第3話 それは小さな地獄でした
高校1年生の、9月の終わりだったと思う。
学ランの裾が傘で覆い切れずに、重く濡れていた。
父からはいつも、何か変調があれば直ぐに連絡する様にと言われていた。
第二次成長を迎える身体は、見た目には少し背が伸びたくらいだった。もっとも元々チビで華奢だったので、若干背が伸びたところで急に大人びたりもしなかったが。
しかし体内の変化は目視できず、初めてのヒートはいつ来るか分からない。
少しでも風邪っぽいとか息が上がるとか、何か変調があれば直ぐに呼ぶ様に、いつも口を酸っぱくして言われていた。
とにかく、トイレでもなんでも鍵のかかる部屋に逃げる事。父が来るまでそこから1歩も出ない事。その時は誰も信用しない事。事故に遭わない様に。
Ωは1クラスに1人居るか居ないかだ。学校では公表されないし、自分含め大抵はβを装って過ごすので、Ωの級友は居たことが無い。でもきっと皆、そう言われていたと思う。
高校から家まで自転車で15分弱くらい、歩いても40分あれば帰れる距離だった。
電車通学が出来ないので、行ける学校も限られていた。満員電車なんか乗ったことが無かった。フェロモンで事故に巻き込まれない為、ときつく言われていたので、学校行事と父と出かける時以外は、遠いところにも行ったことが無かった。
家の近くのほんの小さな一帯が、自分の世界の全てだったと思う。
その日は朝から冷たい雨が降っていて、朝は父が車で学校まで送ってくれた。帰りも迎えに行くと言われたが、父はその日仕事の打ち合わせで、そうすると学校でかなり待つ事になる。
その日は塾も無くて、ゆっくり歩いて帰っても良いと思ったので、父の迎えを断った。母が数年前に亡くなっていた事もあり、いつも父に負担をかけている負い目もあったのだ。
分厚い雨雲に覆われている上、日も幾分短くなっていて、学校を出た頃には夕方にも関わらず外は真っ暗だった。
まばらな街頭を頼りに、とぼとぼと歩き出す。
傘に雨が当たるバタバタとした音。家に着いたら簡単に夕食を作る算段。今日の授業の事。
ぼーっと考えながら歩いていると、ふと下腹部に違和感を感じた。
ツキン、と痛む。
「はぁっ……ぁ、?」
気が付けば、歩いているだけなのに何故か苦しい。
血の気が引く。嫌な予感がした。
濡れるのも顧みず、肩掛けのカバンから必死に携帯電話を探す。教科書、ペンケース、慌てているせいか全然出てこない。
ようやく探し当てた携帯電話から履歴を辿り、父の番号を探した。逃げ込める場所はない。とにかく、帰らなければならない。
「っ……!」
下腹部が疼く。熱が上がる嫌な感覚がする。
必死に歩き出したが、足を踏み出す度、ニチャ、と尻の辺りで濡れた感触がして気持ち悪い。
「お父さん……出て、お願い……」
スピーカーから呼び出しのコールが虚しく響いていた。仕方なく切る。着信に気がついてくれたら、連絡をくれるはずだ。
帰らないと。
あと少し。息が上がる。視界が狭くなるような心地の中、必死に家路を急いだ。
もう少しだったのに。
バシャ、と背後で音がした。振り返ろうとした次の瞬間、肩を鷲掴みにされ、思い切り引き寄せられる。
「痛っ……!」
「匂うな」
はぁ、と熱い息が首にかかった。ぞろり、と首に蛭のように這うのはが舌だと気がついた時、一気に怖気が襲った。
気持ち悪い。
「ッ離せ!」
突き飛ばしそうとしたのに、まるで力が入らない。まして相手は大人の、発情した男だ。
紺色の傘がアスファルトに落ちる。
目が合ったのは全く知らない男だった。鋭利な輪郭で、目ばかりがギラギラとしている。
