第8話 大人になってしまうあなたへ

 久しぶりの出勤である。

 とは言え、この店に来るのもあと5日だけだ。引越しはもう少し先なので買い物くらい来るかもしれないが、もう少し落ち着くまではアキラの家で過ごす予定であるし、もう殆ど来ないはずだ。

「マネージャー!異動ってホントですか!?俺どうしたら良いんですか!?」

 久しぶりの谷岡は盛大に泡を食っていた。

「お休み中ありがとう。あとマネージャー昇進おめでとう」

 眼帯はしているが、それ以外はだいたいいつも通りである。首もガーゼと包帯は取り、処方された薬と薄い絆創膏で事足りる様になったので、ネクタイを締めてしまえば見えない。

「ていうかマネージャーも目のとこ大丈夫なんですか?なんか大怪我してたって噂になってましたよ」

「階段踏み外しただけだし大袈裟だよ。とりあえず引き継ぎ…って言っても俺が居なくても回るくらいだからそんな大した事ないよな」

 難しい顔をして聞いている谷岡であるが、実際彼はかれこれ新人から3年面倒を見ている。最初こそ頼りなかったが、今となってはなんでも任せてしまっているので、正直そんなに心配は要らない。強いて言うなら片付けが出来ないタイプなので、在庫を余らせないか心配、くらいのものだ。

「そんな雑な感じで良いんすか!?」

「まあ正直習うより慣れろなんだよね。わかんない事あればいつでも電話くれればいいし、発注とかある程度失敗して感覚掴むしか無いよ。シーズンエンドは資料渡しとくけど……スケジュールはSVがガンガン催促してくるしね」

「まぁおいおい聞きますわ……あ、マネージャー送別会しますからね!来週の土曜日とかどうすか?俺幹事やるんで!」

 引き継ぎの件についてはげっそりしていたくせに、飲み会の話をし始めた途端元気だ。思わず笑ってしまう。谷岡もへらへらと笑った。そんなやり取りもしばらくできなくなるだろう。そう考えるとやはり少し寂しい。

「土曜日で大丈夫。ありがとうね気を遣ってもらって」

「仕事終わってから来る人も居るし、普通に駅前が良いですよね。駅前の居酒屋でいいすか」

「うん。どこでも」

「あっ志津さんも呼びます?」

 アキラか、毎度毎度申し訳無いが迎えを頼む事になるし、それなら呼んでもらったら嬉しいが……自分の彼氏であるし、店のメンバーとしてはどうなんだろう。

「ありがたいけど、良いの?」

「超恐いすけど良いっすよ!」

 谷岡はははっと明るく笑った。アキラは面倒見が良いので、谷岡の事も良く見て良く叱っている。見込みがあると思われているからだ。

「どうせ人いっぱい来るんで全然平気っす!」


 引き継ぎの期間はあっという間だった。自分はと言えば顔見知りのお客様に今までのお礼を言ったり、店回りのメーカーの営業さん達に挨拶したりと、忙しい中でも充実したコミュニケーションをして過ごせた。各メーカーの営業は案外横の繋がりがあるので、異動の話も直ぐに広がったらしく、皆時間を作ってわざわざ会いに来てくれた。本当に、自分には勿体ないくらいだ。

「八代さん、私達の癒しだったのに!本部に取られちゃうなんてもうほんと寂しいです……!」

「俺も皆さんと会えなくて寂しいです。またお店戻れると良いんですけど。今までお洒落な売り場沢山作っていただいて本当にありがとうございました」

 製菓メーカーの営業さんはほとんど女性で、ちょうど自分の母親……とは言っても故人ではあるが、母親くらいの年齢差の人も多い。実は構ってもらえるだけで嬉しかったなんて、恥ずかしくて口には出せないが。

