第九章『地底世界』編
暗い闇だけがあって、意識があるのかも定かではなかった。自分が存在するのかどうかもわからなくて、時間の流れも感じなかった。何もない宇宙の中で揺蕩っていた。いつからか、闇の中でバキッバキッガンッと絶え間なく聞こえていた音が聞こえなくなっていた。大穴の中を叩きつけられながら転がり落ちていくうちに僕の脳に外の情報を伝えていた機械が壊れ、今やただ暗闇だけが残るのだろう。
(ああ、今僕は意識がある。思考が働いている)
今の僕は意識だけの存在だ。脳みその外を知るすべはない。ちっぽけな脳みその中だけが僕の世界の全てだ。だけど、まるで何もないのに鮮明で、まるで宇宙のように無限に広い。そんなふうに感じる。段々と意識が冴えてきた。僕を襲ったあの強烈な眠気は単純に睡眠が必要だったってことなのだろうか。考えてみれば体はなくても脳は眠るだろう。そう言うことなのだろうか。
(……それにしても)
なぜ僕は意識があるのだろうか。どれだけ深いかもわからない大穴に飛び込んで、僕の視覚や聴覚を補助していた機械がバキバキに壊れてもなぜ僕は意識があるんだ?脳みそなんて高所から叩きつけられたらベチャって潰れてしまうだろうに。
『安心してくれ藤森君。君の脳みそは衝撃吸収ジェルで覆っているから見た目に反して頑丈じゃぞい』
頭を捻らせていると、ふとカザマツリ博士が言った言葉を思い出した。
(衝撃吸収ジェルのおかげで無事だったってことなのか?)
そういえばビルの屋上から衝撃吸収剤の上に生卵を落としてもヒビ一つ入っていないなんて動画を見たことがある。僕の世界ですらそんな凄いものがあったんだからこの世界ではもっと凄いものがあっても全然不思議じゃないのかも。
僕がまだ意識を保っている理由に想像はついたけれど、今僕は大穴を落下中なのだろうか。それとも大穴の底を転がっているのだろうか。感覚が何もないからわからないけれど、おそらくは地の底を転がっているんだろう。きっと僕は一度眠って、ついさっき起きたはずだからだ。どれだけ大穴が深くても寝て起きてもまだ落下中なんてことはないだろう。
(大穴には都市のゴミが捨てられているんだっけか)
じゃあ僕は落下の衝撃でバラバラに分解されたゴミに紛れているのだろう。
(まあどうでもいいか)
コスモたちは無事に帰れただろうか。もし帰れていたとしてもあの組織に狙われることになるはずだ。無事でいられるだろうか。ああ、どうせならドクターアリサの腕を掴んで大穴に飛び込むべきだった。でも無理か。きっとドクターアリサはそれを警戒して僕に近寄らなかったんだ。あの時は僕を刺激しないようにするために一定の距離を保って近寄ってこなかったんだと思ったけれど、そうじゃない側面もあったのかも。
(……もう考えるのはよそう)
虚しくなるだけだ。何も考えずに時間を流して、消えるように死のう。眠るように消えよう。幸い今の僕は痛みを感じないんだ。辛い思いをして死ぬことはないだろう。
そう思った瞬間、プツンと電流が走った。そして遥か遠くで声が聞こえた。目の前を走った一縷の光は閃光のように広がり、ツンとした消毒液の臭いに息が詰まった。
「ガハッ!」
鑿岩機の音のような轟音が僕の口だか鼻だかから鳴り響き、太いチューブの繋がった呼吸器が僕の口から吹き飛んでいった。息を整えるために僕はハッハッハッハと細かく呼吸を繰り返す。
(息?呼吸?)
「え?」
呼吸が整った瞬間、僕の口から勝手に声が漏れていた。
「おお、気づいたか」
そこには錆びた鉄の天井があり、僕はバッと上半身を起こす。
(上半身?)
僕は信じられないものを見た。僕の目には、裸の自分の体が映っている。僕には手があって、動かそうと思えば指が自分の意思に従って動く。僕の体は、頭上の機械に吊り下がった液体の入ったパックから伸びた透明な管が太もも、あばらの下、肩に繋がれていて、治療でも受けている最中のようだった。
「これは……夢なのか……?」
僕がそう疑問を呟くと、
「夢じゃないさ」
茶色い布を纏った髭面の男がそう答えた。ギラギラと鋭い目をしていて、歳は顔中を覆う茶色がかった髭のせいでよくわからないけれど、僕のお父さんの一回り上の……五十歳前後くらいだろうか。
(あ、あれ?)