「ヒートか、ははは、……男のΩかよ、最高にツイてる」
「ひっ……」
物凄い威圧感に背筋が凍った。暴力的なグレア、息が出来ない。足がガタガタと震える。気が付けば涙が溢れて止まらなくなっていた。
暗闇に向かって腕を引かれる。
「ほら、とっとと来いよ」
「やめて」
父に持たされた携帯電話が、ポケットの中で震え出した。
「おとうさ、」
バツン、と頬を張られて、力任せに腕を引かれた。
歩いている道の横、コンテナを積んだレンタル倉庫の奥。
微かな抵抗も虚しく制服を剥がされ、土砂降りの雨に悲鳴は掻き消えて。
覚えているのはギラギラした男の目と、頭をアスファルトに打ち付けられた目眩と、嘲笑に歪む顔と、口を押さえつけられる息苦しさ、初めてをこじ開けられる裂けるような痛み、吐き気、鉄の味。
「それで、妊娠した」
「ごめん」
「バタバタしててちゃんと聞けなかったけど、Ωだしヒートだったから、事件にはできなかったみたいだ。結局良くある事故って事で」
「もういい」
温くなったコーヒーを飲んでみようかと思ったが、生憎と手が震えていて無理そうだ。腰掛けているベッドに零しても申し訳ないので、触らない事にする。
隣に掛けるアキラの顔を見ることか出来ない。
「酷い事言って、無理に言わせてごめん。もう」
「聞けよ!!」
感情のまま怒鳴りつけても、Ωの自分じゃ怖くもなんとも無いのだろう。実際、アキラは俺に両腕を回して、きつく抱きしめた。
「色々あったけど、……その時の子を産んだ。……自分の身体が、あんまり、……小さかったから、……ッ……」
情けない事に涙が出てきた。こんな事を人に話したのは初めてだ。
男子の成長期は遅い。女の子でも15歳という若さの妊娠は危険と言うが、成長途中の男子のリスクは想像を遥かに超えた。何もかもが足らない身体で、それでも胎内にしがみつく小さな命を諦められなかった。
しゃくり上げる程泣いたのなんていつぶりだろうか。30も過ぎた大人の男が人前で泣くなんて、みっともない事この上ない。
背中を撫ぜる手が、温かくて優しい。
「からだが、まだ……っできあがって無くて、」
本当は人を好きになる資格も無いのかも知れない。自分は子供を捨てた人間だ。
「お腹を切って、それで、……ッ……育てられなくて、里親さんに……本当は一緒に居たかった……」
「苦しかっただろ……」
「……何もしてあげられない、」
腕の中の温かい命が人手に渡った時の、どうしようもない虚無感。寂しさ。寒さ。
そのままベッド引き込まれて、トントンと、あやす様に背中を叩かれる。ほんの少しだけ落ち着いた呼吸を頼りに、何とか話し続けた。言わなくては、最後まで。
「ちゃんと聞いて……その時の子が、東条光さん」
アキラの手が止まるが、ほんの一瞬だった。また規則正しく、ゆっくりと。
「もう寝な?疲れただろう。後は明日ゆっくり話そう」
本当に疲れていたのか、全部言い切ってほっとしたのか、急激に眠気が襲ってくる。
「俺はお前から離れないから」
視界が真っ暗に落ちてゆくのに、何故か柔らかく照らす陽の光に守られている気がした。
泣き疲れた恋人が眠ったのを確認して、アキラはゆっくりと上体を起こした。カナタが落ち着いて眠れるよう平静を装ってはいたが、内心腸が煮えくり返る思いだった。
発情期のΩのフェロモンは、αと、相性に寄ってはβの性欲をも著しく刺激する。特にαについては、その衝動は理性で抗えるものではない。やむを得ないとして、ヒートのΩに対して、例え道端で強姦しても、殆どの場合αとβは罪に問われず「事故」として処理される。
