二十八 愛しき我が子よ 参

 身体が熱い。血が沸騰したのかと疑う程、煮えたぎるように。血脈の一本一本が何処にあり、その流れが汲み取れるかの如く、舜はそれが流麗の言う“気”なるものと理解するのに時間はかからなかった。

 血脈の流れは全身から、掌へ。掌から剣へと伝うと、より熱を感じる。高揚感にも似た感覚が、身体中を駆け巡っているようで、剣すらも自身の一部に感じていた。


 金の瞳が常闇に輝く。その目に映る、悪鬼がおどろおどろしい姿を表して舜を見下ろした。

 二本の足で佇み、天をも穿つ角を持つ。人よりも倍以上も大きなその巨躯は、枯れ枝の黒く濁った土色のような色合いのまま人の形となり、身体中には彷徨っていた禍蟲が張り付いてズブズブと喰われていく。

 

 ――禍蟲を喰って更に大きく……


 舜は警戒しながら近づきつつも、冷静だった。

 あちらもまた、舜の姿が見えている。金の瞳を見つけたと言わんばかりに、天へと向けて咆哮を轟かせ、両腕を大きく振り上げていた。


 ほんの、一瞬。

 巨躯に似合わない速さで、悪鬼の両腕が舜へと向かって振り落とされた。これが、異界でなければきっと床は崩れていただろうか。舜は、軽い調子で二歩横に軽く避ける。放たれた腕は地面へとのめり込まんとする程で、腕の衝撃が肌へと伝わるも舜は顔色ひとつ変えない。

 しかし悪鬼もまた手を休めない。腕を叩きつけた事により、四つん這いになった悪鬼の背中がボコボコと脈打つ。泡立つように皮膚が何箇所と膨れ上がって、その全てから新たな蔦が生まれ手は、幾重もの蔦が伸びて舜を突き刺そうと槍の如く降り注いだ。

 だが、舜は軽く躱すだけ。煌々と輝く金の瞳には、全ての動きが見えていた。

 舜は走った。次々と降り注ぐ槍を躱し、いなして、ただ前を見る。瞬く間に四つん這いになっていた悪鬼の懐へと入り込むと、ただ一点。蒿李こうりがいる場所へと辿り着いた。


 悪鬼が急く。舜が懐へと入り込んだ事を忌避して逃げるように立ち上がる。そのまま、何かを恐れるように後ずさった。しかし、龍眼がそれを逃さない。

 勢いのままに地を蹴って、愚直なまでに剣が真っ直ぐに向かう。

 舜の剣が仄かに光った。後宮で、駆け回っていた獣達の如く、白光した剣。


 掌が、熱い。全身を駆け巡った気の流れを掴む。一段と強く踏み込んだ足が、逃げようとする悪鬼の腹へと飛び込み、そして――舜は迷いなく悪鬼の胎を斬った。

  


 ◆◇◆◇◆

 


 眩い午後の日差しが、揺籠で眠る赤子――尚に降り注ぐ。

 舜の指先が恐る恐るだがその頬に触れたなら、尚の小さな手が懸命に掴んだ。

 尚には黒い靄はなく、まだ少ない表情でも笑っているようにも見えた。まだ笑えるはずはないのに、舜の瞳に映る赤子という純粋な存在は、未だ未知数である。だが、舜の心に確かな安らぎを与えていた。

 

 舜には、幸福が降り注いでいるような時間。されども、そのは思えない存在もまたいる。揺籠の反対からは不安を孕んだ女の声が舜へと届いた。


『陛下、本当に宜しいのですか? 尚は……』


 舜は尚から顔を上げて、双眸に女――蒿李こうりを捉えた。

 今は時折見せる幸福な笑顔はなく、ただただ黒い靄に阻まれている。

 いつもそうだ。

 舜が尚を我が子のように接すれば、その分、蒿莉は不安に苛まれたままに言葉を吐く。

 不安の種は、時が経つに連れて大きく……深く根付いていく。

 蒿李の不安は増すばかりなのを知りつつも――知っているからこそ、舜は悠然と言葉を返すだけだった。

 

『良いんだ。尚はだ』


 舜は安心させたかった。そう言い切ってしまえば、蒿李の不安はいつか消えると信じていた。その時ようやく、になれると――

 



 ◆◇◆◇◆




 舜の剣が常闇を斬り裂いた。

 線を引いた舜の剣は陽の気質に満ちて、陽の気に当てられた枯れ枝の身体が悲鳴を上げながら崩れて膝を突く。

 蟲達も異変に気づいて飛び立とうとするが、既に悪鬼に陽の気が巡って動けないまま、ぼとり――ぼとり――と地に落ちると、立ち所に消え去った。


 崩れゆく悪鬼の中、舜が切り裂いた胎からずるりと細く白い腕が垂れ下がる。それが生きた女の腕――蒿李のものと理解した瞬間に、舜はその手を掴んだ。


「蒿李!!」


 腕を引っ張ると、悪鬼の中に埋まっていた肉体が顔を出す。ずるずると黒衣のままに現れた女の顔は青白くも、脈動を打ち、呼吸を繰り返していた。

 生きている。舜の口から安堵がこぼれ落ちた。引き摺り出した蒿李の身体を抱えてその場から離れて、既に肉塊となった悪鬼を見上げる。

 本当にこのまま全てが崩れ落ちるのだろうか、そんな不安が過ぎって、視認しなければ気が済まなかった。


 そう、例えるならば嫌な予感。

 舜の視線の先、残っていた枯れ枝が少しづつ崩れ落ちながらも、わずかに動いた。蛇の如く蔦を崩れる巨躯に這わせ、失った宿主を求めて弱々しくも手を伸ばそうとする。


 まるで、宿主であった母を求めるが如く。


 眠る蒿李を抱えたままでは、剣は振るえない。

 舜はゆっくりと目を逸らさずに背後へと下がる、が。途端に、枯れ枝の動きが速くなった。最後の力を振り絞り、枯れ枝は舜を射殺さんと矢を撃ち放つ程に勢いづく。枯れ枝の動きが金の瞳に映るも、舜は蒿李を抱えたまま真っ直ぐに悪鬼を双眸で捉えて見やるだけ。


 悪鬼は一瞬にして舜の脳天を突き刺さんと差し迫る。けれども、何故だろうか。舜は、その枯れ枝が己が脳天迫り来る姿を見ても尚、死の恐怖は浮かばなかった。


『大丈夫ですよ』


 その時は、正に瞬き一つの出来事。

 舜の額を貫くすんで。悪鬼の頭がぐしゃりと潰れると同時に、枯れ枝の末端も動きを止めた。雷鳴と見間違う程の勢いで、空から舞い降りた流麗は悪鬼の脳天に黒く染まった剣を突き立てたのだ。

 

 羅刹女らせつにょの如き目が、眼下の悪鬼に容赦ない殺意を放つ。殺意が剣を伝い悪鬼へと流れて、動きを止めていた。

 流麗の左手が印を結べば、流麗の身体から幾重にも重なった鴉達が溢れ出す。

 陰の気と禍が混じり合ったような気配を携えた鴉達。


「もう我慢しなくて良い、たらふく喰らえ」


 羅刹女の静かなる殺意と共に、鴉達は悪鬼に群がり、禍を喰む。

 その全ての光景を、金の瞳は何一つ取り零す事なく映していた。

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