第二章『地下工場』編

 縄梯子を降りると、さっきまでの窮屈さとは一転してそこは車が通れそうなほどの広い通路だった。壁は鉄板で出来ていて、天井には僕たちが通ってきたダクトがあるだけではなく、グネグネと沢山のパイプが通路に沿ってうねっている。そして通路正面の突き当たりにある巨大な扉の奥からは、ガシャコンガシャコンと一定の間隔で連続した振動と騒音が響いて来ていた。


「ウフフ。ずいぶん降りるのに慎重だったわね。じゃ、行きましょうか」


 そういって先に進もうとするアリサさんに、僕は縄梯子を見上げながら尋ねた。


「あの、これって放っておいていいんですか?」


「平気よ。あとでロボットがなんとかするわ」


「ロボット……」


 僕は地上の森で落ち葉を掃いていたロボットを思い出した。金属製のバケツやドラム缶を組み合わせて作ったような、ブリキのオモチャみたいなロボットだ。ああいうロボットがこの建物の中を徘徊していて、メンテナンスをして回っているのだろうか。こんな裏口から侵入して来た僕たちはロボットに見つかっても大丈夫なんだろうか。


「あの、僕たちってロボットに見つかっても大丈夫なんでしょうか」


「大丈夫って何が?」


「侵入者として攻撃されたりってことはありませんか?」


「そんな危険なロボットはここにはいないわ。そもそもここは普通は入ることが出来ない区域だから、警備なんて必要がないのよ」


 そういってアリサさんはガシャコンガシャコンと音の鳴る扉の方へと歩き始める。僕はアリサさんの後ろをついて歩きながら辺りを見渡した。だだっ広いだけで飾り気のない殺風景な通路では誰とすれ違うこともなく、十字路を二つ超えた先で見上げるほど大きな扉にたどりつく。両開きの巨大な扉の横には、赤いランプの灯った小さな鉄のドアがついている。ガシャコンガシャコンという連続した音は、壁一枚隔てたすぐその先から響いて来ているのが感じ取れた。


「ここから先に進むわ」


 そういってアリサさんはポーチからあのゲームボーイのような機械を取り出し、そこからコードを伸ばして小さな鉄のドアについている四角い機械と繋ぐ。「少し待ってね」とアリサさんがゲームボーイのような機械をいじり始めると、ドアについた四角い機械の辺りからツ、ツ、ツ、ツ、ツツツツ、ツーとノイズの混じったような小さな音が鳴り、今度は凄まじい勢いでランダムな音程で電子音が響いた。なぜだか、ギャアアアアと機械が悲鳴を上げているような、そんな印象を僕は抱いた。


「オッケー。これで先に進めるわ」


 アリサさんが呟くと、ピコンと音が響いて赤く灯っていたランプが緑色に変わる。アリサさんはドアについた四角い機械からコードを抜き、壁のハッチを開けてボタンを押す。するとシューッと空気が抜けるような音がして、目の前の鉄のドアがガタンと一段下がって壁の中にスライドして道が開き、ガシャコンガシャコンという音と振動がより一層大きく聞こえるようになった。


 僕はゴクンと唾を飲む。ドアの奥から、おそろしくいい匂いがするのだ。ずっと何も入れていない僕の胃からはキュルルルと情けない音が鳴った。僕は先に進むアリサさんを追って、恐る恐るドアの先に足を踏み入れた。


 ドアの先は上に向かう階段が往復する狭い通路になっていて、階段を登った先は途方もない広さをした工場の二階部分の通路だった。体育館みたいに吹き抜けになっているその工場の広さは学校の体育館なんてまるで比較にならない。天井こそ同じくらいの高さだけれど、奥行きが全然違う。学校の体育館の何倍……いや、何十倍もの広さの空間では無数のロボットたちが流れ作業をしている。僕は鉄板でできた二階の通路の手すりに手をかけてそれをまじまじと見下ろした。ベルトコンベアが何十……いや、何百と並んでいて、その合間でロボットたちがヤシの実を半分に割ったような楕円形の容器に料理を盛り付けている。いい匂いの正体は料理だったのだ。