「沢山企画やらせてもらってありがとうございました。あっ私らも送別会行きますんで!」

「ほんとですか嬉しい!お姉様方にお酌させていただけるなんて光栄です」

「やだなあもう、マネージャーがお酌されるんですよ!」

 こんな他愛ないやり取りも、もうおしまいだ。これからきっと大変だし、たくさんエネルギーをチャージさせてもらおう。


 息子が強姦された。

 当時十五歳、高校生活にようやく慣れた矢先だった。

 間抜けな自分はあの子の助けを求める叫びに気が付かず、ようやく見つけた時には何もかもが終わっていた。

 雨の中、着乱れた制服で、膝を抱えて震え泣きじゃくるあの子を抱き締める事しか出来ない苦しさを、忘れる事など出来ない。

 仏壇に手を合わせる。線香の煙が細く白く上がり、亡き妻に祈りが届く事を願う。

 大切な息子が強姦された。何とか普通の生活に戻してやらねばと奔走したが、それを拒絶したのも息子だった。

 あの子は自分の身体と人生を犠牲にし、無理矢理孕まされた子供を生かす事を選んだ。自分も何度も病院に赴いたが、とうとう面会は叶わなかった。

 あの子は一人。たった一人で。

「……美談などでは無い」

 あの子の生んだ子供が健やかに育った、それだけを拾って、あの子の傷を、痛みを、苦しみを、恐怖を、絶望を、失った未来を。

「無かった事には、できない」

 孫など要らなかった。

 ただ、最愛の妻の忘れ形見である息子が、恐ろしいものを目にせず、好きあった者以外に触れられる事無く、平穏に穏やかに過ごしてくれる事を、ずっと願い、そして叶わなかった。

 祈りが、あるいは自分の理想が、あの事件によって打ち砕かれた。そして愚かにも動揺し、大切な息子を自分が更に深く傷つけたのだ。

『お父さんは、いつも、いっつも、……何で俺の話を、聞いてくれないの……!』

 涙で滲んだ電話越しの声が、未だ自分を責め立てる。

『赤ちゃんは殺せない、……そんな事したら、この先ずっと辛くて生きていけない……!もう家には帰らない……絶対、帰らないから……!』

 そうしゃくりあげながら言うのは、高校生とは言えどまだ幼さの残る少年らしい声だった。子供だと見くびっていたのだ。いずれどうにもならなくなって、ここに帰るしかないだろうと。

『ふざけるな!Ωのくせに学校を辞めて子供を抱えてどうやって暮らしていくんだ!?水商売で食っていくつもりか!?』

 浴びせた罵声が自分の心に跳ね返って、心臓を切り裂く心地だった。

 何を隠そう、風呂屋で働けと言われて実家を追い出されたのは、かつての自分だった。息子の身を案じている様で、その実自分と同じ惨めな想いをさせまいとして必死に育てた結果がこれだ。息子の心情を顧みず、教育と、自分の望んだ未来を詰め込んできた。

 何かにつけて息子を否定し、自分の敷いた人生を歩ませようとしていたと気が付いたのは、息子が帰って来なくなって一年以上経ってからだった。

「……それでも、奏多に許されたい」

 仏壇の前、仏具と共に備えられている包みに手を伸ばす。紫の風呂敷に包まれた、ずしりと重い木の箱だ。かつて奏多が欲しがり、自分が取り上げたものである。


 つつがなく9月が終わり、10月の初めの土曜日に、送別会が行われた。集まってくれたのは社員パートアルバイトその他各メーカー営業含め30人ほど。

 送別会というよりそこそこの規模の飲み会で、自分は酔っ払っておいおい泣き出した谷岡を宥めたり、各卓を回ってお酌がてらお礼を言って回ったり、件のメーカーの女性陣に囲まれて色々問い詰められて憮然としつつも応えているアキラを見てにやにやしたりと楽しかった。

「今まで大変お世話になりました。皆さんに沢山ご迷惑をおかけしてしまいましたが、温かい言葉をかけていただけて、いつも本当に心強かったです。異動先でも精一杯頑張りたいと思います。皆さんも、どうかご健勝にお過ごしください。本当に、ありがとうございました」

