アロガンがドリーク国の首相を務めていた二十年前、その事件は起こった。

 この国がもともと自分たちの領土だと主張する反体制の少数民族、ナバク人がドリーク政府に対してテロを起こし、民間人を含め多数の犠牲者が出たのである。


 彼は国家主席として、誇りあるドリーク民族の名誉をかけて、このナバク人を一掃するべく軍事作戦を開始した。今までもこちら側の政策にことごとく反発し、テロ組織を拡大させてきた野蛮極まりない民族である。ドリーク国の存在意義を揺るがしかねない危険な存在である。


 アロガンは自分の任期中にナバク人を撲滅し、ドリーク国に平和をもたらすことに身を捧げた。たび重なる軍事活動の成果によりナバク民族は地上から消え去り、ようやくこの地が完全にドリーク国のものとなった。

 国際社会からはアロガンのやり方に対して非難の声もあったが、水面下での外交活動により大国を味方につけていたおかげで、そういった雑音も揉み消すことができた。



「僕はあの地区に住んでいた」


 目の前の医師は低い声で続ける。


「二十年前の侵攻で、父も母も兄妹も殺されました。あなたのミサイルで。あなたの軍隊に。僕がはじめて手術を見たのは十六歳のとき。屋根の吹き飛ばされた建物の床で、まだ九歳の妹が麻酔もなく足をぶった切られたときです。僕はあの光景が忘れられない。その妹もあなたの兵隊に殺されました。彼らは笑っていた。とても愉快そうに笑って妹を八つ裂きにした」


 医師はアロガンの目をひたと見つめたまま淡々と語った。アロガンの背中に冷たいものが流れた。


「じゃあ、なぜお前はここに……?」

「あなたが決めた停戦という名の無条件降伏のあと、僕たち孤児は慈善団体によって秘密裏にかくまわれました。あなたに見つかれば殺されるからです。それからこの国の施設に引き取られ、心ある家族の養子になりました。名前を変え、新しい国籍を得て、途中で遮られた教育も受けさせてもらえた。里親には本当に感謝しています。おかげでこの大学病院で念願の医師になることができたんですから」


 そこまで言うとクレマンは皮肉な色を浮かべて目を細めた。


「そして今、家族を殺した男が目の前にいる。孫の命を救ってくれと僕に頭を下げている」


 アロガンは思わず歯ぎしりした。甘かった。ゴキブリの残党が生きていたとは。徹底的に駆除したつもりだったのに。


「……お前が手術しないと言うならほかの外科医を当たってやる」

「残念ながら無理です。ほかの医師は管轄外だ。それにもう他所へ搬送する時間は残されていない。今、この手術ができるのは私だけです」


 血の気が引いた。全身に震えが走った。

 アロガンはやにわに椅子から転げ落ちると、クレマンの前に膝をついた。


「このとおりだ! 孫を助けてくれ先生! あなたの家族は残念だった。だが仕方がなかったんだ。テロを撲滅させなければならなかった。あれが正義を貫く唯一の方法だったのだ。どうだね、金ならいくらでも出す。この大学にも惜しみなく出資しよう。お願いだ、助けてくれ……」

 恥もプライドもなかった。床に頭をこすりつけんばかりに乞うた。

「助けてください! 孫の命を……救ってください……!」


 クレマンは椅子から冷ややかに老人を見下ろした。


「都合がいいね。あなた方はナバク国の存在すらなかったことにしようとした、ただの入植者だ。あなたにはテロとレジスタンスの違いが分かりますか? あなた方のいうテロは、僕たちにとってはレジスタンスだ。でもその言葉は支配する側の都合のいいようにゆがめられてしまう。どんなに勿体ぶった理屈をつけても、正義を振りかざしても、あなたのやったことは民族浄化の大量虐殺だ。あなたが殺した何万人という幼い命に比べれば、たかが孫ひとりぐらい、死んだってかまわないでしょう。我々が害虫ならあなたたちこそ害虫だ。僕の妹がゴキブリなら、あなたの孫だってゴキブリだ!」