 野菜を入れるロボット、ハンバーグを置くロボット、ソースをかけるロボット、ご飯をよそうロボット、箸を入れるロボットなどその仕事は完全に分業されていて、ドラム缶にバケツをひっくり返して乗せたような二本足のロボットたちが規則正しい動きで作業している。ガシャコンガシャコンという音は、ベルトコンベアの中間にある巨大な鉄のピザ釜のような機械から響いていた。楕円形の容器はそのピザ釜のような機械を通ると蓋がされ、その先にいるロボットにハンコをペタンと押されてカゴの中に回収されていく。


――ギュルルルルルル―――


 匂いだけではなく、実際に料理を目にして、僕の胃は限界の悲鳴を上げていた。


「ウフフ。ずいぶんお腹がすいているみたいね」


「なんだか匂いを嗅いだら我慢出来なくなって来ちゃって……」


「我慢する必要なんてないわ。あんなに沢山食べ物があるんだから。何か食べたいものはある?」


 アリサさんは一階を見下ろして言った。


「えと、それじゃあハンバーグが食べたいです……なんて。でも、大丈夫なんですか?あそこから盗むってことですよね?」


「平気よ。あのロボットたちは料理を詰めるしか能がないから」


 アリサさんについて行きベルトコンベアの並ぶ一階を横断する二階の空中トンネルを歩く。トンネルは床も壁もうっすら青みがかった透明になっていて、ロボットたちが作業する様子が中からでもはっきりと見えた。


「ここがハンバーグ弁当のラインね」


 そこから骨組みの階段を降り、いそいそと作業するロボットたちの後ろを通ってベルトコンベアの終点まで歩き、僕たちは車輪のついたカゴの中から弁当の入った楕円形のオレンジ色の容器を拝借する。ロボットたちは僕たちには全く目もくれずに作業に集中していた。


「ちょっと騒がしいけれど、ここでご飯にしましょう。おかわりも自由ですしね」


 そういってアリサさんはポーチの中から緑色のシートを取り出して床に敷く。


「タバコが吸いたいけれど、ここは煙が立てられないから我慢するしかないわね」


 料理が詰まったオレンジ色の容器は、つるつるとしたプラスチックみたいな素材でできていた。それはどこを見ても継ぎ目がなく、どうやって開けたらいいのかわからない。


「手を添えて蓋を持ち上げればいいのよ。ほら」


 アリサさんは広げた指を容器に添えて、特に力を加える様子もなく手を持ち上げた。すると吸い付くように容器が上下半分に割れて中からかぐわしいハンバーグ弁当が姿を現す。


「この容器は衝撃には強いけれど、真っ直ぐ引っ張る力には極端に弱い素材で接着されているのよ」


 僕もアリサさんを真似て容器に手を置き、持ち上げてみる。ふと体育の時間にバスケットボールを片手で被せ持つ遊びをした時のことを思い出した。それくらいはっきりとしない微妙な力で、オレンジの容器はいとも簡単にパカっと上下に割れた。


「ああ、いい匂い」


 間近で嗅ぐハンバーグの匂いは格別だった。焼きたての熱と香りがそのまま閉じ込められているみたいにジューシーで、湯気が立っていて、デミグラスソースの甘く濃厚な香りが僕の脳みそを揺さぶった。


「さあ、食べましょう」


「いただきます!」


 僕は手を合わせ、ハンバーグを箸で切って口に運んだ。


(あ……ああ……)


 僕は一心不乱でハンバーグ弁当を食べた。未来に来てから何時間経ったのか知らないけれど、お腹がぺこぺこで限界だったのだ。そのせいなのかそれとも元々美味しいのか、僕が食べたそのハンバーグ弁当は今までに食べたどの料理よりも美味しく感じられた。粗挽きのハンバーグはとってもとってもジューシーで、噛むたびに甘い肉汁が溢れ出してきて、そこに濃厚なデミグラスソースが絡み合って頬が落ちそうになった。一口サイズに箸で切ったハンバーグをあたたかいご飯と一緒に掻っ込むと、幸せで一杯になった。付け合わせのフライドポテトはカリカリホクホクで、くたっとした茹で野菜も噛むとシャッキリ甘い汁が溢れてきて美味しい。とても美味しい。僕はハムスターみたいに頬を膨らませながら、ハンバーグ弁当を二個、あっという間にたいらげてしまった。


