三十二 毒婦 参

「私は……」


 流麗は心臓を潰されているかのように苦しげに、自身の胸を手で抑えた。

 心が揺れる。舜の本心を言葉で耳にして、熱情を前にして、蕾の中に隠していた想いが今にも花開きそう。今も尚、惑う心を見透かした瞳が花が綻ぶその瞬間を見逃さぬように一心不乱に見つめたまま。

 流麗に心が無いと知れば諦めたやもしれないが、そうではない。

 

「流麗、俺は永く人の表情というのを知らずに生きてきた。人の心を推し量るのはいつも、僅かな機微や仕草だが、一番有用なのは声だ。今日のそなたの声は実に雄弁でな。だが、出来ればそなたの言葉で聞きたい」


 真実しか語らない口は、流麗が虚偽を述べる事は無意味だと知らされる。今日、流麗は自分自身でも感情が躍り飛び跳ね大忙しなのをよく分かっている。けれども、どうやっても抑えが効かない。いや、そうなるように仕向けられていたのかもしれない。今居る状況が相手の感情を引き出そうと用意された場なのだとしたら。

 よくよく考えてみれば皇帝陛下は常に駆け引きの場にある。他者の心を揺さぶる事など造作もないだろう。

 

 どこまでも追い詰めようとする意思を前にして、もう、流麗が心を偽り続けるのは無理な話だった。

 呼吸を整え、一度瞼閉じる。そしてゆっくりと開いたその時、覚悟を決めた黒翡翠の瞳が、揺らぐ事のない榛色の熱い眼差しを受け入れた瞬間だった。


「どれくらいになりますか……私はもう永く、同じ方に恋をしているんです」


 ぽつりと流麗が零した言葉に、舜の顔は心臓が縮み上がったかのように固まった。いくら声で人の心を掬い取る事が得意と言っても、想い人の口から出る言葉に一喜一憂はする。しかし、続く言葉に期待して決して遮る事は無く耳を傾け続けた。


「それまでお会いした事も無かったのに、です。もしかしたら、いつかお会いできるかもしれないと期待して、礼儀作法を身につけて、化粧を覚えて、できる限り女らしくあろうと髪も伸ばし続けました。いつかお会いする日が来なくても、その方のために生きようと思い、婚姻もする気はありませんでした」


 手の届かない、けれどもいつか相見える事もあるかもしれない雲上人うんじょうびと。敬慕を胸に抱き、一族の責務として心の隅に置き続けた。

 

 まるで、淡い恋心のように。

 

 流麗は、この皇宮での一件が最初で最後の出会いと割り切り、せめて舜の脳裏の片隅に残るようにと最善を尽くした。

 たった一度。その尊顔を拝謁し、お側にあっただけでも満足しようと。


 けれども、舜の本意の想いと決意した姿を目の当たりにして、ただの満足でいられる筈もなかった。

 心を抑え切る事はもう――


「全ては、私に生きる目的を下さった陛下の為――陛下をお慕いしているからこそ」


 見つめ返した流麗の眼差しには敬慕と恋慕が入り混じった――しかし確りと情愛がある。

 

「例え毒婦と呼ばれようとも、この身も心も――私の全てを陛下に捧げます」


 流麗の心臓を抑えていた手が、心を指し出すように添えられた。


 ふと、それまで膝を突いていた舜との距離が近づいた。舜の身体が覆い被さるように、流麗を背凭せもたれへと追い詰める。流麗は頬を染めながらも期待の眼差しで見上げるが抵抗は見せない。

 舜の左腕こそ身体を支える為に塞がれていたが、空いた右手が流麗の濡羽色の髪を一房分掬って、そっと口付ける。

 それだけでも流麗は絵も言われぬ感情で顔が熱くなるばかりだったのに、眼差しに絡め取られ動くことすらままならない。


「名を呼んでくれないか」


 甘い声が流麗の耳を痺れさせる。

 

「今だけは――俺はただのしゅんという一人の男。だから、名を呼んでくれ」


 精悍な舜の顔に手を添えた流麗は、そっと囁いた。


「――舜」

 

 その一言が皮切りだった。

 互いに唇を寄せ合って、抑えきれない欲望が濁流の如く溢れ出す。

 重なった唇が惜しげもなく愛を奪い合っているようで熱情のまま溺れてしまいそうになる。

 しかし、人払いしたとはいえここは客間。部屋の外で様子を伺うような……ほんの些細な物音に、二人の唇は名残惜しそうに離れていた。


「……部屋を移ろう」


 吐息混じりの舜の声に、流麗は頷いた。



 ◇


 