所詮、法律を作っているのもαという事だ。自分達に都合の良いルール、αの動かす世界、αの優秀なDNA。
もし優秀なのがΩだったら、こんな理不尽な法律にはなっていないだろう。
劣性と位置付けられるΩの苦悩を、共に歩く自分はどこまで理解出来ているだろうか。
カナタの濡れた頬を拭う。真っ赤な目元が腫れ無いように、冷やしてやった方が良さそうだ。
冷静になれ。自分に言い聞かせる。
16年前の事故だ、できるならば相手を殺してやりたいくらいだが、今できるのは、カナタの傷に寄り添うことくらい。しかし、寄り添った所で癒えるようなものでは無い。
交際する前からずっとこびりついていた陰の正体は、あまりに悲惨で理不尽なものだった。とはいえ、正直、自分とそういう関係になった時、あまりの怯え様にかつて乱暴されたであろう事は勘づいていたし、帝王切開の痕もずっと前から気がついていた。子供が生きているか死んでいるか分からない状態だったので流石に聞けなかったが。
でも、どんな心の傷があっても、それ以上の思い出を共有出来れば、いずれ多少なりとも癒せるはずだと漠然と思っていた。
だが、こんなにも陰惨なものだとは思わなかった。到底自分一人にどうにかできるようなものでは無い。
「東条光……」
あの生意気なアルバイトの顔を思い出す。ボブに揃えた、濡れ羽色の艶のある黒髪、アーモンド型の猫のような瞳。小作りな鼻先、淡くグロスを引いた、薄い唇。
まさか娘とは思わなかったが、似ているとは思っていたのだ。
玄関が開く音がする。入口を入ってすぐの客間に、人が入る気配がした。
大人達が何か喋っているのは分かるが、客間とリビングの扉を2枚隔てて居るので、内容までは分からない。
ほんの数分が物凄く長く感じて、私は珍しく、逃げ出したい気持ちになった。
ガチャ、とリビングの扉が開いて、母が入ってきた。手土産らしい菓子折の袋を、キッチンにそっと置く。
「ヒカル、入りなさい」
頷いて客間に向かう母の背中を追った。
さらりと襖が開く。床の間の前には父。それと向き合うように、グレーの三揃えのスーツを着た男性が座っていた。
真っ黒な髪を清潔に整えた、
「…八代さん?」
見知った人が目の前にいて困惑する。
カナタさんは座布団から降り、正座をして、畳に手を着いた。
「本当に、申し訳ございませんでした……」
「え、ちょ、八代さん、やめてください、あの」
人が土下座をするのを初めて見た。あまりのいたたまれなさに、肩に手を置いてなんとか顔を上げて貰おうとする。
その肩は触れただけで分かるほどに震えていた。
「八代さん、どうか、顔を上げてください」
父の静かな声が和室に響く。
顔には年齢なりの皺が刻まれているが、表情は平坦なものだ。怒りも喜びも浮かぶ事は無く、静かに言うのが空恐ろしい。
助けを求めるように伺い見た母は、困った様に眉根を寄せて、薄く微笑んでいた。
ようやく顔を上げた彼は、バイト先で見る優しげな姿とはかけ離れた、憔悴し切った顔をしている。
「ヒカル、この方が、生みのお母さんだ」
「あの……」
話が入ってこない。状況が飲み込めない。だって私は、この人が好きだ。
「ここに座りなさい」
なんだか足取りが覚束無いまま、襖の近くの座布団に座る。尻餅を着いたみたいになってしまったが、誰も何も言わなかった。
「八代さん」
低い声に促されて、カナタさんは緊張した吐息を少し漏らす。私は私で、今更心臓がバクバクしていた。まるでジェットコースターに乗っているみたいに、今までの思い出が脇をすり抜けて行く。
「私は、」
私なんて一人称じゃないでしょ?もしかして偽物なんじゃない?
