三十 毒婦 壱

 また、ひと月の日々が過ぎた。

 深々しんしんと降る雪が深い冬を呼び覚まして、突き刺さるような寒さに凍える日々が続く。暖かい日々が恋しくも、春はまだ遠い。

  

 皇宮は現在、周皇后の廃后により慌ただしくあった。永く心の病により臥せっていた周皇后が、悪鬼に取り憑かれた事による心身の衰弱が見受けられると巫覡ふげきによる診断が下されたのだ。それにより、周皇后はこれ以上務めを果たすのは不可能であるとして、自ら離縁を申し出た――――のだが、これに反した噂も広まりつつあった。


『剋帝陛下が毒婦の巧言こうげんに騙された結果なのではないか』、と。


 理由は、単純だった。剋帝陛下の肉体は健康そのもので、既に道士、侍医共々のお墨付き。その上、政務の隙間には剣を振るようになり、今までにないほどに快活なる姿を見せていた。後は、後宮の誰か一人を選んでさえくれたならと願う声が上がるのは当然の事だろう。

 くだんの毒婦の一件以降も、剋帝陛下は妻達のもとを幾度と訪れていた。

 しかし、だ。思惑ある官吏達が望む形とは違う、今までと同様に四人の妻を平等に気遣い、食事のみの邂逅だった。その様な状況下では、毒婦が言葉巧みに皇帝を誘導し、巫覡に虚偽の診断を下すように命じた結果なのではと邪推が生まれるのも、当然やもしれない。

 


 ◇


 

 枯れ木ばかりの庭園で流麗は一人、白い面の上に降り積もらせるように空を仰ぎ、鈍色の雲から降り注ぐ雪を眺めていた。皇宮に勝るとも劣らないと言われているその庭は、冬とあって閑散としている。

 殆どの樹木の葉も落ちて、積もった雪が花の役割を担うも、曇り空の下では侘しいとすら感じてしまう。

 だが侘しく思う原因としては、降雪の中で待たされているから、と言うのもあるのだろう。まあ、歓迎されていないと言うわけではなく、流麗が邸の中に招待されたのにも関わらず断りを入れたから、なのだが。居心地が悪いから、と。

 そうして寒空と侘しい庭園を眺めるだけの時間となったのだが――そこへ、ゆっくりと近づく影が一つ。流麗はそれに気がつきながらも、変わらず空を見上げたままだった。 


「この時節、この辺りは何も無いだろう。それとも、見えるのか」


 随分と機嫌の悪そうな声が、凛々とした風と共に流麗へと届いた。厳粛な顔付きで寒さをものともせずに現れたのは、ふう左丞相さじょうしょう。流麗は驚く様子もなく一瞥をくれて、そっけなくも木々へと目線を移した。そもそも、流麗が今いる庭園も風家の敷地内であり、流麗は招待された側だ。


「大したものはいませんよ。のでしたら、気にする必要も無いかと」


 流麗の目線の先には、古い……今にも倒れそうな一本の黒ずんだ古木の下で、泣きくれる女がいた。甲高い声で啜り泣いて、他の何一つに見向きもしずに蹲るようにして袖を濡らし続ける。高貴な身分を思わせる絹の衣を身につけてはいるが、黒ずんだ衣は土の中から這い出てきたよう。言わずもがな幽鬼であるが流麗は何をする事もなく、再び目線だけを風左丞相の声の方がへと向けるがその先には左丞相ではなく、その後ろの木々だ。

 風家といえば高位貴族どころか、姫家とも台頭に渡り合える家柄である。それに比べて、姚家は下位貴族。不躾な態度にも関わらず、風左丞相は流麗に対して言及はなかった。 


「以前、断りを入れた事は謝罪しませんよ」  

「構わん。あなたが従うべきは私ではないからな。こうして、話をする場を設ける事ができただけでも良しと思っている」


 互いに目線すら合わせないのは、何も初対面だからと言うわけではないだろう。不穏すら感じさせる空気の中、先に口を開いたのは左丞相だった。


「剋帝陛下のお身体の件、ひいては周皇后の件においては感謝申し上げる。出来ればもう少し早くそちらの存在に気づけていれば良かったのだが」


 左丞相の口調に抑揚はなく、一聞では辛辣にも思える。だが、流麗にはそういった話し方に覚えがあった。一切の機微もなく感情を乗せない話し方は父親の性質と良く似ている。単に気質か感情を読み取らせない術という考えに至ると、年齢も同じくらいだろうかと流麗は脳裏に父の姿が浮かんだ。そうすると殊更に左丞相が不機嫌を曝け出している印象は薄らぐ。

 だからと言って、流麗の口調が変わらず寒々しいままだ。

 