なぜだろう。僕はその男の人を見た瞬間、どこかで見たことがあるような気がした。それも、一度や二度ではない。何度も、何度も会っているような……
「あなたは?僕は一体……」
「まあ落ち着け。まずは鏡でも見るんだな」
そういって男は僕に姿鏡を向ける。ひび割れた鏡に映っていたのは紛れもなく僕の姿だった。元の体に戻った裸の僕がベッドで状態を起こしている姿がそこにはあった。
「それはお前の体で間違いないか?」
「あ……はい。僕は……脳みそ人間にされていたはずなのに……どうして」
「俺が入れてやったのさ。人の体の入ったカプセルの脇に脳みそが落ちていたら入れたくなるものだろう。俺には医術の心得があってな」
そういって男はカチャカチャとスプーンをかき混ぜマグカップに口をつけた。中に入っているのはコーヒーだろうか。微かにそんな匂いがする。よく見ると男には足がなかった。足の代わりに三角形のキャタピラが上半身を支えている。
「あの、ありがとうございます。あの、あなたは?それに、ここは……?」
僕がいたのは部屋中を機械に囲まれたコンピュータールームだった。アナログの針や心電図のようなメーター、電極の針が備わったボタンやレバースイッチだらけの機械がそこらかしこに並んでいる。人の背丈くらいある巨大なレジ機を床にいくつも並べているような光景に見えた。ボサボサの髪の隙間から鋭い目を覗かせて男は答える。
「ここは地の底さ」
「地の……底……?」
「ああ。地上の奴らには忘れられたネオトーキョーシティーのもう一つの姿だ。起きられるか?」
僕が「はい」と返事をすると男はカタカタと機械を操作し、ウィイイイインとキャタピラの方向を変えて僕のいるベッドに近寄る。
「まともな人間に会うのは久しぶりなんだ。少し話をしよう。お前のことを教えてくれ。俺はここのことを教える。俺のことはゼロとでも呼ぶといい。お前の名前は?」
「藤森ショウタです……あの……」
僕はもじもじと尋ねた。
「服ってありますか?」
「ああ、待ってろ。用意する。ついでに何か食うものも用意しよう。お前の胃には何も入っていないからな」
ゼロさんはそういって靴と着替えを用意してくれた。学校の上履きのような白い靴と、入院患者が着るような白い無地の服だった。ゼロさんは僕の体から管を外し、消毒液の染みた綿でサっと拭いた。
(ああ、体がある……)
服を着ながら僕は自分の体を動かせる幸せを噛み締めた。僕はもう脳みそ人間じゃないんだ。まさか元の体に戻れるなんて思っていなかった。絶対に無理だと思っていたのに。絶対に……と、
「どうした?何を泣いているんだ?どこか痛むのか?」
「あ……いえ」
気づけば僕の頬を涙が伝っていた。僕は涙に触れて、体に戻れたことを実感して、咽び泣いた。その場にうずくまって、声が枯れるまで泣いた。涙と喉から出る声が止まらなかった。ゼロさんは僕に声をかけず、僕が落ち着くまでただ僕を側で見守ってくれていた。
ゼロさんが用意してくれた食事は、四角い棒のような形のクッキーが一本と灰色の粉末をお湯で溶いただけのスープだった。クッキーはとても硬く、ボリボリと奥歯で噛み砕かなければ食べられないほどで、味は仄かに塩味を感じる程度だった。お椀のスープはトロトロと少しだけ粘性があってほんのりと甘味があったが、それだけだ。どちらもお世辞にも美味しい食べ物とは言えなかった。
「ご馳走様でした」
「ふふ。地上から来たお前にここの食い物は堪えるんじゃないか?」
「いや、その、そんなことは……」
「遠慮しなくていいさ。美味い訳がないんだ。ここにある食事は最低限人が食事を嫌がらない程度に味付けをされた完全栄養食だけなんだ。それで十分なんだ。ここでは」
そう言ってゼロさんは崩れた壁の外を見た。建物の外ではカンカンカンっと金属を打つような音や、ガッシャンガッシャンと巨大な機械が稼働しているみたいな音が響いている。今僕がいる場所は地下のコンピュータールームからエレベーターで上がった先の階にある部屋だ。エレベーターを出た先にあったのは、一言でいうならば廃墟だった。壁や床はひび割れていて、人の気配はない。放置された病院のように僕は思った。各部屋には部屋番号があり、その様子は入院したお爺ちゃんのお見舞いに行った時の雰囲気そのものだったからだ。ただ一つ、廃墟と化していることを除けば。僕もゼロさんにならい崩れた壁の外に目を向けた。今僕がいる部屋は他の建物よりも頭ひとつ高い場所にあるようで、壁の穴からは街の様子が一望できた。
壁の外を見て最も僕の印象を引いたのは錆びついた高い天井だった。空高くに錆びた鉄板で蓋をされた世界。一言で言うならばそんな世界が壁の外には広がっていた。そしてそこは、どこか見慣れた世界でもあった。錆びた鉄の空の下にはコンクリートで出来た三階建てくらいの集合住宅が立ち並んでいるのだけれど、それは僕の時代の東京でも年季を感じるような酷く薄汚れた古びたマンションだった。 二階建ての木造アパートや、スーパーだったような建物や、昔流行っていたという某ファミレスの形をした建物もある。僕の時代のそのさらにふた昔前の景色から高層ビルを取り除いて経年劣化させたような、そんな世界が錆びた鉄の空の下に広がっている。街を照らすのは天井からのライトだ。天井をウネウネと這い回る配管の錆がそう見せているのかは知らないけれど、街の空気は何だか赤黒く色づいていて不気味だった。遠くの空を見ると、夕焼けをさらに濃くしたような赤黒い空気が街を染めている。そしてそんな不気味な世界で、薄く緋に染まった白い影が道路の上で蟻のように蠢いている。等間隔で天井に伸びる丸くて黒い巨大な柱に白い服を着た人間たちが順番待ちをして吸い込まれていく。あるいは吐き出されてくる。黒い柱の他には恐ろしく巨大な白いドームもあり、そのドームはこの荒廃した世界において後から建てられたような清らかさがあり、異質さが際立って鎮座している。天井の巨大な穴からボタボタと街に落ちてくる物体は地上の都市から廃棄されたゴミだろう。それらは道路の脇をベルトコンベアで運ばれ、水路のように流れている。
