第7話 君が少しでも笑ってくれるなら、俺は何でもしてみせます

 ガチャ、と鍵が開く音を聴いて玄関に向かう。

「おかえり、早かったね」

「直帰できたから」

 珍しい事だが、もしかしたら気を使って早めに帰ってきてくれたのかもしれない。自分の為に悪いと思うのだが、早く帰ってきてくれるのは本当にありがたかった。

 何せ、一人でいるとやはりフラッシュバックで疲れてしまう。いい大人がめそめそするなと思うのだが、なかなか上手く精神を保てない。

「あれ?スーツ濡れてる?」

「さっき一瞬ざっと降ったんだよ、こっちも降った?」

「降ってない。早く着替えた方がいいよ、風呂入る?」

 アキラはテキパキと服を脱いで、風呂に行くでもなく私服に着替えている。黒色で小さくロゴが入った白いTシャツに、アウトドアブランドのブラックのパーカー。下もラフなブルーグレーのパンツ。スーツを脱ぐと途端に若い男の子である。

「夕飯作りたいし買い出し行こう」

 イタズラっぽく笑うと、出会った高校生の時とあまり印象が変わらない。ただ、信頼関係の分だけ安心感が増していた。

「行く。家居るのも飽きちゃったとこだった」

 私服で一緒に出かけるのも久しぶりなので、なんだか楽しい。

 程なく支度を終わらせて、ドライブがてら少し遠くの、ちょっと大きなモールまで行く事になった。

「どっかの競合店?」

「全然。あんま仕事絡まないとこ行きたくてさ。近いと売価とか気になるだろ」

「分かる。つい見ちゃう」

 職業病だよねと笑うとアキラも苦笑して、なんだかいつもの日常に戻れる様な気がした。

 大丈夫だ。自分さえ、忘れてしまえればいいのだ。


 久しぶりにちょっとしたデートを楽しんで、カナタもよく笑った。まだ痛みは酷いだろうし、眼帯もして首は包帯という姿だが、それでも笑顔が見れればほっとする。

 お互いあまり仕事の話はしないようにして、何を食べたいかと聞いたら、少し迷って「ハンバーグ食べたい」と言ったのを聞いて嬉しくなる。昨日より食欲はあるらしい。

 もっとも、朝は食べなかったし、昼も食べたか怪しいので、引き続き注意して見なければとは思うが。

 ひき肉とマッシュルームと牛乳。あとはとりあえず店内をぐるっと見て、ビールだのチーズだの、欲しいものを好きなだけ。

 会計はカナタがしようとしていたのを遮ったら、押し問答になり結局折半した。そういう他愛の無いやり取りが楽しかった。

 料理も2人でして、ハンバーグのソースも手作りして。日中の悲しいやり取りもほんの少しの間忘れさせて貰う事にして。

 カナタが食べ切れなかった分も自分が食べて、皿を空にして。

 そして今である。

「……ねえ、しないの?」

 セミダブルでも男2人、増して自分は多少体格もいいので並んで寝るのはまあまあきつい。結果、真ん中辺りにくっついて、ほぼほぼ抱き合うみたいにして寝るのが慣例化している。

 一昨日は職場で倒れてフラフラだったし、昨日も抱いて一緒に寝ただけ。

 お互いαとΩだ。好き合っている仲なので、平素だって近づけばフェロモンは知覚するし、部屋に来れば自然に致すというのが当たり前の関係だった。

 しかし、相手は肋骨に2本ヒビが入り、他にもあちこち痣や傷のある怪我人である。当たり前だが、傷がある程度治るまではやめておいた方がいいし、心の傷は未だ計り知れない。安易に触れてその傷を抉る様な事になったらと思うとゾッとする。

