第2話 子供である私、子供であった私

「谷岡ぁ!たかがフラッシュレポート出すのに何分かかってんだ!」

「すみません!」

 翌日はカナタさんの彼氏こと志律暁SV(シニアバイザー)が、応援で店に入っていた。事ある事に谷岡さんを呼びつけては怒鳴るが、谷岡さんはおろおろしつつも何とかついて行って仕事をこなしている。無論、カナタさんはお休みだ。

 本当に乱暴な人だな、カナタさんはちゃんと看病して貰えたのかな?

 窮屈そうに椅子に腰掛ける広い背中。少なくとも170センチはあるであろうカナタさんを軽々背負える、強靭なαの男だ。正直嫉妬で胃がムカムカした。

 こんな人に負けないぞ、という気持ちで、私は猫背でパソコンを覗き込む背中に、意を決して声をかけた。

「お疲れ様です!八代さん大丈夫そうですか?帰りがけに見かけたんですけど、具合悪そうでしたね。お家まで送ってあげたんですか?ていうかちゃんと薬とか飲ませてくれました?」

 はあ?と言う感じで振り向いた男の目はなんというか、この上無く死んでいる。イライラした目で面倒くさそうに対応するのも気分が悪い。いつでもにこにこしているカナタさんとは正反対だ。

「薬?ああ……抑制剤はいつも飲んでるんじゃない?」

 なんだそれ他人事かよ、彼氏だろ?

「彼氏さんなのにちょっと冷たくありません?結構乱暴に運んでたし。良くないですよ、ああいう感じ」

「あー……まあそれは後で本人に謝っとくけどさ、君妙に突っかかってくるね。俺君に何かした?」

 カナタさんにキスしてましたよね?とは言えない。はいそうですよと言われてもこちらには全くメリットが無いし、多分あれは私がじろじろ見てたから、牽制でやっていたのだ。独占欲が強くて威圧的。言いたくは無いが‪、所謂α‬らしい‪α‬と言うやつである。

 イライラしているのが伝わっただろうか。

「……私だったらもっと優しくするのに」

 宣戦布告だ。

 志津暁もキリキリと目を細める。

「さっきから思ってるけど君‪α‬だろ?会話が完全にマウンティングなんだよ」

「‪α‬で悪いですか?……八代さんΩだし」

「……ていうかさ、‪α‬であの状態の八代さん見て何ともなかったの?俺頭痛するほど強い抑制剤飲んでやっと運転してんのに」

「は?」

 Ω自体が滅多に居ないし、ましてヒートなんて見た事がない。抑制剤も飲んでいない。

 ほんの少し、ふわっと甘い残り香を嗅いだような気もするが、屋外だったしそんなものでは無いだろうか。

 そういえば、廊下が人払いされてカナタさんが運ばれたあと、排煙窓まで開けて念入りに換気がされていた。それでも体調が悪い者は帰っていい、なんて店長が放送してたかも知れない。正直そんなに気にする程かと思っていたのだが。

「……‪α‬じゃないんじゃない?」

 じとりと疑わしげに私を見る薄い色の目に、一瞬怯む。

「ちゃんと検査してますし、ちょっと鼻の調子が悪かったんでそれでじゃないですか?」

「フェロモンだし、あれだけ匂いしてたらそんなもんでどうにかならないと思うけど」

「だって、でも、‪α‬だし……」

「DNA型が割と近いとかじゃない?番になるならなるべく遠いΩにより強く反応すると思うけど。君たち顔も似てるし、目元とか」

「に、似てません!」

 もっとイライラした。これじゃ私がカナタさんに相応しくないと言われているみたいだ。

「まあ……俺が勝手にそう思ってるだけだし……俺は結構離れてても分かるくらいだけど」

 マウンティングされた!このクソ‪α‬!