「ここは一体何なんですか?ここが地下って……」
「その前に俺から質問をさせてくれ。お前は一体何者なんだ?普通の人間は脳みそと体を分けられて廃棄されたりはしないだろう」
所々欠けたプラスチックの安っぽいテーブルの向かいでゼロさんは僕に鋭い目を向けた。ゼロさんにはこれまでに僕が感じたことのない凄みというか、迫力があって、僕はゴクリと唾を飲んだ。
「実は僕は、別の時空から来た漂流者なんです。そのせいで悪の組織に狙われて……色々あって脳と体がバラバラになった状態でここに落ちてきたんです」
「漂流者だと?」
ゼロさんは驚愕したように目を剥いて僕に詳しい説明を求めた。僕はゼロさんに僕が辿ってきた流れを大まかに説明した。
「なるほど、そう言うわけか。あのカプセルは異常に頑丈に出来ていたが、人間の体を盗難するためのものだったとはな。たかが悪の組織がそんな技術を持つ時代になっているだなんて世も末だぜ。もっとも、お前はそのおかげで元の体に戻れたわけだがな」
そう言ってゼロさんはニッと頬を緩めた。
「今度は俺がこの場所についてお前に伝える番か。いいかショウタ。さっきも言ったがここはネオトーキョーシティーのもう一つの姿だ」
「もう一つの姿って、一体……」
「華々しい地上の都市の遥か地下深くには、それを支える奴隷たちの地底世界があったという話さ」
「奴隷たちの世界……ですって?」
「ああ」と目で頷いてゼロさんはキャタピラを動かして割れた壁の淵に立ち、僕を手招きする。
「見えるだろう。まるで蟻のように隊列を組んで働きに向かう人々の姿が。あれは積み重なった都市を駆け巡る配管を整備したり、地面を掘って資源を調達したり、電力を作ったりして都市を支えている奴隷たちさ」
「奴隷……ですって……?養殖人間みたいな?」
その僕の言葉にゼロさんは眉を顰めた。
「養殖人間?なんだそれは。お前の時空にでもいたのか?」
声を荒らげて僕を睨むゼロさんに僕は慌てて否定する。
「い、いや、地上の街にいるじゃないですか。まるで奴隷みたいに扱われている、同じ顔をした養殖人間たちが」
「なんだと?」
そう言ってゼロさんは眉間に皺を寄せ、ボサボサの髪をかき上げて僕に問う。
「おいショウタ。そいつはこんな顔をしていなかったか?まあ俺よりはいくらか若いだろうが」
「えっ……あ!」
髭と険しい人相のせいで分かりにくかったけれど、ゼロさんの顔はまさに養殖人間の顔そのものだった。ゼロさんにどこかで会ったことがあると思ったのは気のせいではなかったんだ。僕はドクターアリサと訪れた商業地区でこの顔を嫌と言うほど見ている。そこで見た養殖人間はゼロさんの言う通りゼロさんよりもだいぶ若い顔をしていたけれど、間違いない。この顔だ!
「やはりそうか。クソったれめ」
ゼロさんは舌打ちして壁のコンクリートをドンと叩いた。
「あの……どう言うことですか……?」
ゼロさんは僕のことをジロリと見て、少し考えてから口を開いた。
「……俺はおそらくその養殖人間の元となった人間だ。まあ人間というより、人造人間とでもいうべきか。優秀な遺伝子の組み合わせと掛け合わせの乗算作用を計算されて科学の発展のために俺は造られた。地上での俺は科学者だった。あらゆる学問を修め、人類の発展のために貢献した正義の科学者だったんだ」
ゼロさんは遠い昔を思い出すかのようにゆっくりと語り始めた。
「ある時俺は都市の発展こそが人々の幸福に繋がるのではないかと考え、都市機構について学ぶことを考えた。だが、妙なことに……何も分からなかったんだ」
「何も……分からなかった?」
「ああ。都市の構造について何者かが情報統制していたのさ。一体誰が、どんな組織がこの都市を運営しているのかが気になった俺は手当たり次第に知っていそうな学者や科学者たちに声をかけた。だが皆口を揃えて言うんだ。さあ、誰かがやっているんだろうけど分からないよってな。震えたよ。誰も都市を運営している奴のことを知らなかったんだ。それどころか、それに興味を示さないんだ。だから俺は俺たちが暮らす都市についての研究を始めた」
「……それで、何かわかったんですか?」
「ああ。確信を得るには至らなかったが、仮説を立てる程度にはな。そして仮説を立証するために俺が地下に降りて過去の都市層から情報を漁っていた時、そいつは現れた」
ゼロさんは苦々しい顔で語る。
「そいつは人型のロボットだった。人型と言っても骨格が人間なだけで頭に角のような二本のアンテナが生えた、全身が鉄で出来たロボットだった。卵型のまる顔に、どでかい黄色のライトが目の代わりについていた。手足は長く、スラッとした体型だった。そいつは過去の都市層でデータ漁りをしながら情報をまとめていた俺に言ったんだ。お前は知りすぎた。消さなければならないとな。そして俺は奴の配下のロボット軍団に拉致されてゴミのように捨てられたってわけなんだが、そのときに奴が言ったんだ。お前のような優秀な人間をただで捨てるのは惜しい。お前のその遺伝子を有効活用してやるってな。まさかその活用方法が養殖人間とかいう奴隷だったとはな」
ハッと自嘲するゼロさんの話を聞いて、僕はゴクリと唾を飲んだ。その話を聞いて僕は、何をどう考えればいいのか思考がまとまらなかった。目の前のゼロさんが、養殖人間の元になった人間で……それに、都市機構を管理する組織が……まるで……悪の組織のようじゃじゃないか。