 そりゃ、自分だって内心たまらなく飢える時もあるけれど。

「アバラがくっつくまではしない」

「折れてる訳じゃないし大丈夫」

 したい、という言葉に少しだけほっとした。また性交渉に怯えてしまうのは仕方ないと思っていたが、したいという気持ちはあるらしい。

 それでも慎重に観察しなければ。彼は基本、嘘つきだ。

 カナタはまるで猫のように不調を隠す。隠し通せなくなっていたら、それはもう本人が限界を迎えている時だ。

 そうなる前にケアをしなければいけないが、触れれば壊れそうな危うさを孕む身体に、慎重にならざるを得ない。

「あのな、ヒビていうのは骨折してるけど骨がズレてないってだけだから、負担かけたら危ないの」

 努めてさらりと言って聞かせる。

 腕枕をしているので、顔はまあ近い。目に見えてむくれたが、納得させるしかない。

「ねえ、妊娠してるかも知れないからしないの?」

 最近のカナタ、結構前から思っているが所々ちょっといつもと違うというか、不安定というか。あまり言葉を選ばなくなっている気がする。多分これは、言わせておいた方が良いやつだ。自分の頭を整理するために口に出している気がする。

「妊娠してるとダメなの?」

「んー……」

 あえてこちらから聞いてみると、カナタが手を伸ばして、ベッドサイドで充電していたスマホを手に取る。しばらく難しい顔をしていたが、そのうち、放り出す。

「どうだって?」

「よく分からん」

「わかんないから止めとこう」

「ねえ、俺の事嫌?」

 駄々っ子である。

 平素職場で見かける、優しくて親切丁寧で奥様方からチヤホヤされて、じーさんばーさんたちが縁談をバンバン持ってくるのを笑顔でいなしている、大変仕事ができる素敵なお兄さんは何処かへお出かけしてしまったらしい。

 平素から二人で居る時は割と甘ったれだ。ついでに言うなら俺は彼をドロドロに甘やかして、ベタベタするのが生き甲斐である。

 嫌だったらわざわざ抱いて撫で回さないだろう。

 とりあえず頭をぐりぐりと撫でる。早く寝なさいと言うところだ。

 寝る時まで眼帯は付けないので、目の痣がはっきり見えて痛々しいが、なるべく注視しないようにしている。

「なんも嫌じゃない」

「めんどくさいでしょΩ。手がかかって仕方ないし、迷惑ばっかりかけるし、変なやつに絡まれるし」

 よしよしと頭を撫でているが、今晩の彼は饒舌だ。毒は吐いてしまった方がいいので、好きにさせておく。

「別にめんどくさくない。手がかかるとこが可愛い。迷惑なんて誰だってかけるしお互い様だ。変なやつは変なやつが悪いのでお前の問題じゃない」

 一応誠実に答えているつもりだが、納得はしてくれないらしい。

「俺のお父さん、Ωなんだ」

 一瞬手が止まる。会いに行ったことを勘づかれたかと思ったが、どうやらそうでも無い。

「お母さんがβで、お父さんはΩで若い時から結構大変だったみたい。で、俺がΩでしょ?小学生くらいから将来は在宅でできる仕事にって言われてて。Ωはβの倍、αの3倍努力しないと食べていけないぞって。厳しくて大変だったんだよ」

「お父さん仕事は?」

「作家?小説とか書いてるけど、あんまり読んだことない。俺も本好きだけど家族の書いたものって読みにくい」

「へぇ……」

 昼間のあの人を思い出してみる。一見得体の知れない雰囲気のある人だが、作家業というとしっくり来た。

「Ωは人に迷惑かけないと生きていけないって、お父さんよく言ってた。だからなるべく迷惑かけないように、人に会いにくい仕事を探しなさいって。俺は他の人の迷惑もちゃんとかけてもらえば、俺が少し迷惑かけても良いんじゃないかなって思ってた。お父さんほんと人と話さないんだけど、俺人と喋るの好きだし」

 接客業という仕事において、カナタは天職だ。結局俺たちがしている仕事は人間が相手なので、まずはお客様の喜びを自分の喜びにできる素直さが必要不可欠なのである。ちなみに俺はそういうタイプでは無かったので、店での評判はまあまあ悪い。なので本社勤めが非常に肌に合っている。ただしクレームの対応は大変得意だった。