「15の時に貴方を妊娠して、出産に至りました。その時に実家を出ています。……私は、」
目の前の光景に現実味が無い。
「世間知らずで、……一人で父にも母にもなれると思っていました。実際は、そんなに甘い事ではなくて」
母が手を繋いでくれた。幼い頃から馴染んだ冷たい感触が、意識を繋ぎ止める。
「結局出産後も貴方とは暮らす事ができず、病院のカウンセラーから養子縁組を勧められました。……その後は働きながら、一人で暮らしていました。ご両親とは連絡が取れたので、……すみません、近況を伺うなどご配慮をいただきました……」
沈黙。
父も母も、カナタさんも、誰も喋らなくなってしまった。
『避妊とかアフピルとか、色々あるんじゃないの』
そんな事言える訳が無い。避妊できない状況があり、アフターピルを飲まない選択をし、恐らく周囲から猛烈に非難され、実家すら居られなくなり私を産んだのだ。
「……職場に私が来たのは、あの、来た時は、すぐ気がついたんですか?」
少し沈黙して、カナタさんは小さく頷いた。私に特別優しく接してくれるような気がしていて、割と直ぐに好きになってしまった。
バカみたいだ。
「……すみません、私部屋に戻ります。ごめんなさい」
カナタさんの顔は俯いて、表情は伺えない。
誰にも止められることなく、襖をぱたりと閉める。
涙が出るかと思えばそうでも無い。ひたすら気持ちは空っぽだ。
「……バイト辞めようかな」
カナタさんのヒートの時、私には何も分からなかった。当たり前だ。野良犬だって親子で番ったりしない。
なんだか頭はぐちゃぐちゃなのだが、それでも翌日はちゃんとバイトに来てしまった。
両親には休めば良いと言われたし、特別忙しい時期でもない。
当たり前だが、職場にはカナタさんが居る。
タイムカードを押しに事務所に入ると、あっさり鉢合わせした。カナタさんは目の下に隈を作っていたが、努めて優しく、いっそ義務的に優しく言った。
「こんにちは。昨日は驚かせてごめんね」
「……いえ、大丈夫です」
大丈夫なんかでは無いし、一体何が大丈夫なのかも分からない。
そう、と小さく言って、カナタさんは再びパソコンに向き合った。何か話さなきゃいけない。でも声が出ない。仕方なくタイムカードを押して、事務所を後にする。
足取りが重い。鉛みたいな身体でバックルームをとぼとぼ歩いていると、なんだか酷く不自然に、志津暁が適当な机で仕事をしていた。電源なんて沢山あるし、事務所でカナタさんと一緒にやればいいのに。
「志津さん」
「挨拶しろ」
「お疲れ様です志津さん。何か知ってるんですか?」
カナタさんはあんな感じだし、私も出勤しているし。嫌な奴ではあるが、彼氏なんだから心配くらいするだろう。
「お疲れさん。質問を明確にしろ」
「ほんと冷たい。ほんと嫌な人」
じろりと睨まれる。ほらイライラしてる。八つ当たりなのでこのまま乗って欲しい。どうでも良い人に怒りをぶつけたかった。我ながら最低だ。最低過ぎる。
「ふーん」
何がふ〜ん、だクソ野郎。
「お前の休憩の時に付き合ってやるから後にしろよ。給料貰ってんだからちゃんと仕事しろ、やる気が無いならとっとと早退しろ」
「ああもう!わかりました!わかりましたよ!!」
クソ正論で返されて、私は自分の情けなさに腹を立てながら踵を返した。怒りは地面にぶつけるしかない。
わざと大きな足音を出してみたが、志津暁は振り返りもしなかった。
本社の人間はその日のスケジュールをかなり正確に管理されている。外回りをいい事に、好き放題余暇時間を作る不届きな輩を出さないためである。共有システムで調べれば、今誰が何をしているか、明日は何をするかと言うのも大体分かるのだ。
実際、アキラの今日の予定はこの店では無かった。そのはずなのだが、今システムを見るとちゃっかりうちになっている。大方昨晩辺りに無理に変更したんだろうが、もちろん他の人間も閲覧出来るものだし、稀にだがヒートの時に手を煩わせたりするので、自分とアキラの関係も割とオープンである。
「やめて欲しい……こういうの……」
本人に言えれば良いのだが、叱られるという自覚はあるのか、少し距離を置いている。
勿論普段から会社で馴れ馴れしい態度を取ったりはしていないのだが、あからさまに「心配で来ちゃった」という行動を取られるのはどうにも居た堪れない。