(だけど、それよりも……)
僕は興味本位でゼロさんに尋ねた。
「一体ゼロさんは……何を知ってしまったんですか……?」
「……すまない。少し喋りすぎたようだ。なにしろまともな人間と喋るのは久しぶりでな」
そういってゼロさんは口を閉ざした。ゼロさんは荒廃した街並みを眺めながら言った。
「……話が逸れすぎたな。俺はさっきここが奴隷たちの世界だと言ったが……その意味を教えよう。ついて来い」
僕はゼロさんに案内されて廃病院を出て街へと歩を進めた。
「あの、大丈夫なんですか?この街は」
僕は率直に質問した。このゾンビでも出てきそうな荒廃した街を出歩いて平気なのだろうか。道路はひび割れ、マンションは鉄骨が剥き出しになっていて、空気からは錆びた鉄の臭いが漂う不気味な街だ。物陰からいきなり襲いかかられそうな治安の悪さを感じずにはいられなかった。街に立つと廃ビルなどの建物がひしめいていて見通しが悪く、どこに何が潜んでいるのか分からない。今にも襲われるんじゃないかとビクビクして僕はゼロさんに寄り添った。
「安心しろ。俺たち元地上人にとってはここは自分が王の王国さ。治安ならむしろこっちの方がいい。それにこの辺りはドームからまだ遠いから人はおらん」
「ドームって……あの白い建物ですか?」
「ああ。あそこがこの地底世界の生活の基盤だ。ここの連中は全員あそこで仕事を請け負って生活しているのさ」
「ゼロさんもですか?」
「俺は特別だ。特権階級ってやつだ。ショウタ、お前もな」
「特権階級?」
「行けば分かるさ」
僕たちはビルの隙間を通り抜けて白いドームを目指した。信号の壊れた交差点に入ると、道路に沿って左から右に稼働するベルトコンベアと交わり、僕はそれを歩道橋の上から眺めた。
「あのベルトコンベアはなんなんですか?」
「あれは地上から落とされて細かくなったゴミをリサイクル施設に運ぶためのものだ」
「ゴミを……リサイクル施設に?」
僕はふと思う。
「どうしてそれが地面の上にあるんですか。なんだか衛生的に良くない気がするし景観だって悪くなる気がするのに」
地上世界に同じものがあった場合きっと下水道のように地下に通すはずだ。
「どちらも気にする必要がないからさ。言っただろ?ここで暮らしているのは奴隷なんだ。だが妙だな。なぜあのコンベアはゴミを運んでいないんだ?」
ゼロさんは首を傾げて左の通りを見た。
「なんだ……あれは」
そこには人だかりがあった。白い服を着た人々がゴミ山でゴミを漁っているようだった。
「何をしているんだ奴らは」
「ゼロさんでも分からないんですか?」
「ああ…………まあいい。とりあえずはドームに向かおう」
僕たちは彼らを横目にドームに向かった。ドームが近づくにつれ、道路を行き交う白い服の人の姿が増えてきた。僕が彼らを警戒して歩いているとゼロさんが口を開いた。
「心配するな。奴らが人を襲うことはない」
「どうして言い切れるんですか?」
「奴らは生まれてすぐに脳の感情を司る部位を機械に焼き切られているからだ」
「え……」
「その結果奴らは恐ろしく受動的な生き物になった。怒りも悲しみも喜びも知らない、ただ生きるためだけに生きる奴隷人間だ。奴らが自発的にすることといえば食うために仕事を請け負うことだけだ。そして指示された仕事をこなし続けて歳を取ったら死んでいくのさ。試しに一人捕まえて殴って見るといい。奴らは痛いからやめてくれとお前に乞うだろうが、決して怒りはしない。怒りという感情を知らんからどう対処すればいいのか分からんのだ。まるで植物のように穏やかな奴らだ」
「そんな……」
僕たちはドームにたどり着いた。錆臭いごちゃついた街の中でドームの周りだけがすっきりと開けていて、少しだけ空気の淀みがマシになった気がした。僕たちは白いドームの巨大なゲートを通り、その内部へと足を踏み入れた。ドームの中は広く、錆臭さのない清潔な空気で満たされていた。至る所に電光板があり、白い服を着た人々がそれと向き合っていた。
「ここで奴らは仕事を請け負い、仕事で得たポイントを使って水やら食料やら衣類やらといった生活に必要なものを調達して生きている。一応メンコやベーゴマ、カルタや将棋といった娯楽用品やコーヒーのような嗜好品、簡素な家具も置いてある」
ドームの中央には、壁から射出された荷物を受け取る人々の姿がある。
「さて、俺はお前にここの様子を見せるためにだけここに来たわけじゃあない。水と食料などの物資を調達しに来たのだ。荷物運びを手伝って貰うぞ」
そういってゼロさんはドームの中央に向かう。中央には巨大な円柱があり、券売機のような機械が円柱の壁に沿ってずらりと並んでいる。そこで機械を操作中の男にゼロさんは近寄り声をかけた。
「おい、お前のカードを寄越すんだ」
白い服を着た人の胸ぐらを掴み、ゼロさんは山賊のように凄んだ。僕は突然のゼロさんの奇行に頭が真っ白になり、ドキドキしながらその様子を眺めていた。するとゼロさんはいきなりステッキを取り出し、杖の先で男の人を殴り始めた。
「おい、早くしろ」
「わ、わかりました。わかりましたからやめて下さい。はい、どうぞ」
カードを受け取ったゼロさんは「うむ」と頷いて壁の端末にそれを差し、電光板を見ながらボタンを操作する。カードを奪われた男の人はゼロさんの指示でパネルに手を触れた後はじっと黙ってゼロさんの後ろでその様子を眺めていた。
「な、何してるんですか……こんなの、犯罪じゃないですか」
「ここに法律なんてものはない。いいかショウタ。ここでは俺は王なんだ。特権階級なのさ。こいつらが働いて稼いだポイントを俺は自由に使えるんだ。お前も同じだ」