「いっつもあれはダメ、これはダメって言われてて。妊娠した時も真っ先に堕ろせって怒鳴られて、もうやだってなっちゃって、なんかそういう相談窓口みたいなのに電話したら保護してもらえて。人に甘えて、沢山迷惑をかけて、ヒカルも育てられなくて」

 今目の前に居るのは、もしかして15歳のカナタなのかなあ、なんてふと思う。たぶん、当時吐き出せなかったのを今吐いているんだろう。

「……結局お父さんが言ってる事は大体正しかった。受け入れられなくても、もっとちゃんと話せば良かったかもしれない……会って謝りたいけど怖くて行けない」

 なるべく傷に負荷をかけないようにしながら、ぎゅっと抱き締めてやる。少しの間にだいぶやつれてしまった。身体が薄い。

「俺は、どうしてもお父さんの思う様に生きられない。きっとこれからもできない」

 あの人はカナタを愛しているし、カナタも父親を憎んでいる訳では無い。しかし、単に会って和解できる程度の軋轢なら、とっくの昔にあの家に帰っているだろう。

 車で30分、電車だったら15分乗れば実家の最寄り駅に着く。それなのに、彼は帰れなかったのだ。

「落ち着いたらさ、一緒に会いに行こう」

「一緒に?玄関で水ぶっかけれるかもよ?」

 やっぱり気がついているのか?と一瞬ヒヤッとしたが、どうやらそうでもない。一通り喋って気が抜けたのか、うつらうつらし始めている。

「平気だろ水くらい。直ぐ乾くよ」

 もぞ、と身じろいだカナタはもう夢の中だ。せめて恐ろしい夢を見ない様に、祈りながら白い頬を撫でた。


『谷岡さん、谷岡さん、事務所までお越しください』

 あくせくと働いていた所に、放送で呼び出されてしまった。ただでさえマネージャーが連休でバタバタしている。社員は自分だけでは無いのだが、やはり役不足感は否めない。

 店長にまためんどくさい指示もらったら嫌だな。

 抱えている仕事の段取りをあれこれ考えながら事務所に入る。

「失礼します」

「ああ、谷岡くん。辞令が出たよ」

「はい?」

 店長は、社内便の封筒からぺらりと紙を取り出した。

「辞令、谷岡雄大さん。当店の加工食品部マネージャーです。来月からがんばってください」

 思考が停止した。

「はい??え?あの、八代さんは?」

「もちろん、引き継ぎで今月中は来てくれるよ」

 普通に言ってんじゃねえよこちとら平社員だよ。いや平社員じゃなくなるのか?今月と言ってもあと数日しかない。

 しかも、異動は半年に一度、2月と8月と大体決まっている。それ以外の異動は何かトラブルがあった時だ。

 八代さんは、連休前の出勤日に怪我をしていて店長に呼び出されたらしい。最も俺はその日は休みで、詳細は分からな

 いのだが。

「すいません、八代さんは何処に異動されるんですか?」

 目の前のじいさんは人の良い笑みを浮かべているが、内心は読めない。

「人事部だよ」


 店からの電話だ。

 なにかトラブルかと思って出ると、電話の主は店長の中澤さんである。

「はい、お疲れ様です」

『休み中悪いね。八代くん、電話口で済まないけど辞令が出たから』

「はい?あの?自分ですか?」

 流石に暴行をされた店には置いておけないという事だろう。言われてみればそうなのだが、ヒカルの事ばかり気にしていたので、どうも自分の事まで考えが及んでいなかった。例の一件以来、頭の回転が遅い気がする。

