第八章『闇の市場』編

「ちょっと話をつけてくるんで、待っていて下さい」


 そう言ってミヤサカさんは機械を通過する人々の様子を近くで見守る駅員のような格好をした男性に駆け寄って声をかけた。ミヤサカさんは目尻の垂れ下がった顔の職員に青色のパスポートを見せ、ジェスチャーを交えて熱心になにか説明している。


「夢でも見ているみたいでやんす……まさか居住地区の地下にこんな場所があるなんて……信じられないでやんすよ」


 ここはまるで青い金属の壁で出来た駅のようだった。ただあまりにも殺風景で、駅というには酷く寂れた印象だ。観光案内や時刻表がないし広告の類もない。ただ駅のような広い空間の形だけがあって、それを再利用しているような印象を受けた。もしかしたらここは昔本当に駅だったのかも?そんなことを考えているとミヤサカさんが助手さんを呼んだ。


「クマガイ博士、こちらへ」


 僕たちはニコニコとした印象の三十半ばくらいの男性職員に応接室のような場所に通される。スライドして開いたドアの先の十畳ほどの広さの部屋には青い金属の壁と同じ色に統一された飾り気のない椅子やテーブルがあり、助手さんとコスモとミヤサカさんは職員の男性に促されてテーブルの奥の椅子に座った。


「ミヤサカさんから話は聞きましたよ。あなたがクマガイ博士でそちらがコスモ君で間違いありませんね。私はここで通行の管理をしているサヤマという者です。コスモ君はロボットとのことですが……いやはや、こうして近くで見なければわから無いほどの出来だ。コスモ君どうだろう、何か喋ってみてはくれないかい?」


 サヤマさんは両手で帽子を正し、開いているんだか閉じているんだか分からない垂れ下がった目でコスモに言葉を投げる。


「急にそんなこと言われても……」


「あはは、そうだよね。いやあ見事なものですね。彼は本当に人間のようだ」


「お、おそれいるでやんす」


 助手さんは椅子に縮こまって小さく頭を下げた。


「あはは。まあそうかしこまらないで下さい。うちとしてはあなたのような方は歓迎なんです。どうでしょう、クマガイ博士には是非私の上司に会っていただきたいのですが」


「上司……でやんすか?」


「ええ。さすがに外部の人間を私の一存で受け入れるわけにはいきませんからね。それにコスモ君にしてもこれだけの精巧な人型ロボットを市場にポンと置くわけにはいかないでしょう?これだけの品ならしっかりと宣伝をしてオークションにかけないと」


「は、はあ」


 と、


「オークションだって⁉︎これは凄いぞ!」


 ミヤサカさんが声を張り上げた。助手さんがポカンとした顔をミヤサカさんに向けると、


「ここでオークションにかけられるのはとんでもない値段の品物ばかりなんですよ。そうですね、値段でいうと十億はくだらないものばかりです」


「じゅ、十億でやんすか⁉︎」


「まあまあ落ち着いて下さい。まだ仮定の話なので」


「そ、そうですね。すみません」


 サヤマさんは冷静な様子で二人を鎮めた。


「私はここを空けられないので、上司のところまでは部下に案内させましょう。少々お待ちくださいね」


 そういってサヤマさんは椅子を立ち部屋の横のドアを開けて隣の部屋へと向かう。


「やりましたね、クマガイ博士!」


 ミヤサカさんは助手さんの両肩を掴んで続ける。


「いやあこんなにトントンと上手く行くとは怖いくらいだ。だけど商談がまとまる時なんてこんなものなのでしょうね」


「そ、そうでやんすね」


 気のない返事をする助手さんとは対照的にミヤサカさんは一人で盛り上がる。


「このままコスモ君が十億以上の値で売れたら僕にはやりたいことが沢山ありましてね、例えばですが―」


 僕はミヤサカさんのどうでもいい話は耳に入れず受け流して、今の状況を整理するために時間を使った。はっきり言って上手く行き過ぎている。


(いや、そもそも上手くいっているのか?本当に?)


 情報収集のためにミヤサカさんの話を聞きに彼のタワーハウスに行って、そこから流れのままなんだか分からないうちにここまで来てしまったから、僕たち三人は明確な計画を共有していないどころか、そもそも計画自体が練られてすらいない状況だ。ミヤサカさんがいる状況下で相談なんて出来ないんだからしょうがないんだけど……


(僕の体に近づいてはいるんだけど……)


 当初の計画というか、僕たちが共有して思い描いていたのは「僕とコスモが地下に侵入して助手さんは車で待機」だ。それが今や助手さんが主役になって事態は進んでいる。


(助手さんは大丈夫なんだろうか)


