第三章『居住地区』編
背の低いポールライトがほんのりと足元を照らし出す薄暗い夜の道を僕らは歩いた。辺りは静寂に包まれていて誰とすれ違うこともなく僕はアリサさんの家の根元に着く。
「これはタワーハウスと呼ばれる都市機能と連動した家よ。居住地区では全ての人がタワーハウスで暮らしているわ」
僕はタワーハウスを見上げる。刈り揃えられた柔らかい芝生の庭に生えた、天辺にUFOみたいな居住空間がある無機質な塔。塔の幹の部分は近くで見ると意外に太い。細い箇所でも直径が五メートルくらいはありそうだ。仰け反りながら首を上げると居住空間が巨大な傘になって夜空を塞いでいる。
「こっちよ。そう、そこに立っていて。動いちゃダメよ」
僕が誘導されたのは芝生の中にある二メートルくらいの丸い金属の地面の上。そこでアリサさんはポーチの中から黒くてずんぐりとしたペンのようなものを出し、先端を指で押す。すると僕たちの頭上から粒子すら視認できそうなくらい濃密な黄色い光が降り注ぐ。
「うわっ」
その光に触れた瞬間、エレベーターに乗った時に感じるような浮遊感に僕は包まれる。そして僕の体は黄色い光に誘われるようにふわふわと重力に逆らい始めた。ゆっくりと水の底に落ちていくように僕の体は空を蓋する居住空間に向かって浮上していく。そして頭上で輝く黄色い光の輪の中に吸い込まれると、次の瞬間僕は建物の中にいた。芝生の中の地面にあったような丸い金属製の床の上に僕は立っていた。
小さく切り分けたパイナップルみたいな形を連想させる部屋の正面にはドアがあって、丸みのある後ろの壁には顔の高さに窓がついている。ドアの近くには金属製のラックがあって、ピカピカの靴が整然と収められている。僕はここがこのタワーハウスの玄関なのだと直感した。今僕は塔の天辺のUFOみたいな形をした居住空間の玄関部分にいるのだ。
「ふう。お疲れ様藤森くん。ここまで来ればもう安心よ。あなたの部屋に案内するわ」
なんだか宇宙ステーションにでも来たみたいな気分になった。ドアも壁も床もなんだか無機的で未来的な感じがするのだ。僕の時代の家屋と違って木材が全く目に入らないからかもしれない。もしかしたら火事にならないように燃えにくい材質で作られているのかも。左右にスライドして開いたドアを抜けると、縦に伸びた廊下が続いている。
「ここがトイレ。こっちが洗面所。まあここのを使うことはないと思うけれど」
そういって廊下の両側にあるドアを指差して、アリサさんは突き当たりにあるドアを開く。ドアの先では中央に太くて丸い柱があり、ドーナッツの輪をのような丸みのある形の通路が中央の柱を一周するように右に左に伸びている。アリサさんは左手側に進み、通路の左にある「D」と刻まれたドアを開けていう。
「ここが藤森くんの部屋よ。遠慮なく好きに使っていいわ」
アリサさんは部屋に入り薄く青みがかった壁のスイッチを押して電気をつけた。その部屋は奥に行くほど空間が広がる扇形の間取りだった。部屋には簡素なデザインに統一されたベッドやソファ、机、テーブルがあり、ソファの向かいの台の上にはV字型の大きなアンテナがついた箱型のテレビが乗っている。部屋の右側の壁は随所に切れ込みのような模様が入っていて、模様のない部分には下部につまみのついたコントロールパネルがついたモニターが埋まっていてる。部屋の奥の壁にはドアがあり、その奥にさらに空間が続いているみたいだった。
「奥のドアの先にはお風呂とトイレがあるから、藤森くんはこの部屋のを使ってね。何か欲しくなったらあのモニターのパネルを操作すれば注文できるわ。食べ物でも服でも、何でも好きに注文していいのよ」