「はあ。美味しかった。ご馳走様でした」


「お口に合ったようでなによりだわ」


「こんなに美味しい料理は初めてです。未来の人たちはこんなに美味しいご飯を食べているんですね」


「ウフフ。昔と比べたら調味料も素材の品質も調理方法も、だいぶ改良されているでしょうからね。じゃあ腹ごしらえも済んだことだし、出発しましょうか」


「はい!」


 僕たちは再び地下工場の中を歩き始める。骨組みの階段を登って青く透明な空中トンネルから二階の通路に戻り次の部屋へと向かうと、突き当たりのドアを抜けた先は食材の加工工場になっていた。さっきまでと同じようにだだっ広い空間の一階では、ドラム缶の上に金属のバケツをひっくり返して乗せて手足をつけたような見た目のロボットたちがジャガイモの皮を剥いたり、野菜を包丁で刻んだりしている。その様子は見た目こそ違えどまるで人間のようだった。


(うーん……)


 僕は思う。どうしてあんなに非効率的そうなやり方で作業しているのだろうか。ジャガイモの皮剥きや野菜の千切りは人型のロボットにやらせるんじゃなくてそれ専用のロボットなり装置を作った方が絶対に効率がいい気がするのに。わざわざあんな二足歩行の人型ロボットにこんな単純な作業をやらせているのが僕には不思議でならなかった。ジャガイモの皮剥きなんて高速で回転する串にジャガイモを刺してそこに刃を当てる装置を作れば一瞬で終わるだろうし、野菜を刻むのなんて上下するカッターがあればいいはずだ。わざわざ二本の足で立つロボットがジャガイモを手で持って包丁で皮を剥く必要も、まな板に置いた野菜を左手で押さえて包丁で刻む必要もないはずだ。


「どうしたの?不思議そうな顔をして」


「いや、どうしてロボットがあんな作業をしてるのかなあと」


「あんな作業?」


「単純作業っていうか……野菜の皮剥きとか千切りとかはロボットじゃなくて専用の装置を作った方が効率が良さそうなのになって思って」


「ああ、そういうこと」


 アリサさんは納得したようにクスリと笑う。


「生産力が足りていれば出来栄えにこだわる方向に移行するものよ。この地下工場ではこれ以上作業の効率を上げても意味はないの。ここは都市で暮らす人間の食事を作る工場だから、必要以上の量はいらないのよ」


 ロボットたちを見下ろしながらアリサさんは続ける。


「もちろん効率を上げるための工夫はあるのよ。あのシェフロボットたちは一つの巨大なコンピューターで管理されていて各作業の進捗状況に応じて流動的に仕事を変えているの。稼働ライン調整による擬似的な作業速度アップね。あらゆる調理法をインプットされているシェフロボットたちだから可能な方法よ。あのシェフロボットたちが専用の装置に勝る点は新しいレシピで作る場合や新たな調理法に挑む際に柔軟に対応できるところにあるわ。同じものを作り続けるだけなら専用の装置でいいでしょうけれど、それだと人間は飽きてしまうわ。ここのロボットたちはね、常に新しい味を生み出し続けているのよ。藤森くんのいうような単純な量産装置はロボットの量産工場などで使われているわ」


「な、なるほど」


 そう言われてみれば納得が出来る気がする。百年後にもなると、僕の中の常識とは比較にならないくらい科学が進んでいて、傍目ではその真意を理解できないみたいだ。ロボットたちは本当にいろんな作業をしていた。肉を焼いたりスープを作ったりそれらを運んだり。運搬もこなすわけだから足もやはり必要なのだろう。結局のところこの便利なロボット自体は量産工場で大量生産されているわけだから、僕の考えている常識と百年経っても根っこの部分は一緒なのかなとは思う。僕の常識の中にはこれ一体で全部の作業が出来ますみたいな高性能なロボットの存在がなかっただけで。


(ただ、デザインがなんか古臭いんだよね)


 まるで巨大なブリキのオモチャだ。洗練されていないというか、昭和っぽいというかなんというか。まあデザインなんて流行り廃りなんだろうけれど。


 僕たちはロボットたちが作業する空間を見下ろしながら吹き抜けになった二階の通路を先に進む。次に入った部屋は、ひやりと空気が冷えていて、ロボットたちによって稲が栽培されていた。広大な鉄の壁に囲まれた地下空間で稲が栽培されているのは何だかとても神秘的で不思議な光景に見えた。金属製の水路を水が流れ、さっきまでの工場にはなかった強烈な光を放つ宙吊りの照明器具が金属の田んぼを照らしている。


