第2話

 青年がみのりを連れて駅の改札を出ると、一台の黒い車が止まっていて、その前で長身の男が手を振っていた。


「たつき! こっちだ」


 呼ぶ声に気づいた青年が頷いて早足で近づく。掴んだままのみのりの腕を引っ張って、グイ、と前に押し出した。


「こいつ、連れてく」


 何の前置きも無くそう言うと、たつきと呼ばれた例の青年は黙って車の助手席に乗り込んだ。みのりと彼女のカバンを押し付けられた車を持ってきた男は少し驚いて二人を交互に見るが、すぐに笑顔でみのりに話しかけた。


「とりあえず行こうか。大丈夫、怪しいところじゃないから」

「え、えっと……」

「後部座席でいいかな、どうぞ」


 言いながらタオルも差し出してくれる。両方に礼を言いながらみのりは言われるがまま車に乗り込んだ。


◇◆◇


 雨の中を車で走ること数分、停車したのは古い洋館の前だった。開けっ放しになっている門扉を通過して屋根のついた車庫に停車すると、運転手をしていた男が先におりてドアを開け、みのりを下ろしてくれた。


「どうぞ。今家の人を呼んでくるから。たつき! 紀子さん呼んできて」


 たつきは頷くと黙って建物の中へ入って行った。すぐに初老手前くらいの女性が小走りで出てくる。


「あらあらまあまあ、びしょ濡れ。大変だわ、お風呂入りましょ、お風呂。こっちよ」

「あ、あの」

「ちょうど沸かしたところだから、ゆっくり浸かってね。シャンプーはある物を使っていいから。お洋服は乾燥機にかけておくわ。だから長めに入っていてくれると助かるわ」


 ふっくらした体つきと丸顔でニコニコしながら、でも有無を言わさずみのりを風呂場へ押し込む。呆気にとられながらも、あたたかそうな湯気が立ち上る浴槽に体を沈めれば、ずっと頑なに縮こまっていた体と心がやっとほぐれた気がした。


 気が付けばまた涙があふれ出していた。


 昨日から今日の夕方、ついさっきまでの二十四時間は、まるでジェットコースターのようだった。


 まさかと思いつつ否定し続け、しかし決定的な証拠を掴んでしまったことで恋人の雄太の浮気を問い詰めた。確たる証拠がありつつも心のどこかで間違いである可能性も残していた。だから疑ったことを謝る台詞まで用意していた。


 しかし雄太は悪びれるどころか、鬱陶しそうにみのりを振り払った。それだけでなく今朝会社へ行けば周囲がみのりを白い目で見ていることに気づく。何があったのか分からないまま仕事を始めようとしたとき、上司から呼び出され、解雇を言い渡されたのだった。


 何が起きたのかさっぱり分からないみのりは言い訳も何も出来ず、言われるがままに書類にサインをし、退職手続きをして会社を出た。懲戒解雇という会社員として最も重い懲罰を負いながら、上司からはお世話になった人には退職の挨拶をしていけ、と言われ、あいさつ回りの末針の筵のなかで定時が来るまで過ごした。当然会社を出るみのりを見送ってくれる人は一人もいなかった。


 入社して六年近く、自分なりに会社のため、部署のために真面目に仕事に取り組んできたつもりだった。上司にも頑張りを認めてもらっていたと思っていた。しかし今日みのりに解雇を通達してきた上司はまるで知らない人のように冷たい目をしていた。


(なんで、こんなことに……)


 温かい湯につかりながら、心は芯まで冷え切っていた。


◇◆◇


 しっかりと温まってから風呂を出ると、みのりの服一式が乾かされてたたまれていた。有難くそれを着て脱衣所から出ると、みのりを駅で助けてくれたたつきが外で待っていた。


 驚きのあまり思わずビクッと体を竦ませる。しかしたつきは黙ってみのりの手を掴んで廊下を歩いて行った。

 たどり着いたのは吹き抜けの天井が明るい広間だった。そこにはみのりを車で連れてきてくれた男と、風呂へ入る案内をしてくれた女性もいた。


「お疲れさま。あったまった? 今お茶淹れるわね」


 件の女性がみのりの手を取ってソファに座らせると、またパタパタとどこかへ去っていく。


「あ、あの、私……。直ぐ帰ります、ご迷惑をおかけして」

「どこに」

「……え?」


 帰る、と言ったみのりに、例の青年が問いかける。


「あんた、家、無いんだろ」


 ストレートで、かつ的確な表現が再びみのりの胸を刺す。


「えー、まじ? ホームレスってこと?」


 急に後ろからきゃっきゃと楽し気な声が聞こえた。驚いて振り向くと中学生くらいの女の子がいた。


「うちらと一緒じゃん。じゃあここに住めばいいんじゃない?」

「こら、りん。ご事情も聞く前から勝手に決めては失礼ですよ」


 凛と呼ばれた少女の頭を撫でつつ、白髪の男性が現れた。


「えー、だってせいちゃんだってそう思うでしょ?」

「つーかさ、きっとたつきのことだから自己紹介すらしてないと思うんだけど?」


 横から車の運転をしていた青年が割って入る。みのりは自分も名乗っていないことも含めぶんぶんと首を縦に振った。その場にいたたつき以外の全員が、あーあ、という顔で呆れ顔になった。


「じゃあまずお姉さんから自己紹介、よろ!」


 少女から指名されたみのりは、慌てて立ち上がって二つ折りに頭を下げながら名を名乗る。


「よ、吉永みのりです。あの、駅で、そちらの方に助けていただいて」


 みのりの言葉に全員が目を丸くしてたつきを見る。見られた当人は、ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。


「まあ積もる話は食事の後にでも。ようこそ、時忘れ荘へ」


 白髪の男性が優しく微笑んで、みのりを歓迎してくれたのだった。

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