第9話 地獄を見た男

「いつも息子がお世話になっております」

 丁寧に頭を下げる男性は、件の被害者、八代奏多の父親である。藍色の紬に同系色の羽織、白い足袋に草履。優美な和服の訪問着が、象牙色の肌と半紙のように白い髪に良く似合っていた。歳は自分より少し上だろうか。

 外は曇天、時折霧のような雨がチラつく嫌な天気であるが、衣服に乱れたところは無い。タクシーか車で来てくれたのだろうか。

「本日はお足元の悪い中、来ていただいてありがとうございます。代表取締役の伊藤勇と申します」

「八代佑と申します」

 印伝の名刺入れから取り出された名刺の肩書きは『ライター』。しかし、不思議な事に、名刺の名前は『園浦佑』となっている。

 交換した名刺をじっと見ていたのに気がついたのか、八代氏はこちらの渡した名刺を丁寧に名刺入れにしまいながら、表情の乏しい顔に眉根を少し寄せて、困った様に言った。

「通り名の名刺でややこしくて申し訳ありません、普段は物書きをしております。平素肩書きを作家とか小説家と名乗るのは恐れ多くて……どうか、ご承知おきください」

 小説家、園浦佑。

 代表作は『夜更の睡蓮』。映画化もされた名著である。名前を見てギクリとしてしまったのに気が付かれていないだろうか。

 園浦氏の作品は手に入る限り読んでいる。私は所謂ファンと言うやつだ。突然の出会いに心臓が口から飛び出しそうになったが、ここでミーハーな騒ぎ方をして不信感を抱かれてもいけない。

 皆さんで、と渡された菓子折りを努めて普通に礼を言って受け取り、秘書に預ける。

 冷静にせねばと胸に言い聞かせながら、名刺を大切にしまった。額に入れて飾ろう。菓子折りも家で少しずつ大事にいただこう。

「なるほど、そうですか……ああ、どうぞお掛けください」

 平常心、と腹に気合を入れる。頭を切り替えろ。

 とにかく今はこの方の著作の事は忘れて、目の前の事に対処していかなければならない。これでも平素は切れ者で通っているのだ。

 被害者である八代奏多とさして面識がある訳ではないのだが、社内のコンクールでトロフィーを渡した事がある。Ωの男性というとやはり珍しいので、印象に残っていたのだ。令息は艶のある黒髪で、人当たりのいい笑みを浮かべた爽やかな青年だった。対して父親である八代氏はまるで雰囲気が違う。どうにも浮世離れした、幽霊画の様な男性である

 やっと革張りのソファで向かい合うと、測ったようなタイミングで秘書が茶を出してくれた。

「ありがとうございます……あの、……私、あまり話すのに慣れていなくて……すみません、色々ご不快で無ければ良いのですが……」

「いえ、あたくしもお父様と一度お話をせねばと思っていたんです。今後の裁判もご協力いただかなければなりませんから……ああ、どうぞ楽にしてくださいな」

 今日の面会の申し入れは自分からしたのだが、会社に足を運んでくれたのは八代氏の申し出である。

「八代さんのご要件を先に伺っても?」

「ええ……これを息子に渡して頂きたくて……あの、志津君にお願いしようかとも思ったのですが、丁度御社からご連絡いただけたものですから……」

 酷く言葉を選びながらそう言って、八代氏は紫の風呂敷の包みを、慎重にローテーブルに置いた。割と重量がありそうである。木の箱だろうか。

「これは……?」

「……妻の形見なんです……」


 しばらく八代氏と話し込んでしまった。夕方には弁護士事務所に向かわなければならない。八代奏多と合流する予定だが、父親である八代氏はまだ息子には会えないと言う。親子の溝を埋めるには、どうやらこの箱が必要らしい。