そういってアリサさんは壁のモニターの下についているコントロールパネルの赤くて丸いボタンを押す。
「今のが電源ボタン。まあ、二十一世紀育ちの藤森くんなら使い方は直感でわかると思うわ。聞きたいことは色々あるでしょうけど、疲れを取らなきゃいけないし今日は休みましょう。何かあったらベッドの横に電話機があるから、Aのボタンを押せばわたしの部屋に繋がるわ。あ、そうそう」
そういってアリサさんはポーチから青と白のカプセルを取り出す。
「これは疲労回復に効く薬よ。寝る前に必ず飲んでから寝てね。じゃないときっと明日筋肉痛でガタガタよ」
明日どころじゃない。僕の体ではすでに太ももとふくらはぎに違和感が出始めている。
「これを飲めば筋肉痛にならないで済むんですか?」
「ええそうよ。じゃあそういうことだから——」
アリサさんは僕に薬を手渡すと、僕の両肩に手を添えて、膝を屈めて僕に目線を合わせて耳元で囁く。
「——おやすみなさい、藤森くん」
不意に、僕の頬にチュッという音と柔らかな感触が伝わった。甘い匂いのするアリサさんの髪が僕の首筋を撫でる。
「ウフフ」
アリサさんは僕の頬にそっとキスをして、クスリと笑いながら手で口元を隠して部屋を出て行った。クタクタだった僕の体は、ガソリンを注がれたようにドクドクと鼓動を打ち始める。
「み……未来では普通の挨拶なのかな……」
疲れていたのでさっさとベッドにダイブして眠ってしまおうと思っていたけれど、僕は目が冴えて眠れなくなってしまった。
(そ、そうだ!)
僕は昼間かいた汗を流してサッパリしようと思い立って部屋の奥のドアを開けた。そこは鏡と流し台のある洗面所になっていて、左のドアの奥にトイレ、右のガラス戸の奥に浴室があった。僕が服を脱ぎ始めると、
「浴槽ノ準備ヲ始メマスカ?」
「わっ」
洗面所に抑揚のない無機質な声が響いた。僕は辺りをキョロキョロと見るも、声の主は見つからない。
「浴槽ノ準備ヲ始メマスカ?」
どうやらそれは部屋そのものが語りかけているようだった。
「浴槽の準備……まあ、入ろうとしてたところだし、じゃあ、お願い」
「カシコマリマシタ。水温ハイカガ致シマスカ」
「水温……?うーん、熱いと嫌だからぬる目で」
「カシコマリマシタ」
と、浴室の方からブオオオンと唸るような音がし出し、ものの数秒後にはまた無機質な声が僕に語りかけてくる。
「準備完了」
「はやっ」
裸になった僕が浴室に歩くと、ガラスの戸が勝手にスライドして開き、しとっとした湯気が僕の肌に触れる。浴室はとても簡素な作りだった。左手側の外壁の形に沿って少し弧を描いた長方形型の広々とした浴槽があるだけで、他には何もない。体とかどうやって洗うんだろう。そう思ったとき、
「洗浄致シマスカ?」
またまた無機質な声が僕に語りかけてくる。
「洗浄って、体を洗うってこと?洗ってくれるの?」
「ソウデス」
僕は少しドキドキしながら「じゃあ、お願いしようかな」と答えた。
「カシコマリマシタ。洗浄ヲ開始致シマス」
次の瞬間、天井からウィイイイインと音がし出したと思ったら天井が割れた。そして天井からシャワーのようにお湯が降って来たかと思うと、スポンジをつけた金属製のロボットアームが何本も何本も降り注ぎ、ロボットアームはタコがまさぐるように僕の体を優しく撫で回していく。
「わひゃひゃひゃひゃひゃ」
僕はくすぐったくて思わず奇声を上げた。でもくすぐったさはすぐに気持ち良さに変わる。体の隅々までロボットの腕に洗われて僕はいつの間にか泡だらけになっていて、その場にへたり込みそうになるんだけど、そんな僕をロボットの腕は優しく支えて洗い続ける。
