三十一 毒婦 弐

 新年を明日に控えたその夜。皇宮の一角にて、多くの目線が一つ所に集まった。突如、姿を現したのは白い面の女――姚流麗。

 冷ややかな目線が一人の女へと注がれる中、流麗は何を気にする事もなく悠然と歩いた。その様は実に堂々としたもので、口が達者なだけの者など意に介してもいない様子。

 それもそのはず。流麗を皇宮へと招いたのは他でもない、剋帝陛下その人だ。




 耀光宮ようこうぐうのとある一室。

 冷気立ち込める夜に、火鉢で温められた客間は灯籠の明かりに満たされて橙色で染まり、その色味だけでも十分に温かみがある。

 客間には細やかな食事と酒が用意され、客人を今か今かと待っていた。

 

 流麗が案内された先には袞衣こんえ(皇帝の衣)程は堅苦しくはない大袖の長衣と直領半臂ちょくりょうはんぴの姿でゆったりと座る人物が待ち構えていた。その人物を前にして、流麗はたおやかな揖礼を見せる。だがその内心、目の前の人物に再び会えたと言うだけで、流麗の心は飛び跳ねていた。

 

「久しいな」


 穏やかな声が身に沁み渡り、流麗は思わず姿勢を崩しそうだった。初めて尊顔を拝謁した日を思い起こす程に、感情が昂る。そういえば、以前もそうだった。あの日ほど、顔を取り繕う事が得意で良かったと思えた日もない。流麗は仮面の下で感情を抑えるのに必死だった。

 

「お久しゅう御座います。このような忙しい年の終わりに、また陛下のお住まいへと招待していただけるなど、感激の極みに御座います」

 

 声を強張らせることなく言い終えて、流麗は悟られないように静かに息を吐いて安堵する。舜が指し示すままに対面の椅子へと座ると、漸く面を外した。勿論、自分の顔が緩んでいないかと気にしながら。



 それからは、ゆるりとして穏やかな時間だった。

 友人が邂逅を果たしたかのように、互いの近況を語り合う。

 どう過ごしていたのかを問われたならば、流麗は西の果てにて変事があったと答えた。仲間と共に悪鬼に立ち向かう事もあれば、禍に取り憑かれた人を癒しもしたのだと。

 されど、どちらも本心を隠しているように、どこか上部のような会話だった。だからこそ――本来するべきの会話を後回しにしているからこそ、穏やかな時間になったとも言えたのだが。

 

 料理が空になり、酒も随分と減った頃。丁度、会話の区切りでもあった。


 一瞬のしじまが穏やかであった筈の客間を支配した。

 互いに卓を挟んでいる筈なのに、双方の呼吸の音すら聞こえそうでならない。それまで柔和で対面していた筈が、少しばかり空気が重くなった。


 すると、その空気が嫌になったか、舜が音もなく立ち上がる。近くにいた女官に人払いするように命じ、給仕をしていた女官は元より扉の前で待機していた護衛官も、舜の命令と共に気配共々消えていく。遂には客間の中には舜と流麗の二人になっていた。

 ますます、静寂が耳についたがそれも直ぐに遮られた。 


「流麗」


 と、自身の名を呼ぶ舜の声に耳を擽られながら、流麗は静かに「はい」とだけ返した。


「今日は話したい事があって呼んだのだ。だが、そなたに拒絶されたらと思うと怖くて、なかなかに言い出せなかった」


 物憂げに目を伏せて心中を告げる舜は言葉通りに恐れをなしているのか、どこか幼い。それが、皇帝という衣を脱いだ姿の姫舜という人物らしさと思うと、流麗は心打たれて頬が染まる。自分にだけ、そのような姿を見せてくれるのかもしれない――そんな考えまで過ぎる始末。

 

 卓を挟んだ分だけあった距離。燈の色味。僅かな人の気配。流麗の隠しきれない動揺を誤魔化すには丁度良い要素だったのだが、人払した今は最早無意味と化す。

 舜は流麗へと歩み寄る。未だ椅子に座ったままの流麗は、近づく舜の姿に釘付けのまま動けなかった。視線に絡め取られてしまったかのように指一本すら動かす事が出来ない。そんな流麗を知ってか知らずか、舜の指先がそっと淡く色付いた頬に触れる。