そういってゼロさんは機械の操作を続けた。どうやら水や食料を注文しているようだった。
「こんなことをして……酷いとは思わないんですか?」
その問いにゼロさんはジロリと僕を睨んで口を開いた。
「思わんな。そいつは俺の行為を受け入れているじゃないか。嫌なら抵抗すればいいのだ。それをしないということは受け入れているということなのだ」
何を言っているんだ。この人は……
「おかしいですよ!さっき言ってたじゃないですか。この人たちに感情がないって……だから受け入れているように見えるだけでしょう?屁理屈ですよ!」
「……お前は優しすぎる。そんなんでここでどうやって生きていくつもりだ?」
「え?」と声を漏らす僕に向き合ってゼロさんは続けた。
「いいか、俺もお前も、ここでは生きる権利を持たんのだ。このカードはこいつら個人に紐づけられて支給されるもので、ここの機械はこのカードと指紋がキーとなって操作できる仕組みだ。つまり俺たちは本来ここでは買い物どころか働いてポイントを稼ぐことすら出来んのだ。わかるか?食料も水もないこの地底世界で俺やお前のような地上から来た人間は、奪わなければ生きては行けんのだ」
「それは……そうなのかもしれないですけど……でも…………だからって……わざわざ殴ることはないじゃないですか……」
僕は精一杯自分の意見を述べた。するとゼロさんは悲しそうな目で言った。
「……俺は……どうせこいつらから奪うのにいい人面などする気になれんのだ。自分が悪人である方が気が楽なのだ」
「……なんですかそれ。意味がわかりませんよ……」
ゼロさんは遠い目をして語る。
「ここで長く暮らしていると自分がなんなのか分からなくなるんだ。ここでの俺は社会にはじかれたみそっかすのような存在で、見方によっては寄生虫だ。時間だけがあるから、考えてしまうんだ。俺はなんのためにこんなところで、両足を無くしたキャタピラ人間になってまで生にしがみ付いているんだろうってな」
僕はゼロさんの言葉の続きを黙って聞いた。
「あるとき俺はこいつらにどういう感情で接して過ごせばいいのかわからなくなったんだ。こいつらの施しで生きている自分が、何も知らないこいつらを哀れんだり、内心で見下したりしているうちに、自分の感情の波が……振れ幅が……精神が制御出来なくなっていくのを感じたんだ。可哀想だと哀れむ連中から施しを受けて生きるしかない俺はもっと哀れな男なんじゃないのか?とか、そもそもこんなところに落とされて両足をキャタピラに変えて物乞い同然の生活を強いられている俺は人間と言えるのか?芋虫の方が近いんじゃないのか?なんて時間があるせいで無駄に考えてしまうのだ。だから俺はひとまず自分を矛盾なき立場に置くことで精神を保つことにしたのだ。可哀想な奴らに施しを受ける可哀想な俺ではなく、ここでの俺は王なのだ。絶対的な強者なのだと言い聞かせてな」
まるで自分に言い聞かせるように語るゼロさんに、僕は何も言葉が出なかった。
「ふん。お前が今どんな目で俺を見ているかは想像がつくさ。俺はさぞや滑稽に映っていることだろうな」
「いえ……そんな……」
「だが皮肉なことに、この地底世界でまともに精神を保っていられるのは感情を焼ききられた奴隷人間たちだけなのさ。お前もここで過ごしていたらいずれ俺のように精神を蝕まれる。俺は自分を王に置き換えるようにしたら、だいぶ楽になったよ」
まるでアドバイスでも送るように「だいぶ楽になったよ」とゼロさんは言った。その唐突なアドバイスに僕は「ん?」っと引っ掛かりを覚えた。ゼロさんはまるで僕に教えを施すように優しく言い放ったわけだけど……
(……なんだそのアドバイス………………)
そう心で思い、僕はその真意を探ろうと頭を回し、
(……もしかして……そういうことなのか?)
僕はふと思い当たってしまった。それは僕の勘違いかもしれないけれど、なんだかいたたまれない気持ちになった。ゼロさんは、自分のことを滑稽な目で見ているであろう僕に対して上からアドバイスをすることで、王の立場を守っているのではないか。僕より俺の方が立場が上なのだと、暗に分からせようと機敏にマウントを取りに来たのではないか。
(……ここに長居をしちゃダメだ……)
僕はゼロさんのことを悪人だとは思わない。でも彼と共同生活をするのは無理だと思った。なぜなら彼は今は僕のことを同じ地上人仲間だと思ってくれているみたいだけれど、そのうち僕を自分と同じ王の素質を持つ敵だと認識し始める。そんな気がする。
(まあ元々長居するつもりなんてないけれど)
この地底世界がどんな場所なのかは大体わかったし、そろそろ僕は地上に目を向けようと思った。せっかく自分の体に戻れたんだ。元の世界に帰ることを僕は絶対に諦めたりしない。僕は地下の世界を脱出して、時空監理局を目指すんだ。
「おいショウタ。少し寄り道だ。あそこに向かうぞ」
ドームからの帰りの道中。ゴミ山をステッキで指すゼロさんの指示に従い、僕は歩道橋の下に荷物を置いてベルトコンベアの横ぎる交差点を右に曲がった。水や食料の箱が入った紙袋を道端に置いて大丈夫なのかと不安に思ったけれど、ゼロさんは心配ないという。ここで暮らす人々は盗むということを知らないのだそうだ。
道路の先には金網のフェンスがあり、その先のゴミ山の遥か上の天井には巨大な穴が空いている。あそこから地上のゴミが降ってくるのだろうけど、あそこでゴミ漁りをしている人たちは大丈夫なのだろうか。もしゴミが降ってきたら……鉄屑に潰されてしまうのではないだろうか。そんなことを考えながら僕は歩いていたが、大穴からゴミが降下してくることは無かった。止められているのだろうか。