(ああ、何だか無重力の中でジャブジャブともみくちゃにされている気分だ)
き、気持ちいいいいいい。
「洗浄完了致シマシタ」
強めのシャワーが浴びせられた後にロボットの腕たちは天井に消えていった。これ以上ないくらいさっぱりとした気分になった僕は何だか夢見心地のままフラフラと浴槽に足を踏み入れる。お湯はぬるい。ちょっと物足りないかも。
「温度もうちょっと上げれる?」
今度は僕の方から声をかけてみた。すると、
「上ゲレマス」
すぐに声が返ってくる。
「じゃあお願い」
「カシコマリマシタ」
その返事の後からほんの少しずつ湯船の温度が上がっていく。そして心地よく感じるくらいの温度になると……
「コレクライデ如何デショウカ?」
「ぴったりだよ。ありがとう」
なんて優秀なAIなんだろう。僕は殿様にでもなった気分になり、極楽気分で未来の科学力に感服した。最近流行りのチャットAIってこういうふうに進化していくのかな。
「なんだか喉渇いちゃった」
「オ飲ミ物ヲオ持チ致シマスカ?」
「え?出来るの?」
「出来マス」
「えっと、じゃあオレンジジュース」
「カシコマリマシタ」
浴室にピコピコとランダムな音程の電子音が響き、トゥルルルル、と電話の呼び出し音が聞こえたかと思うと、浴室の内側の壁が開きオレンジジュースの入ったガラスのコップを持ったロボットアームが僕の目の前まで伸びてくる。
「わあ。す、すごい」
僕はキンキンに冷えたコップを受け取り匂いを嗅いだ。柑橘系の酸っぱくて甘い匂いだ。オレンジの液体には細かい氷がザクザクと浮かんでいて、とっても美味しそう。僕は唇をつけてゴクゴクとオレンジジュースを飲む。
(ああ、美味しい!)
体に染み渡るようだ。
「オ代ワリハイカガ致シマスカ?」
「ちょうだい!」
すると壁から再びオレンジジュースの入ったコップを持ったロボットアームが伸びてきて、僕にコップを渡すと飲み終えたコップを回収して壁の奥に消えていく。
(なんて便利な世の中なんだ)
僕はゴクゴクとジュースを飲みながら思う。一体いつぐらいになったらこんな便利なお風呂に入れるようになるんだろう。今は僕のいた時代から百年後なわけだけど、僕が生きているうちにはこんな便利な生活が出来るようになるのだろうか。ギリギリあり得るかも?
「君って浴室専用のロボットなの?」
「イイエ。ワタシハD号室全体ヲ管理シテイマス」
「ってことは向こうの部屋でも頼めばジュースとか持ってきてくれるってこと?」
「ハイ」
「ほえー。凄いや」
「タダシ、現在ノ時刻デハ消灯設定ニヨリ向コウノオ部屋デハワタシカラオ声ガケスルコトハアリマセン。ゴ用ノ際ニハソチラカラオ声ガケ下サイ」
「なるほど。了解。あ、そうだ。今って何時なの?」
「現在、ゼロ時ヨンジュウキュウ分」
「随分遅い時間なんだなあ。ところで君のことはなんて呼べばいい?」
「オ好キニドウゾ。オイ、デモ。オ前、デモ。君、デモ。チョット、デモ。呼ビカケラレテイルトワタシガ判断出来レバ即座二応対致シマス」
「ふうん。名前とかはないの?」
「特定ノ名前ハアリマセン。シカシ、ワタシ二呼ビカケテイルトワタシガ判断出来レバ即座二応対致シマス」
「何だか便利なような面倒くさいような」
僕は不思議な気持ちになって未来のお風呂を堪能した。
______________
「……きて…………りくん、起きて」
「……んっ、ううん」
名前を呼ばれた気がして、僕は眠りから覚めた。目を開くと青白い見知らぬ天井と僕を覗き込むアリサさんの顔があった。
「ああ良かった。全然起きないから心配したわ。まる一日寝っぱなしだったのよ」
「ええ⁉︎そんなに⁉︎」
