最終章 宜綺

宜綺(むべき)





 その日は──

 庭に自生する紫陽花が、薄茶色の枝先につぼみを芽吹かせる、そんな季節で。

 朝のうち雨は降っていなかった。

 午後にかけて竹林を揺らすような風が吹き、霧のような細い雨が降りだした。相模湾から流れてくる灰色の雲が重苦しく地上にのしかかる。




 宜綺は裏庭の家庭菜園で雑草を抜いていた。

 この時期、雑草の生育がよく、その生命力は驚くばかりだ。あっという間に植えたダイコン畑を蹂躙じゅうりんして、放っておけば、すぐに菜園を占領してしまう。

 腰をかがめて草むしりをつづけ、ほっと一息ついたとき、赤児のむずかるような声が聞こえた。宜綺は板張りの廊下に視線を送る。


(御子さまが、起きる時間だ)


 雑草取りを中断して、宜綺は手を洗う。

 赤児は笙妃しょうひと名付けられ、宜綺が世話をしていた。正しくは彼しか世話ができなかった。

 ほかの誰かが面倒を見ようとしても、火がついたように泣きだしてしまう。

 今日も笙妃しょうひは、縁側においた座布団の上で、おだやかな寝顔を見せて眠っている。

 笙妃が目覚めそうな様子に呼応して、棒につながれたヤギが、メエエ、メエエと鳴いた。四月に出産したばかりの母ヤギは乳が豊富で、母乳がたまると鳴きはじめる。

 宜綺はヤギの頭を撫でてから、乳用のバケツを腹の下においた。慣れた様子で腹部に手を差し込む。ヤギの乳頭のつけねを親指と人さし指でおさえ、中指、薬指、小指と上から順番に指をとじていく。

 下に置いたバケツに引っぱりだすように乳を搾りだす。

 乳は豊富で、すぐにバケツを満たした。

 そのまま鍋で加熱して、人肌くらいに冷ましてから、哺乳瓶に入れる。

 赤児が目覚め泣きはじめた。よく泣く子だ。


「おまえも、こんなふうによく泣いたものだ」と、彭爺ほうじいが言っていた。


 宜綺は手際よく、布おむつの交換をしてから、ヤギの乳を与える。満足そうな顔で赤児はごくごくと飲みほし、しばらく、宜綺と遊び再び眠りについた。


(雨だ)


 霧のような細かい雨が降りはじめた頃、彭爺ほうじいがドタドタと廊下を走ってきた。

 彼があわてた姿を見せるなど、珍しいことだ。

 部屋に入ってきた彼に、しぃーっと宜綺は人差し指を唇にあてる。笙妃が眠っている。起こしたくなかった。

 そんな宜綺を無視して、彭爺は彼の肩をつかむと、噛んで含めるように言った。


「宜綺、今から言う、わしの言葉をしっかり頭に入れよ。よいか」


 宜綺はキョトンとした目で彼を見つめた。


「ここから逃げるんだ。宜綺、逃げて、逃げて、待っておれ。警察が帰ったら、すぐに迎えにいく。それまで、お山に隠れるんだ」


 先ほど珍しく人が訪ねてきたのか、屋敷の呼び鈴が鳴った。なにやら荷物の間違いらしかったが、彭爺が対応した。


「間違いの荷物は、おそらく警察だ。警察から御子さまを守らなければ」


 宜綺には考えも及ばないが、彭爺は先月に起こした別宅の放火を心配していた。

 御子が生まれた日。彭爺は裏にある祠に紫緒の胎盤を埋めて、屋敷に灯油をまいて火をつけた。

 その胎盤を警察が発見したと聞いている。そこから御子の災いになると困ると思ったのだ。




 雨が降っている。

 本降りになりそうな雨だ。

 白い霞が周囲をつつみはじめ、遠くの視界が悪くなる。

 彭爺に急かされるまま、最小限の必要なものを荷造りしてヤギの背に乗せると、彭爺は赤児を抱っこ紐で宜綺の胸に抱かせた。その上から黒い雨ガッパを着せフードをあげる。

 雨は止む気配はない。


「いいか、宜綺。御子さまをひとりでお守りせよ。わしが迎えに行くまでな。わかったら、ついて来い」


 裏庭の切り立った崖側に、大きなイチョウの木が育っている。その大イチョウと崖の間に彭爺はかがみ下草や土を払う。すぐに錆びた鉄扉があらわれた。

 宜綺は不安を感じた。なにが起きているのか、まったく理解できない。

 そんな宜綺に説明することもなく、彭爺は鉄扉にあった丸い鉄の輪っかを握り、「うぉー」と声をあげて引き上げる。

 鉄扉の下は地下に通じる道になっていた。


「ここから裏山に逃げろ。この懐中電灯を持っていけ。いいか、隠れていろ。けっしてここには戻ってくるな。わかったか。迎えに行くまで、待っていろ」


 宜綺は不安を隠して素直にうなずいた。


「行け、宜綺! 御子を守れ!」


 指示されるまま、彼は赤児を胸に抱いて地下につづく急坂をヤギを連れて降りていく。

 