 僕は助手さんをチラリと見る。ミヤサカさんの話に苦笑いをして相槌を打っているが、相変わらず顔色は悪く強張っていた。


「ねぇコスモ、一回助手さんとしっかり話を合わなきゃまずいと思うんだ」


 僕は揚々と語るミヤサカさんの声の陰で小さくコスモに言った。


「うん。そうだね。機会があればいいんだけど……」


「……ねぇコスモ、僕が言ったこと、覚えてるよね」


「……うん。大丈夫だよ。いざとなったら助手さんのことは僕に任せて」


 コスモとヒソヒソ話をしているとドアが開き、サヤマさんと共に見知った顔の女性が現れる。


「やっぱりあなたたちだったのね」


 それは昼間助手さんが最初に声をかけたベンチで読書をしていた女性だった。知らないの一点張りで助手さんを追い払った茶色い髪の二十歳くらいの綺麗な女性だ。彼女はサヤマさんと同じ駅員のような制服を着ていて、さほど驚く様子もなく助手さんとコスモを交互に眺めた。


「おや、顔見知りかいイケエ君?」


「ええ。昼間にここのことを尋ねられまして。まさか彼がロボットだとは思いませんでしたけれど」


 イケエさんはコスモを見て冷淡に言う。サヤマさんは手のひらで彼女を差し、


「部下のイケエ君です。クマガイ博士とコスモ君のことは伝えてありますので、彼女の案内で上司に会いに行って下さい。ついでに市場も軽くご覧になるといい。上司は市場の先にいますのでね」


「イケエです。よろしく」


 イケエさんは少しだけ頬を上げて挨拶をした。


「ははは。美人の案内までつくとは、高待遇ですな」


 と、ご機嫌のミヤサカさんにサヤマさんが細い目を薄く開き、


「ああ、申し訳ありませんがミヤサカさんはこちらに残っていただきます。お話がありますのでね」


「おっと、そうですか。ではクマガイ博士、いったんお別れですね」


「そ、そうでやんすねぇ」


「そんな不安そうな顔をしないで。大丈夫ですよ。しっかりと話はまとめておきますから」


 僕たちはミヤサカさんと別れ、イケエさんと共に市場へと向かった。市場と聞いて僕は、魚市場とか肉や果物が雑に積まれた外国の市場なんかを想像していたんだけど、実際にそこにあったのは街だった。地下にあるから地下街とでもいうべきなんだろうけど、地下街ともまた違うのだ。低い天井の地下空間にテナントがいくつもあるような作りじゃなくて、普通に地下の中に建物が建っている。五階建てくらいのビルまで建っている。しかしそれは起伏だけが建物のように見えるだけで、実際は壁も地面も青い金属で覆われている、巨大な金属の積み木で出来たような街だった。


 ただそれでも市場という表現に納得は出来なくはなかった。建物のような起伏に挟まれた正面通りには、通りに面して数多くの露店が並んでいて、大勢の買い物客で賑わっている。僕たちはバスが数台停まった円形の広場を通り、露店のある通りに向かって進んだ。


「これが……市場でやんすか……こんなの、街でやんすよ」


 どうやら助手さんも僕と同じ感想を抱いていたようだ。


「ウフフ。私も初めて見た時はびっくりしたわ」


「妙だな。どこにこんなに沢山の人がいたんだろう」


 そのコスモの呟きにイケエさんが答える。


「あの人たちのほとんどはツアーで来ている人たちよ」


「ツアー?」


「ええ。どうやって呼びこんでいるのかは知らないけれど、後をたたないわ。あの人たちはタワーハウスとは別の場所からやってきて、ここの宿泊施設に滞在しているの。大体が大金持ちの人たちよ」


 言われてみれば確かに、すれ違う人たちはみんな身なりが良かった。男性はパリッとしたフォーマルな格好をしていて、女性もそれに合わせるような姿でエスコートされている。Tシャツみたいなラフな格好で歩いている人は一人もいない。それに年輩の人が多い。というか、二十代くらいの若い人や子供の姿は一切見当たらなかった。そして男性一人の姿はあっても女性が一人で歩いている姿はほとんどない。女性がいる場合、女性をエスコートする男性が近くにいた。


(確かになんかお金持ちっぽい……)


 そんな感想で人々を眺めていると、


「……これだけの数の人間に口止めなんてどうやってしているでやんすか?」


 助手さんがイケエさんに至極真っ当な質問をした。それは僕も思ったことだった。ツアーでやってきた外の人間たちがそんな簡単に秘密を守れるだろうかって。そんなはずはない気がする。


(でもここの噂は地上の世界にはまるでないみたいなんだよな……)


 そう思ったとき、ある疑惑が頭をよぎった。


(ツアーでここに訪れた人たちは、本当に地上に帰れているのだろうか)


 いや、でもタワーハウスの人たちはともかくこんな大量の大金持ちが消えたらそれこそ大騒ぎの大事件になっているはずじゃないか?そんなことを考えていると、イケエさんの答えよりも先に男性の声が助手さんにかけられる。


