第10話 時計の針が戻せないなら、せめてあなたに寄り添う
倒れてしまってから数日後。
幸いその日のうちに退院出来たし、仕事も休むこと無く日々の業務をこなしている。昨日は被害者の女性の一人にも会えて、お互い心境を吐露する事も出来た。
相手は自分より四つ歳上の女性で、やはり帰宅中のヒートの際に襲われたらしい。被害届は出してあるが、自分の時と同じく梨の礫だったそうだ。
流石に男体のΩの自分が被害者と言ったら驚かれたが、お互い赤裸々な話をしていく中で、不思議と癒しを感じたと言うか、恐怖が共有されて少し薄まるような感覚になって驚いた。相手も同じだった様で、話が出来て良かったと言ってくれた。
被害に遭った場所は自分が住んでいたのと同市内だ。犯人もそう。たまたま近隣に住んでいて、偶然目を付けられたという所だろう。
ヒートのΩにたまたま遭遇した、犯人が事故と言い張れる状況である。
今の所、二度目があった事例は自分だけらしい。待ち伏せまでされて、偶然では片付かない状況になったのは自分だけだ。
「……子供を産んだからか……?いや、流石に知らなかったよな?」
思い出したくも無いが、アパートで強姦された時も気味の悪い事を沢山言われたし、嫌がらせと称して首に噛み跡まで付けられて、本当にアキラには申し訳無い事になってしまった。
犯人に執着されている、と感じる。
裁判だろうが示談だろうが、何年かしてほとぼりが冷めたらまた襲われるのでは?という感覚はずっとある。無論接近禁止などが条項に盛り込まれるのは当たり前であるが、漠然と追いかけて来る予感がある。
紙の上の約束事が何処まで当てになるのだろう。
昨日会った女性も、自分が二度襲われた事を伝えると恐怖に震えていた。彼女だって、もう一度目をつけられたら。
「……刑務所に入ってくれたら良いんだけど……」
刑事事件にした所で傷害で済んでしまう。しかも罰則は恐ろしく軽い。一年程度で出てこられて逆恨みされたらたまったものでは無い。
考え事をしているうちに、本社の最上階に辿り着いてしまった。エレベーターを降りると、他のフロアとは明らかに異質な雰囲気に少したじろいでしまう。
廊下の床は深い赤の絨毯が敷き詰められ、壁には趣味の良い静物画が数点飾られている。革靴が沈み込む感覚に戸惑いながらしばらく進むと、重厚な木製の扉を二度ノックした。
「おはようございます。人事部の八代奏多です」
入りなさい、という声を聴き、なるべく静かに扉を開ける。
初めて入った社長室は広々とした窓をブラインドで遮った明るい部屋で、奥にマホガニーの質の良さそうなデスクと、手前に革張りのソファーの応接セットを備えている。
華美では無いが、上質な家具を揃えた空間だ。センス良く配置された観葉植物も目に優しい。
その部屋の奥に、普段滅多にお目にかかる事の無い代表取締役社長、伊藤勇氏は居た。
「失礼致します」
「久しぶりだね八代、そこに座んなさいな」
指を刺されたソファーに、一礼してからかける。身体が適度に沈み込むが、姿勢を崩さないように力を込めた。
社長は砕けた口調だが、会う機会は年に数回程度、それも店に不定期に来る抜き打ちの訪問の時くらいのものである。話すのも売り場を説明しながらの十数分程度であるし、出勤日でなければ他の社員が対応するので会うことも無い。もちろんプライベートな話もしないし、感覚的には殆ど初対面の様なものだ。むしろ自分を覚えている事に驚いたくらいである。
「この度は、私事に大変なご助力をいただきましてありがとうございます……また、ご迷惑をおかけ致しまして、大変申し訳ございません」
向かいのソファに深く座り、長い足が自然に組まれる。おそらくαの男性だと思うが、アキラ様に筋肉質ではなく、背は高いがすらりとしている。しかし眼光は鋭く、滲み出る威圧感があった。
「良いんだよ、君はそんな事気にしないで大きく構えてなさいな。細かい事は偉いおっさんがやってれるんでね」
「いえ、あの……皆様には本当に……お、恐れ入ります」
