エピローグ


 令和六(2024)年夏。神奈川県鎌倉市。




 鎌倉観光は路地裏に風情があるとつうは言う。

 その言葉を鵜呑うのみにした若い男女が、狭い路地をひたすら歩いた末、脇道にそれ、うっかり人里離れた場所に迷い込んでいた。

 鬱蒼とした雑木林にかこまれたその場所は行き止まりで。その先は真鍮製しんちゅうせいの鉄格子で遮られ、内部はよく見えない。


「この先は、誰かの土地だよね。これ以上、行けないよね」

「これって、私有地かな? グーグルマップにはないけど。この先に屋敷がありそう、有名人の隠れ別荘かもな」

「ねぇ、戻ろうよ。なんだか怖いわ」

「なんだよ、別に悪いことしてるわけじゃないのに」

「静かすぎて、怖い」


 うっかり迷い込んだ若いふたりは、来た道を戻ろうかと迷った。

 夏蝉の声が四方から聞こえる以外、人が住まない深い森のように静寂で、なんとなく不安を覚える。

 鉄格子の先で、十歳前後の少女と二十代後半くらいの男が、その様子を伺っているとは気づいてないようだ。


「兄さん」と、少女が呼んだ。

(どうした、しょう

「あの人、女のほう、憑かれている」


 細い声でささやく少女を、男は優しげに見つめた。

 男は宜綺むべき、少女は笙妃しょうひといった。

 可憐な容姿をしている。癖のある長髪を真ん中で分け、前髪の間から見える顔は、陽光に全く触れたことがないように色白で、傷ひとつない。まるで天使だ。さらに、成長すれば人目を引く美女になるだろう。


「ねぇ、兄さん、でしょ?」


 宜綺は首をふる。


「嘘つきね。兄さんは嘘つきだわ」


 そんなことを言うもんじゃないと宜綺は少女の頭をなでる。そこに紫緒の面影を求め、さかしい少女は、それに気づいて嫉妬する。

 紫緒と笙妃に血のつながりはないと聞いた。紫緒は代理母でしかないと。しかし、宜綺はそう思っていない。

 あの日、紫緒は赤児を必死に守ろうとした。宜綺にとって、笙妃は愛しい紫緒の大切な娘だ。


「兄さん、聞いてる? あの女のことだよ。もう、また、母さんのことを考えているんだ」


 宜綺は口もとに優しい笑みを浮かべる。そんな姿を笙妃は嬉しそうに、しかし、少し嫉妬を含んだ態度でからかう。


(だめだよ、笙妃。そんなことを言うもんじゃない)と、宜綺は首をふる。

「うん、だめだよね。加瀬おじさんに叱られる。だって、もうすぐここに来るから」


 宜綺は首をかしげた。


「誰かを連れてくるみたい。そう感じるの。誰と一緒かしら。藤島おじさん? ううん、違う。今日は藤島おじさんは来ないみたい。お仕事かな」


 藤島は病理医の仕事を続けているが、宜綺兄妹にヒマがあれば会いに来る。


『三賀さんは、ここに、まだいるよ』という笙妃の言葉を聞いて静かにほほ笑んでいた。


 公道から、こちらに向かってくる車のタイヤ音が聞こえてきた。宜綺は耳がいい、いち早くタイヤが砂を噛む音を捉えた。

 先ほどの道に迷った二人組と入れ違いに、白いセダンが土埃をあげて向かってくる。

 鉄格子の前で車が止まると、男が降りてきた。

 加瀬だった。

 宜綺は手を振ろうとして、途中でぎこちなく止めた。加瀬は客でもつれてきたのか、セダンの後部座席を開けている。

 車から、ひとりの男が降りてきた。

 若くはない。七十歳前くらいだろうか。大きく背中が曲がっている。

 宜綺は、それを見て、一瞬、息が止まるかと思った。


「ね、兄さん、言ったでしょ。加瀬おじさんが誰かを連れてくるって」


彭爺ほうじい……)


 仮釈放で刑務所を出てきた老人は、その場に立ちすくんだ。宜綺は少女の手を離して、足を前に進めようとしたが、地面に張りついたように動けない。


「宜綺か」と、彼はしゃがれ声で聞いた。


 うなずきながら、一歩一歩、彭爺に近づく。手の届くところまで来ると、宜綺は立ち止まった。

 感情をめったに表に出さない宜綺は声を忘れた。

 ただ、その目から留めようもなく涙があふれ、それを乱暴に手の甲でぬぐうと、彭爺のやせ細った身体を力強く抱いた。


(彭爺……、やっと迎えにきてくれた。ずいぶんと時間がかかったね。待っていたよ。僕は、ずっと待っていた)





   ー 完 ー

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半魂 〜鎌倉、八百年の呪〜 雨 杜和(あめ とわ) @amelish

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