「そうよ。よっぽど疲れていたのね。どう?体は痛くない?」
僕はベッドを出て自分の体の具合を確かめる。腕も足も、全然痛みはない。あれだけ歩いたのに全く筋肉痛がない。それどころか、すこぶる快調だ。体が羽根になったように軽い。
「全然痛みはないです。それどころか凄く調子がいいみたいで……」
と、そう喋った瞬間、僕のお腹がグルルルルと音を鳴らす。
「ウフフ。そうみたいね。ちょうどお昼だしご飯にしましょうか。顔を洗ったら部屋を出て左隣にある部屋にいらっしゃい。ドアにCと刻まれている部屋よ」
そういってアリサさんは部屋から出ていった。部屋に残された僕は「ふう」と大きく息を吐いて顔を下げて自分の服装を見る。寝る前に注文した無地のパジャマを僕は着ている。紙のように軽い素材で、何だか角ばったような型がついた服なんだけど、ゴワゴワした感じはなくて肌触りは優しい。
「本当に、未来に来ちゃってるんだな」
寝る前だってその実感はあったけど、一晩過ぎてみるとより冷静にというか、ちょっと他人事のように俯瞰した気持ちで未来に来てるって事実と向き合えている気がするというか……
「いてっ」
僕はふとほっぺをギュッとつねってみたが、痛かった。そして「まあそうだよな」と冷静に思った。そこには現実としてこの身に起きた出来事を受け入れている自分があった。
「おはよう」
「オハヨウゴザイマス」
ふと呼びかけてみると、この部屋を管理するAIが答えた。凄いな。特定の名前を呼んだり「おい」とか「ねぇ」とか明確に誰かを呼びかける言葉を使わなくても自分に向けられた「おはよう」だってこのAIは自分で判断出来るんだ。
「ねえ、顔洗ってー」
僕はベッドにずでんと腰を下ろして甘えるように声を出した。
「デシタラ、洗面所マデオ越シクダサイ」
「……はーい」
さすがにこっちの部屋の中での洗顔は無理なのか。僕は部屋の奥のドアに向かってトボトボと歩き顔を洗った。
アリサさんに呼び出された部屋はまるでホテルのエントランスみたいだった。広々とした扇型の空間を存分に使って部屋の中央に椅子とテーブルが、すみの方には観葉植物が置かれている。そして驚くべきことにこの部屋の奥には壁がなかった。天井部も部屋の半分くらいはオープンドームのように開いていて、居住地区の様子や遠くで聳え立つビルの群れがハッキリと見える。でもそれはどうやら本物の景色ではないようだ。じーっとよく見るとそこにはガラスのように透明な壁や天井があるのだ。外から見た感じだとタワーハウスにガラスのように透明な壁なんてなかったから、壁や天井に外の映像を映し出しているのではないかと僕は想像した。僕が部屋の入り口で目を丸くしていると、昨日と同じライダースーツを着たアリサさんが右の壁で手招きする。その壁は僕に用意された部屋と同じ作りになっていて、モニターの下にボタンがついた操作パネルが付いている。
「何を食べる?」
ほんの少し丸みを帯びたモニターにはさまざまな料理のジャンルが映し出されている。ご飯、麺、パン、ドリンク、デザートなどなど。僕は寝る前に一度この壁の機械と同じ機械を使っている。その時は着替えのパジャマとざるそばを注文した。料理は何でもあったから本当はステーキとかそういうガッツリしたのが食べたかったけれど、やはり肉料理というと地下の工場で見たピンクでブヨブヨの人造肉の事を連想してしまって、あれが入ってるんだよなあと思うとなんだかその気にならなくて、昨夜の僕は絶対に肉の入っていないであろうざるそばを選択した。だけど、
(……やっぱり肉が食べたいや)
一晩経てば意外と気にならなくなるというか……
(まあこの時代ではみんなアレを食べているわけだし?)
