第6話 守れなかった人、守りたかった人

 今日は会議だ。

 本社の第一会議室の扉を開けると、既に何人かの社員が座っている。

「おはようございます!」

 きっちり声を張り上げた。最敬礼で頭を下げる。

 ほぼ全員上司、しかもうち1名は役員である。襟元を正さないと、それこそ叩き出されかねない。

「おはよう、志津くん。君はそこに座りなさい」

 声を掛けて来たのは、カナタの店の店長である中澤氏だ。元部長のとんでもなく頭のキレるじいさんで、カナタが良く懐いている。

「失礼致します」

 指定された席にかける。椅子の数を数えるに、自分を入れて8人か。

 年代は様々、しかし全員が男で、恐らく全員αだ。上層部に行くに従って、αの割合は増えていく。

 数名だけ寄り抜かれた、選りすぐりの切れ者。

「被害届は出したのか」

 人事部長が静かに問いかけた。

「昨日提出致しました。やはり強姦致傷ではなく傷害となりました」

「予想はしていたが、酷いものだ」

 隣にかけている人事部長補佐が、ICレコーダーとPCを準備している。補佐と言っても等級は自分よりずっと上の人である。

 話していると、静かに会議室の扉が会いた。入ってきたのは社長と専務だ。

 内心肝が冷えた。

 とにかく社長というのが、怖い人なのである。グループ会社の元部長で、何年か前に就任した。48歳の若さで、平素は快活な口調の歌舞伎者の様な雰囲気の人だが、その実、兎に角手厳しい。本社会議と言えばこの人の独壇場で、適当なことを言えば容赦なく口撃が飛んでくる。ただ、ワンマンだが恐ろしく仕事は出来た。

 腹の中の読み切れない、一際有能な男。

 その社長がわざわざ出てきたのか、中澤さんはどういうつもりなのか。

「おはようございます!」

 立ち上がり一番に挨拶する。自分以外の3人も立ち上がり、一斉に声を出して挨拶。緊張感で空気が張り詰めていた。

 そして社長、専務と連れ立って入ってきたのは、見覚えの無い壮年の男性と、金の小さなブローチを付けた、2人の弁護士だ。恐らく一人が会社の顧問弁護士、もう一人は壮年の男性側の人だろう。

 全員、定められていた席に着く。

「それでは、始めさせていただきます」

 中澤氏の一声で開幕。

 議題は、「弊社の社員を暴行した犯人に対する対応」である。


「……以上が、現時点で弊社が把握している詳細です」

 内容は病院で出た診断書と、被害届に準ずる。

 あまりに凄惨な内容に、人事部長はこめかみに手を当てて目を閉じていた。

「重大な個人情報なので、本会議以外では決して口外しないよう、改めてお願い申し上げます」

 とりあえず、自分からの話はここまでだ。冷静に話せたと思う。朝にカナタが少しでも笑っていてくれて良かった。俺だって、内心は怒りで神経が焼き切れそうなのだ。しかし今感情的になるのもまずい。

「口外するようであれば、私が厳正に処分する」

 闇を割くような鋭さで、社長がキッパリと言った。切れ長の目に感情は伺えない。

「それでは東条さん、お願い致します」

「はい。初めまして、東条と申します。被害者の方から、1度目の事故……私は事件だと思っておりますが。その時に妊娠した子を引き取らせて頂いた者です」

 やはり、東条光の父親か。

 ブラウンの背広を着た、壮年の紳士だ。四角い眼鏡の奥に、実直そうな眼が光っている。

「娘は15歳になりました。御社の店舗でアルバイトとして採用していただき、そこで偶然被害者の方と再開する事となりました。被害届の方から、娘への面会を求められた事はありません。ただ、決して愛情が無かった訳では無く、こちらが求めなくても手厚いご支援をいただきましたし、近況などお電話をしますと、本当に感謝して喜んでくださった。お若いのに大変よく出来た、誠実な青年です。私は、私達は、その方が、……」