 何人か酔いつぶれているが、それでも囃し立てる声と拍手に見送られ、この店を、更に言うなら販売部を後にした。

 さあ、腹ごしらえはした。

 これからが戦いだ。


 10月下旬。関係者各位に内容証明が送付された。会社からの、そして東条家からの、言うなれば宣戦布告である。

「まずは俺の件と東条さんの件だけなんですね」

 人事部長は頷いて、印刷された資料を机に広げる。

「今日あちらの会社と自宅とに届く予定だ。じき弁護士にレスポンスがあるだろうね。あちらの態度によってうちの対応も変わってくる」

 広げられたのは、今わかっている被害女性のプロフィールだ。六人分だが、恐らく氷山の一角だろう。

 被害届は出ている様だが、父が見つけていなければ、恐らく全員泣き寝入りだったはずだ。Ωというだけで警察は本当に相手にしてくれない。

「面談の日程に希望は?」

「いえ、全て先方の都合に合わせます」

 被害女性の状況と希望を取りまとめるのが自分の仕事の一つとなるが、調整は弁護士を通すのでもう少し先だ。

 今日はこの後東条家と面会の予定である。

 とは言え、裁判の出廷の件については弁護士経由で連絡が来ているので、今日の話の内容はプライベートなものになるはずだ。

 前触れもなく、人事部長の社用携帯が鳴る。

「ーーーー……成程。分かりました」

 少し話をした後に、そう言って静かに電話は切られた。

「弁護士からだ。あちらの会社からは争う旨の連絡が入ったらしいが、家族の方はそうでも無いらしい」

「和解を求めているんですか?」

 家族、というと相手は深見の妻だろうか。

「相手さんもまだはっきり対応を固めてないだろうし、をまずは弁護士含め話し合いだろうね。何にしても、向こうは一枚岩では無さそうだ」


 通されたのは大きな窓から光が指す明るい部屋で、黒い革張りのソファが木目の美しいローテーブルを挟んで対面に置かれている。

 カナタさんと東条家の面談に当たって、会社が本社の応接室を用意してくれた。

 ノックの音に、隣に座っていたお父さんが立ち上がる。つられて私も立った所で、木製のシンプルな扉が開いた。

「お久しぶりです」

 久しぶりに見たカナタさんは少し痩せていて、胸がぎゅっと苦しくなる。グレーのスーツは以前家に来た時と同じものだと思うが、その時よりも身体が薄く見えて痛々しい。

「八代さん、お久しぶりです。どうぞ掛けてください」

「いえ……この度はお嬢さんを危険な目にあわせてしまって、大変申し訳ございませんでした」

 立ったまま深々と頭を下げるのを、お父さんが肩に手を置いて、静かに止める。

「娘を守っていただいて、本当にありがとうございました」

 お父さんに促されて、カナタさんも向かいのソファに座る。まだ身体に痛みがあるのか、ほんの少し不自然に。

「……ヒカルさん、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない。でも、無事で良かった」

 少し眉根を寄せて、それでも微笑んだカナタさんは綺麗だ。心からの慈愛の滲む、優しくて綺麗な顔。その顔が、滲んでキラキラしている。

「……っ、ごめんなさい、カナタさんは、もっとずっと怖い目に遭ったのに、」

 勝手に溢れてくる涙が喋るのに邪魔だ。鞄からハンカチを引っ張り出して、ゴシゴシ拭う。顔を見て泣いちゃうなんて。私はもっとちゃんとしなくちゃいけないのに。

「俺はあなたが無事ならそれだけで充分です。あの時アキラを呼んでくれてありがとう。とても心強かった」

「回りくどい事せずに私が警察を呼べばよかったんです……!」

 警察を呼んだら殺すなんて、所詮は脅しだろう。後から考えれば分かるのに、全然冷静になれなかったのだ。

「……俺は呼ばなくて良かったと思います。実際、サイレンが聴こえた時相手が何をしたかは分からない」

 困った様に言うその内容にぞくりとした。殺して埋めると言ったのは建設会社の社長である。

 サスペンスドラマの様な話だが、もしかしたら出来ない事は無いのかもしれない。

「過ぎた事を悔やんでもあまり意味がありませんし、ヒカルさんは無事で、私自身もまあ、大丈夫です。私は満足しています……ヒカルさん」

 顔を上げると、優しく微笑んだカナタさんが、私にすうっと手を伸ばした。

「手を握らせていただけませんか」

 そうお父さんに伺いを立てて、お父さんも頷く。

 おずおずと両手を差し出すと、滑らかな両手がそっと私の手を包んだ。白くて温かい、綺麗な手だ。男の人らしく少し筋張って、でも繊細で長い指。あの男の髪の毛が絡みついていた、必死に抵抗したであろう指先。