そもそも牛肉や豚肉だって解体している現場とかを生で見たら食べる気にならなくなると思うんだ。結局食べるってことと真剣に向き合ってないから僕はグロテスクに感じる部分を知らずに何でも食べられたんだ。だったら僕は一生目を逸らし続けようと思う。気にしなきゃ気にならないんだ。あのハンバーグ弁当は美味しかったから、あそこで見た事は忘れてもう一回あれを食べよう。
「ハンバーグにしようと思います」
「あら、好きねぇ」
アリサさんはパネルに備わったボタンを操作してハンバーグにカーソルを合わせた。昨日も思ったけど、なんでタッチパネルじゃないんだろう。そっちの方が圧倒的に操作が楽だと思うんだけど。何しろここには膨大な量のメニューがあるから、リスト分けされているとはいえカーソルを合わせるのが一苦労なのだ。まあ何かしら僕では気付けない深い理由があるんだろうけど。
「どのハンバーグにする?」
「えっと……」
モニターにはデミグラスハンバーグ、チーズハンバーグ、おろしハンバーグなどいろんな種類のハンバーグが映し出されている。
「うーん、じゃあ、デミグラスで」
「あら、こないだと同じよ?」
「美味しかったので」
「ウフフ。そう」
そう笑ってアリサさんはデミグラスハンバーグを選択した。アリサさんも自分の料理をモニターで注文すると、一分くらいでチーンと壁の切れ込みが開き、そこから地下の工場で見たのと全く同じ容器が二つ乗った小さなテーブルが出てくる。一つはデミグラスハンバーグと容器に書かれていて、もう一つはライスカレーと書かれていた。
(ライスカレー?ライスカレーってなんだろう?)
そう疑問を持った瞬間にふと思った。考えてみたらここは百年後の未来なんだから僕の知らない料理だって一杯あるはずなんだ。
(ああ、やってしまった……)
さっきまでの僕にはその発想がなかった。僕は自分が知っている料理の中からしかご飯を選ぼうとしなかった。ああ……それに気づいていればハンバーグじゃなくて未来にしかない僕の知らない料理にチャレンジしていたのに。
僕は料理の入った容器を持ってテーブルに移動するまでのあいだ、ライスカレーについて想像した。カレー料理なんだろうけど、わざわざカレーライスのライスを先に入れ替えるくらいだから米がメインのカレー料理なのかな。単語の順番を入れ替えただけなんだからそんなには料理の雰囲気は変わってないはず。ドライカレーみたいな感じかな?でもそれならドライカレーって呼び方があるものなあ。ライスペーパーでカレーを包んだ料理かな?それならライスカレーって言いそうだけど、カレーのライスペーパー巻きな気もする。うーん、僕の時代の日本ではあまり馴染みのない国の……例えばアフリカや南米の国の発祥の料理で、名前が似てるだけでカレーライスとは全く別物の料理だったり?その可能性が高い気がする。それか印字ミスだ。
僕は椅子に座ってアリサさんと向かい合った。僕の興味は完全にアリサさんのライスカレーに向いていた。
「じゃあいただきましょうか」
そういってアリサさんがライスカレーの容器をパカっと開けると、スパイシーな香りがプーンと漂う。中身はカレーライスだった。何の変哲もない、ご飯の半分に具沢山のカレーソースがかかったザ・カレーライスだ。具材はゴロゴロとした肉とジャガイモとニンジン、玉ねぎってところか。
「どうしたの?そんなにジロジロ見て。カレーの方が良かった?」
「あ、いえ。それってカレーライスですよね?」
「カレーライス?ええまあ。普通のカレーよ」
「容器にライスカレーって書いてありましたけど、カレーライスとライスカレーって何か違うんですか?」
「え?……うーん、藤森くんから見て何か違いを感じる?」
「いえ、見た目は全然。名前だけが違うみたいなので気になって」
僕の質問にアリサさんは「へーえ」と興味深そうに顎に手を当て、
「おそらく同じものだと思うけれど、時代で呼び方が変わったんじゃないかしら。この時代ではカレーをカレーライスっていう呼び方はしないわ。ライスカレーっていうのが一般的よ」
「そうなんですか……なんで呼び方を変えたんだろう」
「さあ?」
(うーん……)
こういう小さなことほどたまらなく気になるのはどうしてだろうか。
「なんか気になるんでちょっと調べてもらってもいいですか?」
「調べるって、どうやって?」
「ネットで、ウィキとかで」
「ネット?それは何?」
「え?何って言われても……インターネットのことですけど」
「インターネット……?それは、辞書のようなものなのかしら」
「え?」
ゾクっと、その言葉に僕は鳥肌が立った。なんでアリサさんはインターネットを知らないんだ?いくら百年後の世界とはいえそんなことあるのか?