「そうですか!んじゃこれで失礼します!」

 見下した態度でにやっと笑う口元に、平手打ちをお見舞したくなる衝動に駆られつつ、私はイライラしながら仕事に戻った。

「ほんと嫌な奴!あんなののどこが良くて付き合ってんの」

 頭がぐるぐるする。

 例えあの意地悪な男と破局しても、私とカナタさんは恋人にはなれないんだろうか。


 翌日、カナタさんはけろっとした顔で出勤していた。来た時こそ周りの人にペコペコしていたみたいだが、後は至って普通だ。ちょっと安心して、声をかけてみる。

「お疲れ様です。具合どうですか?大変でしたね」

「ああ、こんにちは。ごめんね迷惑かけて」

 申し訳なさそうに眉根を寄せるのが可愛い。基本仕事中はマスクをしている人だが、目元だけでも十分に魅力的である。

「彼氏さん、一昨日来てたんですけど、結構……なんていうか……昔荒れてた?みたいな雰囲気の人ですね」

 きょとんして、カナタさんは困った様に笑った。

「いやそんなことないよ。彼は昔から優しくていい子だよ」

「年下なんですか?」

「今26とかじゃないかな」

「えっ八代さんいくつなんですか?」

「31だよ」

 びっくりである。それこそ20代前半かと思っていた。

「アラサーに見えない!」

「アラサーのおじさんだよ」

 身長は170センチちょっとだと思うが、身体が スラッとしているし、細くきちんとついた筋肉が健康的な人である。何より顔が若いというか、猫のようなはっきりした目で、少し幼さの残る綺麗な顔という雰囲気の人なのだ。Ωだとそういう繊細な雰囲気の人が多いんだろうか。きっと小さい時は凄く可愛かったんだろうな。

「ふふ、ねえ、私‪α‬じゃないですか、この間のアレの時全然わかんなくて、んん?ってなったんです」

「こら、会社でデリケートな話はやめなさい」

 切り出したところで、通りすがりの店長に注意されてしまった。優しい感じの壮年のおじさんだが、怒ると凄く怖いんだと社員さんが言っていた。

 カナタさんは相変わらずにこにこしている。

 自分には特別優しく笑いかけてくれる様な気がする。もちろんそんな事ないと分かっては居るのだが。

 仕方なく話題を変えた。

「うーんすいません、あ!あの、ここって高卒でも正社員で就職できるんですよね?」

「できるけど……学校行かないの?」

 そう言うと、カナタさんは珍しく怪訝な顔で私を見た。

「早く独立したいんです」

「……ご家族はなんて言ってるの?」

 普通に応援してくれると思っていたので、少し面食らう。叱られている訳では無いのだが、ちょっと居心地が悪い。

「あんまりちゃんと話してなくて……でもある程度目標が決まってから話しても良いかなって」

「ここは色んな人が来るし、高卒の新卒採用もあるし、地方から就職に来る子も沢山いるよ。俺なんか高校中退だし」

「えっ?」

 びっくりした。カナタさんは欲目抜きで真面目そうな人だ。優等生っぽいと言うか、とても中退するタイプには見えない。なにか事情があったのだろうか。

「あっ、ごめんなさい、意外ですね。勉強とか出来そうなのに」

「いや……ちょっと合わなくて。でも、俺はできれば進学も視野に入れておいた方がいいと思うよ。ご両親とも早めに相談した方がいいよ。自分が辞めちゃったから余計にそう思うのかも知れないけど」


 学校、行きたかったな。

 行かないと自分で決めたのに、心のどこかに未練がこびりついている。後悔している訳では無いが、漠然とした憧れは未だ心を焦がした。

 父は元気だろうか。たまに手紙のやり取りをするくらいで、もう16年、会っていない。

「こんな事を俺から言うのも本当に失礼な話なんですが、学費の援助が必要ならこちらで工面致しますので、進学の希望があれば聞いていただけないでしょうか……」

『いいえ、あの子がそんな事を言っていたなんて知らなくて。母親失格ですわ』

「そんな事はありません!あんな立派なお嬢さんに育てていただいて、自分にできることがあればなんでもしたいんです」

『あなたが送ってくださったお金はちゃんとあの子の名前で銀行にありますから、心配しないでください。学校もそれで行かせられますし、私達もちゃんと人並みに蓄えていますから、大丈夫ですよ。あとはあの子の希望次第だと思います』