何と言って良いのか分からない。偉いおっさんとは皆上司、あと顧問弁護士の先生方である。その方達を働かせて、自分が大きく構えるなんて出来るわけが無い。
社長は秘書の女性に何か声をかけて、ゆったりと顎に手を当てた。
「まあ身構えなさんな、今日はね、お父様から預かり物をしてるんだ」
「……父からですか?」
先日社長と顔を合わせて、そのまま弁護士事務所に同席したのは聞いていたが、預かり物があるのは初耳である。首を傾げていると、秘書の女性がコーヒーを二つ、テーブルに置いてくれた。
「あ、ありがとうございます」
にっこりと微笑み返してくれて、一度踵を返すと、直ぐに奥から何かの包みを持ってきてくれた。
紫の風呂敷に入った、ダークブラウンの木の箱。見覚えのあるそれに、思わず眉根を寄せる。
父は、これをわざわざ持ってきたのか……
「中身を聞いても?」
「ああ……これは、……裁縫道具です」
社長を仰ぎ見ると好奇心の滲んだ目をしており、口元はイタズラっぽく笑っている。中が見たいと雰囲気で言われて、風呂敷をそろりと解いた。埃を被っていたとは思うが、持ってくる前に綺麗に拭いてくれた様だ。
昔ながらの木材でできた裁縫箱は、上段が蝶番のある蓋で、下段は二段の引き出しがついている。何の変哲もない古道具だ。
母が使っていて、母の死後は自分も使いたくて、そうしたら父に取り上げられたもの。
「嬉しそうじゃないね」
そう言われて苦笑いしてしまう。せっかく預かってくれていたのに、こんな反応じゃがっかりさせてしまっただろうか。
「嬉しくない訳では無いんですが……父は何か言っていましたか?」
「渡してくれってだけさね。中は見せてくれないのかい」
促されて、そっと蝶番の蓋を上げた。
本当に何の変哲もないのだ。ただ、記憶の中のそれは良く手入れがされていたが、今開けたその中は、裁ち鋏は錆が浮き、針もおそらく殆ど錆びて使い物にならない。糸だって染みが出来てしまっているものもあるし、ボビンについては家にミシンがまだあるかも怪しい。ざっと見ても、指ぬきと印付けの道具くらいは何とか使えるだろうかという感じだ。母が作った手製の針山が、錆のうつった生地に色褪せた古い着物の柄を残している。
「……殆どもう使えませんね、鋏は研ぎに出せば使えそうですが」
「なんで裁縫道具なんだい?」
2段目の引き出しは、木製の刺繍枠と、色とりどりの刺繍糸。こちらはあまり劣化しておらず、使おうと思えば使えそうな状態だ。母がハンカチやブラウスに、小さな花の刺繍を刺していたのを覚えている。
「……私、昔から男の子より女の子と遊ぶのが好きで、サッカーもゲームも興味が無くて。小さい頃は折り紙とかあやとりとか、そういう細かい遊びが好きで。母が手まめだったので、良く教えてくれたんですよ」
小学校低学年の時からボタン付けくらいできたし、ミシンで道具袋くらいなら作れる程度に、母はよく面倒を見てくれた。
今にして思えば、Ωで自認と身体は男性、しかし好みはかなり女性寄りだったのだろう。性別と趣味を紐付けるのは差別的とは思うが、自分に関してはそうだったとしか言い様がない。
女物の服を着たいと思った事は無いが、たまに飲みに行く数少ない友人は皆女の子だ。無論下心は無く、相手も自分を性の対象にはしていない。
嗜好が女性寄りのΩの男で性の対象は男性。自分に取扱説明書があればそういう風に書いてあると思うが、父はそうでは無かった。
「でも父はそういうのを良く思って無かったんです。父は……父もΩなんですが、性別がΩな事以外ほぼβの男性、……みたいな人なんです。だから私が女の子みたいな事をしてるのが気に入らなかったというか、……なるべく父と同じ様にして欲しかったのかな?と思うんです。……俺それに耐えられなくて」
父は特に学業において、大変優秀な人だったらしい。そして、俺に自分が通ってきた轍を歩かせようと躍起になっていた。然しながら、俺はそこまで地頭が良くは無かった。
何とか認めてもらいたい一心で勉強したので、そこまで成績は悪くはなかったと思うが、それでも父としては歯がゆい思いをしていたのだろう。
