地獄テラリウム
黒澤カヌレ
地獄テラリウム
この箱の中には、地獄がある。
灰色の厚紙で出来た粗末な代物。その蓋を開けてみると、中にはしっかりと一個の地獄が出来上がっている。
電気の下で目を凝らすと、箱の中で蠢いているものも見つかる。
親指の爪くらいの小さな亡者。
それが同じく一センチ程度の鬼に追われ、苦しそうにしている。
箱の底には茶色い土が敷き詰められていて、その真上で鬼と亡者がひしめいている。
小さな箱の中だけで完結している、一個の世界。
いわゆる、地獄のテラリウムだ。
「余ってる土があるんだけど、もらって下さらない?」
始まりは、市役所の職員が訪ねてきたことだった。
茶色い紙袋を両手で抱え、人の家の玄関にドシリと置いてみせる。
聞くところによると、近所に住む老人が孤独死したらしい。農業をやっていた人だったが、家の中には畑で使うものと思われる土が残されていて、引き取り手もないので処分に困っていたところだという。
いい加減な対応だな、と内心で苦笑した。市役所の人間なのだから、死んだ人の財産はもっと厳正に処理しないといけないだろうに。
でも、断るのも可哀想だと思った。
僕もちょうど農業をしている。東京での銀行員暮らしが合わなくて、人口十人に満たない過疎地で空き家を貰い受け、一人で畑を耕す生活を送っていた。
「わかりました」と言って土の入った袋を貰う。重さは三キロくらい。米を収めるための丈夫な紙袋に入れられていた。
職員はホッとした顔で去っていき、僕はしみじみと袋の表面を見る。
そこで「ん?」と顔をしかめさせられた。
紙袋の表面には、『地獄』と文字が刻まれていた。
一応の様子見ということで、中の土を空き箱の中に開けてみる。
畑に混ぜるには不安があるので、少しここで状態を見て、ペーハーや湿り気などをチェックしておこうと考えた。
そしてすぐに、異変に気付いたのだ。
灰色の紙箱の中に土を敷き詰めると、しばらくして半透明な人影が姿を現した。
白い衣を着た、全長一センチ程度の小さな人間。それが恐怖に満ちた表情で土の上を歩き回り、今度は鬼と思われる存在が金棒で殴るなどして人間を虐げている。
箱の中のあちこちで火が灯され、その中で人が焼かれているのも見える。でも、箱に燃え移ることはせず、どこか造り物めいた感がある。
なるほど、と少しして理解が追いついた。
これが、あの紙袋に書かれていた文字の意味。
この箱の中には『地獄』が出来上がったのだと。
きっと、あの土は地獄の土なのに違いない。
老人がどこでそれを手に入れたのかは知らないけれど、あの土を箱の中に敷き詰めると、内部にミニチュアの地獄が出来上がる。
「でも、これってどうすればいいんだ?」
箱の中では鬼たちがいつも亡者を苦しめている。鬼も仕事でやっているらしく、一体の鬼が亡者をしばらく金棒で叩くなどするが、その間に別の鬼は箱の隅の方に座って棒倒しなどをして遊んでいる。そうしてまた時間が経つと働いていた鬼が交代でやってきて、亡者をいじめる役をバトンタッチしていた。
見ていて興味深いものではあるけれど、この土はどう処分すればいいだろう。
畑に混ぜたらどうなるのか。小さな箱の中なら問題ないけれど、家の前で毎日のように鬼と亡者のやり取りを続けられても困ってしまう。
「少し、薄めたらどうかな」
畑の土を持ってきて、箱の中に混ぜてみた。突然真上から土が降ってきたことで、鬼たちもびっくりした顔をする。
指先でつまんだ土をまんべんなく全体に振りかけてみる。木の棒を拾ってきて、土に混ざるようにグリグリとやってみた。
その瞬間に、鬼たちが消えてしまった。
「あれ」と一瞬肝が冷える。
でもまたすぐに、新しい光景が生み出された。
箱の真ん中の辺りに、赤い水たまりが出来始める。鬼たちも再び姿を現し、亡者を追いまわしては水溜まりの中へと叩きこんでいた。
「これは」と僕は声を上げる。
真っ赤な水の中へどんどん亡者が沈められる。
これは、『血の池地獄』だ。
それからは次々と実験をしてみた。
地獄の土に、他の土を混ぜると性質が変化する。ペーハーの問題だとか、土に含まれる養分の問題なのかはわからない。
でも、地獄の土はストックもある。色々試そうと思った。
紙やプラスチックの箱を用意し、様々にブレンドした土を敷き詰めていった。
最初に、腐葉土を地獄の土と混ぜてみた。
トゲトゲとした山が出来上がり、鬼たちが追いたてて亡者をそこに登らせる。
『針山地獄』だった。
次に、ピートモスでやってみる。
亡者たちが武器を手に取り、常に戦っている状態が作られる。
『修羅地獄』だった。
赤土を入れてみると、腹部の膨らんだ亡者たちが苦しそうにする。
これが『餓鬼地獄』。
石灰岩を地獄の土と混ぜると、亡者たちが動物の姿に変化する。