「何処の店ですか?」

 引越しの支度をしないとならない。幸い、異動の時は会社が引越しの費用を負担してくれる。物件探しが手間だが、慣れているので問題無いはずだ。

『いや、本社の人事部だ』

 頭が真っ白になった。

 どうして。なんで。

 迷惑だから、と心のどこかで理解している。

「あの、販売部にはもう居られないという事ですか?ご迷惑をお掛けして申し訳ないです、でも、あの、……」

 何処でも良いので、お客さんの顔が見えるとこに置いて貰えませんか。

 言いたくても言えない。だって、自分はどこでも迷惑だろうから。誰かに迷惑をかけないと生きられないのだから。

『販売部に要らないんじゃなくて、人事部で君が必要なんだ』

 中澤さん、それはお気遣いというやつでは無いんですか。居場所が無いから、どこか遠くへやるんじゃ無いですか。言える訳がない。

「なかざわさ……」

 最近涙脆い。でも電話でバレてはダメだ。

『八代くん、良く聞きない。谷岡くんがマネージャーになるから、今月いっぱいは引き継ぎに来てもらう。本当は君を休職にしたかった』

 涙が頬を濡らしている。息遣いがあちらに聞こえないよう、スマートフォンのマイクを指で塞いだ。

『でもね、どうしてもできない。君にはやってもらわなきゃならない事がある。恐らく年単位だ。しかも、それは君にとって極めて過酷な仕事だと思う』

 電話口だが、思わず首を傾げた。人事部で自分のする仕事とはなんだろう。正直に言えば人事部の業務内容もぼんやりとしかわからない。

「なんですか……?」

 話が今ひとつ見えて来ない。厄介払いという訳では無いのだろうか。

『会社で、君を暴行した男を告訴する。あと、協議中だが、君以外の被害者も何かしらの救済が出来るよう努力する』

「……なに?何を仰っているんですか?被害者?」

『それに、東条さんもあの男を父親として訴えるそうだ。それに対しても弊社として協力する約束になっている。辛いだろうが、君にも裁判で証言してもらう事になる』

 ヒカルがあの男を訴える?いや、それは当然の権利かも知れないが。

「ちょっと、ちょっと待ってください、あの、店の前でΩの男が脅されて、家で暴行されたって事故ですよね?会社としてというか、なんでそんな大袈裟な話になっているんですか?」

 そんな事を言ったら、帰宅途中に痴漢にあうとか、そういう事も会社の責任になるのではないか?

『業務中に敷地内で起きた事だ。会社としては当然の対応だと思うが』

「ですが、俺も被害届は出していますし、傷害罪で逮捕もできますよね?いや、そもそも加害者の身元は分かるんですか?」

 自分の身に起きた話なのに、何故か自分の預かり知らない所で話が大きくなっている。胃が苦しい。胸が焼けるみたいだ。

『君の被害届はあくまで傷害罪で、強姦されたのは損害として民事で争うことになるだろう。相手は深見宗司。それなりの規模の建設会社の社長だ。八代くん、深見の被害者は君と東条さんだけじゃ ないんだ。恐らく深見に襲われたΩの女性が、今のところ分かっているだけで6人居る。いいかい、あれは極めて悪質な男で、君が、君達が襲われたのは事故なんてものじゃ無い。君達は犯罪に遭ったんだ』

 ぞっとした。

 自分だけでは無い。あの、酷い苦痛を味わったのは、自分だけでは無い。

 怒りが湧き上がる。自分だけならまだしもと思うが、女性が暴行されている。当時の自分、今のヒカルと同じくらいの子も居たかも知れない。

「……わかりました、自分にできることは何でもやります」

 考えるより先に声が出た。

『よし!八代くん、腹をくくっておいてくれ!』

「はい」

 そうか、自分にもまだできることがあるらしい。どうせ役立たずのお荷物な自分である。使い道があるなら骨の髄まで使って欲しかった。

『それで、一通り終わったら、また販売部で一緒に頑張ろう』

 言葉の意味を理解して、また泣きそうになる。

「はい!必ず!」

 思いの外優しい言葉を貰って、少し声が震えてしまったのに、気が付かれてないといいな。

『いずれは記者会見も開く。君や被害者の方々はもちろん匿名を守って、会社が矢面で戦う。辛いだろうが、他の被害者への聞き取りの際は同席してもらう。君たち同士でしか出来ない話があるはずだ。