 その温もり。流麗にとっては、熱いとすら感じるその熱量に思い違いをしそうなまでに、鼓動が高なった。その指が、頬をさらりと撫ぜれば殊更に。


 ただでさえ、うるさいくらいに鼓動が耳の中を埋めて落ち着かないというのに、頬を撫でていた舜の手が今度は大人しく膝の上に置かれていた流麗の手を絡め取って、流麗はどうにかなってしまいそうだった。これ以上心臓が早鐘を打つなら、止まってしまうんじゃないだろうか。普段なら馬鹿げた事、と言って一蹴してしまいそうな考えすら払拭出来ず、頭は混乱して思考は完全に止まっていた。

 舜が、あちらへ座ろうと窓際にある長椅子に視線を向けて、流麗はただ頷く事しかできない。手を引かれたまま誘われた先で、隣に座るようにポンポンと椅子を叩いて促されるのも黙って従うだけだった。

 

 そろりと自身の手を見れば。舜のごつごつとした男らしい手が重なったまま。思わず目線を上げてその先を辿れば、されるがままの流麗を満足そうに眺める男へと辿り着く。双眸が向ける眼差しはこの上なく熱く、その瞳に籠る意味が理解できない訳がない。

 

 今、自分はどんな顔をしているのか。握られたままの手が一夜を共にした時の温もりすらも蘇りそうで、流麗にはもうどうやって顔を取り繕えば良いのかすら、わからなくなっていた。

 そんな呆然とする流麗をどう解したのか、舜がポツリと言葉を零す。


が望めば、そなたは手に入るのだろうか?」


 静寂を突き抜けて、触れた手のぬしの口から鮮明に聞こえた蜜語みつご

 皇帝陛下直々のその言葉に流麗は固まった。同時に、風左丞相の言葉の真意が見つかった気がした。


『陛下の決断で、あなたがどういう立場を選ぼうが、我々風家は姫家と共に姚家の後ろ盾となる事を約束しよう』


 左丞相の言葉通りであるならば望まれるまま手を取ったとしても、姚家の立場は揺らがない。だが――

 

 ――ただの女であれば、この上ない言葉だっただろうか。左丞相の言葉を鵜呑みに出来ただろうか


 そんな浮ついた考えを振り払い、すうっと冷めた熱が流麗の口を合理的に動かした。


「陛下のお言葉、大変嬉しゅう御座います。けれども、今は皇宮も転換期のはず。については私も耳にしております。次の皇后位の選定に慎重になっている時期にございましょう。ここで混迷を生み出すのは悪手にございます」


 流麗の冷静でいて、己を押し込んだ口振に舜は口の端を上げた。

 

「混迷か。それも面白いな」

 

 ふっ、と含んで笑う様子は流麗の殺した感情を引き出そうとしているように、柔らかい空気を醸し出す。

 しかし流麗は危機感しか覚えず、思わず「陛下!」と、声を荒げた。


 新たな皇后を迎えるという大事を前にして、流麗の困惑は計り知れない。舜の大胆不敵とも言える発言に、澄ましたままでなど到底いられないだろう。

 流麗は舜に――剋帝陛下に身を捧げる覚悟がある。だからこそ誓いを立てたのだ。

 だが、全ての臣下が無条件に舜に仕えている訳ではない。現状で毒にしかなり得ないと想定する異物を安易に受け入れる人物は多くはない――寧ろ嫌煙ずる筈。特に、先帝の件もあり、女絡みとなると殊更に後ろ向きに捉える可能性が高い。

 