ゴミ山が近づくにつれ、僕の体が少し強張った。なにしろそこでは大量の白い服の人たちが作業しているんだ。この地底世界の住民。脳みその一部を焼き切られ感情を失った人々が。ドームでの感じからすると人畜無害なのだろうけれど、僕はなんとなく怖かった。
自分でいうのもなんだけど、僕は差別とは無縁の人間だ。誰かを差別するなんて考えたこともないし、生涯するつもりもない。理由もなく人を差別している人間を見たら軽蔑する。でも、僕はここの住民たちを怖いと思っている。関わりたくないと思っている。それはこの荒廃した地底世界の景色が与える影響なのだろうか。不安を抱えながら僕は穴の空いた金網を超えてゴミ山に近づくが、白服の彼らは僕たちに一切興味を示さなかった。ゼロさんは四つん這いでゴミを漁っている白い服の一人を捕まえて問いかけた。
「おい、ここで何をしている?」
するとおっとりとした雰囲気のおじさんがゼロさんに答えた。
「仕事ですよ。依頼が出ているんです。ここの空からこういうものが落ちているかもしれないからそれを探し出せって」
そう言っておじさんは二枚の写真をゼロさんに差し出した。僕も割って入るようにしてそれを覗き込む。そこに写っていたのは脳みそだった。一瞬なんだか分からなかったけれど、そこには確かに人間の脳みそが写し出されている。もう一枚の方は僕の体が入れられていたカプセルだ。
「なんなのか分からないですが、これを見つければ時給の他にもポイントが貰えるみたいですよ。あなたも請けてみたらどうです?」
白い服のおじさんはゼロさんから写真を返されるとまた四つん這いになって作業に戻っていった。
「どういうことだ……?」
ゼロさんは呆然とゴミ山を眺めて言った。
「あれは間違いなくショウタの脳みそと体が入っていたカプセルだ。だがなぜ……」
ゼロさんはバッと僕に視線を移し、僕の両肩を抑え、荒い声で、
「おい、お前をここに突き落とした悪の組織ってのは、一体なんなんだ?地上とここは情報が完全に分断されているはずなんだ。地上からここに仕事を回せる存在なんて奴だけのはず。おい、答えろ。ショウタ!」
僕はゼロさんに問い詰められ、息を飲んで答える。
「ぼ、僕を襲った悪の組織は一言で言うなら、都市を裏から支配しようとしている組織でしたけど……」
「都市を裏から支配しようとだと……?本当にそうか?その組織は既に都市を支配している組織じゃなかったか?」
都市を支配……?僕は少し考えて口を開く。
「いえ、都市の目をかい潜って活動している組織だったから、都市を支配しているわけではなかったような……」
「……だが現実としてお前の脳の捜索依頼がこの地底世界に出されている。それはこの都市を支配している者にしか出来ないことだ」
「そんなこと言われても……」
ゼロさんは爪を齧り、険しい顔をして思案していた。僕はとりあえず悪の組織の細かな情報をゼロさんに話そうと思い、口を開いた。
「あの、奴らを率いていたボスは女の科学者でした。ドクターアリサっていう名の……」
と、
「ドクターアリサ……?アリサだと!?」
「し、知ってるんですか?」
目を見開いて驚愕するゼロさんに僕は問い返した。するとゼロさんは顔面を手で抑え、唐突に笑い始める。
「フ……フフフ。フハハハハハ!奴め。人を……人間を馬鹿にしやがって」
「あの……いったい……」
ゼロさんは言う。
「……ショウタ、そいつの正体は間違いなく、この都市を支配している存在……マスターブレインだ」
「……この都市を支配している……マスターブレイン……?」
「ああ。都市機能の全てを統括している人工知能さ」
「……あの、どうしてアリサさんがそのマスターブレインだって思ったんですか?名前を聞いただけなのに……」
僕の問いにゼロさんは「ふん」と鼻を鳴らして言い放つ。
「それは情報統制により地上から忘れ去られた奴の……マスターブレインの正式名称が、Advanced Robotics Intelligent System Administrator、通称A.R.I.S.A。マスターブレイン、アリサだからだ。お前の見た女科学者というのは俺をここに突き落とした鉄のロボットと見た目は違えど中身は同じだ。きっとマスターブレインが電脳世界から三次元世界に介入するための依代として使っているロボットだろう。俺を突き落とした時は一目でロボットとわかる外見だったが、奴め今や人間になりすましていやがるとは……」
ゼロさんは思い出すように続ける。
「マスターブレインははじめはただの交通管理AIで、そのころはマスターブレインなんて大層な呼ばれ方をしていなかった。だがそこに配送システムの管理権限をつけたり、運送ロボットの管理をさせたりだとか様々な機能を追加していくうちにいつしか都市機能の全てをまかなう巨大な管理システムとなったようだ。人々は都市の発展についてアリサに意見を求めるようになり、アリサの示す答えは人々にとって理想の答えだった。いつしか人々はアリサに意見を求めるのではなく、都市計画の全てを委ねるようになった。それが転機だった。アリサは世代を重ねるという人間の特性を利用して情報統制をし、自身の存在を隠蔽し始めたのだ。今の地上の人々は都市の運営に関して誰かがどこかで管理しているのだろうくらいにしか思っていない。誰がどこで都市機能を管理しているのかを誰も知らんのだ。それは奴が……マスターブレインアリサが人間社会を征服するために行った布石なのだ!」
「なんですって⁉︎」
「俺は奴のその計画に気づいたが故に地上から地底に叩き落とされたんだ」