何より、ヒカルはどうして来たか察しているだろう。
自分の生みの母と名乗る人の恋人、正直気持ちが悪いと感じるかもしれない。発覚直後とは言え、身内の色恋沙汰なんて気分が悪いだろう。
彼女をこれ以上傷つけたく無い。優しい両親の元で健やかに、平穏に育つこと。それだけを望んできた。
ささやかな願いはまるで砂で描いた絵のように、風が吹けばあっという間に消えてしまうようだ。
そう、自分が彼女の前に現れてしまった為に。
「もう、探したじゃないですか!お隣失礼します!」
短い休憩時間の中、やっと見つけた志津暁は、屋外の喫煙所で煙草に火をつけていた。中途半端な時間なので他は誰も居ない。
相変わらずジトっとした目で、返事代わりなのか、煙を夜空に吐く。
「煙草臭くなっても知らんよ」
「あんたがこんな所に居るから私が煙草臭くなるんですよ!」
絶対こんな奴に負けないぞ。最早一体何に対して戦っているのか分からない。もう恋敵でも無いし、相手にもして貰えない。
カナタさんはずっと元気がない。
もうなんだかめちゃくちゃだ。頭がぐちゃぐちゃ。
「……あのさ、俺が泣かせてるみたいだからさ」
「うるさい!……っ、ちょっと、黙ってろよ……!くそが、!」
私だってこんな奴に不細工な泣き顔を見られたくなかった。
「俺は別にお前に何もしてないし、言いたい事があるなら直接カナタに言えば?」
平坦な口調だが、存分に呆れを含んでいる。言えるんだったらとっくに言ってる。
だって、何を言ったらいいのか、自分がどうしたいのか全然分からない。
「カナタさんは」
「うん」
「カナタさんは、私の事、好き?」
「まあ普通に考えて好きだと思うけど、俺が知ったことじゃ無いし。自分でカナタに聞いたら?」
こいつマジでぶん殴りたい。あとさり気なくカナタさんを呼び捨てにしてやがる。ムカつく。
しかし、とりあえず話を聞いてくれる様ではある。
ちょっと涙が落ち着いてきた。
「……私がカナタさんの子だって知ってた?」
円柱型のステンレスの灰皿に、煙草が押し付けられて消える。
「最近聞いた。それ食えば?休憩時間終わるぞ」
言われて、もそもそとコンビニの袋を開いた。ペットボトルのミルクティーとサンドイッチ。ペリペリとサンドイッチの外装を破く。
「一個食べる?」
「食べる」
即答だなこいつ。2つ入りのBLTを1つあげると、それこそほぼほぼ二口くらいで、一瞬で食べてしまった。お腹すいてたのかな。ちょっと面白い。
「めっちゃ食べるじゃん」
「高校生くらい食べるよ俺」
「ほんとうけるんですけど」
いつもスーツを着ている割と良い男が、高校生くらい食べるらしい。変だ。
サンドイッチを一口食べると、トマトの酸味が目に染みた。
「高校の頃から食べる量変わらん」
「カナタさんも笑うでしょそんなに食べてたら」
「笑うって言うか、今日もよく食べるねって」
「そんなん……」
お母さんじゃん、そう言おうとして、止めた。
「こうやって普通に喋れば?」
言われて仰ぎ見た志津暁は、相変わらずジトっとした目をしているが、別段意地悪を言おうとしている感じでは無い。
「カナタさんとも?無茶振りじゃん」
「まあそうだけど」
「はは、……」
思わず笑ってしまった。正直過ぎるけど嫌ではなかった。
「仕事終わるまで待ってたらヒかれるかな」
「10時回るし、危ないから早く帰れよ」
「だって私αだから」
再び煙草に火をつけて、深く吸い込み煙を吐く。白煙が夜空に消えるのを見ながら、サンドイッチをミルクティーで流し込んだ。
息を吐き切った彼はふと、遠い目というか、何か含みのある目をする。
「お前さ、自分がαだから危なくないと思ってない?」
「なに?」
首を傾げる。αだから危なくない、という事は無いだろうが、少なくとも今まで危険な目にあったことは無いと思う。フェロモンが原因の事故が起きてしまうΩよりは余程安全だろう。
「変なやつはフェロモンだけで襲うんじゃない、自分より弱いやつを襲うんだ。ちゃんと自衛しな。今日は仕事終わったらとっとと帰れ」
「えー……わかった」
渋々そう言うと、2本目の煙草が灰皿に押し込まれる。
「じゃ、俺は仕事に戻るから」
「志津さん、ありがとうね?」
「別に」
「ちょっと家で整理してくる」
志津暁は振り返りもせず、重い扉の向こうに消えていった。第一印象は最悪だったが、喋るとそんなに悪い人では無いらしい。