 ぐっと1度、口を引き結ぶ。涙を耐えたように見えたが、本当のところは分からない。

「更に心身に傷を負わされた事がどうしても許せない。私も、娘も、何とかして、どんな形でも犯人に制裁を与えたい」

「ここに」

 東条家の弁護士が、静かに切り出した。

「犯人の乗った車の動画と、犯人の毛髪があります。私共はまず犯人とご息女の親子関係を証明致します。詳細はこれから詰めますが、2度目の事件当日に受けたご息女の精神的苦痛について争っていく方向になります。特別養子縁組をしておりますので、財産的な権利については主張できません。しかし、」

 東条光の父親は、多分βだと思う。そして、この弁護士はαだ。これは間違いない。

「追求するのは相手方にとって痛手になるでしょう。犯人は妻子もあり、また地位もあります」

 αは獣。獣とは狼の因子を指す。

 気がつけば、涙ぐむ東條氏以外は、皆冴えた目をしていた。

 中澤氏が、口を開く。

「当日夜、被害者に一人で閉店作業をさせたのは私です。如何様な処分でもお受け致します。しかしながら、今回はたまたま被害者と加害者が顔見知りでしたが、性別に関わらず、今回の様に襲われる事も充分有り得る。今後はルールを改定するなどして対処致します。無論全店です」

 そう言い切った後、空気が変わった。

「しかしながら、私は、私の自店の従業員を身内だと思っております。感情的な事を申し上げますが、犯人にはあらゆる手段を尽くして制裁を与えたい。傷害罪だけでは余りに軽い」

 同様の事件で傷害罪が適応されることはかなりある様だが、相手がΩの場合は大抵罰金で、懲役がついてもせいぜい1年くらいのものらしい。同じ人間をなんだと思っているのか。

「志津」

 腸が煮えくり返る気持ちで中澤氏の話を聴いていたのだが、突然社長に名前を呼ばれた。ギクリと肩が跳ねる。

「君は被害者の方と交際していると?」

「はい、将来は番になる様申し入れしております」

 番の約束はほぼ、婚約と変わらない。生半可な気持ちで付き合っている訳では無いと伝えておきたかった。

「分かった。君が適任だ」

 社長は一人で何か納得した様だが、周りにはやはり分からない。独特な空気の人だ。

「志津、被害者の御家族は?」

「……ご実家にお父様が居らっしゃる様ですが、一度目の事件の際に家を出て以来、会っていないと聞いています」

 なるほど、と社長は言った。何が成程なのだろう。

「志津、彼のお父様に話をしてきなさい。我々も被害者も、見落としている事があるかも知れない」

 人事部長も頷く。

「そうですね。被害者の方は当時まだ幼かった。恐らく相当なショックを受けていた筈だ。お父様は当時その場に居たもう一人の証人です。カルテ以外の情報があるかも知れない。ただ、被害者には出来れば伏せておいた方が良いかと思います。今は精神の安定を第一に考えましょう」

 カナタの父親。あまり話にも出てこないし、想像もつかない。

 ただ分かるのは、自身を犠牲に子供を守る事に成功したカナタとは違い、子供を守れなかった人であるという事だ。

 恐らく想像もできないような苦渋を舐めさせられた上、大切な一人息子をも手元を離れることになった。

「志津、できるね?」

 社長の鋭利な目が、出来ないとは言わせないと暗に言っている。

「必ずお会いしてきます」

「では頼むよ。……さて」

 社長の力強い視線が、ぐるりと一同を見渡した。

「ここからは、あたしの個人的な考えとして聴いていただきたい」

 人事部長補佐がレコーダーを停めた。議事録を打っていた手も止める。

「悪いが、極めて差別的な話をする。

 ここに居るあたしらは殆どが獣の因子持ちだ。αは強い。ピンキリだが比較的頭が良いし、身体も強い。優れている。何でかわかるか?済まないが、βの方には分からん感覚かも知れない」

