二十九 夫婦

 眩い午後の日差しが、開け放たれた窓から寝室へと入り込んだ。遠い記憶を思い起こさせるように、穏やかでいて暖かい日和。季節は冬へと移り変わるも、今日ばかりは春を思わせる。そのおかげか、蒿李は身体が軽かった。

 

 寝台の上で上体だけを起こして、窓から覗く景色を眺めるだけならば、時の流れでも数えるようにゆったりとした時間だっただろうか。だが、窓から伸びる陽光の先を辿れば、寝台のすぐ横に座る一人の男へと突き当たる。夫には程遠くなってしまった男の、最高権力を保持しているとは思えない程に苦々しくも難しい面持ち。そんな顔が横にあると、穏やかなひと時などまやかしのように消えていた。


 互いに目が合わせ難く、夫婦とはどうやって会話をするものだろうかなどと、ぼんやり考える。元々、まともな夫婦の形でもなかったと思うと答えは到底見つけられそうにもなかった。

 抱えた秘密が、夫婦として機能せざるを得なくなっただけ。そう思うと蒿李の中で沈んでいた苦い過去の記憶が浮かび上がって、殊更目線は下がるばかりだった。

 

 思い返した記憶の中で、蒿李は夫の姿を思い浮かべてみる。結婚した時は――そう、まだ夫は十五歳だった。あどけない少年が必死に大人になろうとして、蒿李には罪悪感がひしひしと湧いたのだ。

 容姿にはあどけなさが残り、純粋な心ゆえか恋慕には疎い。しかし、高潔な思想は大人びて、皇帝の器なるものを思わせた。

 

 その時の十五歳の少年からの思慕は確かにあった。恋焦がれて思い募らせたものではない。孤独で、心の寂しさを埋めるように愛情を求めるもの。蒿李は、まだ十五歳というあどけなさが残る柔らかい眼差しが求めるものを当時理解していた。

 姫家として重積を感じながらも皇帝であろうとした。未熟な年頃ながらも夫になろうとした。子が生まれたなら、手探りながらに父親にもなろうとしていた。姫舜という男は孤独から逃れるように、掌の上のものを一滴たりとも溢さないようにと必死だったのだ。

 

 だからこそ、尚の存在が夫婦の形を瓦解させたのだと、蒿李は一人得心していた。

 

 蘇った罪悪感がそうさせたのか、蒿李は日差しから目を逸らして夫である男へと目を向ける。幼くは無い。あどけなさも無い。一人の男が黙って座っているだけだ。

 目が合った事で男からは苦々しい面持ちは消えて、毅然とした姿で目線を返す。その瞳に、かつてはあったはずの思慕は見当たらない。

 そう思うと、ますます刻々と過ぎ去る時間と共に夫婦らしい形から遠のいているような気がした。

 蒿李の思考が変わらずぼんやりとする中、合わせた双眸が一度瞬きすると、夫の口からはふうと心身を整えるように息を吐いていた。


「顔色は良さそうだな」


 優しい声だった。かつて感じたあどけなさは消え、優しくも男らしい声音を響かせる。


「ええ、おかげさまで。ようやく身体を起こせるようにまでなりました」


 悪鬼が現れたと言われる騒動から、ひと月が経とうとしていた。、舜が蒿李の元へと見舞いへ訪れるのは初めての事だ。だがそれ以上に、互いに夫婦としてもまともな面合わせも無いのだと思い出した口が気まずそうに口を開く。 


「そなたとこうして話をするのは、いつぶりだったか」

「随分としていませんね。私が病床になければ、きっと今もなかったのではないでしょうか」

「痛いところを突いてくるな」


 そう言いながらも舜の顔は和らいで、蒿李も釣られて静かに微笑む。同時にひと月の間、考え続けて固まった決意を胸に舜の顔を真直ぐに見た。


「陛下、今日は折言って話があります」

「……なんだ」

「離縁を受け入れて頂きたく」


 舜は一瞬の機微は見せるも、動じてはいなかった。


「離縁してどうする。周右丞相は悪い人間ではないが、甘くはないだろう。そなたを無理矢理皇后位に押しやった男だ」

「ええ、家には帰れません。ですので、出家しようかと。後生、尚を偲んで生きていこうと思います」


 舜は驚いた顔こそ見せたが、蒿李の落ち着いた口調が本気であると悟ったのか直ぐに平静に戻る。一言、「そうか」と納得したような言葉を零しては物憂げに目を伏せた。

 滅多に見せない落ち込んだ姿に、蒿李は悩ましげに目線を落とす。 


「陛下。私は陛下の優しさが辛かった。陛下はお優しすぎる。私の不義理に付き合う必要は無かった――私を置物とでも思えばよかったのに、親子共々気遣って下さる。陛下のお優しい心を見れば見る程に、心が締め付けられました」

