あしたのために(その61)当日
大会当日。控室に集まった面々は、川地の提案に言葉を失った。
「それは全員一致で恥ずいからやめようって」
津川が嫌な顔をした。
「中平さんが適当に言ってるって思ってたけど、わかったんだ。全部かなぐり捨てろってことだった」
川地は本番用の新品の体操着を脱いで背中を見せた。暴力の痕跡が生々しく残っていた。
「カワちん」
沢本も、ちゃんと見たのは初めてだった。傷跡はもりあがり、肉の色をしていた。
幼い頃、見ず知らずの人間に生きることを否定され、身勝手につけられた烙印だった。
全員が、息を呑んだのは泣きそうになったからだ。自分が泣いたって、どうにもならないのに、泣いてしまうのはなんなのだろうか。
こんなの、なにもかもが間違っている。絶対に許せない。
「大丈夫、なにもないだろ?」
川地は言った。
「おい、マジックないか」
小林が言った。
「コバやん」
「重ねちまえばいいんだ」
川地の背中に文字を書きだした。小林は、『緊褌一番』と、そして自分の名前を書いた。
「俺も書く」
渡が小林からペンを奪った。
そして、皆がそれぞれに好きな四字熟語を書いた。
川地はくすぐったかった。みんなが、自分の過去を塗り替えてくれる、と思った。
「ぼくの書く場所がない!」
沢本があいている背中の端に、書いた。
「サワもん、俺のも書いておいてよ」
「なんて」
「前途洋々」
川地はにやりと笑った。この大会が終わったあとで、笑っているか泣いているかわからない。どっちもありえるし、どっちであっても、自分は生きていく。それだけは決まっている。
「絶対に全体をブレさせない。お前の動きについていく。だから、お前は好きに踊っていいぞ」
小林が言い、渡が頷いた。
西河がそのやりとりを見て、鼻をすすったときだ。
「あっ」
沢本が気づいた。
西河の背後に忍び足でやってくる男がいた。
中平だった。唇に指を当て、しーっ、とみなに目配せした。
そして、思い切り、西河をどついた。
「え?」
西河が勢いよく頭から倒れた。
その姿を見て、中平はほくそ笑んだ。
「お前はお前で、なんとか頑張れ、おっさん! おっさんになってからの人生が、本番なんだから!」
中平はみんなに手を振って、控室から出ていった。それが中平の姿を見た最後だった。
「いってえ」
西河が起き上がった。「誰だ!」
「先生。自分で勝手に転んだんだよ」
「夏バテしてんじゃない?」
「それか、デブの天使が通り過ぎたのかもね」
それぞれが適当なことを言ってすっとぼけた。
「そうだ先生、これあげる」
川地は折り畳んだルーズリーフを渡した。
「なんだこれ」
開こうとする西河を、川地は止めた。
「終わってから読んで。それと、先生に最新の伝言を預かっているの忘れてたーー。終わったら伝えるよ」
宝田の舞台をみんなが袖で眺めていた。
手拍子の音もこれまでの出演者のステージの倍、聞こえてくる。会場のほとんどが、宝田のファンだったのではないかと思えるほどだ。いや、ファンにしたのかもしれない。
「すげえな」
「むかつくけど、うん」
みんなが呆然としてた。宝田は気に食わない。しかし、宝田自身はストイックにパフォーマンスをしている。稽古以上のものを本番で出すためには、真剣に取り組み続け、最高の状態まで上りつめなければ、その先へは至れない。つまり、彼は調子のいい姿を見せる影で、厳しい訓練をこなしてきたのだ。
川地は遠くで、音だけを聞いていた。
大きな拍手が起こり、川地は舞台袖に向かった。
宝田がやってきた。晴々とした顔をしていた。肩で息をして歩いてくる宝田に、男たちは道をあけた。
川地を見つけ、宝田はにやりと笑った。
川地も笑い返し、
「おつかれさま」
と声をかけた。
宝田は、頷いた。
「楽しみにしてるよ」
「会場あっためてくれて、ありがと」
「優勝発表までのチルタイム、頑張ってね」
二人は別々の方向に歩いていった。
午後六時、まだまだ夕陽は燃え尽きようとしない。
奇跡が起きた。急に雨雲があたりを覆いだした。そして小雨が降り始め、真っ暗になった。雨足が次第に強くなる。
誰もが次の演目など気にしてはいられなかった。もう観るべきものもないと一部の観客が、退散しようかと騒ぎだしたそのとき、ステージに四十個の光が灯った。
観客はそれからの十五分間、濡れていることなど気にもせず、ただステージを凝視した。
世界が彼らを祝福しているようだった。それはきっと、彼らが世界を祝福しようと踊ったからだった。
高校生二十人が自分を超えて、世界の流れを少しだけ、きっと変えた。
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