 東条氏はじっと話を聴いている。

「群れの雌と子供を守る為だ。私らは腕っ節で他所の群れの糞狼共から、家族を守らなくちゃならない。いいか、己の優秀さに甘えるな。甘えた結果がこれだ。縄張りで群れの雌を他所の狼に食い荒らされ、子供を傷つけられた。あたしらの無能さ故に招いた事だ」

 迸るほどの怒り。恐ろしく強いαのフェロモンだ。βが一人いるからまだ抑えている様だが、本気で凄まれたら吐きそうである。

 しかし、言っている事は痛いほどわかる。

 大切な人達が、自分達が守れなかったせいで傷を負った。

 カナタは仕事ぶりならαにだって全く負けていない。でも、やはり彼は紛れもないΩなのだ。αは誰より強く、したたかでないとならない。大切な人を守るために、強靭な身体で生まれてきたのだから。

「良いかい、相手はαで、二度も味を占めている。放っておいたら確実にまた狩りに来る。もう牽制だ何だでどうこうできる段階じゃあない。完膚なきまでに叩きのめせ。二度と立ち上がれないように骨を砕き健を切って地面に這いつくばらせる。向こうさんの身内がどうなろうと知った事じゃあない。舐められたらまたいずれ身内を食いものにされるぞ」

 そう、あの男がのさばっている限り、カナタは自由に外を歩く事も出来ないのだから。


 4時に一度、6時に一度、東条さんの家の電話にかけてみたのだが、生憎と留守の様だ。

 連休初日、身体は痛むが、体力はある。数日は居候の身であるし、とりあえず日中は掃除だ洗濯だをして過ごした。夕飯も作ってみようかと思ったが、生憎と冷蔵庫がスカスカだったので、アキラが帰ってきたらどうするか聞いてみる事にする。キッチンに山と積まれている商品サンプルを見てみたりもしたが、調味料があっても材料が無いとどうにもならない。

「いてて……」

 痛む身体を庇いながら目につく家事をしていたが、それも尽きてしまい、仕方なくベッドに腰掛けた。アキラの住まいは小綺麗な単身用のマンションで、8畳の洋室に、4畳程のキッチン。そしてバストイレ別。整った設備だがそこまで広くも無いし、別段散らかってもいない。

 暇になると、色々考えてしまって良くない。

『おまえは』

 頭に残響。ベッドに横になって、目を閉じる。

『俺に』

 首がジリジリとした熱を持つ様だ。不快だ。消えてくれ。

『運命なんだよ』

 ふと見上げた暗い窓から、あの男がニタリと笑って、覗いていた。

「いやだぁ!!」

 次に見た時には、もう居なくなっていた。震える手で、口元を押さえる。吐き気が酷い。

 ここは車で30分以上走った街で、部屋は5階。あの男が居る訳が無い。

「何が運命だ……」

 運命が、運命の番が現れたら。

 アキラに運命の番とやらが現れたら、自分はどうしたらいい?出会った途端強烈に惹かれ合う運命の因子、自分は真っ先に見向きもされなくなるだろう。

 アキラと自分は、運命の番はなんてものでは無い。

 ひたむきに愛してくれる恋人がたまらなく愛しい。本当は番にして欲しい。ずっとアキラだけのものにして欲しくて、でも、子供を手放した自分はそういう幸せを得てはいけないという気持ちがあるのだ。独りよがりな自己満足の戒めだ。

「早く帰ってきてくれないかな……」

 一日過ごして分かったことは、思ったより自分は弱っていて、案外疲れていたという事だった。



 ドアの前で一呼吸した。いつも通りの俺で居なくては。

 黒い皮のキーケースは何年か前の誕生日にカナタがくれたものだ。ずっと使っているうちに艶を増して、年数なりの良い風合いが出ている。自分たちもそうやって時間をかけて、良い関係になったと思う。