「一日に二回収穫出来るのよ。お米は大量に必要になるから、二十階層下までお米専用のプラントが続いているわ」


「二十階層下って……もしかしてさっきまでの工場の下にも同じように別の工場が存在していたんですか?」


「ええそうよ。パッケージ工場は一定階層ごとにご飯もの、麺ものって感じで分かれていて、加工工場もさっき通ったのは野菜用の階層だったけれど、下にはスープを作る階層だったり肉を調理する階層だったりと、色々あるわ」


「ほえー」


 大規模な工場だと思っていたけれど、その全容は僕の目に映るより遥かに巨大なものだった。僕が見ていたのはまさに氷山の一角だったのだ。僕はアリサさんに連れられて様々な生産施設を見た。ドアをくぐるたびに新しい景色が開けた。小麦畑やとうもろこし畑。おおよそ屋内には似つかわしくない不自然な自然がそこにはあった。未来の世界の工場見学は好奇心が刺激されてとても楽しかった。でもそれは、次のドアをくぐるまでだった。


 強烈な照明器具に照らされていたさっきまでとは一転して薄暗いドアの先には、一階の床から天井まで伸びる巨大で透明な円筒の柱が無数に立っていた。直径が五メートルはありそうな筒は水で満たされていて、ボコボコと泡が定期的に浮上していくのが見える。


「あれって……何なんですか?」


 僕がアリサさんに尋ねたのは、ピンク色のブヨブヨとした謎の物体のことだった。水で満たされた無数の円筒の中には、床から天井に至るまで、ピンク色のブヨブヨとした物体がふよふよふよふよと大量に浮かんでいるのだ。


「あれはお肉よ。ここはお肉の培養施設なの」


「おにく……肉⁉︎」


 たまげた僕はアリサさんに問う。


「あれって、何の肉なんですか?」


「え?お肉はお肉よ」


「その、豚とか牛とか……」


「いやねぇ。動物なんて食べないわよ。あれは美味しさを求めて作られた人造肉よ」


 円筒の中の肉は、ボコっ……ボコっと十秒に一度くらいの割合で肥大していく。円筒の中が肉で一杯になると、底が抜けるようにボコボコボコッと沸き上がる泡と引き換えにピンク色の肉はヌラヌラと筒の円周を濡らしながら沈んでいって、空っぽになった円筒はジャアアアと上下からシャワー状に吹き出る水で激しく洗浄されると再び水で満たされていき、小さなピンク色の塊がいくつもいくつも下の方からふよふよと浮かんでくる。それらの塊は十秒に一度くらいの割合でボコ……ボコっと肥大して、円筒の中を再びピンク色で埋め尽くしていく。ピンク色のナメクジのような塊が、腫瘍のように歪に膨らんでガラスの円筒を満たしていく。


「う……オエっ」


 僕は腹の底から湧き出る吐き気に口を塞いだ。肉が機械的に培養される生々しい様子を僕の体は生理的に受け付けなかった。


「あら、大丈夫?」


「……はい」


 僕がさっき食べたハンバーグは、やはりこの気色悪い人造肉で作られたものなのだろうか。そんなのは考えるまでもなく、そうなんだろう。だってアリサさんは言っていた。動物なんて食べないって。


「うっ……オエエエエ」


 僕は吐き気に耐えきれずに嘔吐してしまった。ビチャビチャと、金属の床に汚物が垂れ、胃酸の混じったデミグラスソースの臭いがプーンと立ち込めた。


「大丈夫?」


「……はい。すみません」


 僕はアリサさんに背中をさすられながら手の甲で口を拭った。口の中では胃液とハンバーグの臭いが混じっていた。


「どうしたのいきなり」


「いや、なんていうか、こんな得体のしれない肉を食べてたのかって思ったら急に……」


 と、アリサさんは眉を顰めていう。


「得体の知れない肉……?あなたはおかしなことをいうのね」


「えっ」


「だってそうでしょう?藤森くんは普段は動物のお肉を食べているのよね」


「そうですけど」


「その動物はどこでどんな風に飼育されていたのかを知った上で食べていたのかしら?」


「……え?それは……知りませんけど……」


「でしょうね。昔の人たちは動物のお肉を食べていたけれど、どこでどんな環境下で育てられた動物かはまるで気にせずに食べていたというわ。不衛生な環境なんていくらでもあったはずなのにね。それを気にしないあなたが人造肉を得体の知れないお肉だなんていって気持ち悪くなるだなんて、おかしな話だわ。ここの人造肉よりもずっと得体の知れないお肉を食べてきていたはずなのに。あの人造肉はあなたの食べてきたどんな動物肉よりもずっと衛生的で、由来だってはっきりしたものよ」