母が存命中は程々に諌めてくれて何とかなっていたのだが、母の死後は益々当たりがきつくなり、時に歯向かって、随分喧嘩もした。
社長が目を見開く。
「親子でΩなのかい……いや、失礼。珍しくてね」
「いえ、大丈夫です。母はβなんですが……父は本当はβの子が欲しかったんだろうなと思います」
やる事成す事否定されるのは辛かった。それでもΩながらに学力だけでもαに引けを取らない様にと殊更厳しく躾られていたが、あの事故の時とうとう耐えきれなくなり、とんでもない恐怖とストレスとに誘発され、爆発してしまったのだ。
結果、腹の子供を抱えてあの家から逃げ出した。
怖かった。でも、もう二度と帰らないと思った。父に対する怒りとコンプレックスは、最早憎しみに形を変えつつあり、このまま傍にいたら取り返しのつかない事をしてしまう気すらしていた。
今にして思えば、所詮自分は子供だったのだ。父は俺を少しでもマシな人間に育てようとしていただけ。Ωなりに普通の人生を歩ませたかっただけだ。別に憎くてやっていた訳では無いだろう。
実際、この頑固で面倒で手がかかる息子を、一人でちゃんと育ててくれていたのだから。
「βの子が欲しいって言ってたのかい?」
「いえ、流石に口に出された事は無いのですが……」
一番下の引き出しを開ける。
入っていたのは型紙や、小物の作り方などが書かれた紙類だ。何かの寸法のメモや、ルーズリーフに描かれた簡単な図面もある。
丸みのある筆跡に母の色を強く感じて、ほんの少し笑みが零れた。
「推測だがね、βの子が欲しかったんじゃないと思うよ。周りの連中にΩだと悟られたく無かったんだろう。実際学校でバレたら危ないだろうよ」
「……そうでしょうか?」
「あたしはそう思うね。思春期のガキなんて皆猿みたいなもんだ。Ωだってバレれば何かしらちょっかい出される事もあるだろうよ。それにね、会って分かったけどお父さんは君を愛してるよ……ほら」
紙の束の奥から古い写真が何枚か出てきた。
年月で少し色が褪せたカラー写真は、小さい頃の自分だ。3歳くらいだろうか。なにが楽しかったのか、懐かしい家の廊下でぺたりと座り、無邪気に満面の笑みを浮かべている。
「こんなのが足元をちょろちょろしてたらたまらなかっただろう。心配だったんだよ、君が」
何枚かの自分の幼少期の写真の後に、父の写真があった。学生の様に若い父が、赤ん坊の自分を抱いてあやしている。目を伏せて頬を寄せて。
「……若いお父さんですよね。私、父が十代の頃に出来た子なんです。……男性のΩで当時は今よりもっと風当たりが強くて、十代で実家を追い出されたと聞いています。それでも手に職を着けて自立してて、……父は私にもそういう風にしっかりして欲しかったんだと思うんですが、私は成績も何もかも父ほど優秀じゃなかったので……」
目の前に差し出された手に、一通り見た写真を渡した。
「……私は嗜好も学業も何もかも、父の理想とは程遠い、出来の悪い子供でした……」
母はどんな気持ちで写真を裁縫箱に入れていたのか、今となっては分からない。
「お父さんが君に裁縫箱を渡したのは何でだと思う?」
「……もう良い、という事でしょうか」
一枚一枚捲られる写真。社長は父の写真を最後にじっと見て、綺麗に揃えて返してくれた。
「……あたしに子供は居ないけどね、お父さんの顔を見てたら分かるよ。お父さんは君を許したいんじゃない。君に許されたいんだ。時間がかかっても良い。心の整理がついたら、あの方に許すと言ってあげなさいな」
夜の住宅街を、当てもなく歩いていく。少し奮発してセダンを購入してから電車はあまり乗らないので、今の物件は駅から随分遠い。その分家賃は抑えられているし、住宅街の只中なので夜は静かだ。立地は気に入っているが、夜中に時間を潰せる場所はあまり無い。
街灯もまばらで、人の気配も殆どない。女性が歩くには危ないかも知れないが、自分は背ばかりがやたら伸びたαの男である。怯えられる事はあっても襲われることは無い。
さて、どうするかな。
道すがら小さな児童公園でもあればいいと思ったのだが、生憎と見つからない。腕時計は夜の11時を回っている。