「馬鹿を言え。余こそ、そなたを利用したも同然だった。尚がいなければ、生涯子供も持てぬ人生だったかも知れぬ」

「……お互いに、もっと言葉を交わし合えば良かったかもしれませんね」


 蒿李は目を伏せて今更ながらに後悔を見せた。もっと、その優しさに甘えていたならば結果は違っていただろうか。我が子がいずれ、皇帝位につく事に罪悪感なく生きれただろうか。我が子を失った後も、心から目の前の男を信じ愛する事が出来ただろうか。

 もう手遅れでしかないもどかしい思いが、蒿李の心中を駆け巡った。が、同時に男の優しさの思い出と共に、自分の過ちも蘇る。


 ◆◇◆◇◆ 


 ――四年前。

 尚が息を引き取った、その日。蒿李は絶望の淵にあった。愛しい我が子の亡骸を目の前にして、後悔ばかりが浮かんでは、心根に降り積もる。

 日に日に衰弱していく我が子から目を逸らす事も出来ず、しかし手立てもなく死を待つのみ。

 そうして迎えたその日ほど、蒿李がを呪った事は無かった。己が命よりも大切なものを失い、擦り減った心の最後の薄皮程度の膜が引き裂かれるような感覚に襲われて、脆くも心は均衡を失った。


 舜もまた、心は沈んでいた。だが国を動かさねばならない立場では、立ち止まるわけにはいかない。毎日のように、政務の合間を縫って舜は蒿李の下へと訪れるが、共に肩を並べて慰め合う事はない。

 決して立ち直れとは言わない。蒿李の身体を心配し、休むように言う。食事をするように促す。蒿李が自害に手を染めぬようにと、ただ見守るに努め続けたのだ。

 しかし、舜が蒿李の下へと訪れるたびに、蒿李の胸中には一つの考えが宿っていた。そうして、ある時限界を迎えた心が、舜に向かってぽろりと一つの言葉をこぼした。


『こんな所に来なければ、尚は死ななかった』


 それこそが、別離の時だったのだ。 

  

 ◆◇◆◇◆ 


 当時の、舜の絶望としか言いようのない顔は永遠に忘れる事はできないだろう。もう、愛を求める事も烏滸おこがましいのだと、口を結んで蒿李は堪える。

 後悔などあってはならない。己がしでかしてしまった事を胸に刻みつけて、蒿李は今一度目の前の男を見やった。


「陛下、私は心が耐えきれないばかりか、尚の死で皇后の役割すら放棄していました。更には悪意に呑まれ、陛下を害そうとすらしたのです。何より私の心は脆い。再び、己が心に呑まれないとも限らないでしょう」


 蒿李は平伏できない代わりに、出来る限り頭を垂れる。

 愚かな自分を罰するかの様に。


「どうか、受け入れて下さいまし」


 蒿李の判断を耳にして、舜は逡巡が深まり瞼を閉じる。しかし、次にその目が蒿李を映すのに、そうは時間は掛からなかった。

 ただ、別れを惜しむように声は沈んでいた。

 

「……わかった。右丞相にも此度の件は書簡にして送ろう」


 そこで漸く蒿李は頭を上げて、落胆の色を見せる男を見据えた。

 未だ二十二歳と若い皇帝。

 周皇后との離縁は、皇后位の空位を意味する。その座が空席となれば、埋めようと周りは必死となるだろう。特に、後宮に意味を求める者達は――。


「これから、陛下はどうされるおつもりですか? そう貴嬪きひんを皇后の位に着かせる気は無いのでしょう?」

「彼女は皇后どころか余に興味がない。元々、自由に過ごす事を引き換えに貴嬪という厄介な立場を買ってでた、ただの穴埋めだ。皇后など滅相もないと笑顔で断りを入れるに決まっている」