「そちらとは違って、我々は顓頊せんぎょく帝の言葉のまま裏側でこそこそと生きておりますので。それで、今日はの説明でもして頂けるのでしょうか?」


 左丞相は答えない。虚無でも見つめているような双眸は庭園の遠方を眺めたまま。流麗がそれを気にする様子はなく、辛辣な口調のまま続けた。


「不思議だったんですよね。誰にも伝わる事の無かった情報が、資料を漁った程度で姚家に繋がったという話が。しかも、見つけたのは文書保管をしていた者でもなく、姫家の者でもない。隋徳様は陛下の直近でお仕えする侍医ではあらせられますが、丹省の出身。姫家に詳しい訳ではないでしょう。誰かが、隋徳様の見える位置に資料を置いた。もしくは、隋徳様に情報を伝えた人間がいると思うんですよ」


 一頻り話した言葉に区切りをつけるように、流麗は鉛色の空へと向かってわざとらしく「はあ」と、白い息を吐いた。

 

「それが、私だと?」

「別に左丞相とは言っていませんが。まあ、代々左丞相を勤める風家程の古い家柄であれば、一番可能性がある……というだけですね」

「ただの憶測か」

「ええ、憶測です。その憶測ですと、風家は姚家の存在を知り得ながらも、惨状を見て見ぬふりを続けたのではないかと。儒帝陛下の時代に我々の情報を出さなかったのは、仙朴道観せんぱくどうかんの惨劇があったからでしょうか。それとも、儒帝陛下の死を……待っていたのでしょうか」


 流麗の視線が完全に左丞相をさした。深い黒翡翠の瞳が白い面の向こうから、じとり。その視線にも左丞相は一瞥もなく、淡々と「どちらもだ」と答えた。


「私を責めるか?」

「いいえ。我々にもやり方というものがあるように、そちら側もまたやり方がある。内政に無知な私に責める権利はありませんよ」


 責めるつもりはないと言いつつも、流麗の冷めた口調も、眼差しにも変化はない。しかしそれは何も左丞相を責めてはいないという言葉通り、自らに向けているようでもあった。


「皇宮って、結界になっているんですよ。外側からは良く見えない」

「残念ながら、我々にはもうそう言った目を持つ者がいない。お陰で能力ある者すらも判別ができない有様だ。そこに最後の賭けとも言える存在を入れたとて、信用を勝ち取る以前に先帝陛下により家ごと潰されるどころか血を根絶させてしまうのは明白だった」

「何故、隋徳様に?」

「私は陛下に臣下としての信頼はあっても、懇意と言える間柄ではない。私よりも隋徳侍医の言葉であれば、陛下は容易に飲み込むだろうと考えたまでだ」


 そこで言葉が詰まったが、漸く左丞相は流麗へと視線を返す。眉根を寄せて、厳粛なる顔つきがより強張った。

 

「食わせ物の化け狸ではあるがな」


 まるで、隋徳が何をしたかを知りえており、脅威として認識している口ぶり。此処にはいない隋徳侍医へと向けられたものだが、まるで目の前に存在するかの様にあからさまだった。

 だがその視線は流麗とも勝ち合う。懸念は流麗にもあると言わんばかりに、疑念の籠った威圧がひしひしと左丞相から放たれていた。


「以前、呼び出そうとしたのは警告ですよね?」

「ああ、世継ぎ問題がある現状で、あなたの存在は危険因子でしかなかったからな」

「まあ、そうでしょうね。ですが、あれは陛下が妃嬪達の間に不和を生まないために利用したに過ぎません」 


 警戒を見せて、流麗は左丞相に背を向けた。嫌悪には慣れている。が、やはり心地が良いものではない。気分を変えようと並木道を歩き始めた流麗に対して、左丞相は後を追った。


「本当にそれだけだと思うか?」


 背中から響いた声に流麗は言葉が返せず、思わず口を引き結ぶ。背を向けているのだから見られる事はないのに、思わず仮面が外れていないかを確認しようと手がそれへと伸びた。

 自分でも気がつくほどの動揺に、流麗は一度足を止める。舜の眼差しに思い当たる節が無いと言えば嘘になる。だが、流麗は心の片隅で勘違いだと自分に言い聞かせてもいた。

 そこへ、同じく足を止めた左丞相は追い討ちをかけるように続けた。


「あなたを妃嬪に加えて事が終息する事が出来たならばどれだけ楽だったか」

「私のような下位貴族が……しかも悪い噂が立っている女を後宮に入れたなら反感を買いますよ」

「何、口出し出来ぬ身分を与えれば良い。例えば、あなたを風家の養女として迎え入れ、後宮に新たな位を設けて、そのまま皇后へ押しやる。簡単だ」


 左丞相は変わらず抑揚のない声で軽々と話したが、実際は簡単では済まないだろう。手続きやら何やらは必須な上、それだけでは終わらない。口で言うよりも相当に面倒な筈だ。流麗は不信感を募らせ、左丞相から逃げるように再び歩き始める。どちらにせよ、簡単だからと言って頷くわけにはいかなかった。