どうしてこんな時間に徘徊しているのかと言うと、件の東条光から話をしたいと連絡があったからだ。自宅にはカナタが居る。広いマンションでは無いし、彼女の悩みの中心という人に聞かれるのは良くないだろう。
宛もなく歩いていると、線路沿いにぽつんとコンビニがあるのが見て取れた。今どき珍しく、外に灰皿とベンチが備えてある。
これ幸いとばかりにさっさとコンビニに入り、メンソールライトとライターを買って、外のベンチに陣取った。
鼻に抜ける爽やかな香りを感じながら火をつける。煙草はカナタに嫌がられるのだが、喫煙所のコミュニケーションは案外馬鹿に出来ないので、たまにだったら許してもらえている。
何回かのコール音。
『……志津さん?』
電話に出たヒカルの声は大きくはなかったが、先日の様な涙声では無い。しかしまあ元気な訳では無さそうだ。
「どうした?」
どうしたと言っても、自分達の共通の話題は彼の事くらいしか無いだろう。
『……カナタさん、今いる?』
「居ない。俺外だから」
ヒカルもしょげた声であるし、カナタも家でしょげている。一応親子のはずなのだが、一向に噛み合わない。
『なんか聞いてる?』
「ヒカルが虐めたって」
『い、いじめて無いし!』
ケラケラと笑ってやると、電話の向こうのヒカルは呆れた様にため息をついて、ボソボソと喋り始めた。
『なんか……なんかね、びっくりしちゃって』
「ちょっとお電話が遠いんですが?」
『ええ!?だから!……ああもう、カナタさんのお家、あんまり物がなくてびっくりしたの』
ようやく声にいつもの張りが戻ってきた。聞き取り易くなったのに満足して続きを促す。
「へぇ?」
『私にね、毎年お金を送ってくれてるらしいの。特別養子縁組だからそんな事しなくて良いんだけど、どうしてもって言ってくれたみたい。でも申し訳なくて……』
「家はなあ……あいつ異動多いし断捨離中毒みたいなとこあるからな?ミニマリストなだけだから気にしなくて良い」
実際そうなのだ。流石に貰い物はある程度残している様だが、自身は余計な物を買わないし、不要だと思えば容赦なく処分する。店舗勤務の社員、特に独身であればとにかく異動が多いので、嵩張るものは持たない主義なのだ。テレビなどスマホで事足りる様な物は置かないし、唯一ある大型家具のベッドなんて、俺が寝る時背中が痛いからと勝手に持ち込んだものである。ちなみに次の引越し先によっては容赦無く処分されそうである。
『ええ?……でもさあ、なんか……もっと楽しそうに暮らして欲しいって言うか……』
「目に見える趣味があった方が良いってこと?」
『そうじゃなくて』
まあ言いたい事は分かる。要するにカナタが自分の為に苦労していると思うのは重くて耐えられないのだ。
実際カナタは、産んだ後に手の届かなかった娘であるヒカルに対する気持ちが相当重たい。
彼らの親子関係は面倒くさく歪んでいる。そして、その皺寄せをモロに食ったのは、実は自分だと思う。
「ふーん。じゃあさ、例えばカナタがデカい新築の一軒家に住んでて、胸のデカい可愛い嫁さんと結婚してて、可愛い子供が居てブランドの服とか着せててさ、白いデカい犬とか飼って毎日楽しく暮らしてたらお前は満足だったの?」
『は!?デカいって言い過ぎじゃない語彙力小学生かよ』
「切るぞ?」
『待ってよ!』
胸のデカい可愛い嫁さんの辺りに、俺自身が少しショックを受けていて笑ってしまう。実際居るのは素行が悪すぎて実家を追い出された、身体ばかりがデカくて力が強い、態度がデカいαである。強いて言うなら、鍛えているので胸筋はある方だ。
「喜べないだろ?『俺は最高に元気だから君も幸せになってね!』とか満面の笑みで言われてもさ」
『……喜べないかも。結構傷つくかも』
「それが普通だ。……分かるだろ?あいつは別に食い詰めるほど無理して金を作ってる訳じゃない。でもお前に嫌われたくなくて地味に暮らしてる所は、正直あると思う。その程度だ」
少し間を置いて、ヒカルは疑問を投げかけてきた。
『志津さんはどうしてそう思ったの?』