 そろそろ解散しようかというタイミングで、社用の携帯電話が震えた。八代氏に断りを入れて、通話ボタンを押す。

『社長、SVの志津さんからお電話です』

「分かった。繋いでくれ」

 ほんの少しのタイムラグ。直ぐにぷつりと回線が繋がる。

『社長、お疲れ様です。お忙しい所すみません。今お時間よろしいでしょうか?』

「ああ、どうした?」

『八代さんが倒れました。ストレスから来る反射性の失神だと……今は病院に来ています。今日は動けそうにありません』

「……そうか……志津、八代君に付いてなさい。弁護士には私が同席する」

 通話が聴こえたのだろう。八代氏の目付きがきつく鋭く尖る。用件だけ話して、早々に通話を終える。

「今日これから先方との一度目の話し合いの予定なんですが、聴いての通りです。八代君が倒れたそうです」

「……あの子は、大丈夫なんでしょうか……」

「志津が病院に付き添って居ますから、……相当精神的に負荷がかかっての事とは思いますが」

 比較的和やかだった雰囲気が一気に暗くなった。八代氏は憎しみと悔しさが滲む、極めて悲壮で恐ろしい顔をしている。

 ああ、これが我が子を犯された親の顔か。

「……私も、同席してもよろしいでしょうか」

「……ええ。志津にもそう連絡しておきますね」

 さて、ぼちぼち戦に向かわねば。

 相手さんが何を言うつもりか知らんが、この人の怒りを収められる言葉があるとは、到底思えない。


 社長からの電話を切って、俺は白い顔で横たわるカナタの額に手を置いた。

 驚く程冷たい。

 朝は普通に目を覚まし、午前中は余暇時間としてゆったり過ごしていた。その辺まではそれなりに笑顔が見えたが、正午を過ぎた辺りから表情に陰りが見え始めた。それでも自分自身を騙すように気丈に振舞っていたのだが、スーツを着込んで鏡の前に立った時、ガクンと力が抜けて床に倒れ込んだのである。

 慌てて抱き上げ、自分も真っ青になって救急車を呼ぼうとしたら、辛うじて意識を取り戻したカナタに止められてしまったのだが、念の為病院に連れてきて、そうして今に至る。

「……弁護士さんとこ行かないと……」

 ぼそぼそと言っているが、目が虚ろというか、瞳孔がグラグラしている。実際今は目眩で立てないだろう。

「もう行けないって電話したから諦めろ。社長と弁護士で対応してくれるから心配要らない。……いやあの社長だからとんでもない啖呵切るかもしれんけど」

 先日中澤店長に詰問されて意識を失ったのも記憶に新しい。

 本人は努めていつも通り振舞っているのが痛々しい。本当は身も心も痛めつけられて傷ついて、増して裁判沙汰となれば精神の負担は計り知れない。それでもなお、彼は気丈に顔を上げる。

 傍に居ても共感すらまともに出来ないのが歯がゆい。

「……逃げたくなかったのに……格好悪い……ヒカルにもっとちゃんとしたとこ見せたい……」

 無論ヒカルは今日は来ないのだが。カナタにはカナタのルールと意地がある。優しい人ではあるが、昔から人一倍負けず嫌いで頑固な人でもある。

「……あとさ、お父さんが一緒に行ってくれるんだってよ」

「……え?……どうして?」

「たまたま社長と話しに来てたみたいで」

 ずっとぶつぶつ言っていたのに、そのまま人形の様に静かになってしまった。湖に映る月みたいにゆらゆら揺れる瞳で、何かじっと考え込んでいる様だ。瞬きの度、僅かに涙を含んだ睫毛が艶やかに光っている。

「…………無理して欲しくない……」

 どうしてこう、彼は人の心配ばっかりしているんだろうか。今現在一番ダメージを受けているのは誰がどう見てもカナタ自身である。

「無理してんのはお前もだろ、お父さんにはお父さんの考えがあるんだろうよ。社長もついてるし心配しなくていいよ。……落ち着いたら、ちゃんと会いに行こうな?」

 うん、と小さく頷いて、諦めたように目を伏せた。


 夫が浮気をしている。

 そう最初に思ったのは、娘がちょうど1歳になった頃だった。

 夫は私の父の会社で働いており、将来社長に据えるに当たっての縁談だった。顔合わせは絵に描いた様な見合いで、目の前にはやはり絵に描いた様な長身の男性が、シャープな輪郭に人の良い笑みを浮かべて。