「僕のいた時代とは呼び方が変わっているのかも。なんていえばいいんだろう」
ネットが何かなんて説明したこともされた記憶もないから、なんて伝えればいいのかが上手く出てこない。オンライン?情報を繋ぐ網?電子的なネットワーク?
「あ!情報ネットワークのことです」
「情報ネットワーク?」
アリサさんはどうもまだピンと来ていないようだった。
(んん?……それで伝わらないって、おかしくないか?)
なんだか僕の体の芯を得体の知れない不安が駆け抜けていく。ここは本当に百年後の未来なのだろうか。いや、それを疑う余地はないか。明らかに僕のいた時代よりも科学が進んでいる。それはもう十分にこの目で見ている。
でも、なんだろう。何かちょっとこの未来は、ズレているような。そんな漠然とした不安が僕の背筋をそっと撫でる。
「ああ、藤森くん、そんなに真面目に答えようとしなくていいわよ。過ごしてきた時代が違うのだもの、なかなか思うように言葉は伝わらないものよ」
「……そうかも知れませんね」
「とりあえずご飯を食べてしまいましょうよ。冷めてしまう前にね」
「そうですね」
僕はデミグラスハンバーグを食べる。地下で食べたのと全く一緒のものだ。味はもちろん美味しいんだけど、なんだかまともに味わえなかった。もしかしたら未来ではインターネットのような情報ネットワークは禁じられているのかも知れない。その可能性は十分にあるような気がした。ネットは便利だけど犯罪の温床でもあるからだ。僕の時代では便利さに目を瞑られていたけれど、どこかのタイミングでそうじゃなくなったのかも。それかもしくはとんでもないコンピューターウイルスが現れてインターネットが崩壊して、情報ネットワークって仕組みが信頼を失って使われなくなったとか?