「あれ、クマガイさんじゃないかい?」


 声の主は黒いスーツを着たオールバックの男性だった。


「え、あなたは……」


「あはは。こんな格好じゃあわからないか。イシジマだよ。重力研究会でよく顔を合わせたじゃないか」


「あ!イシジマ氏!久しぶりでやんす」


「思い出してくれたかい?まさか君もここに来ているなんてね。もしかして常連かい?」


「いや、今日が初めてでやんすよ」


「あはは。だろうね。そんな格好をしていたらわかるよ。ここは研究所じゃないんだから、白衣なんて着てないでもう少しマシな格好をしなよ。パトロンを逃すことになるかも知れないよ?」


「は、はあ。イシジマ氏は初めてじゃないでやんすか?」


「ああ。僕はもう数えきれないほどここには立ち寄っているよ。君もそうなるさ。じゃ、僕はこれで。予定が詰まっているんだが、少し長居しすぎてしまってね」


 そういってイシジマさんはバスのある方へと歩いて行った。それを見送っているとイケエさんがボツリという。


「クマガイさん、さっきの質問ですけど……」


 さっきの質問。それはこれだけの数の人間にどうやって口止めしているのか?というものだった。


「露店をご覧になれば分かりますよ」


 イケエさんはそう言ってニヤリと笑みを作った。何だかその笑顔は不気味だった。一体あの露店には何があるのだろうか。そう思いながら周囲をもう一度見渡すと、広場からは露店のある正面通りにしか歩道が出ていないことに気がついた。下向きの矢印のように左右にも道路はあるが、両脇の道はどうやら車専用の道だ。つまり露店の並ぶ正面通りは、ここを進む人間が絶対に通ることになる通りなのだ。


 僕たちは正面にあるアーチを目指して歩いた。どうして露店をみればわかるのか。そんな疑問は、喧騒な外国の市場のような通りに差し掛かった瞬間に凍りついた。


(なんだ……これ……)


 アーチを抜けた先の最初の露店に並んでいたのは、人間の内蔵だった。四角いガラスビンの黄色い液体に漬けられた五臓六腑と脳と眼球が、人の形になるように積まれている。そしてその隣では腹部が雑に縫い合わされた男性の裸体が磔になっていて、そのだらりと俯いた首には縄のネックレスにメッセージボードが下げられていた。


【私は秘密を守ることが出来ずに家族と友人と職場の人々をもこの世から失いました】


 それを眺めてうへぇと顔をしかめる人、軽い気持ちでここにやって来たことを後悔する人、ただただ怯える人、青ざめる人、嘔吐する人、そして吐瀉物を慣れた様子で片付ける職員。様々な反応がそこにはあった。


 目を見開いて愕然と男性の死体を眺める助手さんに、イケエさんは邪悪な顔で囁く。


「買えますよ?」


 イケエさんが手で導くその裸の死体の足元には、¥100という文字の紙が貼られている。


『そこではあらゆるものが売買されている』


 ミヤサカさんの言葉が何度も何度も僕の頭の中で反響した。でもきっとこの目の前の死体は売ることが目的で置かれたものではない。これは脅しだ。秘密を漏らしたらこうなるぞという、あまりにも直接的なメッセージを伝えるためにこの死体は市場の入り口に置かれているのだ。


「行きましょうか。ここには色んな商品が置かれているんですよ」


 助手さんの反応を楽しむようにイケエさんは言った。僕たちは……進むべきなのだろうか。僕の脳裏には内蔵を抜かれて磔にされた助手さんの姿が浮かんでいる。でも、今更引き返すことなんて……


「ショウタ君、もうすぐそこだ。この通りの先に君の体はあるよ」


 こっそり白衣の内側でレーダーを確認してコスモは言った。喧騒なこの通りなら普通に声を出しても僕とコスモの会話がイケエさんに気づかれることはなさそうだ。


「僕の体を見つけたら、どうするの?」


「もちろん、その場で奪うさ」


「でも、危険だよ」


「危険なのは百も承知さ。でも今さら危険を犯さずにいたら機を逸してしまうだろ?安全に事を運べる状況じゃないのさ」


「そう……だけど……」


 いくら何でも僕の体をバレずに取り戻せるわけなんてない。間違いなく奪取した時点で奴らと敵対することになる。それは避けられないんだ。それは分かっているんだけど、でもそうなったらやっぱり助手さんは……


「……やっぱり助手さんの事が気がかりなのかい?」


 僕の気持ちを察して喋るコスモに僕は「うん」と頷いた。すると、コスモはうーん、と頭を捻らせていう。


「君は優しいから、だからだと思っていたんだけど、ショウタ君、もしかして君は……気づいていないんじゃないのかい?」


 何に?と言葉に出すよりも早くコスモは続けた。


「君をそんな体にしたのはカザマツリ博士と、助手さんだってことさ。僕は助手さんには君の体を元に戻す責任があると考えているんだ。例え命を危険に晒してでもね。じゃなければこんな危険な所にまでは連れてこないよ」


「……何だって……?」


 助手さんが……僕をこんな体に……?