 私は平々凡々なβの女である。αである彼の相手は本来であればΩが相応しいのだろうが、そもそもΩはαに対しても圧倒的に少ないので、αがβと結婚するのも珍しい事ではない。

 父親としては優秀なαの男性を身内に引き込み、事業をより強固なものにしたかったのだろう。

 当たり前の様に結婚し、当たり前のように子供に恵まれ、傍目にも良い家族だったと思う。

 そんなある日、少し帰りが遅くなった夫のスーツをハンガーにかけていると、ふと嗅ぎ慣れない甘い匂いが鼻を掠めた。花の香りの様なそれは痺れるような深みをまとって、ぞっとした。

 思わず床に投げつける。

 女物の香水の匂い、だと思った。

 その時は、そう思っていた。

 然しながら、男性社会なのだから夜の店で飲むなんてこともままあるだろうし、その時は気にしないと心に決めて。

 今にして思えば、そこで問い詰めて泣き喚いていれば、こんな事態にはならなかったかも知れない。


「私共と致しましては、ご子息への示談金として200万のご用意がございます。それで被害届及び告訴を取り下げていただけないかと……」

 流石に言い逃れ出来ないとは思っているらしい。

 相手方は弁護士二人と、犯人の会社の名誉会長というジジイ。そして、最初にわざとらしく頭を下げた後は、じっと押し黙っている女性である。八代奏多を陵辱した犯人、深見宗一の妻だ。

 対するは被害者の会社の代表である自分と、被害者の父親である八代佑氏。そしてこちらの弁護士が二人だ。

 弁護士事務所の会議室は10人ほどが向き合える広さで、八代氏の黒曜石の様な目が、冷たく相手を見据えている。

「200万」

 口の中で転がすように、そう呟くのが聴こえた。

「その端金は、何に対する金額なんですか?」

 札束をチラつかせた所で、八代氏はそれなりのクラスの外車を乗り回している様な人である。色々と興味があって乗せてもらって来てしまったが 、今となっては旧車に分類されるくらいの年代の味のあるベンツを、丁寧に管理して乗っていた。当たり前だが、古い外車の維持費は尋常な金額では無いし、下手をすれば半端な新車を買うより金が掛かる。

 多少の札束で動揺する様な人では無い。

 二人で居る時は物静かで落ち着いた紳士だったが、今は怒りが空気を震わせている。

「聞こえませんでしたか?」

「……十六年前の事故と今回の事故のお詫びとしてご用意したものです」

 流石に分が悪いとは思っているのか、相手弁護士も少し腰が引けている様に見える。

 相手方は相場よりかなり高い金額を用意したつもりだろうが、正直神経を逆撫でしただけだ。

「事故?いつまでそんな巫山戯た事を言うのですか?私の息子は15でお宅の下衆に強姦されて孕まされた、それでつい先日ヒートでも無いのに待ち伏せまでされて、陵辱された上全治1ヶ月の傷を負った。あなた自分のお子さんが強姦されたらうっかり事故にあったって仰るんですか?」

 一息に言ってギロリと睨みつけたのは、犯人の妻である。青ざめた顔で俯いたまま、返答は無い。

「……息子は、初めてのヒートで無理に孕まされた子を殺せなかった」

 怒りか、悲しみか。鋭い目と怨霊のような形相は大気を震わすような気迫を孕んでいる。しかし自分には、一語一句が悲鳴のように聴こえた。

「成長期の子供が、腹に子供を抱えるのがどれだけ危険な事かわかりますか?……命を削って、本来自分に必要な栄養を根こそぎ与えて……うちの子はそのせいで死にかけたんです!あなた達の身内の蛮行で……!あの子は!ただでさえ、その時に弱った身体を一生抱えて生きていかなきゃならない、なのに、……!」