「ただいま」

 ドアを開けるとすぐ、玄関でカナタが出迎えてくれた。鍵を開ける音が聞こえたのだろう。

「おかえり」

 嬉しそうに笑ったその目は、眼帯をしているものの痣が青くなり始めているのが分かって痛々しい。しかし、自宅で彼が待っているというシチュエーションは案外無いので、少し照れてしまった。たぶん相手も同じ様な事を思ったのか、少しはにかんで笑う。

「服持ってきた。冷蔵庫見たけどヤバそうなのは卵くらいか?って感じだった」

 革靴を脱ぎながら紙袋を渡す。

「ごめんね、遠いのに持ってきてもらって」

 本社とは逆方向だし、車でも往復で1時間強かかるのだが、運転も好きだし、まあ大したことでは無い。

「ここに居る間ごめんって言うの禁止な」

 ジャケットをハンガーに掛けながらそう言ったら、カナタはなにかもごもごと口ごもって、ちょっと黙った後に、

「持ってきてくれてありがとう」

 と言った。

「合格」

 わしわしと黒い髪を撫でてやると、すこし顔を赤くする。可愛いなあ、と思ったと同時に、なんで犯人の男はこんな人を、とも頭に過ぎってしまう。

 怒りを悟られてはだめだ、カナタが心身を休められる様にするのが、今の俺の役割である。

「フェットチーネ買ってきたからカルボナーラ作ろう。来季の新規で良さそうなのあるから」

 卵とチーズが入っていれば、大抵の物は美味いと言う彼である。どうやら当たりらしく、嬉しそうに笑うのが可愛い。

「どこ?SC食品?ていうかサンプルめちゃくちゃあるね」

 買ってきたパスタを見せると、カナタが目を輝かせた。

「生パスタ!」

「いいだろ?」

「いいね」

 新婚みたいだな、このままここにずっと居てくれないかな。

 白い首は包帯が巻かれていて、幸せな一時に現実を突きつけている。

「白金のもあるから食べ比べたいんだよな、カナタどんぐらい食べる?」

 一緒に買ってきたパックのサラダを出しながら聞くと、カナタは少し考えた後に、

「あんまりいっぱい食べれないかも」

 とぽつりと言った。

「ふーん、まあ俺食うし2袋茹でてもいいか」

 ちらりと見たゴミ箱は、果物のゼリーのカップが1つだけ捨てられている。冷凍食品だとか、レトルトの粥とか、すぐ食べれるものは説明しておいたのだが、多分食欲も無い。少しずつでも戻れば良いが。

「そんなに沢山食べてたらそのうち糖尿病とかにならない?」

「健康診断オールAだからさ」

「はは、健康優良児だ」

 明日仕事が終わったら、気晴らしに買い物にでも連れ出してみようか。

 カナタは湯を沸かそうと、大きめの鍋を引っ張り出している。

 今日はほとんど茹でるだけの作業だが、明日は一緒に料理をしよう。買い物に行って、カナタにはエプロンを着てもらおう。新婚さんごっこだ。楽しみである。

 しかしながら、明日の仕事は中々骨が折れそうな内容だ。

 先程行ったカナタの家で、申し訳ないが持ち物を改めさせてもらった。

 そもそも物の少ない部屋だ。クローゼットに仕舞われた綺麗なクッキーの缶に、通帳などの貴重品と一緒にそれはあった。

 引越し前の住所に送ったのだろう、転送されたシールが貼られた、白い封筒の手紙。

『八代佑』

 それがカナタの父の名前だった。

 住所をスマートフォンで撮影し、手紙は慎重に元に戻して、何食わぬ顔で帰ってきたのである。


 夕方、自宅の電話に表示された番号を見て、私はけたたましく鳴るそれを見なかった事にした。

 ナンバーディスプレイの横に、携帯電話の番号が貼ってある。

『080xxxxxxxx 取らない』

 カナタさんの番号だ。安否は会社と弁護士さんを通して確認しているので、心配無い。

 彼からは色々言いたい事があるのだとは思うが、今話してもあまり意味が無い。そもそも、カナタさんと私とでは、事件への認識がまるで違う。彼の中ではもう半ば終わった事の様だが、私にとってはこれからの事だ。