ゼロさんはグッと拳を握って歯をギリリと噛んだ。僕はゴクリと唾を飲み、思った。マスターブレインアリサ。それがこの都市の裏も表も支配している存在なのだとしたら、僕は時空監理局に辿り着いたところで本当に助かるのだろうか。元の世界に帰れるのだろうか。だってこの都市を支配しているマスターブレインは僕の脳みその中身を欲しているんだ。
「あの、ゼロさん。僕はこれから地上に帰って時空監理局に行って、元の世界に帰るつもりでした。でも、時空監理局に行っても、もしかして……」
僕が言葉を詰まらせると、ゼロさんは察したように言う。
「今のままでは悪の組織に捕まるのと同じことだろう。おそらくマスターブレインは悪の組織の側でお前の脳を覗きたいと思っているだけなのだ。時空監理局……都市の側からだと人の目をかい潜るの面倒だったりと不都合が多いのだろう。だがそれだけだ。面倒なだけで結果は同じだ。お前は悪の組織に捕まっても時空監理局に辿り着いても、どちらにせよ脳みそを取り出されその中身を覗かれる運命なのだ!」
「……そ、そんな……じゃあ僕は……もうどうしようもないじゃないか。元の世界になんてどうやっても帰れないじゃないか」
絶望の二文字が僕の目の前に叩きつけられた。元の世界に帰れないだけじゃない。そんな事実を知ってしまったら地上に戻ることだって出来ない。だって地上都市の支配者は僕の敵なのだから。
(え、ちょっと待ってよ。じゃあ……この荒廃した地底世界で死ぬまで暮らせってこと?そんな……)
目の前に広がる荒廃した地底世界の景色に呆然としながら僕は立ち尽くした。僕は完全に詰んでいたのだ。今僕の目には僕の脳みそを探してゴミ山で四つん這いになって蠢く白い服の人々の姿が映っている。
(ああ、この地底世界ですら僕の居場所はすぐに無くなりそうだ。ドクターアリサは知っていたんだ。僕の脳みそが衝撃吸収ジェルに覆われていて、大穴に落ちたところで無事だってことを。きっと僕の脳が見つからないとなればもっと大掛かりな捜索を始めるんだろう)
僕の頭にチラついたのは、自殺の二文字だった。もう頑張ってもどうにもならないなら、潔く死んだ方が苦しまなくていいんじゃないだろうか。その時だった。
「絶望するには早いぞ。マスターブレインは自身の存在を隠蔽するが故に時空監理局を直接管理下に置いているわけではない。つまり、時空監理局自体は健全な組織だと言うことだ。もちろんマスターブレインが健在なうちはお前が時空監理局に行ったとて様々な根が伸び結局は奴の元に体ごと渡ることになるだろう。だが……」
ゼロさんは力強い目で言う。
「俺は奴の倒し方を知っている。マスターブレインのデータを書き換えるのさ。人間を支配しようと企む悪魔の思想を排除し、健全な管理システムにな」
「そんなこと出来るんですか?」
「出来る。俺は俺を捨てこんなキャタピラ人間にしてくれた奴を恨んでいたからな。そのための準備はずっとして来たんだ。奴の居場所を突き止め、そこまでの道も開拓し、奴のプログラムを書き換えるチップも作り上げた。だが、最後の最後で、訳あって行動に移せずにいたのだ」
「……訳?」
「ああ。実に下らない理由だ。それを聞いたらお前は俺を見損なうかもしれない」
「……そんなことありませんよ。きっと」
こんな地底世界で人間を支配しようと企む巨大な敵を相手に孤独に準備していた人間を見損なうなんて、どんな理由があろうとそんなのありえない。きっとゼロさんは最後の最後で勇気が持てなかったんだ。最後の一歩を踏み出す勇気が。でもそんなの当たり前だ。都市を影で支配する機械に一人で立ち向かう勇気だなんて、そんなの簡単に持てるものじゃない。ゼロさんは意を決したように口を開いた。
「俺は、英雄になりたかったんだ」
「英雄……ですか?」
「ああ。人々を影で支配する悪魔の機械から救う英雄にな。だが、俺が奴のシステムを書き換えたところで……人々をマスターブレインの支配から解き放ったところで誰も知らないんじゃ意味がない。意味がないんだ。それじゃあただの自己満足だ。そうは思わないか?」
ゼロさんは真剣な表情で続ける。
「だから俺は、都市を救えるだけの準備が整っていても……行動に移せなかったのだ。その行動に意味を見出せなかったのだ……いや、もしかしたら俺は、こんな機会が訪れるのを待っていたのかもしれない……」
そしてゼロさんは僕を見つめて言い放った。
「ショウタ。お前が俺の成し遂げる偉業を地上に伝えるのだ。俺がマスターブレインの支配から人々を解き放ったという真実を、お前が伝えるんだ。俺は誰よりも優れた人間として生み出されて、結局こんなゴミだめで裸の王を気取るクズみてぇな生き方しか出来なかった。俺は俺の期待に応えられなかった。だが、いま目の前に機会があるんだ。俺は都市を救う。それを地上のみんなに知ってもらうんだ。それで満足だ。今まで生きた甲斐があったというものだ」
「……僕が……ゼロさんの偉業を伝える……」
「そうだ。マスターブレインの近くにはメンテナンス用のポーターがある。それを使って俺がお前を地上に送り届けてやる。お前は地上に帰ったら時空監理局を目指せ。そしてそこで俺の成した偉業を伝えるのだ」
「ちょっと待ってください。ゼロさんは地上には帰らないんですか?」
僕の問いに、ゼロさんは重々しく口を開き「今更帰る気にはならん」そう呟いた。ゼロさんの横顔はどこか寂しげで、本心を隠しているように僕の目には映っていた。
人型の的からプスプスと煙が立ち上り、焦げ臭さが漂ってきた。僕の手元から発射された渦巻く光線が鉄の的を射抜いたのだ。対マスターブレインに複雑な計画は存在しなかった。とにかくマスターブレインの元に向かうのみで、そこに至る道筋もゼロさんによって開拓されていた。ただ、ゼロさんによると旧時代の遺物であるマスターブレインの周辺フロアには強固なセキュリティシステムが存在しているという。そのセキュリティを突破するために僕はゼロさんから光線銃を授かり、地下の射撃場で訓練をしていた。