 事故の一言で済まされたその中身を、体温を、流れる血の赤さを、相手は分かっていないのだ。

「その子を更に暴行して痛めつけた挙句犯したんです!何が事故だ!?ふざけるのも大概にしろ……!」

 肋が二本、ヒビが入っていたと思う。それこそ、子供を無理に作った時に、骨が脆くなってしまっているからかも知れない。成長期に子供を産んだその代償は計り知れないのだ。

 今話を聴いていて分かったのは、八代佑氏は根本的に真面目で優しい人だと言う事。真正面から相手を批判する姿勢は好ましいが、与えるダメージとしては今一つである。

 さて。自分は優しくないので、いつだって相手を地べたに這い蹲らせる術だけを考えている。そして、それは八代氏には出来ないことろう。

「あたしがあんた達にもちゃあんと分かるように説明して差し上げますよ」

 怒りに任せて声を荒らげていた八代氏が振り返って、自分はその悲しい顔に、なるべく優しく笑顔を向けて差しあげた。どうか少し休んでいてくださいね。

「端金なんか要らないですよ。お宅の年頃の娘さんを2、3日ばっかし貸してくださいな。まあ、残るような傷だけは付けないで差し上げますよ。八代くんの件だけはそれでチャラにします。良い話でしょ?そっちからしたらお買い得でしょうし、お互い様ならわかりやすいじゃないですか。ああ、すみませんもし傷が残っちまいましたら200万で手打ちにしてくださいね?」

 相手方の顔色が変わった。

 弁護士二人は苦笑いして顔を見合わせたが、そんな事はどうでもいい。さて、可愛い娘さんについて、どう対応するんですかね?

「ふ、ふざけるな!孫はΩじゃない!」

 叫んだ会長とやらに、八代氏がギリッと歯を噛み締めるのが聞こえる。自分としては順調に墓穴を掘っているのが見て取れて一安心だ。

「やっぱりΩだったら強姦しても良いって思ってるんですね。はは、さぞかしお婿さんと気が合うでしょ?本当の親子みたいだ、結構結構」

 さてさて、そっちはどうですか奥さん。

 頼みの綱の犯人の妻は、真っ青になって震えている。

 引き摺り落とすならこいつだ。

「娘は、娘は、……やめてください……」

 よしよし。良い感じだ。存分に怯えてくれ。そして、気がついてくれ。可愛い我が子が報復の対象である事に。

「いかに自分達が話にならない条件を持ってきてるかお分かりになりました?まあちょっとお互い考える時間が必要でしょうし、今日は解散に致しましょう。じゃあ奥様、お爺様、娘さんにどうぞよろしく」

「……私は」

 呟くような声に振り向くと、八代氏がカタンと椅子から立ち上がる所だった。皆、一様に八代氏を見ている。

「老い先短い、……死刑になってもいい、この先死ぬまで獄中で暮らしても構わない」

「……八代さん、行きましょう?」

 そっと着物の肩に手を添えて、その細さに、久しく感じていなかった慈しみみたいなものが芽生えた気がした。

 ドアを閉じれば、もう二人きりだ。八代氏の足は震えていた。怒りかもしれないし悲しみかもしれないし憎しみかもしれない。または、最後にあんな酷いことを口走ってしまった自分自身へのショックかも知れない。

「ごめんなさいね。八代さんにまでえげつない事を言わせてしまいました」

「……良いんです、でも、私、あんなことを口に出せる自分に吃驚びっくりしてしまいました……」

 目が潤んでいるのは気が付かない振りをしよう。今運転するのは危なそうなので、自分の迎えを待つ間、ちょっと二人で茶でもしばこう。

「……ありがとうございます、過激なお話でしたが、あなたが居てくださって良かった……私にも何かお返しができますか……?」

「では、その辺の喫茶店でココアでも奢ってください」

 そう言うとやっと少し笑みを返してくれたが、内心は憔悴し切っているのだろう。ご令息も心配だが、この方も十分心配だ。心の傷は深く、今は自分が何をしたって癒えるようなものでは無い。

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