「番になってって散々ゴネて拒否られたのもあるけど……俺があいつに初めて会ったのは十七の時だけど、やっと付き合えたのは大学で就活してたくらいの時期でさ」
『恋バナだ?うわ聞きたくないけど聞きたい』
「どっちだよ」
『聞きたい』
夜の住宅街、大通りでもない場所にある辺鄙なコンビニではあるが、案外人の出入りはある。近所に他にこの時間にやっている店が無いのだろう。幸い、今のところ煙草を吸いに来る人間は居ない。
「……最初は子供扱いされてて全然意識されなかったんだけどさ、何とか好きになってくれないかと思って色々して、まあ、『あ、こいつ今絶対俺の事好きだな』みたいな感覚あるだろ?会って2年目くらいにそう思ってさ」
『えー、自意識過剰過ぎじゃん』
自意識過剰というか、αの男で見目もそれなりに良い自分は、それこそ黙って突っ立っていても彼女だのセフレだのが出来るくらいそっち方面に不自由が無かった。勝手にオンナノコが寄ってくる、誘蛾灯みたいなステータス。自意識過剰というか、物欲しそうな目はあまりにも見慣れていたのだ。
「まあそれで、これはいけると思って一気に距離詰めたら、黙って異動願い出して新幹線の距離に高飛びされたんだよ」
電話口で吹き出したのが聞こえたが、まあ笑われても仕方ない話だ。まさか物理的に距離を置かれるとは思わなかった。
『だ、ダサっ!断捨離されてんじゃん!』
「クソダサいだろ?流石に凹んだけどさ。……まあ理由は色々あったけど、今にして思えばお前にも少なからず気を遣ってたんだろうな。『俺がお母さんです、そんでこっちは彼氏です』も嫌だろ?」
『……まあ、良い気はしないのかな……?カナタさんも志津さんも知ってるから今は全然嫌じゃ無いけど。でも結局付き合えたんだ?』
興味をそそられている様だが、詳しい馴れ初めは口に出せない。当時のカナタの、怯えて泣き濡れた瞳を思い出して胸が傷んだ。恋愛なんて美しい話ばかりでは無いし、実子である彼女に話せない事も沢山あった。
何より、今は未来の話が必要だ。これからヒカルがどうするのか。カナタとどうなりたいのか。
「無理に押し切ったからな。……まあアレだ、現金を断って他人の振りをしてみた所で、カナタはずっと今みたいな感じだと思うね。会えるかも分からんお前に好かれたくて相変わらず地味に生活するだろうよ。俺このままずっと結婚してくれなかったらマジで泣くわ」
『あー……そっか、そういう感じか……』
「まあお前がああしろこうしろ言えばその通りにはするだろうけど。それだと根本的に今と変わらん。重いだろ?あいつ」
『重いけど……なんだろう、なんか一人にしちゃってごめんねって凄い思った。今』
「一人じゃないさ、俺が居るだろ」
そうである。言ってみれば、自分はカナタの最も近しい存在だ。もちろん親しい友人は何人か居るようだが、サービス業なので休みも合わないし、頑張って会っても年に一度か二度だろう。
自分はと言えば、休みはあまり合わなかったが、多少の無理をしてでも会いに行く。仕事中も笑みを絶やさない彼だが、自分と居る時はもっと屈託なく笑っていると思うし、ついでに怒るし喚きもする。何より、無防備な身体を預けてもらえる貰える唯一無二のパートナーである。
少し前にワガママを言った挙句、カナタの過去を無理に喋らせて泣かせてしまったのを、とても後悔している。本音で喋って欲しいし、泣きたい時は泣いて欲しい。でも本当はいつでも安らいでいて欲しいし、陰りの無い笑顔でいて欲しかった。
「まあアレだ、このまま裁判の後に他人になっても良いけど、それでカナタに良い事がある訳じゃないし、お互いしんどいだけだろうな。まあお前がそれでいいならそうしても良いよ。お前らの話だから好きにしたらいい」
『めっちゃ突き放すし……じゃあ私どうしたら良い?どうしたらカナタさんも私の事気にしないで幸せになってくれる?』
良い子に育ったんだろうな、と思う。カナタでは無く、育ての両親の功績だろう。高一の時の自分と比べたら遥かに大人びているし、思い遣りもある。正直自分が恥ずかしいくらいだ。
「それを自分で考えるのが宿題だな。まあ、時間はあるからゆっくりやればいい」