 駒が揃ったら、カナタさんに会いに行こう。ワガママな娘からのお願いを聞いてもらわなくちゃならない。

 あの傷だらけの優しい人に、更に無理を強いるのは分かっている。

 しかし、自分とあの男の決着において、カナタさんは必要不可欠だ。

 カナタさんを犠牲に生まれ、カナタさんを犠牲に大人になる。

 本当に悪い娘だ。

『あっ、英語版聴いてんだ?』

 昼間、教室であの曲をイヤホンで聴いていた時、友達が画面を覗き込んでそう言った。

『違うのがあるの?』

『英語は現地語のが発売して何年かしてから出たんだよ。歌詞が全然違うの。現地語で出たヤツは……』

 左腕に付けた白と水色のビーズのブレスレットが、蛍光灯を反射してきらきらと光っている。

 これが終わったら、必ず私の人生から解放してあげるからね。


 カーナビを頼り来たのは、思いの外近い隣市の住宅街だった。カナタの今の住まいから、多分10キロ程度しか離れて居ない。ただ、市を跨いでいるので地元という訳では無いし、偶然友人に会ったりもしないとは思う。

 ……しかし、犯人はまたカナタを見つけてしまった。

 怒りで胸が焼けるようだったが、だからこそここへ来たのである。

 近隣のパーキングに車を停めて、表札を確認する。

『八代』

 木製の表札に彫られ、墨色に染められた名前。

 そこにあったのは旧い日本家屋で、こじんまりとしてはいるが丁寧な作りの、随分雰囲気のある家だ。覗き込むと、松や椿などの庭木もそれなりの手入れがされている。

 カナタはここで暮らしていたのか。思ったよりというか、かなり立派な佇まいである。

 鬼が出るか蛇が出るか。

 インターホンを押す。ほんの数秒だが、恐ろしく長く感じる。

 プツンとノイズが走る音がした。

『……はい』

「突然お尋ねして申し訳ございません。私、息子さんの同僚で、お付き合いをさせていただいている志津暁と申します」

『……は?奏多もいるのか』

「……いえ、今日は自分一人で参りました」

 一瞬の沈黙。

『帰ってくれ』

 ガチャンとインターホンが切れる音がした。

 再度押す。何度も、何度でも、不躾は承知だが、こちらとで引き下がる訳にはいかない。

『いい加減にしてくれ!話す事は無い!』

「お話をさせて下さい!お願いします!」

 必死に言い募るが、またも切られてしまった。何度押しても出ない。

 警察でも何でも呼んでくれれば良い。

 鉄で出来た門扉を無遠慮に開ける。閉めた時にそこそこ大きくガシャンという音がしたので、入ってきたのは分かるだろう。

 数歩の飛び石を渡り、ガラスがはまった古風な引き戸を叩いた。

「お願いします、話をさせて下さい!」

 勢い余って叫ぶみたいになってしまった。正直声は大きい方だ。家の中から何やらどすどすと人の気配がする。

 来るな、と思った。

 ガラリと引き戸が空く。

 瞬間、目の前がキラキラと光る。これは見たことあるやつだ。小学校の帰りに、トラックがはねた水溜りの雨水を、真正面から被った時と同じ。

 バシャン!

 バケツを持ってゼイゼイと息をしているのは、真っ白な髪に深緑の和服を着た、まるで幽霊の様な男だった。華奢な四肢に、抜ける様な白い肌が不健康に見える。ギラギラした目にはあからさまな敵意が宿っている。ガランと音を立ててバケツが玄関に落ちた。

 もうすぐ10月、ワイシャツに染みた冷水が体温を奪うのを感じたが、だからなんだという話しだ。水をかけられる所か煮え湯をかけられるのも覚悟をしてきた。何発か殴られても引き下がらないつもりである。