今度は『畜生地獄』。
ブレンドする量などで鬼や亡者の数が増えはする。でも本質的に地獄の内容が変化するのは、混ぜ合わせた土の種類にのみ左右されるようだった。
その後も思いつく限りの土や岩石を入れてみる。
砂を入れた時には『賽ノ河原』が出来上がり、花崗岩を砕いて入れた時には『焦熱地獄』が作られる。
「これをやったらどうなるかな」
恐る恐る、畑に使う牛糞堆肥を混ぜてみる。地獄には糞尿地獄というのもあるらしいけれど、それが出来た時には処理に困るかもしれない。
そうして土に混ぜてみたら、ぽっかりと大きな穴が現れた。
「これは、何?」としげしげと見る。
少しして、ようやく答えが見えた。
どこまでも続く深い穴。『無間地獄』だ。
堆肥でも反応したことで、土以外でも行けそうだと見えた。
「まずはグレープジュースを入れてみよう」
土の方の分量を多くし、しっとり湿らせるくらいにジュースを浸透させる。
中央に、巨大な犬が出現した。頭が三つあり、亡者たちを襲っている。
「ケルベロス!」と興奮して声が出る。
ついに海外の地獄まで出現した。
更に続けて、コーヒーを入れてみる。
今度はミノタウロスとケンタウロスが出現し、亡者たちを追いたてる。
これは異教徒が落ちる地獄。ダンテの『神曲』に出てくるものだ。
オレンジジュースを混ぜてみたら、亡者たちが重そうな服を着せられていた。
たしか、『偽善者の地獄』というもので、同じく神曲で紹介されていたもの。
コーラの時には人々が木に変えられ、ミルクティーでは十二体の鬼が君臨し始める。
どうも飲み物を混ぜると、西洋風になるらしい。
「じゃあ、こうするとどうだ?」
餓鬼地獄の箱を持ち上げ、畜生地獄の中へと投入する。
二つの地獄を融合させたら、どんな結果が出るだろう。
鬼の姿が変化した。牛の頭を持つ者や、馬の頭を持つ鬼が現れる。
『牛頭』と『馬頭』。ちょっと前より強くなった感がある。
「では虫を入れた場合は?」
蟻を試しに入れてみたら、鬼たちも反応した。サイズが近いので退治することもできず、鬼たちが怯えて蟻から必死に逃げ回っていた。
地獄の中にあるものは、現実の世界に持ってこられない。試しに二本の木の棒で鬼を一匹つまみ上げようとしたが、すり抜けて終わってしまった。
でも、虫などの生き物を入れた場合、地獄の住人になれてしまうようだ。
「じゃあ、行ってみろ」
カブトムシを捕まえて、ケルベロスの箱に入れる。
三つ首の犬は大いに驚き、カブトムシに戦いを挑んだ。
そして、甲虫は地獄の王者となった。
どうしても、疑問に思うことがある。
その後、カブトムシは地獄の英雄となっていた。亡者たちはカブトムシを慕い、鬼やケルベロスたちに反旗を翻し始めている。
試しに実験して、蜘蛛を一匹地獄の中に放り込んでみた。
蜘蛛は地獄の隅で巣を作り、亡者は蜘蛛の糸を登って箱の外へと出ようとする。逆に蜘蛛の糸に絡められて終わったが、もし最後まで上り切れればどうなったのか。
「蜘蛛の糸。地獄からの脱出」
このキーワードがどうしても気になる。
「じいさんは、この土をどうする気でいたんだろう」
死んでしまった老人。
あの老人は地獄の土を使い、何をするつもりでいたんだろう。
手入れされていない畑は、草が伸び放題となっていた。
そんな中でも作物はまだ死んでおらず、雑草まみれになりながらも成長を続けているものがあった。
こんもりと葉のしげる、土中で育つタイプの野菜。
もし、試してみたらどうなるのだろう。
あの地獄の土を使って、畑で野菜を育ててみたら。
地獄の土で育った野菜というのは、現世のものなのか、地獄のものなのか。それを引き抜いて持ち帰ることは可能なのか。
日本の昔話の中には、『蜘蛛の糸』にそっくりなタイプのエピソードがある。
『腐ったニンジン』という、老婆がニンジンに掴まって地獄から出ようとする話。
老人の畑の一部には、一部だけコンクリートのブロックで区切られた場所があった。その中でこんもりと葉っぱを伸ばしている作物がある。
どう見てもニンジン。
老人の素性は知らない。どんな人間で、過去に何をしたかも知らない。
けれど、『心当たり』のある人間だったとしたら。自分の死後の行き先について。
それについて、なんらかの対処をしたとしても不思議じゃない。
試してみよう、とニンジンの茎に手を伸ばす。そのまま力任せに引き抜いた。
その先で、はっきりと目が合った。
「ありがとう。おかげで脱出できた」
土から引き抜いたニンジンには、小さな老人がしがみついていた。
(了)
地獄テラリウム 黒澤カヌレ @kurocannele
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