 それは考えてみたら当たり前の事だった。でも僕は勝手に、僕の体をこんなにしたのは……僕をこんな脳みそ人間にしてしまったのはカザマツリ博士だと思って博士にだけ怒りを溜めて、助手さんはその後始末を押し付けられた可哀想な人だなんて思っていた。けれど……そうだよ。冷静に考えたらそうだ。助手さんは博士の助手じゃないか。共犯じゃないか!


 僕は助手さんに視線を移した。イケエさんの隣で怯える助手さんに何だか僕はイライラしてきた。怯えてないで僕をこんなふうにしてしまった責任を取れよと言いたくなった。でもそれは本当に一瞬の気持ちで、そんなに尾を引くほど強い感情ではなかった。ただ、無関係な助手さんを巻き込んでしまって申し訳なく感じていた僕の心はすうっと消え去って、なんだか凄く清々しい気分になった。


「やっぱり気づいてなかったみたいだね」


「うん。ありがとうコスモ。教えてくれて」


「礼なんていらないさ。君は知っておくべきだと思ったんだ。もしかしたら大きな決断をすることがあるかもしれないからね」


「大きな決断?」


「もしもの話さ」


 そう言ってコスモは僕を安心させるように笑みを作って続けた。


「君は自分の体を取り戻すことに何の遠慮もしなくていいんだ。さ、行こうか」


「うん!」


 そして僕たちは市場の通りを進み始めた。イケエさんと同じような制服姿の職員が番をする露店で売られているのは、ごく普通の飲食物とか、謎の機械のパーツとか、謎のディスクなんていったものから、違法薬物や違法タバコなど様々だった。呆れたことにここの露店では「違法」や「禁制品」が売り文句になって掲げられている。


「こ、このパーツは……流通制限されているレアメタルが使われていたのがバレて発売禁止になったやつでやんす。これがあればあのメカの重力制御性能が格段に高まるでやんす!ほ、欲しいでやんす」


 市場に一番目を奪われていたのは助手さんだった。初めは違法の二文字が溢れるこの場所に怯え切っていたけれど、露店に機械などの商品が並び始めてからは人が変わってしまった。


「悪いけど買い物は後にしてね」


「わ、わかっているでやんす」


 助手さんはそういってキョロキョロと辺りを物色する。


「助手さん、ずいぶん元気が出てきたね」


「科学者なんてそんなものさ」


 コスモは実感を込めて呆れるようにいった。市場は初めこそこれは売り物なのか?と言いたくなるような謎の肉だとか人間の内蔵だとか、拷問メカだとかおぞましいものが並んでいたけれど、徐々にまともな雰囲気になっていった。まともっていっても違法って文字が踊り狂っているけれど。


「ここは私のおすすめの人間ブックのお店よ」


 そういってイケエさんは青い本が山積みになった露店を指さす。


「ここではね、脳みそを暴かれた人々の本が売られているの」


「脳みそを暴かれた人々……でやんすか」


「ええそうよ。脳みそにはね、簡単に引き出すことが出来ないだけで見てきたものや聞いたことの全てが実は記録されているの。ここで売っているのは脳に眠った記録を無理矢理引きずり出して書き出した本なのよ。ここの本にはね、年齢ごとの身長や体重の推移、性別、血統はもちろん友人の数や食事の回数、さらには歯磨きの回数からトイレの回数まで、生まれてから死ぬまでの行動の全てが数字で記録されているのよ」


「な、なんだか気味が悪いでやんすね。そんなの見てどうするでやんすか」


「想像するのよ。その人間の素顔を。この人は一日に五回もお風呂に入っていたのね、どうしてかしら?とか、すごい万引きの回数、盗み癖があったのかしら?とか。ふふ。中には殺人の回数が記録されている人もいるのよ。記録されている項目は六千項目にも及ぶわ」


「そんなの見て何が面白いのかわかんないでやんす……」


「これでも?」


 そういってイケエさんは露店の本の表紙を助手さんに見せた。そこには『高中響子』という人の名前と綺麗な女性の写真が印刷されていた。


「そ、それは……まさか」


「ええそうよ。当然ここにはただの一般人の本なんてないわ。そんなもの、誰も興味ないもの。ここで売られているのは政治家や芸能人、スポーツ選手のような著名人の本よ。この本に収められているのは去年事故で亡くなった女優のタカナカキョウコさん。その全てよ」