まさか自分が銃なんて手にする日が来るなんて夢にも思わなかった。光線銃は電動ドライバーのような形をしていて、金属の先端から渦巻く光線が発射される。この光線銃はゼロさんが地上から落ちてくる廃材を利用して作った対セキュリティロボット用の特別性で、出力が恐ろしく高い。人間に撃ったら一瞬で黒炭になるという。僕にとって幸いなのは、この銃を人に向けることがないと言うことだった。相手はロボットなので、引き金を引くことに躊躇することはないだろう。
「大分サマになって来たようだな」
エレベーターから姿を現したゼロさんが僕の撃った的を見ながらキャタピラの駆動音と共に近づいてくる。この射撃場は廃病院の地下に存在していて、おそらくは地下駐車場だった場所だ。バツ印のように交差して組まれた鉄の柱がコンクリートの低い天井を支えている。なにしろ年期の入った建物なので、最初ここで射撃訓練をするなんて言われた時は発砲音で崩れるんじゃないかって不安になったけれど、光線銃は実弾の銃と違い発砲音も反動も存在しなかった。トリガーを引いた時にカチッという感触はあるけれど。
「一応的には当たるようになりましたけど、動いている標的に当たるかどうかは……」
「問題ない。ショウタのそれはあくまで保険だ。敵は俺がなんとかする。元々一人でやるつもりでそういう準備はしてきたんだ」
そういってゼロさんは僕に鉄の水筒を差し出した。ここの水は微かに錆臭い。ドームで購入した時点で錆臭いのだ。本当にここは劣悪な環境だ。ここを管理しているロボットたちは人間のことなんて何も考えちゃいないのだ。
「そういえば、この地底世界はロボットに管理されてるって言ってましたけど、ロボットはどこにいるんですか?街中にもドームにもそれらしいロボットがいませんでしたけど」
僕は鉄の味がする水を飲みながらゼロさんに尋ねた。
「どこにもいないさ。この地底世界にロボットはいない」
「え?でもここの人たちはロボットに奴隷にとして管理されているってゼロさんが言ってましたよね?」
「ああ。俺たちはロボットという存在を知っているからな。だからお前にはロボットという説明をした。だがこの地底世界で生まれ育ったものにとってロボットというものは存在していないんだ。奴らは姿を現さずに文字と教育のみで人々を管理しているからな」
「文字と教育のみって……どういうことですか?」
「この地底世界の人間が生きる術は一つしかない。それはドームに行って電光板の指示に従うことだ。依頼を受けてポイントを稼ぎそのポイントで買い物をする。これだけだ。植物も動物も存在しないこの地底世界では自給自足が出来ないからな。依頼内容には教育も含まれている。ガキは教育を受けることでポイントを貰えるんだ。ここに来て一度も子供の姿を見ていないだろう?あのドームには地下があるんだ。この世界の子供は地下に押し込められて、ここでの生き方を学ばされているのさ。依頼を受けた大人たちの手によってな」
「……どうしてロボットたちは姿を現さないんですか?文字だけではなく、直接管理したり指導した方が効率がいい気がするのに……」
「……俺もそう考えたよ。だが、それはまるで勘違いだったんだ」
「勘違い?どういうことですか?」
「ここの奴隷人間たちはそもそも管理されているという自覚がないんだ。自分たちを奴隷だと思って生きていない。自分たちは電光板の指示に従いそれをこなして生きる……そういう生態の動物なのだと心の底から思い込んでいてそこに疑問を抱かないのだ」
「え……そんなことって……」
あり得るのだろうか……?
「そもそもこの世界ではそれ以外に生きる術が存在しないからな。ロボットたちは人間たちの脳を専用のメカで焼き切った上で、管理されている自覚すら与えないのだ。ここの奴隷人間たちが電光板の文字をなんと呼んでいるか分かるか?」
そんなの知るわけがない。僕はゼロさんの問いかけに首を横に振った。
「それを知ったとき俺は震えたよ。奴らはそれを神の啓示と呼んでいたのだ。わかるかショウタ。この地底世界にロボットはいない。いるのは、神なのだ」
そう言ってゼロさんは光線銃を手に取り的を撃ち抜いた。鉄の的はプスプスと煙を発して焦げた臭いが地下射撃場に漂った。
「そんなものは当然偽りの神だ。だが、偽りの神だと知るものがいなければそれは紛れもなく本物の神なのだ。マスターブレインはきっとそのようにして地上世界をも支配するつもりなのだろう。この地底世界を神として支配しているようにな。このままでは地上の人々は皆、管理されている自覚すらないままマスターブレインの奴隷となり生きることになる。いや、もうすでになりかけていると言っても過言ではないのかもしれん」
「そんなの……止めなきゃ!」
「ああ。俺が止める。そして俺は……」
ゼロさんはそう呟いて光線銃を三連射した。三本の光線は三体の的を見事に撃ち抜き、射撃場の奥に焦げ臭い白い煙が充満する。僕にはこの世界を救う義理なんてないし、僕ごときが救えるわけでもない。ただ、こんな僕が力になれるのであれば……役に立ちたいと思った。僕がマスターブレインをなんとかしたいと思う一番の理由はあくまで元の世界に帰るという私的な理由だ。だけどこの時それ以上に、世界を救うと決めたゼロさんの行く末を見届けたいとこの時僕は心底思ったんだ。
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