 内政に不和を呼び、反感を買う。敵意が全て流麗に向けられるのならば、流麗は全て背負おう事も厭わない覚悟がある。しかし、現実はそうは行かないだろう。いくら左丞相が背後にいたとしても、周皇后と離縁した事で周右丞相は味方どころか、流麗に憎悪を抱いていてもおかしくはない。現状、流麗という存在は舜を窮地に立たせる弊害。どれだけ舜に望まれようとも、流麗には絶対に出来ない選択だった。

 だから――流麗は一つ、震えるように息を吐く。気丈な振る舞いから一転して、弱々しくもそっと自身が忌避する真実を小さく零した。


「陛下、私は子を産めません」


 流麗は舜の目が見れなかった。自身では口にしたくはなかった事実。自らの下腹部を押さえて、そこに何かあるように示す。自身が、如何に相応しくはない存在であるかと証明し続ける為、衝動にも近い心情が流麗の口を動かし続けた。


「私は姚家であって、姚家に属する者として看做みなされません。女は妖血。貴人の血を濃く受け継ぐ女は悪鬼を孕むとされ、婚姻こそ結ぶ事は許されても、姚家当主が生まれた時にかけるじゅにより子を身籠る事ができなくなるのです」

「だから、婚姻は縁がないと言ったのか?」


 流麗は苦しくも、頷く。

 

「……私は生涯一人で生きるつもりです」

「流麗、そもそも俺は子を望んでいない」

「ですが、国主としては必要のはずです」


 流麗は舜が何を言おうと跳ね除ける覚悟だった。「私などとは――」、そう言いかけて、再び頬に熱が触れて言葉が詰まる。恐る恐る目線を上げて隣を見ると、自身の言葉を否定されたとは思えない穏やかな眼差しが流麗を見つめていた。

 そうして、薄く開いた唇がゆっくりと動き出した。

 

「俺は、皇后を選ぶ気はない」

「陛下それは……」

「直ぐにとはいかないが、後宮もいずれ解体する予定だ。……以前話を聞いて欲しいと言った事を覚えているか?」


 流麗は呆然と頷く。


、二つ。それぞれに共有する秘密があると言っただろう。一人は、隋徳。そして、もう一人は蒿李――周皇后だ」


 流麗の肩が僅かだがぴくりと跳ねる。


「――尚は、俺の実の子では無い」



 ◆◇◆◇◆




『私は不義理を犯しました。ですが、どうかこの子の命だけは――』


 眼前で、妻になった筈の女が平伏しながらも、口にした言葉に舜は淡々と見下ろした。

 初夜を迎える筈だったその日、向かい合った閨。寝台の上で平伏しながら蒿李は肩を震わせていた。

 額を擦り付け、これ以上ない姿を見せる。自分の命も、無理矢理皇后へと押しやった父親や親族の命などどうでも良い。全てを投げ打った姿だった。


『月のものが来ておりません。身に覚えもあります。このままいけば、姫家の血を受け継がない子が陛下の子を名乗る事になってしまいます』


 舜はまだ十五歳だった。蒿李は二十一歳。本来であれば、蒿李は若き皇帝の支えになる為に選ばれたとも言える。その支えるなる予定だった人物は、若き皇帝を前にしてただただ必死の様子だった。

 

 己の首を斬られる覚悟。だが、子だけは何に変えても助けたい。助命を乞う蒿李は覚悟を見せる。けれども、必死の覚悟を前に、舜は小さく笑って顔を上げるように言った。


『蒿李、余とそなたは共に秘密を抱える事になったな』


 とても、十五歳とは思えぬ言葉と超然とした姿を前にして、蒿李は言葉を紡げなかった。


『丁度良かった。実を言うと、子を儲けるつもりがなくてな。官吏達にどう言い訳をするかを悩んでいたのだ』

『……陛下……ですが、それでは……』

『呪われた血など、途絶えた方が良い。余の代で終わらせるつもりだ』


 だから、と仄暗い表情で舜は続けた。


『これから生まれる子は、余の子供だ。何も気にする必要はない』




 ◆◇◆◇◆



 


「尚は周皇后が婚姻以前に孕った子だったが、俺はそれを知っても尚が後継でも良いと思った。……それが、蒿李は不安に苛まれ続ける理由でもあった。愚かな俺は慰めていれば、いずれ落ち着くと信じていた……だが、それも間違いだった」