 新たな年を迎える鐘の音が皇宮でも鳴り響いた。それは皇帝の居宮でもある耀光宮にも同じように届いた――筈なのだが、果たして今の二人の耳には聞こえたただろうか。



 皇帝の寝所――しとねの上で、舜は濃艶のうえんの色に染まった頬に手を添えた。男装混じりのほうが乱れ始めて、煽情的な姿はより一層、欲望を動かす。

 全てを目に焼き付けて、初めにまなじりへと口付けて。

 次は頬に。

 次は首筋と。

 満遍なく愛おしさを伝え、最後は水々しい柘榴を彷彿とさせる唇へと齧り付く。

 癖になる甘露な果実はどれだけ貪っても飽きる事を知らない。その果実も、舜に喰らいつこうとして艶めかしい腕が滑るように首へと絡みつく。

 手つきに初々しさはない。手慣れた女の部分が露わになって、また一つ女を知ったと思うと舜は立ち所に魅了されている気分に浸った。

 

 悪鬼の上に立つ禍々しくも勇ましき姿と、月光に照らされた妖艶なる姿。

 妖だろうか、それとも月精げっせいか。どちらだろうと、舜の心を掻き乱して止まない事に変わりはない。そう思うと、やはり流麗はある意味で毒婦なのかもしれないと舜は一人で得心する。そんな自身の考えに唇が離れると同時に自然と顔が弛んで笑みが溢れてしまい、流麗は首を傾げていた。


「どうかされましたか?」

「いや、やはりそなたは毒婦なのやもと思ってな。そなたを一目見た時から、俺は魅入られていたんだ」


 己の心が虜である事を示すように、舜は流麗の繊細な指先を絡めとり、口付けを落としながら呟く。指の一本一本をささげながらも、濃艶に染まった黒翡翠の目を細めて舜の耳元へと顔を近づける。

 

「今ならまだ、その毒婦から逃れられますよ」


 聞き逃せない言葉に、舜の瞳は直様に流麗を捉える。今にも、唇が触れ合いそうなその距離。

 甘い毒を囁いた女が褥の上で淡く笑う姿は、悪女の如く妖艶。今までに何人の男がこの毒婦の手にかかったのだろうか。邪推にも等しい思考は、舜の独占欲を芽生えさせるだけだった。


「まさか。今更手放すものか」


 舜は再び柘榴へと齧り付く。甘い毒に脳と身体を支配しているようで、目の前の女のことしか考えられない。

 どちらが喰われているとも判然としない状況で、熱情は高まるばかり。次第に身体は褥へと沈んでいった。

 


 



 新たな年が明け、一人の名が宮中を駆け巡った。

 年を跨ぐその時に四人の妃嬪を差し置いて刻帝と閨を共にした女がいると。

 皇帝を惑わし、己がものと言わんばかりに一度だけならず二度までも閨に入り込んだ不届きな女。

 一度だけならば若さ故の戯れで済ませた。されど、周皇后の廃后に加え転換期とも言える皇后選定を目前としたこの時期に穏やかでいられる筈もなかった。

 

 既に、皇宮には噂が広がりつつある。

 “毒婦”が白き面の下に隠した妖艶なる美貌と妖しきじゅつにより剋帝陛下の御心を惑わし、周皇后を廃后へと追いやるように仕向けたのだと。静謐であった後宮を掻き乱し、皇帝の心を掌握した悪女が次に求めるものは皇后位なのではないか、と。


 


 過去に実在した名も無き貴人を知る者は、限られている。

 陰と陽はどちらも欠けてはならない対なる存在。

 顓頊帝と名も無き貴人がそうであったように。龍の気と言われる陽の気質を宿す舜と、強い陰の気質を宿し禍が巣食う流麗。二人が互いに心惹かれあったのは、運命と言える。


 重なり合った二人の運命が一つとなりて、その先にあるものは――――今はまだ、暗い禍の底に眠ったまま、時を待っているのかもしれない。

 

 

 

 

 『妖血の禍祓士は皇帝陛下の毒婦となりて』 了

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖血の禍祓士は皇帝陛下の毒婦となりて @Hi-ragi_000

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