 助手さんが喉をゴクリを鳴らす。


「そ、そんな……その本に……キョウコちゃんが……?」


「キョウコちゃん?あらもしかしてあなた、彼女のファンだったの?ウフフ。この子、清純そうな見た目で凄いのよ。この本にはね、色々記録されているの。色々とね。あなたもこれを読んだらきっと驚くわ」


 そういってイケエさんが本を手に持ってヒラヒラと揺らすと、誘蛾灯に誘われたゾンビのようにぬるっと助手さんが手を伸ばした。


「ダメよ。まだダメ。あなたはまだこの街に正式に受け入れられていないのだから。でもクマガイさんにもここが素敵な場所だってことが理解できたでしょう?」


 そういってイケエさんは青い本を露店の台に戻した。それを助手さんは物欲しそうな顔で見つめていた。僕の目にはまるで動物が躾されているように見えた。


「クマガイさんにもこの街を訪れるセレブたちの気持ちが少しは理解できたかしら」


 と、その時。


「あらあなた、無事だったのねぇ。イケエさんに案内されているの?」


 露店の本を未練がましそうに見つめる助手さんに声をかけたのはチャイプードルのユリちゃんを連れたおばさんだった。


「ミヤサカさんの姿が見えないようだけれど……」


「あ、ミヤサカさんは職員の人と話をしているでやんす」


「あら、そうなの」


 そういっておばさんはイケエさんをチラリと見た。


「ご機嫌ようマダム。相変わらずユリちゃんは可愛らしいですね」


「まあ、イケエさんったらお上手ね。今度またあなたの好きな本を買ってあげるわ」


「本当ですか?ありがとうございます」


 イケエさんはパアッと顔を明るくさせて擦り合わせた手を頬に当てて喜んだ。


「ほんと、ここに越してきて正解だったわ。ユリちゃんがいない暮らしなんてもう考えられない」


 おばさんはそう言ってしゃがんでユリちゃんを撫でる。ユリちゃんは気持ちよさそうにおばさんに頭を委ねた。


「抱っこして欲しいワン」


「あらあら、甘えん坊さんねぇ。それじゃあねあなたたち、ごきげんよう」


 そういっておばさんはユリちゃんを腕で抱いて市場の奥へと歩いていった。


「あのご婦人、越して来たって……」


 助手さんがイケエさんに疑問を呟くと、


「ツアーでここを訪れた人たちは買い物をしても家に持ち帰ることが出来ないものが結構あるのよ。チャイプードルのような人工の動物はその最たるものね。あれを自由に持ち帰らせる訳には行かないのは分かるでしょう?」


「……それはまあ……あんなのが人目に触れたら大騒ぎでやんす」


「だからマダムはこの上の居住地区に引っ越して来たのよ。組織の管理下の居住地区であればチャイプードルを飼うことが許されているの。マダムはとある資産家のご息女で、元々は豪邸に住んでいたのよ。それが今は見すぼらしいタワーハウス。それで幸せなのだから面白いものね。マダムみたいな人はたくさんいるわ。そうなるように組織が誘導しているのでしょうね。何しろお金を湯水のように使う人たちだから」


 イケエさんはそう言ってふふっと鼻で笑った。露店の通りの先には十字路があった。ただその手前には改札機があり、


「この先はただの住民では入れない場所なの。言うなれば高級商店街ね。あなたたちはこっちよ」


 そう言ってイケエさんは改札の番をする職員と言葉を交わし、僕たちを改札の横にある建物のドアの先に案内しついて来るように促した。


「さあ着いてきて。私たちの上司はこの先にいるわ」


 僕たちはイケエさんについて行き、建物の中のエスカレーターを下った。その先は長い通路になっていて、途中で二人の職員とすれ違ったけれど彼らは僕たちに特に注意も向けずにすれ違って行った。


「さあ、ここよ」


 イケエさんの言葉を受けたコスモの顔から彼が辺りを強く警戒するのが伝わってきた。スライドして開いたドアの先は学校の校長室のような個室になっていて、大きな机の向こう側には制服を着た白髪の老人が座っている。老人は黒電話の受話器を耳に当て、誰かと通話をしている最中だった。


「ええ、はい。では」


 白髪の老人は受話器を置き、僕たちの姿を見て白い髭を蓄えた口を開いた。


「……よく来なさった。話は聞いているから、君、下がっていいぞ」


「はい。失礼します」


 そう言ってイケエさんはお辞儀をしてドアの外に消える。それに合わせて白髪の老人は席を立ち、助手さんの元にゆっくりと歩み寄った。


「そんな構えんで宜しい。わしはサヤマという。君たちが会った男の父親じゃよ」


「あ、初めまして。ク、クマガイでやんす」


「ふむ」と、白髪の老人はフサフサの白い眉を上げてコスモを見る。


「なるほどのう。これはよく出来たロボットじゃ。せがれが通すだけのことはあるわい」


「こ、光栄でやんす」


 助手さんはかなり緊張しているようだった。そりゃあそうだ。だってこの人はあの死体が磔にされた闇の市場を取り仕切っているお偉いさんなのだから。サヤマさんはコスモをマジマジと見ていう。


「クマガイどのよ。君はこのロボットをオークションに出すということだが、場所を変えてその辺りの話をせんか?」


「場所を変えて……でやんすか?」


「うむ。これだけのロボットだ。オークションに出す前にぜひボスの目にも入れたい」


(ボスだって?)