 あと八代くん、東条さんが面会をご希望だ。場所は私が用意するから、心の準備だけしっかりね』

「はい。自分も東条さんとはお話したかったので……あ、あの、店長。お話に色々進展があったのは、警察の捜査でわかったとかそういう事なんですか?」

 どうしても疑問が尽きない。犯人が特定出来たのはまだしも、他の被害者の方というのは何処から出てきた話なのだろう。

『それはね、志津に聞いてごらん』


 通常業務を終えて帰宅すると。玄関でカナタが文字通り仁王立ちしていた。だいぶ覇気が戻ってきたなと思う反面、怒りが部屋の空気を凍らせているのがほんの少しだけ怖い。

「……ただいま」

「なんで嘘ついた!?お前俺に変な嘘つかないって自分で言ったろ!」

「ごめん」

「ごめんも自分で禁止って言った!」

 わかったわかった、と宥めながらとりあえず革靴を脱ぐ。何でご機嫌を取るべきか。

「晩飯何食べたい?」

「かに玉とチャーハン作ってある!」

 先手を打たれたか。かに玉食べたい。嬉しい。

「嘘ついてごめん。昨日お前のお父さんに会ってきた」

 それまで勢いよく喋っていたのに、急に黙ってしまった。ジャケットを脱いで顔を覗き込むと、信じられないという風に、青白い顔でこちらを見ている。

「俺一人の判断で行ったんじゃなくて、上の指示で」

「……そんなの、俺に言えば良かったのに」

 ぐちゃぐちゃな精神状態のカナタに、ほぼ絶縁状態の実家に帰れとは言えないだろう。一度こちらで話して、大丈夫そうであればカナタと父親の面会の機会を作る予定にはなっていた。

 とは言え、黙っていたら傷つくのも分かっていたのだ。

「お前の気持ちの負担を軽くしようってのが先にあったんだけど、それでも嫌だよな。ほんとごめん。住所は手紙の封筒見た。それもごめん」

「……お父さん、どうだった?」

「お父さんはね、お前が襲われて傷付いてる。でもね、お前が一番大事だって、そればっかりだった。他の被害者の人達も、お父さんがSNSで見つけてた」

 SNSとはどう見ても無縁という雰囲気の人なのだが、彼いわく、ΩにはΩのコミュニティがある。Ω同士でしか共有できない情報源というのか、インターネット上には色々とあるらしい。そこの地域のコミュニティで話題を振った所、幾人か被害を名乗り出る人が居た。その人らを尋ねて回り、結果加害者へたどり着いた。

 多分αでは出来ないというか、Ωの彼だから、他の被害者とも踏み込んだ話ができたのだろう。

 「…………」

「勝手な事してごめんな。でも、今度こそ二人で会いに行こう。……カナタ」

「もう怒ってない?」

 目に涙をいっぱい溜めて、本当に叱られた後の子供みたいな顔をしている。最近のカナタは本当に良く泣く。本人は平気だと口で言うのに、心が完全に限界になってしまっているのだろう。

「きっと元々、カナタの事怒ってた訳じゃ無いんだよ」

 俯いて眉根をぎゅっと寄せた仕草は、やはり父親に似ていた。


 明日は連休の最終日である。ほんの5日だったのだが、日中家に居たせいか物凄く長く感じた。普段力仕事も多いので、身体が鈍っている気がする。

 今日は日曜日なので、アキラもお休みだ。久しぶりに二人でゆっくり寝坊して、9時過ぎに起きて、10時前にアキラがホットサンドを焼き始めた。俺はコーヒーメーカーをセットして、蒸気が立てるコポコポという音を聞いている。