たぶん、だからカナタさんと付き合えるのだ。
ちょっと敗北感があるが、頭がすっきりしたので、ちゃんと感謝する事にした。
10時で店が閉店して、更衣室で通勤着に着替えていると、ノックもせずにガチャっとドアが開いた。
「今日俺ん家くる?」
アキラは当然の様に問いかけた。
白々しいと思う。
本社の人間の定時は大抵6時、もちろん繁忙期とか、出勤時間がズレれば前後するが、通常業務でこの時間まで店に居るなんてことは無い筈だ。
「行かない」
目線を合わせて屈む仕草が可愛い。しかし今日は流石に家に行く気にはならなかった。
「お前も明日休みだろ」
「色々考え事したいんだよ……」
というか、昨日は東条家でヒカルに謝罪をして、今日は二人とも出勤である。挨拶くらいしか出来なかったが、それでも精神的に疲れてしまった。もちろんヒカルもそうだと思う。
「お前考え過ぎるとどんどん落ちるだろ」
人が居ないのをいい事に、背後から首筋に顔が埋められた。項に頬が当たる感触に背筋が粟立つ。思わず目を閉じると、ふと、嗅ぎなれない香りが鼻先を掠めた。
「……お前今日煙草吸った?」
「たまにはね」
「……程々にしろよ」
「家では吸わないから平気だよ。あ、さっき東条光がサンドイッチくれたよ」
振り返ると、アキラは無表情ながら、自分にしか分からないくらいの優しい目をしている。
「今でも高校の時くらい食べるって言ったら笑われた」
「……そう」
言葉の外で、きっと大丈夫だと言われているのだ。
気を使わせて悪いと思う反面、彼の意外な程器用な優しさに、ずっと支えられてきた自分も居る。
「家来るだろ?」
「……行くけど、今日は直ぐ寝るよ?」
あからさまにガッカリするのが可愛くて、少しだけ心が軽くなった。
趣味は、と聞かれたら専ら散歩が好きだと答えている。
近所でも、住まいから少し離れた所でも。外を歩くのは楽しい。仕事の合間や、終業後、人気のあるところでも、無い所でもいい。
すれ違う家族や、学生の集団、一人きりで歩く少女、男、女。
β、α、Ω。
秋の風が、頬を撫でるのに神経を集中する。鼻は大変効く方だが、それでもお目当てのものは中々見つからないものだ。でもそれでいい。
狩りは難しければ難しい程心が踊る。達成した時の感慨も素晴らしい。
趣味はと聞かれたら散歩と答える事にしているが、実際はもっと楽しい事をしているのだ。
家に帰れば、大変無能だがそれなりに可愛い妻と、やはりそれなりだが可愛い子供が待っている。
それだけで満足できたら良かったのだが。
βをいくらままごとみたいに抱いた所で、泣き叫ぶΩを捩じ伏せる欲動と、圧倒的な興奮には到底敵わない。
すん、と鼻を鳴らした。
仕事の合間に立ち寄った、少し遠く離れた街のスーパーマーケット。発情の香りでは無いが、微かにあの、阿片じみた甘ったるい香りを嗅いだ気がする。
どこだ?
務めて冷静に。挙動が不審にならないように。
近い、しかし弱い。店内はそれなりに人の入りもある。
Ωと一言で言っても千差万別だ、出来れば見目麗しいほうが良いし、ついでに言えばそれなりに若い方がいい。さて、当たりだといいのだが。
近い。
ふと見ると、若い男の店員が、ケチャップか何かを棚に詰めている所だった。背中しか見えない。じっと目を凝らしてみる。まさかな、と思う反面、かつて一人だけ、そういう事もあったなと思い直す。
足音を殺し、その男の背後から棚に手を伸ばす。何でもいいと手に取ったバルサミコ酢は、妻への土産にはいささか奇妙だろう。ローフトビーフでもついでに買って帰ればまだマシか。
「あ、すみません、いらっしゃいませ」
微かだが、あのいやらしく甘い香りがした。
男のΩ、極めて稀である。ぞくりと神経が高ぶる。
振り返る顔はマスクで殆ど見えなかったが、確かにそのくっきりとした目と、艶のある黒い髪に見覚えがあった。
顔をまともに見られる前に、くるりと踵を返す。
喉が鳴る。胸が高鳴る。口に笑みを浮かべないよう務めて居ないと、大きな声で笑ってしまいそうだ。
見つけた!見つけた!あの雨の日のガキだ!
スケジュールを調整しなくては。当日までにあれの行動パターンも把握しておかなければならない。
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