「……ありがとうございます。……すみません、急に失礼な電話をかけてしまって」

『良いんですよ、八代さん。あんなに可愛い娘を私達にくださって、貴方には本当に、心から感謝しているんです。あの子は私達の夢です。でも本当に、お金の件は心配しないでくださいね』

 では失礼します。そう言って通話を終わらせた。職場にあの子がアルバイトで入って来て、慌てて連絡を入れてから、数度目の電話だった。

 自分のような歪んだ性根の人間が育てたら、あの子はもっと違うあの子だったかも知れない。

 最も、どんな子に育っても世界で一番大切な子には変わりないが、それでも素直で無邪気で、はきはきとした可愛らしい女の子に育ててくれたのは本当にありがたかった。

 きっと今まで汚いものを目にせず、汚されずに育って来れたのだろう。

 自分自身は同じ歳の頃、一体どんな子供だっただろうか。

 病院の窓から身を乗り出して、見た夜景の美しさ。

 MP3に繋いだイヤホンの、泣き叫ぶみたいな歌声。小さな国の耳慣れない言葉の和訳は、歌詞カードなんて無くてもとっくに覚えてしまった。

“そうだ、私は、私は堕ちてしまったんだ、パパの怒号が追いかけて来る、もう逃げられない、それでも必要だ、大切なんだ”

 歌詞を覚えるくらいずっと聴いていた。

 この子と離れてしまう前に、二人で消えてしまえたら。

 そんな事をずっと思いながら、膨らみ始めた腹を撫でて、一緒にがんばろうねと語りかけていた。

 しかしながら、大人たちはあの修羅場の落とし所をちゃんと知っていたのだ。

 子供の自分にはそれが分からなかった。

 将来を懸念して声を荒らげてくれた父には、未だ合わせる顔が無い。

 彼女を身篭った時、丁度今の彼女と同じくらいの頃だっだ。


 それは恋の歌だった。

 Bluetoothのイヤホンから流れる、女の子の美しい歌声。極めて情熱的で物悲しい。PVは和訳がついていて、歌詞を辿ると、恋をした相手は同性だとわかる。

 なんというか。

「……時代を感じるなあ……」

 今でこそ同性愛も割と一般的というか、タブー視されない様になって来たが、ふた昔くらい前はこの国でも珍しいものだったらしい。それこそ時代を遡れば、‪Ωが狐憑きと恐れられた時代もあったのだ。

 ……修学旅行で見た狐塚を思い出してぞっとする。少なくとも、カナタさんは虐げられること無く普通の生活をしている。

 それでも日本は、Ωの保護や同性愛者の人権について、かなり早く整備が進んだ方だと言う。宗教感によっては未だ差別が根強い国もあるらしい。

 きっとこの歌ができた国も、彼女を受け入れてくれなかったんだろう。だからこんなに悲しくて、辛くて、怒りと葛藤に震え、だけど相手への愛しさに満ちているんだろう。

 Bluetoothのイヤホンから稲妻みたいに、英語が耳を貫いてゆく。

 カナタさん、あなたこの歌を聴きながら、誰の事を想っていたんてんすか?


 湿ったシーツに横たわり、情事の名残をおざなりに拭う。

 自分が口元を拭った横で、恋人が避妊具をティッシュに包んでゴミ箱に投げ込んだ。

 優しさの象徴でもあり、また、現在恋人と自分の溝にもなっているものである。

 未だぼやけた頭で、ベッドの縁に腰掛けたアキラの背中を視姦する。スーツを着ていると大分着痩せするタイプだ。端正な顔の下は、使い込まれたしなやかな筋肉が張り巡らされている。出会った頃よりずっと逞しくなった、年下の恋人。