「それは……」


 僕は何も言い返せなかった。国産とか外国産とか、何々県産だとか、産地くらいは僕たちの時代の人間だって気にしていたけれど、どんなふうに育てられた肉だとかはプロの料理人でもない限りは誰も気にしていないだろう。町の中華屋で外食をして、その中華屋がどこから仕入れた肉を使っているかなんて気にする人だって皆無だろう。


 僕にとって目の前の人造肉はなんだか不気味で得体の知れない肉だ。だけど、得体の知れなさを単純に比較した場合、僕が今まで食べてきた動物肉の方があの円筒の中で培養されている人造肉よりも得体の知れない肉だったのだろうか。どこで育ったのかも誰が育てたのかも何を食べて育ったのかも何もかもがわからない動物肉を、僕は今までにどれだけ食べてきたんだろうか。考えてみたら海産物なんて、海で勝手に育った生き物を食べていたんじゃないか。牛や豚はまだ人間の手で育てられたものだけど、イカとかエビとか、貝とかサンマとか、養殖じゃない海産物なんて人間は捕まえてるだけであって勝手に育った生き物だ。


(僕はずっと、得体の知れないものを食べていたのか……?)


 頭の中でぐるぐると渦巻く疑問に整理がつかなかった。得体の知れないのは今の僕の頭の中だ。なんでこんなわけのわからないことを考えなきゃいけないんだ。


「気を悪くしないでね。別に藤森くんを責めるつもりでいったわけじゃないのよ。ただちょっと、疑問だったの。まあ、私たちのあいだにある当たり前が違うだけなのでしょうね」


(当たり前が違う……か)


 確かに、そうなのだろう。例えば、エビとザリガニの見た目に大した差はないのに、僕はエビは食べてもザリガニは食べる気にならない。ザリガニが食べられることは知っているけれど、ザリガニだよって料理したものを出されてもきっと僕は抵抗があってそれを食べない。そういう環境で育ったからだ。それが僕の中に根付いた「当たり前」だからだ。両親とか、僕の周りの人たちが……環境がそうだったからだ。もし僕の周りがエビを食べずにザリガニを食べている環境だったら、僕は平気でザリガニを食べて逆にエビを食べない人間に育っていただろう。虫を食べるか食べないか。魚を生で食べるか食べないか。文化の違いとか、当たり前なことなんだけど、環境次第であって何が気持ち悪いとか不気味だとかは常識の押し付けでしかない。


「アリサさん……その、得体の知れない肉だなんて言ってすみませんでした。この時代の人にとってはあの肉を食べるのは普通のことなのに」


「別に気にしなくていいのよ。私は気にしていないわ」


 アリサさんはニコリと笑って言った。人造肉を得体の知れない肉だなんてアリサさんに言ってしまったのはとても失礼なことだったと気づいて僕は深く反省した。僕は気づかないうちに自分の中で凝り固まった当たり前以外を認められないようになっていたみたいだ。常識なんてものはその人の周囲の環境でいくらでも変化するものなのに。僕はなんだか一つ大人になったような気がした。だけどやっぱり円筒の中でボコ……ボコっと膨れ上がっていくピンク色の肉塊が、なんだかおぞましいものに見えることに変わりはなかった。