 バシャ、と水音をさせて、その場に膝を着く。革靴を履いているのできちんとした作法の正座は出来ないが、誠意が伝わればいいだろう。

「お話をさせて下さい」

「は、……お前、‪α‬だろう?」

 目には確かに怒りが宿っている。しかし不思議と、こちらに迫るものでは無い。多分これは、積年恨み続け泥のように溜まった怒りだ。

「お前もうちの子を玩具にしたのか」

 ギラついた目に浮かぶ絶望、悲しみ。

 目の前の人は、大切な人の父親だ。そして多分この人の姿は、もしもヒカルを守れなかった時の、カナタの姿そのものだ。

 さらにそこに悲劇の杭を打ち込むのは、本当に残酷な事だと思う。

「すみません……」

「帰ってくれ!もう思い出したくも無い……!」

 本当に申し訳ない。いくら謝っても足りない。

「俺が、俺たちがついていながら、カナタさんが同じ男に襲われました」

 濡れた地面に手を着く。本当に、謝るしか無い。

「は……?」

 じっと頭を下げている目の前に、ビシャ、と音を立てて和服の膝が崩れ落ちるのが見える。

「何……?ぁ、なんて……?」

「大変申し訳ございません」

 うっすらと、背後の住宅街に人の気配を感じた。朝の10時頃であるし、人通りもそれなりにありそうだ。

 流石にデカい男がスーツで土下座していたら目立つだろう。

 そう思ったのはほぼ同時だったらしい。

 カナタの父親の「入りなさい」という小さな声で、俺はやっと顔をあげた。

 ゆらりと踵を返す痩せた背中は、本当に亡霊の様だった。


「……すまない、何か着るものを持ってくる、クリーニング代は払う」

「いえ、タオルだけお借りできるとありがたいです。玄関先だけお邪魔しても?」

 着るものと言っても、カナタの父親も自分ほど大柄では無いので、借りた所で入らないだろう。一瞬申し訳なさそうな顔をして、それが少しカナタに似ていた。目元なんか、そっくりだ。

 家の奥へと踵を返す華奢な背中を見送りながら、ああ、ここに住んでいたんだな、と思った。

 板張りの廊下、天井の太い張り、障子の貼られた縁側の引き戸。懐かしさを感じる木の香り。

 あんな事が無ければ、ずっとここに居たかったはずだ。

 程なくして戻ってきたカナタの父親は、バスタオルと、座布団を2枚抱えて帰って来た。肩を超える長さの真っ白な髪を後ろで結んでいる。顔がはっきり見えると、少し印象の違う人だった。案外若いのかも知れない。背は多分、カナタより幾分高いだろうか。

 濡れたジャケットを脱いでいると、コート掛けのハンガーに無言でかけてくれる。

 玄関の縁に座るように促され、タオルで身体を適当に拭いてから、座布団を借りた。

「……襲ったのは、深見宗司で間違いないのか?」

 思わず目を見開く。当時の事故は、犯人不明として終わっていたはずだ。

「……どうしてご存知なんですか?」

 俯いてぎゅっと眉根を寄せたその仕草も、カナタに似ている。

「……私だって手を尽くした。でもな、所詮Ωなんてαからしたら畜生以下の存在だ、私が、……」

 憎しみの色が滲む黒い瞳。16年目だ、しかし色褪せては居ないのだろう。

「私が、私が父親じゃなければ、奏多だって普通に生まれられたのに、そうしたら、あんな事には……」

 そうか、この人もΩなんだ。


 最後に連絡先を交換し、カナタの実家を出る頃には夕方になってしまっていた。スーツはまあ通り雨にでも遭ったと言って誤魔化せばいい。クリーニング代も受け取れないと断ったら、最後に深々と頭を下げられた。

 あまりに悲愴で、あまりに切ない人だった。

 しかし、やはり話を聞きに来て良かった。収穫は想像を遥かに超えてきた。流石は彼の父親と言うべきか、執念の賜物と言うべきか。

 車の中で、中澤氏に電話をかける。

「……お疲れ様です。……今お父様とお会いして来ました。…………」

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