「ほら、大丈夫でしょう?」

「……いつもカナタさんばっかり、つらい、……ねぇ、ずっと聞きたかったんです……」

 先を促す様に、カナタさんが私の手を包む。本当は手だけじゃなくて強く抱きしめて欲しい。でも甘えてはダメだ。カナタさんは私の産みの母だが、お母さんでは無いのだ。

「私が、お腹にいる時、……辛かったですか」

 手が熱く感じるのは、自分の手が急速に冷えたからだろう。顔が見れない。でも、ずっと聞きたかったのだ。

「……大変だったな、とは思います。若かったし、一人で生きるには色々と早すぎて。身体も壊したし、決して普通の状態では無かったから」

 私はなんで、あんな男の子供なのに、人生を犠牲にしてまで産んでもらえたんだ。

「身体は辛かったかも知れない。気持ちも……どうだろう、怖いって感情が強かったのかな。毎日今の事で精一杯で。でも」

 私は、私は。産まれてきて、生きていて良いんですか。

「ヒカルさんがお腹に居る間、可愛くてしょうがなかった」

 お父さんが頭を撫でてくれて、ゆっくり顔を上げる。改めて見たカナタさんは、たぶんお母さんの顔をしていた。きっと、私がお腹にいる時もこういう顔をしていたのだろう。優しい、穏やかな顔に、慈しみが滲んでいる。なんだか無性に切なくて、今すぐ抱きしめたい衝動をぐっと堪える。

「確かに色々辛いことはあったんですが、お腹に居るあなたがとにかく可愛くて、少し動く度、中でお腹を蹴ったり、ひゃっくりしてたり、本当に可愛くてしょうがなくて、正直ずっとこのまま、お腹にいて欲しいと思っていました」

 だって、産まれてしまったら、もう一緒には居られないから。言葉の奥に隠された寂しさが嬉しいなんて、自分勝手過ぎるだろう。私は決して良い娘ではない。

 だからこそ、言わなくては。

「カナタさん」

「はい」

「ありがとう。……あの、お願いがあります」

 ゆっくり傾げた首に先を促され、幾度か深呼吸をして。

「私を、大人にしてください」

 私は、大人になって、カナタさんを私から解放しなくては。

「裁判が終わるまで、私の家族になってください。……証言してもらうし、沢山嫌な事を思い出させてしまいます。本当にごめんなさい。……それで、裁判が終わったら、私の事はもういいので、娘ではなく他人と思ってください」

 カナタさんの顔から血の気が引いた。

「……それは、できません」

「他人と思ってください、もう娘だと思わないでください」

 酷い事を言っているのは分かる。カナタさんは青い顔のまま、ゆっくり首を横に振った。可哀想だと思うが、それでも言わなくては。自分の腕には、あの日勝手に持ってきてしまった、ビーズのブレスレットが光っている。水色と白と、透明にオーロラみたいな光が入るビーズに、半透明のゴムをきっちり通した、シンプルで可愛いデザイン。

 たぶん、私の事を思って作ってくれたものだ。

 カナタさんから奪うものは、これで最後にしたい。

「今まで大切にしてくれて、ずっと思いやってくれて、本当にありがとう。でも、これから私より大切な人を沢山作ってください。私はカナタさんを、どうしても一番にはできないから」

「ヒカルさんより大事な人なんてできない……!俺はあなたの一番じゃ無くてかまわない」

 かぶりを振って否定するカナタさんは、の穏やかなカナタさんじゃ無さそうだ。それで、多分こっちが素顔のカナタさんだろう。

「カナタさん、あなたは、私の事を他人にして、もっと自分の人生を生きてください。……私はカナタさんに罪悪感を持って生きていたくないんです」

 毎年振り込まれていたお金は、それなりにまとまった金額だったそうだ。その重みに反比例するかのように、カナタさんの部屋は空っぽだった。最低限の家具に色の無い空間、恐らく寝に帰る為だけの部屋だろう。

 きっと、私に送金する為に無理をしていた。

「待って、待ってください……」

 ぎゅっと力を込められた手を、なるべく丁寧に解いた。温もりが離れる。自分の手は氷みたいに冷えて、私だって泣きそうだ。

 お父さんが、私とカナタさんを交互にじっと見てから、静かに言った。

「今後、金銭的な援助は一切お断りします。裁判のご協力については、大変申し訳ありませんがどうかよろしくお願いします。八代さん、貴方は貴方のこれからの生活を考えてください。もう十分です。貴方は十分、いやそれ以上に、この子に尽くしてくれました」


 ようやくという気持ちもあり、あっという間だったとも思える1ヶ月だった。

 あの事件が起きて、ちょうどひと月。

 カナタはあれからずっと俺の家で暮らしている。住んでいたアパートも引き払う準備をしているが、解約はしていない。

 荷物を当面レンタル倉庫かトランクルームに入れようかという話になって、カナタがぽつりと「怖い」と言った。あの男に最初に暴行されたのが、街中のトランクルームの死角だったらしい。