 人造肉の培養工場の隅にある壁からダクトに入り込んだ僕たちは、再び暗くて狭い道を進んだ。


「はいこれ」


「何ですかこれは」


 ダクトの中のT字に枝分かれした突き当たりでアリサさんに渡されたのは、ゴムのような素材で出来た赤い色のグローブと靴下だった。


「それは壁に貼り付けるようになるメカよ。今からここを登るわ」


 よく見るとダクトは左右方向にだけではなく、上方向に向かっても伸びている。しかし、ライトで照らされた先は光が途中で途絶えるほど高い。


「無理ですよこんなところを登るなんて。僕の体力じゃ登れません」


「大丈夫よ。力はいらないわ。順番に手足を動かせばいいだけよ。靴を預かるわ」


 そういってアリサさんは赤い靴下を履きグローブを手にはめた。


「ついてきて」


 アリサさんはヤモリのように手足を広げて壁に張り付き、一歩一歩天井に向かって進んでいく。僕もそれを真似して壁に手をついてみると、不思議なことにグローブは壁にピッタリと吸い付くのに、壁から手を離そうと思えば簡単に離れた。どんな仕組みなのかはわからないけれど、体を持ち上げるような力が全く必要なくて、地面を歩くように簡単に僕はダクトの壁を上へ上へと進むことが出来た。


 縦とか横の感覚がおかしくなり、無重力の中で自分がトカゲのように地面を這っているような感覚になった。しばらく進むと天井にたどり着き、左右に枝分かれしたダクトの右側にアリサさんは体を進める。狭いダクトを四つん這いになって進むアリサさんを僕も四つん這いになって追いかけ、またダクトを登り、そうこうしているうちに僕たちはダクトから出て白い壁の通路に出た。トンネルのように壁から天井にかけて丸くなっている通路の中心は半筒のガラスのような透明なカバーがされていて、その中は水路になっていて水が流れていた。


「疲れたでしょう?でもここまで来ればあと少しよ」


 アリサさんによると、どうやらここは都市の下水道らしい。下水道といったらネズミがいたり臭かったりと汚いイメージがあるけれど、未来の下水道はとても綺麗で衛生的だった。ただ、数十メートルくらいの間隔で道が垂直に交差する碁盤の目のような作りになっているようで、目印もなく、遠くを見れば合わせ鏡の中のようで迷いそうだった。


 僕はゲームの中でコピペしたマップを永遠と歩いているみたいな不思議な感覚に陥った。方向感覚どころか、目的地に向かって進んでいる感覚もない。同じ場所を繰り返し歩いているみたいで不安な気持ちになった。しばらく歩くと、ゲームボーイのようなぶ厚い板状の機械と睨めっこして歩いていたアリサさんの足が不意に止まる。


「さあ、ここから地上に出るわよ」


 アリサさんはそういって壁を指差した。半筒状に窪んだ壁には太いホチキスの針を刺したみたいな垂直の階段が上に向かって伸びていて、天井には丸い穴が開きさらに上に階段が続いている。僕はなんとなく察しがついた。きっとこの垂直な階段の先はマンホールになっているんだ。


 アリサさんに続いて僕は垂直に伸びた階段を登る。アリサさんの足が止まり、ガガ……と重い金属が擦れるような音が聞こえて僕が上をみると、アリサさんが抜け出ていなくなった丸い穴の先には僕を覗き込むアリサさんの顔の影と、夜空で煌めく星々が見えた。僕はついに地下を抜けて地上にやってきたんだ。


 地上に出ると周囲は暗く日は完全に落ちていた。僕はキョロキョロと辺りを見渡す。電灯の明かりが公園のような景色をほのかに照らしていた。道の脇には小さな花の咲く花壇がある。低い高さの植木が茂り自然を感じさせるけれど、周辺には馬鹿でかい釘を地面に突き刺したような変わった形をした塔が立ち並んでいて、その遥か向こうでは巨大なビル群が輝きを放っていた。ビルが立ち並ぶ都市を照らすサーチライトの丸く黄色い光が、縦横無尽に空を走る透明なトンネルや、天空に伸びる巨大なビルの姿を限定的にあらわにする。


「凄い……これが、百年後の東京なんだ……」


 僕はあらためて周囲に目を移した。僕のいるあたりの区画には、前後左右どこを見ても二十メートルくらいの高さの円塔が等間隔でたくさん立っている。上に向かうにつれて細くなっている円塔の天辺はハンバーガーをぺちゃんこにしたような、UFOみたいな形に膨らんでいて、その中央をぐるりと一周している窓からは黄色い明かりが漏れている。アリサさんは百メートルくらい先にある電気のついていない塔を指差して言った。


「ウフフ。ネオトーキョーシティーにようこそ藤森くん。私の家はあそこよ。さあ、行きましょう」

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