 ホットサンドメーカーの中で、食パンに焦げ目がつく良い香りがした。

「今日どうする?」

 筋張った大きな手が、繊細な水色の皿を取り出している。問いかけられたが、当たり前のように予定が無い。

「何にも無いかも」

「家でゆっくりする?」

「うん」

 ずっと家でゆっくりしているのだが、一人では無いのが嬉しい。どこかに出かけても良いのだが、まだまだ頭の中がごちゃごちゃしているので、なるべく落ち着ける所に居たかった。

「色々動くのは来月入ってからみたいだから、今月はいつも通りで良いってさ」

 アキラは詳細を聞いていると思うのだが、自分にはまだ大まかなスケジュールくらいしか教えてくれない。まあ、ほんの何日かしたら来月だ。いずれ聞くことになるのであまり気にしない事にする。

「谷岡もマネージャーか、早かったね」

「まあ大卒の三年目だし、そんな早くも無いんじゃない?俺二年でマネージャーだったし」

 負けず嫌いが染み付いているのか、ここに居ない谷岡にまでマウントを取っている。まあ可愛いものだ。自分からしたら、猫がじゃれながら喧嘩をしているくらいの可愛さに見える。

「お前ほんと昔から可愛いね」

「いや今の話の流れで何でそうなんの?」

「ねえ後でえっちしよう」

「いやマジで!?何なの!?」

 ずっと無表情で話をしていたが、流石に取り乱した。多少耳が赤い気がする。

 フェロモン出てるなあ、と思った。俺の匂いはだいぶ甘いって言われるけど、αのフェロモンもかなり良い。フェロモンも相性で感じ方が変わるらしいが、アキラのはエキゾチックで、ちょっとエッジが効いたスパイシーな香りである。包まれると安心するし、離れると胸が寒い。そして当たり前だが、感じ取れば身体が疼く。

「良い匂い」

「……焼けたから食べな。コーヒー持ってくから。熱いから気を付けて」

 そっちじゃ無いんだけどな。

 ほんの少し緑がかった水色の綺麗な皿に、焼きたての狐色のホットサンド。

 サクッと一口食べると、食パンの耳の焼けたパリパリとした食感と、小麦の甘さ。二口目は、火傷しそうなソーセージの肉汁が染み出して、トマトの酸味と、チーズのまろやかさがついてくる。バジルの香りが鼻に抜けた。

「美味しい」

 食欲が大分戻ったな、と思った。中澤さんの電話で腹を括ったからかも知れない。

 ブラックのコーヒーが手元に置かれて、深煎りの香りが鼻腔をくすぐる。香りまで美味しい。

 アキラも向かい合って2人がけの小さな食卓に座り、コーヒーを一口飲んで、少し落ち着く。

「昔スタバでなんとかフラペチーノみたいなの二人で飲んだよね」

「黒歴史」

「いや俺は楽しかったよ、甘くて飲み切るの大変だったけど。高校生ってこういうとこで遊ぶんだなって」

 ザクッと食べる一口がやたら大きくて、8枚切りを2枚使ったホットサンドも、彼が食べると直ぐに無くなってしまう。無論、まだまだ焼いているのだが。

「俺高校ほとんど行かなかったから、高校生っぽい遊びほんと嬉しくて」

「俺は社会人のお兄さんをゲーセンとかサイゼとかカラ館とかに誘ってたの、大学入ってから死ぬ程後悔したけど」

「いやほんと楽しかったんだよ」

「毎回電車で来てたし、配慮が足らなかった」

 それに関してはまあ自分が悪いというか、抑制剤をしっかり飲んでおけば電車くらいどうという事は無いのだ。実際電車通勤しているΩだって沢山居るだろう。ただ、若い頃に一度変な男に手を引かれて、駅のホームのトイレに引っ張り込まれた事があった。幸い周囲の人が助けてくれて大事には至らなかったが、それ以来電車も苦手だ。情けない限りである。