 早く新居を決めて引っ越してしまえばいいのだろうが、俺自身がどうしても彼を一人にしたくない。

「結婚してくれないかな」

 ベッドに座って、ぽつりと言う声は誰にも聞こえないままだ。

 カナタは妊娠判定のキットを持って、手洗いに入っている。

 東条家との話し合いから帰ってきた日から、カナタはずっと落ち込んだままだ。仕事中は相も変わらず人当たりの良い笑顔を貼り付けている様だが、家では流石に疲れてしまうのだろう。

 カチャ、とドアの音がして、手洗いから出てきた。

「やっぱり妊娠してなかった……」

「……そっか」

「うん」

 良かった、と言ったらヒカルの存在も否定してしまう事になる。しかしほっとしたのは事実だ。

「こっち来な」

 ベッドに座ったまま手を広げて呼ぶと、素直に来て、ぽすっと背中を預けられる。もうコルセットは必要無いし、身体の痛みもほとんど無いらしい。背中から彼を抱いて、言えない数多の言葉の変わりにぎゅっと力を込めた。

 首の傷ももう塞がってはいるだろうが、大きめの絆創膏で隠されたままだ。傷跡が残らないと良いのだが。

「明日だね」

「ああ」

 明日は一緒に弁護士事務所に行く予定になっている。相手側の家族が謝罪と示談を求めているのだ。深見本人は来ないように言ってあるが、どうなるだろうか。

「……ヒカルがね、裁判が終わったら家族だと思わないでって言ってたんだ」

 顔が見たいな。カナタは嘘つきだが嘘は下手なので、顔をちゃんと見ていれば読み違える事もない。

 痛みを隠してないか。悲しみを表面上の笑顔の奥に押し込めていないか。

 ひょいと膝の裏に手を入れて、そのまま持ち上げて横抱きにしてしまう。特に驚くことも抵抗する事も無く、彼は素直に俺の胸に頬を寄せた。

 覗き込むと、やはり薄く笑っている。またそうやってすぐ無理をする。

「家族と思わない?」

「……なんもできないからお金送ってみたりしてたんだけど、そういうのも全部やめてくれって。罪悪感を感じてたく無いって」

 ああ、ヒカルも頑張っているんだな。母と娘、二人葛藤を持って、この局面を乗り越えないとならない。そうしないといつまで経っても前に進めない。それが分かっているのだ。

「良い子に育ってんじゃん」

「あはは、ほんと俺が育てなくて良かった」

 そんなに無理して笑わなくても良い。はむ、と頬を齧ると、意図が伝わったのか困ったように俯いた。

「……大人にしてくれって言われた。俺がヒカルにしてやれる事ってもうそんなに無いだろうし、裁判終わるまではなんでもしてやりたい。でも俺なんかに何が出来るかなって」

「そうだな……」

 ヒカルは自分の存在からカナタを逃がしてやりたいのだろう。その為の期限も設けてくれた。

「……勉強を、させてやるくらいじゃないか。示談にできるか分からんし、実際裁判が始まったらキツいと思うけど、ヒカルはさ、お前の傍に居たら勉強になるよ。きっと」

 自分もそうだった。Ωの男性と一緒に居たいと思った時に、自分自身あまりの知識不足に喘いだものだ。勉強して、カナタとも良く話し合って、そうして擦り合わせを繰り返して、良い距離感で付き合えるようになった。

 その過程で沢山失敗もしたし、中には取り返しもつかないような酷いことをしてしまった事もある。

 気付かれない程度に、軽く呼吸を調える。務めて冷静に。自分の不安を表に出せば、カナタの不安も煽ることになる。

「……うん……今まで汚いものはなるべく見ないで欲しいって思ってた。でもさ、大人になると嫌なものから逃げられないんだよね……今は辛くてもさ、将来役に立つと良いなって……」

 そういう彼は、それこそヒカルと同じくらいの歳から、汚いものを見て嫌な思い怖い思いを沢山して、無理やり大人になって、そうして生きてきた人だ。

 そうしてそんな辛い現実が、彼の優しさと強さとなり、また陰となり彩りとなり、彼を形作っている。

 なんだかたまらなくて、額を啄むみたいに口付けたら、くすぐったいと自然に笑って、こんな些細な笑顔をずっと見ていたいと思った。

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