 今でも可愛いと思っているし、好きか嫌いかで言えば非常に好きである。

 しかし、もうダメかもしれないという暗い感覚が、胸の奥に燻っていた。

「やっぱり子供欲しい」

 ほら、また。

 Ωも‪α‬も、元来繁殖に特化した第二次性だ。Ωは発情期を持ち、‪α‬を強烈に誘う。またその時期は妊娠もしやすい。‪α‬は、他の‪α‬を水面下で捩じ伏せながら、自分だけのΩを探し、番にする事で独占する。そして、自身の遺伝子をΩを通して残すのだ。

 今となっては‪α‬とβや、Ωとβなどが婚姻関係を結ぶのだってごく普通の事だが、一昔前は‪α‬がΩを囲い込むようにして暮らすのが当たり前だった。逆に言えば、Ωはヒートの時に外出できない特性上、社会的地位を上げるのが困難なので、‪α‬に頼る事でしか生きられなかったのかも知れない。

 そして、アキラは根っからの‪α‬だ。実子への憧れも人一倍強かった。

「今は考えられない」

「いつまで待たせるつもり?俺の子を産んでくれるつもりならそんなに長く待てない」

 31歳という年齢、まだ遅くは無い。しかし何年も待っては居られない。

 お互いの事情を探らない約束でこれまで付き合ってこれたが、如何せん年数が経ちすぎた。もうはぐらかせない所まで来てしまった。

「ごめん、……子供は、作る気が無い」

「どうして!?」

 どん、とベッドに押し倒される。間近で見る顔は、職場で見るぶっきらぼうで無表情なものとは違う、必死に想いを訴え、欲しいと強請る子供のような顔だ。

 愛おしい。

 しかし自分にも、それを諾々と受け入れる気は無かった。

「‪俺は‪αだ、好きなΩが居たら抱きたいし、大切にして、できれば俺の家族を作って欲しい。お前にはお前の考えがあるのは分かるよ、ならなんで何も相談してくれないんだよ!」

 声を張り上げられて、心臓がビリビリする。

 付き合って数年、彼は本当に辛抱強く待っていてくれたのだが、いい加減待たせすぎてしまった。アキラは何も悪くないのだ。

 ああ、もう言うしかないのか。

「俺は……」

 無意識に下腹に手をやると、ほとんど分からないが、薄く紅く、手術で腹を横に割いた跡があった。アキラだって傷跡の事は知っているが、今までは決して深く触れては来なかった。根本的に優しい子なのだ。

「昔一人産んで、自分で幸せに出来なかった。だからもう子供は作らない。お前がどうしても子供に拘るなら別れて」

 子供が居る。

 彼はやはり何か勘づいて居たんだろう。眉根を寄せて苦しげに顔を顰めたが、そこまで驚いた風ではなかった。

「嫌だ」

 傷跡に触れていた指先に、筋張った大きな手が重なる。

 気迫を孕んだ重い声に、神経が怯えてしまう。

「お前は俺のものだ、絶対手放さない。他の誰にも渡さない。絶対に俺の番にする」

 なんとも健気で可愛い青年である。弄んでいる訳では無いが、自分より若くて良い相手が他にいるのではと思うと申し訳ないと思っていた。

「……無理やり番にしたら良いだろ、お前が本気で威圧したら俺なんか1歩も動けないんだから」

 意地が悪いとは思ったが、実際はその通りだ。‪α‬とΩは奪うものと奪われるもの。‪α‬は生まれながらにして狩人だ。Ωのフェロモンが‪α‬の神経を狂わせるのと同じように、‪α‬には相手をフェロモンで屈服させる術がある。俗に威圧とか、グレアとか呼ばれているものだ。