 語り終えた舜は一息つく。けれどもその表情は、肩の荷が降りたように澄み渡っていた。

 その表情のまま、舜は流麗の顔を覗き込む。


「そなたは皇后位を望むか?」

「私の家柄、使命を前にしては皇后位は務まりません。何より、官吏達の反感を買う恐れが多い。陛下の立場を揺るがす行為は受諾出来かねます」


 流麗の瞳は真っ直ぐだった。真実を物語る瞳は、曇りもなく、舜に向ける熱意も変わりない。けれども、吐き出す真実の重みばかりがずんと流麗にのしかかった。しかしそれでも、子を孕めない様な女を受け入れるべきではない。姫家の血を守るべきだという考えが払拭出来ない思考が言葉を紡ごうとしたが、舜は流麗が何を言うか悟って言葉を遮った。

 

「俺は血が全てではないと思っている。同じ血だからと言って、間違いが起きない訳ではない。玉座には相応しい者があるべきだ。だが、国を統治するにふさわしい者が存在したとしても、姫家のような世襲を前にしては消えていくだけ。ならば、この血は俺の代で終わらせるべきだ」


 舜の言葉もまた、重かった。国の重みを体現するその身がより言葉を重くする。けれども未来を憂うのではなく新たなる未来を願う男の口は饒舌に続いた。


「古い時代の皇帝――それこそ、姫家が国を治めるよりも前は、皇帝の資質があるものに皇帝位を禅譲ぜんじょうしたという逸話がある」


  古い、御伽話のような話だった。

 太古の世、まだせんと言う国ですらなかった頃。最初の皇帝と言われている青帝せいてい太昊たいこうは、実子ではなく炎帝えんていへ皇帝の座を譲った――そんな神話が確かにあった。

 また別の神話でも、炎帝の末裔たる赤帝せきていが姫家の始まりとされる黄帝こうていへと皇帝位を禅譲ぜんじょうしたと言う話もあるのだが――どれも、実しやかなる話である。


「ですが、それは――」


 夢物語を耳にした流麗は呆然とした。何せ、黄帝の後、数百年以上の歳月を姫家が世襲によって国を治めているのだ。

 そんな流麗を見て、舜は顔を綻ばせ笑って見せた。が、あまりにも流麗が固まったままなものだから、頬を触れていた手を離して流麗の髪を撫でた。


「途方もない話をしているのは判っている。だが、左丞相の理解は得た。これはそなたがどう答えようとも、俺の意思が変わる事は無い。どの道、事を成しえた頃には老人になっている可能性とてあるのだ。だが、何があろうと、そなたがどう答えようともそなたを想う気持ちに変わりはない」


 舜は椅子を下り、いつかの流麗の姿を彷彿とさせるように膝をつく。


「陛下!」


 流麗が慌てて舜を立ち上がらせようとするも、舜は遮り流麗に座ったままでいる様に静止させた。膝に置かれたままの手を取ると、決意ある言葉が溢れ始めた。

 

「流麗。俺が玉座を降りる事は容易ではない。異母兄上の意志を継ぎ、国を、民を安寧に導かねばならん。本当に相応しい者が見つかるかどうかもわからない。何よりも俺と共にいて、悪意を向けられるのはそなただろう。下手をすれば毒婦と揶揄されるだけでは済まないやもしれん。だが、その全てからそなたを護ると誓おう」


 流麗は続く言葉に息を呑む。舜の双眸から目が離せなくなり、遮り言葉も何一つ浮かばない。


「俺が心の底から欲しいと希うのはそなただけだ。俺は――そなたと共に生きたい」


 舜の目に映るのは純粋な想い。

 その目には、暗闇で見た金色は今はない。だが、龍眼に勝るとも劣らない輝きが舜の目に宿っている様にも見える。

 手が熱い。想いが燃えるが如く、流麗の胸の高鳴りは激しくなるばかりだった。

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