識を保ってきた。そして倭国の豪族以上に強い結束を持っている。

「だが俺自身は、蘇我本宗家からは一瞥いちべつすらされておらぬぞ。蘇我にも東漢やまとのあやにも一目以上置かれているのは、あくまでも父上だ。父上にしても蘇我大臣そがのおおおみを頼りにしている。大臣は一目というよりも、一物思うところありなのかも知れぬが。いずれにせよ、不肖の息子の俺では役不足だな」

 東漢氏や秦氏の首長格の家は、蘇我氏より目をかけられ、配下同然に従う。それを見る父も、蘇我氏の事は常に立てている。今のところその力関係は、いずれにも利がある。

「不肖の息子ならば私も同じ、御身とは似た者同士だ。御身の父上の態度にしても、極めて当たり前だ。亡命者がその国の実力者を頼って何が悪い。大君は蘇我以上に頼るべき存在、その事も認識されておられよう。私としても糺解くげの立場は理解しているつもりだ」

 葛城の呼んだ糺解くげという名称は、百済王の別名として昔より使われている。現在の百済王家は扶余ふよの姓を名乗るが、太祖の頃にはうじを名乗っていた。太祖国の東扶余ひがしふよ国王の姓だ。同じ根から分かれた高句麗も、現在ではこう氏を名乗るが、元々は解氏だったと聞く。

 このため、百済の臣下らは今でも、王になるはずだった父を、正当な跡取りとして糺解と呼ぶ。

「俺としては蘇我は頼りたくない。だが、伯母上と御身の事は頼っているつもりだ」

「そうだ、大いに頼れば良い。糺解の立場は置いておき、年の近い若者同士が友好をはぐくむ。これを快いと思う輩も多かろう」何やら軽い調子で葛城は言う。

「互いに友達の少ない者同士か。しかし、俺ごときがどれ程の力になる」

「力としては未知数だな。だが私は、御身のようなどこ付かずの者にも親愛を示す、心根の優しい皇子と見られるであろう」益々、軽口が増す。

「昼間から酒が入り過ぎているな、御身」

「冗談くらい付き合え、面白うない壮士おのこだな、ほう。頭の固い年寄りはどうであれ、若い者は私に注目するぞ」

「若い女たちに注目されるな、心優しい皇子様として」

「分かっておるな、豊。いずれにせよ、私が目論むのは次世代の権力だ。同じ目論見を持つ者に先んずるには、広い視野を持つ。そして偏らぬよう見て考える」

 表情を窺う限り、どこまでが冗談で、どこからが本気なのかが分からない。この童顔気味の女顔は要注意だ。

蘇我大郎そがのたいろうも似たような頃を言っていたぞ」少しばかり牽制してみる。大郎とは入鹿臣いるかのおみの通り名の一つだ。

「あの御仁ごじんは見習うべき先達だ、今のところはだが」

「いずれ出し抜くか。まあ、励んでくれ」

「本気にしておらぬな、ほう

 葛城は椅子の背から身を起こし、机上のつきに手を伸ばす。私が酒瓶しゅへいを差し出すと黙って受け、一気に飲み干す。この男は酒にも女にも強い。意思も並の人よりは強かろう。しかし、先程からの大言たいげんが酒の上の妄想なのか、本気の決意表明なのか、私には見極めがつかない。

 少なくとも分かっているのは、葛城は私よりも遥かに世間を知っている。そして、人脈も持っている。

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