考え始めればキリがないけれど、それを知るのはなんだか怖い。アリサさんに聞けば答えは帰ってくるのかもしれないけれど、僕はこの時代のことを何も知らずに元の時代に帰って、この時代に来た事なんて忘れて普通に生きるべきな気がする。だってたった百年後の世界にしては、この世界はあまりにも違いすぎる。何か大きな出来事がなければこんなにも世界は変わらない気がする。その大きな出来事は正直もの凄く気になるけれど、きっと僕なんかが事前に察知していたところでどうにもならないものだと思うんだ。世界を揺るがすような出来事をなんとかしようだなんて、そんな自惚れは僕にはない。僕は何も知らないままでいい。その方がきっといいんだ。
食事をしながら僕はアリサさんにこの時代のことを色々と教わった。未来では衣食住は完全に保障されていて、最低限の生活を送るために労働は必要ないのだという。そしてその最低限の生活環境というのがこのタワーハウスを指すのだから驚きだった。ここのモニターから注文できるものは全て無料なのだという。僕が食べたデミグラスハンバーグも、僕が飲んだオレンジジュースも、パジャマも、電気代も、水道代も。それどころか掃除や部屋の模様替えがしたくなったらそういうロボットを注文すれば無料でやってくれるのだそう。
「洗濯もロボットがやってくれるんですか?」
「やらせれば出来るでしょうけど、洗濯なんて見すぼらしいことはいちいちしないわ」
どうやらこの時代では一度着た服は使い捨ててしまうらしい。僕の時代では毎日同じ服を着ていたら不潔だと後ろ指を差されるけれど、逆にこの時代ではお気に入りの服を毎日着るのが普通なのだという。頻繁に服を変えている人は「落ち着きがない人」と思われるらしい。
「基本的に生活品は使い捨てね。使えるからといっていつまでも同じものを使うのは不衛生だもの。とはいえ使い捨てたゴミはダストシュートから都市の地下深くに落ちて重力分解されてしっかりとリサイクルされているわ」
「掃除ロボットとかも使い捨てなんですか?」
「さすがに掃除ロボットを使い捨てにしたりはしないわよ。もし間違ってダストシュートに入れたりしても怒られはしないけれど。仕事を終えた掃除ロボットは配送ボックスから自分で帰っていくわ」
「自分で……」
僕は掃除ロボットと聞いて丸くて平べったいロボットを想像していたけれど……
「もしかして掃除ロボットってあの地下工場で見たみたいな二足歩行のロボットなんですか?」
「そうよ?他にあって?」
「いえ……」
さも当然のように聞き返されて、僕は答える気を失った。この時代は僕の時代とは科学力が違いすぎる。ああいう人間みたいな形のロボットなら、掃除に限らずなんだって人間がやるようにこなせるだろう。頼めばなんでもやってくれるロボットが無料で使えるだなんて、なんて素晴らしい時代なんだ。でもそこまで便利なロボットがあるなら人間なんていらないんじゃないか?衣食住が保証されているといったけれど、この世界の人間って働く必要がないのに普段何をしてるんだろう。あれ、でもアリサさんは時空監理局で働いているはず。
「あの、この時代では働く必要がないって聞きましたけど、アリサさんは働いているんですよね?なんでですか?」
アリサさんはタバコに火をつけていう。
「藤森くんからすれば考えられないでしょうけれど、労働は趣味なのよ」
「趣味?」
「ええ。働きたい人が職についているの」
(ええ……)
「趣味ってなんだか……軽いですね…………って、あ!すみません」
趣味で働くだなんて、なんだか凄くいい加減な話に聞こえたもので、僕はつい口を滑らせてしまった。だって趣味ってことは、僕を元の世界に送り届けることだって趣味の一環ってことになるんだ。
(うーん、そう思うとやっぱり……)
「言いたいことはわかるわ。古い時代の人間にとって労働は生きるために必要な営みですものね。でもね、よく考えて見て欲しいの。今の時代には生活のために仕方なく働いているいい加減な人間なんて一人もいないのよ。みんな使命感を持って、心の底から仕事に誇りを持って働いているの。好きで働いているっていうと藤森くんからしてみれば軽くていい加減に聞こえるのでしょうけれど、あなたの時代よりもみんな自発的に仕事をしているわ。ダラダラと時間を潰すように仕事をしている人間はこの時代にはいないのよ」