 僕の頭に浮かんだのはアリサさんの顔だった。もしかしたらアリサさんはあの研究所を任されただけの人だったのかもしれないけれど……


「強張ることはない。ボスは君と同じ科学者だ。きっと話が合うだろう。それに、君のことは気にいるだろう。ボスは優秀な科学者を求めているからな」


 サンタクロースのような顎髭を撫でながらサヤマさんは言った。その話を聞いて僕は余計にアリサさんの顔を思い浮かべていた。


「しょ、商談はミヤサカさんがするって言っていたでやんす」


 助手さんは恐る恐る声を出した。と、


「あんな男はとっくに処刑場に送っておる。卵の殻を割るように頭を割られ、今頃は脳みそをほじくり出されているんじゃあないか?」


 サヤマさんは、フォッフォッフォと愉快そうに笑った。フサフサの眉毛を吊り上げて見開いた片目でサヤマさんはいう。


「わしらは決まり事を守れん者を決して許さんのだ。あの男にはどうやらそれが伝わらんかったようだが、君はどうだ?」


「ま、守れるでやんす!絶対にここのことを誰かに話したりはしないでやんす!」


「フォッフォッフォ。君は賢い科学者だ。信じておるよ。ではボスの元に行くとしよう。ついて来なさい」


 僕たちはサヤマさんに先導されて通路を進む。その足音に忍ばせて僕はコスモに小さく語りかけた。


「ボスのところにだなんて、大丈夫かな。場合によっては僕たちは一目で正体がバレてしまうかも……」


「何を言っているんだいショウタ君、チャンスだよ。奴らのボスを人質に取ろう」


「人質だって?」


「ああ。なりふり構っていられないさ。奴らのボスが姿を現した瞬間、僕はすぐにでも襲いかかるつもりだよ。それはきっと千載一遇のチャンスなんだ」


「……確かに」


 奴らのボスを人質に取ることが出来れば、僕の体を取り戻すのも、ここから無事脱出することも、全部上手く行くかもしれない。僕たちは通路を進み、扉が七つ並んだ場所に辿り着いた。全てエレベーターの扉のように僕の目には見えた。


「ボスの場所にはこのポーターで向かう。ついて来なさい」


 僕たちは両開きのドアの奥に進む。そこはやはりエレベータールームのような小部屋だった。全員が小部屋に入るとサヤマさんはドアの横のパネルを操作し、突然小部屋の外に出てコスモのお腹の辺りを見て、


「フォッフォッフォ。体が取り戻せるといいのう藤森君」


 そう言葉を吐いて小部屋のドアを閉じた。


「しまった!」


 コスモが叫んだ時にはもう遅かった。小部屋は凄い勢いで動き出したようで、コスモと助手さんは壁に激突し態勢を崩した。


「クソっ!奴らとっくに気づいていたんだ!」


 コスモは床をダンと叩いた。


「だ、ダメでやんす。制御できないでやんす!」


 ドアのパネルをいじりながら助手さんがパニックになって叫ぶ。僕たちはなすすべもなく、小部屋の移動する先に連れて行かれてしまう。キンコーンと音が鳴り小部屋のドアが開くのが、僕には地獄の門が開くように感じられた。ドアの先で僕らを待ち受けていたのはアリサさんの研究所にいた黒タイツの男たちだった。


「馬鹿な奴らだぜ。気づいてないとでも思ったか」


「出ろ。妙な真似をしやがったら問答無用で撃ち殺すぞ」


 黒タイツの男たちが構える電動ドライバーのような銃の銃口を突きつけられ、コスモと助手さんは両手を挙げてドアの先に歩いた。ドアの先はそれまでに僕が見てきたこの世界の景色とはまるで違う、暗い洞窟の中のような……そんな薄気味悪い雰囲気の場所だった。広大なドーム型の空間は茶色い土のような壁で出来ていて、そのドームの中央にはとてつもなく巨大な穴が空いている。その穴にはドームの茶色い壁の先から掘り込まれた溝を伝って大小さまざまなゴミが転がり落ちていく。大穴の手前には波打つ灰色の太いケーブルが配線されていて、家屋のように巨大なコントロールパネルがあった。その手前には赤と白の細長い二メートルくらいのカプセルが立てられていて、その青くて透明な丸窓からは目を閉じた僕の顔が見える。そしてそのカプセルの隣には……白衣を靡かせ大勢の部下を従える、アリサさんの姿があったんだ。