「では、しょう貴人に? 陛下の従兄妹であらせられますし。とても出来た人物だと耳にしています」

「やめてくれ。彼女は望んで後宮に入ったが、どうにもな。母に似通っていて、女として見るのは無理だ」


 舜の記憶の中で、母の顔は自身に微笑みかけた時だけだ。黒い靄が晴れて、今一度、後宮に通うようになったものの、今度は記憶が邪魔をして母の生き写しのような蕭貴人をまともに見やる事さえ出来ないでいる。

 今も、何か一悶着あったのだろうと推察できる渋い顔。苦々しい記憶を思い浮かべてなのか、嘆息が今にもこぼれ落ちそうだった。


「では範宮人……」


 範宮人という名前を出して蒿李は思い出したように、心の臓が潰された程に怯える彼女の姿が思い浮かぶ。無意識だったとはいえ申し訳ない事をしたと思うと、今どうしているのかが気になっていた。


「範宮人といえば……彼女は今」

「ああ、宮から出てこなくなったな。どうにも麒麟宮で心胆寒からしめる目にあったとか。余との夕餉も体調が優れないとかで断られている。一体何をした」


 舜の目は、悪戯をする子供だった。悪事を白状しろと言われても、ただ脅かしただけの蒿李にとって言える事は無い。「聞かないでくださいまし」と無難な回答にとどまった。それ以上の追求が無いようにと、話題をすげかえる為に「それで、」と続ける。

 

「範宮人は如何ですか? 一番意欲はありそうですが」

「彼女の癇癪の噂を知っているか? 皇后位など、到底任せられない。それに、範家の父親の強欲さも目に余る」

「では、呂美人に?」

「彼女は武官に戻りたいと何度と申し出を受けている。軍部にも確認をしたが、風羽燕うえん将軍に並ぶ実力者だとか。後宮で燻らせておくなど勿体無いと、軍部からも直接話は聞いている。呂家がどう動くともわからんが、なんとか叶えてやりたい」


 決めきれないと言うよりも、決める気が無い。蒿李の前では本心を隠す気がないのか、御託を並べてばかりの顔は幼くなっていた。


「陛下、ではいつかは選ばねばなりませんよ」

「……ああ」

「姚流麗が気になるのならば、誰かを排斥にするか……新たに位を設けて後宮に入れてしまえば良いではないですか。陛下にはその権威がありますよ」


 道院や寺院に身を置く者でも婚姻は出来るのですよ、とくすくす笑って舜を揶揄う。皇帝の権威を持ってして命じてしまえば姚流麗を手に入れる事など容易い。

 だのに、何故だか本人は気落ちした様子を見せているではないか。


「陛下?」

「……彼女は今も、己が運命に縛られて生きている。これ以上しがらみに縛り付けたくはない」


 と、真摯な言葉を吐いたかと思えば、自身で言い放った言葉に落ち込む。

 その様な姿を今の一度も見た事はない。

 ああ、と蒿李は舜の見た事も無い姿に得心した。


 二十二歳にして、剋帝陛下は恋に落ちたのだと。


「あら陛下、そのような事を言っていては他の男に獲られても文句は言えませんよ。宜しいのですか?」


 蒿李は少しばかり意地の悪い言葉を選ぶ。

 舜は蒿李を愛そうとはしてくれた。夫婦になろうと試みてくれていた。それを受け取らなかったのは自分だが、舜に本意の想いがなかったのも事実だった。

 だから、少しばかり腹が立った。

 そう、少しだけ。


「それに、このままでは陛下は四人から皇后を選ばねばなりません。難儀していると優柔不断と看做され陛下の立場は悪くなるばかりですよ」

「いつ、その様な底意地の悪さを覚えた」


 舜は、皇后と同衾しただけでそれ以降、一切の何かしらが無い。良い加減、新たな噂が広がってもおかしくはなかった。

 それでも、舜は胸につっかえでもあるように、躊躇いから抜け出せない様子だった。

 

 求めているものはある。はっきりと、欲しいものが。欲しい女が。しかし、彼女に皇后の衣を無理矢理に着せて隣に置きたくはない。

 だからと言って、他の女を選ぶ気も無い。だからこそどうにもならない事態を前にして、舜は苦渋の顔を見せて思い悩み続けていた。

 そんな恋慕に目覚めた悩ましい男を前にして、蒿李は屈託の無い笑みを浮かべて微笑んだ。


「良いではないですか、後宮に入れずとも」


 けろりとした顔で蒿李が吐いた突飛な言葉に、舜は呆気に取られたように固まっていた。

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