「最寄りまで送ってくれたことあったよね。電車混んでてさ」

「……一緒に乗ったら顔真っ青で、ダメなら言ってくれれば良かったのに」

 拗ねてんなあ。可愛いなあ。撫で回したいなあ。ああ、完全にアキラのフェロモンに当てられている。

「めんどくさいと思われたらもう遊んでくれないと思ってた」

「ファミレス行きたくて誘ってんじゃ無いんだからさ」

 ぶっきらぼうに言っているが、ほんの少し、目に欲情の色が浮かんでいるのを見逃してやらない。

 アキラのフェロモンに当てられている自分からも、確実にフェロモンが出ているだろう。もっとこっちを見たらいい。

 早くどろどろになりたい。

 頭を空っぽにして、嫌な事はとりあえず蓋をして、ザラザラした怖い感覚が残る所を、全部アキラにさわって欲しい。


 やっかいなお兄さんである。

 今から抑制剤を飲んで何分くらいで効き始めるだろうか。ぬるま湯で流し込んだ錠剤が早く溶けることを祈る。

 カナタは何かベッドでもそもそしていると思ったら、今度はぐいぐいと手を引かれて、バフっとベッドに押し倒された。

「おいコラ……」

 叱ろうとした口を、かぷりと食われて塞がれる。

 ゆるりと舌先が唇を撫でて、そのまま無理に口腔に潜り込んできた。かなり強引なお誘いだ。ベッドはご丁寧に大判のバスタオルが敷かれている。汚すのが前提なのか。

 興奮しているのだろう、甘いフェロモンの匂いが脳までを犯そうとする。理性を投げ出したい気持ちもあるが、相手は怪我人なので本当に危ないのだ。

 ちゅ、と音を立てて何とか唇を退ける。

「だめだっつってんだろ」

 潤んだ瞳が恨めしげに見下ろして、それでも諦めずにTシャツの中をまさぐっている。

「ああもう、お前は怪我人!妊娠してる可能性もあるだろ」

「妊娠してても激しくじゃ無ければしていいって書いてあったし……多分俺妊娠してない」

 むくれてボソボソ言うのに、少し面食らった。

「……なんで分かんの?」

 白いコットンのシャツのボタンは全部外れていて、陽の光に照らされる腹は、消えかけたいくつかの痣と、下腹にすらりと一本の薄赤い線。可哀想だと思う反面、傷跡ってのは妙に倒錯的だ。なんて浅ましいと自分に呆れはてる。

「ヒカルの時は、最初から辛くて苦しくて、どんどん身体が変わってくのが手に取るみたいにわかった。あと多分匂いっていうか、フェロモンの質も変わったと思う。今俺匂いいつもと違う?」

 たかが一週間で身体が変わるのを認識できる、そんな事あるのか?と思うが、妊娠する臓器を持たない自分には到底理解できないし、否定できる材料も無い。

「……違わない。違わないけど、……わかった。でも俺はお前には紳士で居たいんだよ」

「紳士って」

 割と真剣に言っているのに、カナタはぺたりと俺の上に横になって、堪えきれないのかくすくす笑っている。腹通しがくっついて、振動が伝わるみたいである。

 セックスしたいなぁ、と思うが、生憎と激しくしない自信が無いのだ。カナタにお預けを食らわすという事は、自分もお預けを食うという事である。我慢しているのはお互い様だ。

 細い腰を腕で支えて、ゴロンと体制を入れ替えた。

「最後までするのは検査終わったら」

「えー……」

「その代わり、他は嫌ってくらいしてやる」

 今ヒートではなくて良かった。ヒートだったら骨がブチ折れる程がっつきかねないのだ。

 期待をする様な、もの欲しげな目が見上げている。

 俺はゴムの箱をベッドの下から引っ張り出して、白い肌を暴くのに専念した。



 ちょっとまずい。失敗したかもしれない。アキラの目が座っている。バッキバキなものが太ももの裏あたりを擦っていて、質量にゾクゾクするのに決して入れてはくれない。

 その代わり、求める所にはゴム越しの長い指が三本深く捩じ込まれて、弱い所をゴリゴリといたぶっている。下腹部が痙攣する。

「まって、まって……!」

 ゾワゾワと腰を駆け上がる快楽が、振り切れたと同時に身体が痙攣した。もう出尽くしてしまったものはひくひくと脈打つだけだが、腹の中からの絶頂は果てが無い。もう何回達したか分からない。