 コスモと助手さんには数十人の茶色い全身タイツの男たちが構える銃口が向けられた。完全に奴らに包囲される中で、僕はただ、ああ……ダメだったか。と思った。


(まあ、そんなもんだよ。計画とも呼べないようなずさんな計画だったし、上手く行きっこなかったんだ)


「おいお前、前に出ろ」


 眼帯の男に銃を突きつけられ、助手さんはコスモと引き離された。奴らのボスを人質に取るどころか、逆に僕たちは助手さんを人質に取られてしまった。アリサさんは僕の体の入ったカプセルに片手を触れながら、大きく声を張った。


「さあ藤森くんの脳みそをよこしなさい。断るのならその男の命はないよわよ」


「……持って来ているわけがないだろう!」


 コスモは怒りを滲ませてアリサさんに叫んだ。


「嘘をついても無駄よ。藤森くんの体を盗んだ部屋とあなたたちの車には念の為に盗聴メカを仕掛けさせていたの。盗んだ体に脳みそが入っていなかったのは想定外だったけれど、わざわざ脳みそを持ってきてくれるみたいだったから私はあなたたちを迎え入れることにしたのよ。ウフフ。藤森くんは今愉快な姿をしているようだけれど……そのロボのお腹の中にでも隠れているのかしら?さあ、観念して姿を現しなさい!」


「クッ」と顔を歪めるコスモに僕は「いいんだコスモ」と小さく言った。僕はコスモのお腹を内側から押してカバーを開き、ぴょんと地面に飛び出す。


「あら、だいぶ可愛らしい姿になったわね。そっちの方が好みだわ」


 アリサさんはにっこりと笑って続ける。


「藤森くん、あなたが私の元にくればその人間は助けてあげる」


「そんなの嘘だ!汚いぞドクターアリサ!」


 コスモの叫び声が地下空間にこだました。


「何とでも言いなさいな。そうねぇ。あなたたちの葛藤を吹き飛ばしてあげようかしら」


 そういってアリサさんは茶色いタイツの男たちを近くに呼び寄せ、


「この誘拐用カプセルの中には藤森くんの体があるわ。これを……どうするかわかるかしら」


 そう言ってアリサさんは男たちを使って背後の大穴にカプセルを傾けた。


「この大穴は都市のゴミを重力分解するためのものよ。どこまで続いているのかは誰にもわからない。分かっているのは、一度落ちたら二度と戻って来られないってことだけ」


 そう言ってアリサさんは唐突に、何の躊躇いもなく僕の体の入ったカプセルを大穴の中に突き落とした。


「あ……あああああああああああああああああ!」


 ガタンと傾き逆さまになり、あまりにも呆気なくカプセルは大穴の中に吸い込まれて行った。


(嘘……だろ……)


 体が、僕の体が、落ちてしまった。大穴の中に、落ちていってしまった。僕の体が無くなってしまった。二度と……二度と普通の人間に戻れなくなってしまった。あ、ああ……


「うわあああああああああああああああああああ!」


「オホホホホ。これでもう藤森くんは一生元の体には戻れなああああい!あなたはもう人間である権利を失ったのよ!あなたはね、正真正銘の脳みそ人間よ!脳みそ人間になれたのよ!」


 オホホホホホホと頭の中にドクターアリサの甲高い笑い声だけが響いた。僕はもう諦めていたのに、どうせダメだって思っていたのに、それでもいざ完全に体を失ってしまうと、悲しいんだ。とてつもなく辛いんだ。僕はもう二度と元の体に戻れないんだ。人間に戻れないんだ。クリーチャーなんだ。元の世界に戻れないんだ。お母さんにもお父さんにも会えないんだ。お爺ちゃんにもお婆ちゃんにも、友達にも、先生にも……


(ああ……終わった)


「……あら、ショックで言葉も出なくなってしまったのかしら?」


 ただ、茶色い床の景色だけが僕の目には映っていた。僕の中には今それ以外の情報が一切消え失せていた。無意識の中で、僕はある決断をしてコスモに声をかけた。


「ねぇコスモ。お願いがあるんだ」


「お願い?」と、コスモは悲しみと怒りが織り混ざったような顔で、震える声で聞き返した。


「君ならきっと、助手さんを連れて地上に脱出出来るよね?」


「……何をいっているんだショウタ君、僕は君も……」


「いいから答えて!コスモ、友達だから聞くんだ。答えてよ!」


 僕の覚悟は、伝わるだろうか。


(ううん。伝わるに決まってる。だってコスモは僕の……)


