時忘れ荘へようこそ
兎舞
◆出会い◆
第1話
みのりは土砂降りの雨の中を傘もささずに歩いていた。ジャケットも靴もかばんも濡れ放題だったが、そんなことはもうどうでもよかった。
周囲の人波も、みのりを避けて歩く。びしょ濡れであるだけでなく、その虚ろで何も見ていないような目が人外のそれの様で恐ろしかった。
それでも人は普段と同じ行動を知らずに取れてしまうから、ある意味コンピューターより優秀だ。濡れた手でバッグからパスケースを取り出し地下鉄の改札を通る。借り上げ社宅の自宅に戻るために電車に乗ろうとして、ふと気づいた。
(そっか、会社クビになったんだから、もうあの家には住めないや)
自主退職なら数週間の猶予はあるが、みのりは即日解雇を言い渡された。管理人は人の好い初老の男性だから事情を話せば一日くらいは待ってくれるかもしれないが、それでも明日には出ていかなければいけないだろう。転居することが可能なギリギリの貯蓄はある。だが職を失った今それは命綱のようなもので、そもそも今の自分の精神状態で引っ越し先や転職について考える余裕などなかった。
急にぶるりと体に震えが走る。雨で冷えたせいだけではない。何もない自分の未来が恐ろしい暗闇に見えた。そしてそこに引きずり込まれていくかのような感覚を実際に味わった気がした。
(とにかく帰らなきゃ……)
そう考えてみのりが足を踏み出した時、急行がホームに滑り込んできた。列車が入ってくるのにみのりの足は止まらない。周囲から悲鳴が聞こえた時ようやくみのりは自分の状況を理解したが、それを回避する気力は残っていなかった。
「おいっ、何してる!」
瞬間、ものすごい力で腕を後ろに引っ張られてホームに引き倒された。同時に列車が急ブレーキを踏む鋭い金属音と、ホームには緊急時を知らせるアラームが鳴り響いた。
「あんた馬鹿か! 死ぬなら一人で死ね!」
倒れたまま身体を起こす力も無いみのりに覆いかぶさりながら激昂する青年をぼんやりと見上げる。謝ることも起き上がることも言い返すことも出来ない。
みのりの状態を心配した駅員が救護室を案内してくれる。それに返事も出来ずにいると、青年がさっきと同じように力任せにみのりの腕を引っ張り上げた。
「行くぞ。迷惑だ」
そう言うとみのりのびしょ濡れのバッグを肩に担ぎ、みのりを抱き上げると駅員の後について救護室まで連れて行った。
◇◆◇
「まあ、ご無事で何よりですが、もうあんな危ないことはしないように気を付けてくださいね」
救護室でタオルを借りて体を拭き、温かい茶を出してもらって少しずつ人らしい感覚を取り戻したみのりは、震える声で詫びながら頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました……」
労りと説教を同時に受けているみのりの背後では、例の青年が腕を組んで壁に背を預けてじっとみのりを見つめていた。
「落ち着かれたらお帰りいただいて結構ですよ。ご友人もご一緒のようですし」
じゃ、と言って出ていく駅員の言葉に驚きながら、みのりは後ろを振り返る。青年を友人と勘違いしたのか、と納得すると、みのりは立ち上がって深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけいたしました。あと、助けてくださって」
形式通りの詫び文句を口にしながら自分で違和感を感じていた。
(タスケテクダサッテ……?)
自分は感謝しているんだろうか、生きていて嬉しいと思っているのだろうか。生きていたところでこの先何があるのだろうか。
あのまま電車に轢かれても、きっと誰も悲しまないし困らない。
そう考えた時、みのりは頭を下げたまま両目から涙が溢れて止まらなかった。
中々頭を上げないみのりに、青年はため息をついて静かに近づいてきた。
「あんた、家、どこ。送る」
「……私の、家」
うん、と頷く青年を見つめながら、みのりは答えることが出来なかった。今日まで住んでいた家に、自分はもう住む資格はない。だったらあそこは『私の家』とは言えないのではないか、と。
再び沈黙したみのりにもう一度ため息をついて、青年はスマホを取り出した。
「ちょ、航也、車。そう、駅」
何を言っているのかさっぱり分からない会話を、駅のアナウンスと一緒に聞いていた。
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