「はは、なんも出ない、オンナノコじゃん」

「もういい、もういいから、!」

「動くなっつってんだろ、寝てろよ」

 αの強すぎるフェロモンで息ができない。脳内がびしゃびしゃに犯されている。アキラもきっとそうだと思うのだが、ひたすら意地悪に、こちらを責め立てる事に専念している。

 目が欲に満ちて潤み、口元はサディスティックに歪んで。いや、俺が誘ったんでしたね。何を人のせいにしているんだか。

 だってこんなに丁寧にしてくれると思わなかったんだ。

 アキラがペロリと唇を舐めるのが見えて、ワガママを言ったお仕置だとばかりに、もはやろくに勃ちもしないものをかぷりと咥えられる。

「もうむり、もうむりだから、っ」

 しとどに濡れた熱い口腔で舌を這わされるも、芯が戻りそうに無い。キツく吸い上げられると感覚が麻痺してしまいそうで怖い。未だ中を抉る指が、過敏な所を弄ぶ。

「まって、ごめん、俺が、あの、……」

 かぽ、と音を立てて、解放されてヒヤリとする。

「ごめんは禁止、ちゃんと言えよ」

「さわらして」

 は、と聴こえた吐息の音。

 俺の頭の横に、アキラが大きな手を着いた。ギラギラした目が少し潤んで見えて綺麗だ。肌も汗ばんでしっとりしている。

 乱暴な口付けが落とされて、先程まで含んでいた自分の味にクラクラする。ものすごく悪い事をしている気がするが、極めて今更だ。

 アキラの長い舌が深く潜り込み、上顎の過敏な所を舐める。ゾクゾクとした感覚を脊髄で受け入れながら、手探りで彼の物に触れた。

 ひくっ、とアキラが反応する。薄く目を開けると、眉根を寄せて感覚を味わうのが間近に見えた。

 ゆるりと掴んだものは今にも弾けそうだ。彼の大きな体躯に見合うものは随分手に余る。少し膨れた根元のノットはα特有の器官なので、手探りで感触を確かめるのはいつまで経っても不思議な感じだ。

「ぁ……」

 微かな喘ぎが耳をくすぐる。熱っぽい目が潤んで、ギュッと手に力を込めると悩ましげに伏せられる。可愛い。可愛い。アキラは昔から本当に可愛くて、自分はいつでも彼の虜だ。意図して絶頂を誘い、根元に這わせた指先に力を込める。上気した顔をいつまでも見ていたいが、流石に自分もクタクタなので早くイって欲しい。

 幸い、長い付き合いで良い所は沢山知っている。

「は……っ、!」

 切羽詰まった喘ぎが可愛らしかった。痙攣する四肢とともに一際硬度を上げたものから、白濁がびゅるっと吹き出す。そして、

「あっ……?」

 生暖かいものが、顎から口元にかけてを濡らした。

 二人しばし見つめ合う。

 ふは、と恥ずかしそうに笑ったのはアキラが先だった。顔を隠すように抱きつかれて、やはり笑いが堪えられないのか吹き出す。

「ふっ……ふふっ……」

「は、あはは!ちょ、おま、中学生じゃ無いんだから」

 顔まで飛ばすとか、若すぎるだろう。お互いすっかり面白くなってしまって、色んな体液でベタベタのまま、抱き合ってゲラゲラ笑った。

 あの日から身体に残っていた怖くて嫌な感じはすっかり無くなって、あとは優しさだけが染み込んでいくみたいだった。

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