ヒカルは何か口の中でもごもご言っていたが、やがて『わかった』と聞こえて、早く寝ろよとだけ言って通話を終わらせた。さて、どうなる事やら。
自分もぼちぼち帰ろうか。寝ずに待っているであろう彼に、コンビニでプリンでも買って。
最後の被害者との面談をやっと終えられた。6人の年齢はまちまちで全て女性、自分もΩで被害者だと言うと一様に驚かれたが、八代佑の息子だと言うと納得された。
ΩにはΩのコミュニティがあるというのは、基本的にネット上の話である。マイノリティはやはり不自由も多いし、理不尽な現状に直面する事も多い。その中で少しでも円滑に生きていくには、情報収集が欠かせない。
例えば、Ωの身体に理解の深い病院や、番の居るαが施術する安全な理美容室、逆に差別的な対応をする施設の情報など、内容は日常生活に即したものが主である。
そして、中でも性犯罪の情報は需要が高い。
被害にあった場所、状況、時間、犯人の容姿、被害状況。紡がれる悲劇の足跡を追い、辿った被害者の中に、犯人のごく近隣の人が居たらしい。流石に犯人側も体裁が悪いと思ったのか、その女性には当時、内密に示談で話をつけたようだ。その為、今回の6人の中には入っていない。
一体どれだけの人が傷ついたんだろうか。
エクセルでまとめた14枚の紙。自分を入れた被害者の記録。
ヒート、Ω、暴行、乱暴、強姦、嘔吐、打撲、裂傷、骨折、出血、妊娠。
ほんの短い単語の中に、まざまざと蘇る恐怖と痛みと、悔しさと屈辱と、もっと悲しくどす黒い、名前もつけられない様な感情が篭っている。
Ωの子、それだけで奪われる無数の尊厳だ。
「やっとまとまったね」
人事部長はプリントアウトされたデータを痛ましげに見て、苦く微笑む。
「いずれ記者会見もするんですよね?」
「ああ、もちろん君は出ないが。会見で喋るのは主に社長だね」
今でもどこか夢を見ている様な気持ちになる事がある。Ωの性被害は基本泣き寝入りで、俺たちに許されているのは忘れる事だけ。そう思って生きてきたし、最初に強姦された時だって、その辛さや恐怖は必死に忘れるしか無かったのだ。
だが、正直忘れられる訳は無かった。
自分なりに慣れようと努力したつもりだが、未だに男性が怖い。人混みも一人では行けない。暗い路地を前にすれば、足が竦む。時おり悪夢に苛まれ夢の中で犯され、恐怖で目が覚めトイレで吐いて蹲る。そういう風に、なってしまった。
人生の半分をそうして生きてきた。
「……訴えて、本当に勝てるものでしょうか。Ωの子で二十歳までに性的被害に遭わないのは全体の1/3に満たないなんてデータもあります。もちろんこんな暴力的な事件ばかりでは無いでしょうが、世間的にはそれくらいありふれた事故です」
ぱさりと資料が机に置かれる。人事部長は50絡みのスラリとした落ち着いた男性だ。目元の優しい穏やかな人で、こんな凄惨な資料ばかり見ているのに、今の所怒ったところは見た事がない。
「どうだろうね。まあ、実は会社としては勝っても負けてもメリットはあるんだ。だからあんまり気にしなくても良いよ。もちろん君たちの為にも勝った方が良いんだけどね」
「会社にもメリットがあるんですか?」
それは考えていなかったかも知れない。
人件費だけでも物凄い金額だろうし、弁護士費用はもっと高いだろう。勝ったところで賠償金は被害者に振り分ける様な話をしていたし、正直金銭的にはかなりの痛手のはずだ。
「だからこその記者会見なんだよ。社長は頭が良いけど、良い人か悪い人かで言えばグレーな人だからね。大丈夫だから君は精一杯会社に利用されなさい」
そんな事を優しい笑顔で言うものだから、思わず首を傾げてしまう。
「先日お会いしましたけど、社長、とても優しくて良い方でしたよ?」
「そういう事にしておこうか。くれぐれも社長の敵になっちゃダメだよ。大人しくお膝元に居なさいね」
「?、はい」
偉い人達の考えている事は、下々の自分には分かりそうにない。疑問を飲んで大人しく頷くと、人事部長は満足そうに笑ってくれた。
数日後、深見宗一の会社から書面が届いた。