 アロガンはぐっと息を呑んだ。涙と洟にまみれた目でクレマンを見上げた。


 目の前で自分を見据える男の黒い瞳には、怨恨の炎が燃え上がっている。だがそれは煮えたぎる怒りではない。他人の命を見捨てようとする人間の持つ冷酷な炎である。

 この炎には覚えがある。二十年前に自分を突き動かした情熱は、紛れもなくこの氷のような炎だ。

 こめかみから冷たい汗が流れた。支配者と被支配者が反転する錯覚に襲われた。


「……申し訳ない。言葉が過ぎました。今のは聞かなかったことにしてください」


 アロガンに視線を据えたまま、医師はふっと自嘲するように口元をゆがめた。


「あなたの顔を見ていたら両親を思い出してしまう。今のあなたの顔は、妹のちぎれた体を見て泣き叫ぶ父の顔と同じだ。気も狂わんばかりに命乞いをしていた母の顔と同じだ」

「頼む、頼みます! 孫を救ってください!」


 またも床に頭をこすりつける老人をクレマンは黙って見つめていた。それから机の上の電話を取った。内線を繋ぎ、よどみない口調で手術室の指示を出す。その声を聞きながらアロガンは脱力して床に座りこんだ。額は汗でぐっしょりと濡れていた。


「血圧と心拍数が安定したらすぐに手術を行います」


 医師が受話器を置くと、老人は目尻をひきつらせ、疑心暗鬼の顔で言った。

「……まさか、恨みを晴らすためにわざと失敗するつもりじゃないだろうね」

 医師は思わず吹き出した。

「馬鹿なことを。そんなことをしたら、あなた方と同じ次元に堕ちてしまう」


 それからおもむろに老人に向き直った。


「ここにはあなたの国からも患者が来ます。正直あなたやドリーク国に対する恨みが消えることはありません。でも僕は‘’テロ‘’になる代わりに医者になった。──あれから世界中でいくつもの小さな国が滅ぼされましたね。今や強大な武力のある大国と、その腰巾着ばかりの世界になってしまった。僕は二十年前、あの地区にいた人たちを背負って手術しています。滅ぼされた国の、救われなかった人たちを思って手術しています。──これが自分なりの復讐なのです」


 そして独り言のようにこう付け加えた。


「ただ……ときどき、分からなくなる。医者である前に人間なのか、人間である前に医者であるべきなのか。あなたはどうですか。政治家である前に人間でしたか?」



 *



「おじいちゃん……!」


 病室に入ってその声を聞くなり、アロガンは弾かれたように駆け寄った。

 まだ血色がすぐれないものの、手術に耐えた孫は少しずつ生きる力を取り戻しつつあるようだ。

 隣国で一命を取りとめてからひと月。経過に問題なしと太鼓判を押され、特注のヘリコプターでようやくドリーク国の医療機関に転院させることができた。アロガンは久しぶりに見るあどけない顔に心を打たれた。涙がとめどなく流れた。

 まだ安静にという看護師の言葉に、アロガンは洟をかみながら「また来るよ」と微笑んで病室を出た。


 あれから再開発地の土壌調査が行われた。油田とガスタンクは現在のところ閉鎖に追い込まれている。新興住宅地に集まった住民たちは避難を余儀なくされているが、致し方ない。


 ふと廊下で足を止める。


 執刀を終えたクレマンの顔が脳裏に焼きついている。成功ですと告げたナバク人の勝ち誇ったような瞳。それを聞いて安堵で一気にくずおれた自分の姿。

 あのような醜態を誰にも見せることなく済んだのは幸いだったというほかない。


 病室から出てくるのを待ちかねていたように側近が近づいてきた。


「お呼びですか」

「うん……あの子の手術をしたクレマンという医師だが」

「はい」


 ──あの男を消せ。あれはゴキブリだ。


 孫を転院させたら命じようと用意していた言葉が、なぜか喉元で詰まった。

 視界を覆っていたいびつな光が色を失っていく。


「いや、なんでもない。……私から礼を言っておけ」

 

 くぐもった声でそう言い残すのが敗者の精一杯だった。

 老人は背中を丸め、ひとり廊下を立ち去っていった。



 了

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二十年のち 柊圭介 @labelleforet

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