 逃げても逃げても、左丞相は後を追ってくる。当たり前だ、何せ流麗と話すために招待して、流麗もそれが理由でここにいるのだ。観念したように、流麗は左丞相に背を向けたままで言葉を放つ。 


「私は、国母にはなれませんよ」

「だろうな。については知らされている」


 流麗の肩が、僅かに跳ねた。左丞相の抑揚の無い声が心臓を凍えさせられたように締め付けれた気がしてならなかった。


 ――望んで、そうなった訳じゃない


 喉まで出かかった言葉を、流麗は拳を握り締め飲み込む。 


「姚家の女児は出生記録もなければ、死亡届もない。墓もない。我々には理解し難い一族だ」

「女は出生してすぐに道観へ預けられ、そのまま育ちます。どうが家のようなものです」

「では、生涯存在しないまま生きるのか?」


 そこで、流麗は足を止めた。丁度、先ほどの泣きくれた女がいる目の前。しかし、女は泣きくれたまま、流麗には気づいていないようだった。

 そのまま、女の横を通り過ぎて、古木へと手のひらを押し当てるように触れる。

  

「……姚家の女は、人ではないから。かもしれませんね」


 ずず――と古木が唸った。墨を筆で混ぜたように、黒がうねり、蠢く。耳鳴りのように、ずず――という音が続いて、古木の黒がどんどんと消えていく。いや、流麗に飲み込まれている、といった方が正しいか。左丞相にも全てが見えて、聞こえているのか呆然と流麗の姿に目を見開いていた。

 流麗の言う、人でないの意味を鑑みながら。

 流麗の手が離れた時には古木と思われた木は生気を取り戻したか、真っ当な樹木の色へと変じる。


「気になるようでしたら巫覡ふげきを呼ぶことをお勧めします。木一本にしか影響しない存在ですけれど、絶対に変化しないとは言い切れないので」

「……ああ、そうしよう」 


 抑揚の無い声は変わりない。けれども、呆気に取られたと言わんばかりの目線は上へ向いている。その目線の先は、蕾だ。枝先にぽつりぽつりと出始めた蕾はそのまま膨らんで、ゆっくりと花開く。白い梨の花が咲き始めていた。


「気脈に触れたので、一時的に活性化しましたね。すぐに治りますよ」 


 流麗は何気ない日常を語るように言い放って、隣へと並んだ左丞相へと顔を向けながらも目線を落とす。力の一端を見た左丞相にも、真実は映る。本当に力のある者なのだと見せつけられたのだ。


「どうやら、本物のようだ」

「詐欺師だと?」

「最初は疑っていた。一度確認したかった」

「満足でしょうか」

「ああ、これで心置きなく陛下の考えに乗れる。例え、あなたが人でなくとも、だ」

「何の事でしょうか?」


 今まで全て冷淡かつ澄ました口調で受け答えしていた流麗は、左丞相の真意が見抜けず小首を傾げる。しかし、左丞相は流麗の疑問に答える事はなく「今日、耀光宮へと招待されているとか」と淡々と述べた。


「その為に皇都に戻ってきたんです」


 流麗の疑問に答えない事と、無粋な発言へと向けてじっとりした瞳が訴えるように左丞相を睨める。そんな流麗の様子に左丞相は鼻で笑って返した。しかしそれも束の間。再度、視線を上げて梨の花を双眸に捉えた眼差しは、流麗を懸念してた時と変わりない程に強く意味の込められたものだった。

  

「陛下の決断で、あなたがどういう立場を選ぼうが、我々風家は姫家と共に姚家の後ろ盾となる事を約束しよう」


 やはり真意は見抜けない。が、流麗の口は抜け抜けと動いた。 

  

「ありがたいお話ですが、糸寂道院しじゃくどういんとつけてくれると助かります」

「良いだろう」 


 流麗の要求に対し左丞相はあっさりとした返事だった。


「あの……言っといて何ですけど、私が今何て呼ばれているか知っているんですよね?」

「剋帝陛下をたぶらかした毒婦だろう」

「今、私に関わると風家そちらの立場が悪くなると思うんですが」

「だろうな。だが、姚家が明白な存在になった今、剋帝陛下以外の後ろ盾は必要だ。どの道これから内政は荒れる。風家と陛下が姚家の側であると意思表示があった方が何かと有用だ」


 事が治るかどうかは陛下の手腕次第だ。と、断言にも等しい口調は妙に説得力があった。真意は掴めないままだが、何故だか話が全て終わったような気がして、流麗は念の為に「終わりでしょうか」と問う。


「ああ、話ができて良かった。陛下がに唆かされたわけでは無いのだと安心できた」

「それは何よりで」


 変わらない素っ気ない口調に、左丞相は顔色一つ変える事なく背を向けた。視線は庭園のその向こう。城にも等しい規模の邸が連なる方へと歩いて行く。

 流麗もまた左丞相を見送る事もなく背を向ける。広大な庭園の一端から抜け出すべく、出口を目指したのだった。

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