 コスモはぐっと拳を握りしめて強い目で答えた。


「……絶対に助手さんを連れて帰るよ。約束する」


「うん、約束だよ」


 僕はコスモの顔を脳に焼き付けた。コスモと出会ってからろくなことがなかったけれど、君と出会えて良かった。


「ドクターアリサ!」


 僕はドクターアリサを睨みつけて声を張った。


「お前の言う通りにする。だから助手さんを解放しろ!」


「ウフフ。いいわ。じゃあこっちへいらっしゃい。お互い一歩一歩あるくのよ。変な動きを見せたらその男を銃殺するわ」


 僕はコスモの元から、顔をくしゃくしゃにしている助手さんはドクターアリサの元から一歩一歩足を進める。ドクターアリサまでの三十メートルほどの距離が、とても短く感じた。この距離を歩ききったら……僕は……


 僕は助手さんとのすれ違いざまに助手さんにだけ聞こえるように小さく呟いた。


「僕の分まで、生きてください」


 その声が咽び泣く助手さんに届いたかどうかはわからない。あっという間に僕は待ち構えるドクターアリサの元に辿り着き、後ろを見ると助手さんもコスモの手に肩を抱かれていた。


「ウフフ。ようやく藤森くんの中が拝めるのね」


「……その前に、二人を地上に帰すんだ」


「ふん。そんな約束守るものですか。あなたを銃で傷つける危険がなくなった今あの二人を生かしておく必要はなくなったわ。あんたたち、そのロボと人間をバラして大穴に捨ててしまいなさい」


「そんな事だと思ってたよ」


 僕はドクターアリサの足元をすり抜けて暗く深い闇が口を開ける大穴の縁に立った。大穴の奥では落下したゴミがぶつかり合うような衝撃音が反響している。僕は大穴に背を向けてドクターアリサを睨んで言い放つ。


「だったら僕はここから飛び降りるぞ!」


「何ですって」


「こんな体で生きていてもいいことなんて何もないんだ。どうせお前にぐちゃぐちゃにされるんだろ!僕はいつでも飛び降りられるぞ。そうなったらお前だって困るだろう!二人を無事に地上に帰せ!そうしたら僕のことは好きにしていいさ!」


 ドクターアリサは苛立たしそうに顔を歪め、チッと舌打ちして男たちに命令する。


「……解放してやんな」


 黒タイツの男たちは「アイサー」と返事をして助手さんに突きつけていた銃口を降ろす。


「地上までの案内役が必要だろ。そこの眼帯の男にコスモたちを地上まで案内させるんだ」


「て、てめえ!黙ってればいい気になりやがって!」


「よしな!」


 怒りを露わにする眼帯の男をドクターアリサは制止し、


「案内してあげなさい」


「で、ですがボス」


「いいから行きなさい!」


「ア、アイサー!おい、ついて来い」


 眼帯の男はそう言ってポーターの方に向かう。


「……ああ藤森君!君のことは忘れないでやんす」


 遠くで助手さんが涙を流して叫ぶように言った。


「ショウタ君……」


 背中を向けてそそくさとポーターに向かう助手さんとは対照的に、コスモはその場で立ち尽くして僕を見ていた。だから僕は、最後の言葉をコスモに送った。


「コスモ、僕は君にあえて嬉しかったよ。君は僕の……大事な親友だ!さあ、行くんだ。僕の分まで生きて!助手さんのこと、頼んだよ!」


 コスモは「うん」と力強く頷いた。そして駆けていく後ろ姿を、僕は頼もしく見送ったんだ。




「さあ、もういいでしょう、そろそろ私の元においで」


 コスモと助手さんがこの地下空間を去って安心したせいか、それとも僕の活動を支える栄養がなくなったのか。僕の身には強烈な睡魔が襲って来ていた。だけど僕は睡魔に必死に抗い、大穴に身を晒してコスモたちが地上に無事辿り着くまでの時間を必死に稼いだ。もしかしたら二人はポーターの先で奴らに囲まれているかもしれない。でもコスモなら、きっと何とかするはずさ。


(ああ……眠いや)


 だんだん意識が細くなっていくのを感じる。終わりの時が来たんだ。


「藤森くん。もういいでしょう。あのロボットたちは地上に脱出したわ。信じられないかもしれないけれど、事実よ。今更嘘はつかないわ。だからもう、こっちへいらっしゃい」


 五メートル先からそっと手を差し伸ばすドクターアリサに、僕は心の中で笑って言い放った。


「誰がお前の元になんて行くもんか」


「なっ!」


 そして僕は地面を蹴って大穴に飛び降りた。あはは。ざまあみろ。誰がお前の思い通りになんてさせるもんか。


「あははははははは!」


 僕は思いっきり笑ってやった。ドクターアリサの耳に届くように、力一杯声を振り絞って笑ってやったんだ。

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