「宜綺、懐中電灯をつけろ!」


 彭爺の声が背後から追ってきた。スイッチを入れると、すぐに背後でドンという音がして鉄扉が閉まる音がした。

 真っ暗闇にひとり残された。

 懐中電灯の光がなければ真の闇だったろう。

 暗闇に押されるように、前へ、前へと進んでいく。

 胸に抱いた赤児のぬくもりが、彼の不安をやわらげる。この子を守ることだけ考えよう。

 そう思うことで、宜綺は少しほっとした。

 地下は洞窟につづき、その先は雑木林になっている。

 雨が降っていた。

 霞がかった細かい雨で、五月はじめにしては気温が低い。宜綺は彭爺が渡してくれた、雨ガッパのフードを引き上げ顔の前で紐をしぼる。

 ヤギを引っ張って外に出そうしたが、抵抗する。

 メエエ、メエエと、ヤギは鳴いて洞窟から外へ出ることを嫌がった。

 けもの道のような細い道を雨に濡れて歩くのが嫌なのだろう。宜綺はヤギの前に出て、目の位置にしゃがむ。

 

(頼むよ。おまえが育ててくれないと、笙妃の食事ができない。頼むから、ついてきてくれ)


 逃げ場を求めるようなヤギの怯えた瞳孔に、不安そうな宜綺の顔がうつっている。


(頼むよ)


 そう念じてながら、ヤギを引いて宜綺は洞窟から外へ出た。

 屋敷の裏側は、鎌倉アルプスと呼ばれる尾根道が主の古道になる。雑木林や竹藪の間を通る幅員ふくいん一メートルもない狭道で、天園ハイキングコースにつながる道でもある。

 そこは人ひとりがやっと通れるような道だ。

 岩肌がむき出しの箇所は雨に濡れるとつるつる滑り、登山靴がなければ、すぐ転んでしまう。

 左右は雑木に囲まれ、道を踏み外せば斜面を落ちる危険がともなう。

 ハイキングコースとはいうが登山初心者には険しい道のりだ。ましてハイキングコースを横道に逸れることは危険が増し、道なき道を歩くことになる。


「隠れろ!」と彭爺は言った。


 宜綺は古道を逸れた道なき道を切り開き、いやがるヤギを連れて歩く。雑木内は急坂で落ち窪んだ箇所もあり、ヤギは入るのを嫌がった。

 ときどき、大木の幹で身体を支え、道わきをのぞき込む。

 いやがるヤギをこれ以上、いっしょに連れてはいけない。周囲に草や葉は多い。ここに繋いでおいても、ヤギが飢えることはないと宜綺は思った。

 御子の乳を搾る前に、まずは隠れる場所が必要だ。

 鎌倉の山中には、あちらこちらに、かつての墳墓だった岩肌を切り抜いた場所がある。それらを「やぐら」という。

 知られているだけでも、市内だけで一〇〇〇基は超える。

 埋もれているものを含めれば、二〇〇〇基とも三○〇〇基とも言われるほど、寺や山間のあちこちに、やぐらは存在する。

「やぐら」は、人が眠ることができる洞窟ほど大きいものもあり、雨露を防ぐために利用できる。


「必ず迎えにいく」と彭爺は言った。


 待っていれば、いつか彭爺が迎えに来るはずだ。誰にも知られていないような「やぐら」を探しだし、宜綺はそこで雨をしのいだ。

 最初はすぐ助けに来てくれると思っていた。

 一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日目になっても彭爺は現れなかった。

 ヤギの乳をしぼってはヤグラに戻り、焚き火で温め笙妃に与え、自分の飢えを木の実や乳で満たす。

 闇に紛れ、雑木に隠れ、どれほどの夜と昼を過ごしただろう。

 宜綺は痩せた。

 このまま、いつまで待つのか全くわからず、絶望から落ち込むこともあった。


『逃げろ』と彭爺は言った。

『隠れろ』とも言った。


 笙妃を胸に抱きながら夜空の星を眺めていると、心細さに泣きそうになる。夜を過ごすたびに、何かを失う。

 それは、彭爺という希望なのか。それとも、なにか別のものなのか。宜綺にはわからなかった。





 その日はよく晴れていた。一匹の黒アゲハが飛んできて、ゆっくりと彼の周囲を舞う。

 そのアゲハには懐かしい匂いがした。

 紫緒……。

 アゲハに導かれるように、ひとりの男が雑木林の間から姿をあらわした。


「君は宜綺かい?」と、男が名前を呼んだ。


 男は静かに、ほほ笑んでいる。その顔は、どこまでも穏やかで優しげだった。


「僕は加瀬という。君の兄だ。彭爺の代わりに迎えにきたよ」


 泥の塊と変わらないほど汚れきった宜綺は、飢えに苦しみ、やつれ、骨ばかりになった手を、ぶるぶると伸ばした。

 彼の胸のなかで、赤児がすやすやと眠っていた。




(つづく)

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