「うっ……」
そう言われてみると、アリサさんの言うことはもっともな気がして僕は考えた。僕は勉強が好きじゃないから出された宿題を嫌々解いているけれど、勉強が好きな人は自分から問題集を買って問題に取り組んでいく。そういう話なんだ。嫌なことを我慢してこなすのと、好きなことを楽しんでやるのとでは楽しんでやる方が内容がいいに決まっている。
「あの、すみません。何も知らないくせに……」
「いいのよ。まあ、もう一つ付け加えるならば、あなたの時代と違ってこの時代は使えない人間はすぐにクビになるわ。クビにしても生活は保証されているから、雇用する側が相手の生活に気を遣う必要がないのよ。だから安心して。私は優秀な時空監理局員よ」
「え、べ、別にアリサさんを疑ったわけじゃ……!」
「そう?顔に出ていたわよ」
「え……そんな……違うんです。僕の時代ではその、趣味っていうと気楽なイメージがあって……」
僕ってそんなにわかりやすい人間なのだろうか。僕は申し訳ない気持ちで押し潰されそうになった。
僕たちが目指す時空監理局は山のようにビルが聳え立つ中央地区を超えた反対側の地区にあるらしい。都心部の空中に縦横無尽に存在する点滴の管みたいな高速道を使って移動すれば辿り着くのにさほど時間はかからないらしいけれど、アリサさんがいうには高速道は悪の組織に見張られているリスクがあるということで僕たちは下の道で人ごみに紛れて時空監理局を目指すことになった。
「はい。これを被って」
せり上がった庭の芝生の下から出現した四角い車庫の中で、僕はアリサさんに黒のヘルメットを手渡された。アリサさんが選んでくれたオレンシ色のTシャツと紺のズボンをはいた僕は分厚いヘルメットを被り顔を覆い隠す。
未来の服はなんていうか、凄くデザインがシンプルだと思った。ギザギザ模様だったり角ばった大きな模様があるくらいで、色も3、4色くらい。僕の時代によくあるような複雑な絵や文字がプリントされた服はなかった。まあアリサさんの家で見たカタログは無料で配っている服のカタログなわけだし、そのせいなのかも。アリサさんの着ているライダースーツはカタログにはなかったと思うし。
僕はヘルメットの中からアリサさんの作業を見守る。アリサさんが車庫から出したのは、黒光りする車体の下部がスカートのように広がったバイクと、それと同じように下部がスカートのように開いた形をしたサイドカーだった。アリサさんはスパナを使ってバイクとサイドカーを連結させている。
「フロートバイクとフロートサイドカーよ。今はタイヤがついているけれど、エンジンをかければ車体が浮き上がりタイヤは横になって内部に収納されるわ」
そう説明してアリサさんはスパナを握る手で額の汗を拭った。
「その作業ってロボットにやらせたりは出来ないんですか?」
「出来るけれど、乗り物の整備ロボットは無料じゃないの。最低限の衣食住には含まれないってことね。それにそれとは関係なしに私はメカをいじるのが好きなのよ。ロボットがいても自分でやるわ。ちょっとそこのトンカチを取ってくれる?」
アリサさんに金槌を渡すと、アリサさんはスパナの先端をカンカンと叩きボルトを締めた。
「これでよし、と。じゃあ藤森くんはサイドカーに乗って。出発しましょう」
僕は車体の先端が丸く尖った新幹線みたいな形をした黒いサイドカーに乗り込む。風除けのフロントガラスがあるとはいえオープンカーだし、地面が凄く近くて少し怖い。何キロくらい出るんだろう。カーブに入ったら遠心力ですっ飛ばされたりはしないだろうか。僕はシートベルトをしっかりと締めて前方にある取っ手を両手で掴んだ。アリサさんがエンジンをつけると、黒い車体に青のラインが灯りブワアっと風が舞い上がる。
「ウフフ。驚いた?このバイクは重力じゃなくて風力で動くの。重力車はレスポンスはいいけれど風に乗る感覚がなくて味気ないのよ」
何をいっているのかわからないけれど、僕はとりあえず「そうなんですね」と相槌を打つ。
「さあ、行くわよ」
僕たちを乗せた空飛ぶバイクとサイドカーはブワアアっと芝生を地面に押し潰して浮かび上がり、灰色の道路に出て山のようにビルが立ち並ぶ都心部に向かってぐんぐんと加速していった。
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