ざっくりまとめるとこうだ。
『十六年前については、Ωのヒートで起きた事故、及び時効の為当方には責任は無い。また、先日の事故については、当時故意では無いにせよ暴行してしまった相手を偶発的に見つけてしまい、謝罪の為に終業を待って声をかけた所、家に招かれΩのフェロモンでレイプされたもので、当方の落ち度では無い。暴行についてはフェロモンレイプに抵抗する際に急性発情による混乱で行った事で、こちらに賠償の義務は無い』
まあ、掻い摘んで言えばこんな内容だ。
「予想はしてたけどね」
弁護士事務所から連絡を受けて、帰宅後だったので取り急ぎ書面をPDFで送ってもらった。社長や会社の面々は自分より先に確認しているらしい。被害者という事で心配してくれているのは分かるが、ちょっと丁寧に扱われ過ぎな気もしている。
一緒にスマホを覗き込んでいるアキラは、今にも切れそうな血管をこめかみに浮かべている。自分はすっかりこういう理不尽な事に慣れてしまっているので、代わりに怒ってくれるのはありがたい。
「『私に悪意なんてありませんでした』ってことだね。まあ、言っちゃ難だけどΩのフェロモンでαがレイプされるのってそれはそれでめちゃくちゃ多いらしいから」
「まあな」
「……え、アキラも?」
「ヤバそうな女は近づけない様にしてたから。……正直無くは無いよ。未遂だけどな」
Ωのフェロモンはαに性的興奮をもたらし、特にヒートの時は理性で制御できるものでは無い。それを逆手に取って、目当てのαにあえて襲われようとするΩが居るのだ。
なし崩しに恋愛に持ち込むも良し、散々やった後に適当な理由で示談金を求めるも良し、子供が出来れば結構な養育費を吹っかけるし、最悪無理に首を噛ませて番になってしまうこともある。
番にすると結婚同様の権利が発生するので、相手によっては晴れて遊んで暮らせるという訳だ。
故にαにも自衛が必要だ。実際、アキラだって緊急用のポンプ式の抑制剤を上着のポケットに入れている。自身で太腿に刺す注射器で、飲み薬より効果が圧倒的に早く強い。ただし、副作用も強いので普段から使えるものでは無い。
胸糞悪い話だが、そういう当たり屋みたいなΩが居るので、まともに暮らしているつもりの俺みたいなΩは益々肩身が狭いという訳だ。
「示談で済ませた方が良かったと思う?俺のお値段は200万だったらしいよ。まあまあ大金だけどそれ貰ってどうすんのって話だよね」
「……示談は許せない。相手に何の制裁も無いなんて、そんなのは絶対許せない」
抱きしめられて、ベッドに倒れ込む。自分は所詮浅ましいΩなので、好きな人に触られるのは嬉しいし、何よりの癒しだ。肋がちゃんと治ったので、力が込められている。苦しいくらいが丁度いい。
アキラの香りがする。
「ふふ」
「……お前が、こんな酷い扱いをされて笑ってるのが、俺は許せない。人間扱いされない事に慣れてるのが許せない。お前をそういう風にした奴らが許せない。……お願いだから、泣いて喚いてちゃんと怒ってくれよ」
アキラは昔から良い子だ。ちゃんと怒るしちゃんと笑うし、欲しいものがあれば真っ直ぐ追いかける事に疑問を持たない。愛想は無くても人と気持ちを共有するのが得意で、人一倍気遣いもするし、面倒見も良い。
自分にも周囲にも、嘘をつく事に慣れ切ってしまった俺とはまるで違う人種なのだ。もっとも、最近はお陰様で、彼の前では結構泣いたと思うが。
「ありがとうね。お前はほんと俺にはもったいないよ。……でももう手放してやれないんだ。ごめんね、側に居てね」
「……ごめんは禁止だろ。俺だってお前を逃がさない。覚悟しろよ」
無意識か、αの威圧感を少し感じる。背筋がゾクゾクするが、彼の気配ならそれすら心地良い。
裁判に負けても、こちらが犯罪者にされても、生きるのが辛くても、彼が傍に居るなら大丈夫。
「アキラ、大好きだよ」
返事の代わりに落とされる深い口付けに、今日は身を任せてしまっても良いだろうか。
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