 あれは、逃げられない。全身の神経が、細胞が、恐怖で萎縮する。身体は震え、恐怖が脳を汚染し、Ωはただ食われるのを待つだけの肉塊となる。

 腹の奥に冷たいものが落ちるような気がした。

 思い出しただけで背筋が凍る。

 強ばった背中を、温かい腕が抱きしめた。

「あんな事、お前にはしない。……殴るのと変わらないだろ」

 心臓の辺りに頬を擦り寄せ、温もりを享受した。彼は優しい。自分を捩じ伏せたりしない事は、長い時間傍に居る自分が一番よく分かっている。

「……無理言ってごめん。……でもせめて、番になることはちゃんと考えて」

 こんな自分には勿体無いとは分かっているが、それでも彼を手放す事は出来ないのだ。埋まらない傷を腐らせている醜い自分の横に、彼だけがずっと変わらず、ひたりと寄り添っていた。



「病院であなたのお母様と話し合って、まだ赤ちゃんだったあなたを養子にいただいたの。お母様はその時まだあなたと同じくらいの歳で、望まない妊娠だったそうよ。本当はあなたと一緒に暮らしたかったけど、子供1人抱えて生活は出来なかった」

 お母さんは静かに、淡々と語った。両親が養父母で、自身は里子である事は幼少時から知っていたが、深く愛情を注がれ何不自由無く育ててもらっていたので、負い目に感じた事はほとんど無いと思う。

 ただ、実の両親の事は考えないようにしていた。自身の命を否定される事が恐ろしかった。

「望まないって……望まないのに妊娠するの?避妊とかアフピルとか色々あるんじゃないの?」

「……そうね。そういう事情までは聞かなかったわ。先方に失礼だからね。でもね、あの人は誰から非難されても貴方を産む覚悟があった。……今あなたが妊娠したとして、私はたぶん、産んで良いとは言えない」

 今妊娠したら。将来の展望は全て崩れ去るだろうし、子供一人抱えて15歳で生きるのは並大抵の事では無い。

 クラクラする。

 私の母という人は、どんな気持ちで妊娠を知ったんだろうか。きっと後悔しただろうし、怖かっただろう。

 お腹の中の私を愛しただろうか。それとも憎んだだろうか。

「その人とは、今でも連絡してるの?」

「ええ。……貴方が産まれて何年かして、現金書留でお金が送られてきた。電話して断ったけどせめて何かしたいって仰って、お母様の気持ちを汲んで、あなたの名前で口座を作ってそれに入れる事にした。

 今でも年に一度、あなたの誕生日にまとまった金額で口座に振り込んでくださってる。ちゃんと感謝して、進学の学費に使わせていただきなさい。足りない分は私達で用意する」

 進学しなさいと、目の前のお母さんは言っているのだ。私を産んだ人はどう思っているんだろう。どういう思いでお金を用意してくれているのだろう。

「……あの、私のお母さんはお母さんだけだよ。お父さんもお父さんしかいないよ。二人とも世界で1番大事なんだよ」

「ええ」

 母の返事が少し震えていた。膝の上で結ばれた細い手が、白くなっている。

 その上にそっと手を重ねて、包む。優しい大好きな手だった。今でもずっと大好きだ。

 しかし。

「その人に会ってみたい」

 自分の出自を知るのは怖かったが、その人は私の事を忘れてはいないのだ。ぼやけた不安が少しずつ像を結ぶ時、なにか温かいものに出会えるかもしれない。

 そう信じたかった。生まれた時から愛されていたと信じたかった。


「そうですか……ええ、夕方でしたら私はいつでも。合わせます。……そうですね、では、失礼致します……」

 血の気が引いて頭が働かない。震える手でスマートフォンを机に置くと、電話が終わるのを見計らっていたのか、アキラが背中から抱き着いてきた。

 耳に口元を寄せる。

「誰から?」

「……ちょっと、昔の知り合い」

「ふーん、なんの電話?」

「……なんでもない」

 言った途端、空気が冷たくなる。

「……何でだよ、俺がお前に変な嘘ついた事あるか!?なんでお前はバレる嘘ばっかりつくんだよ!」

 怒号が耳に突き刺さり、思わず肩が竦んだ。

「最近おかしいよお前、隠し事ばっかりするし、気分の浮き沈みも激しいし、……ヒートの周期もズレたし、何より……」

 背後から首筋に顔を埋められ、背筋にぞわりとしたものが走る。項を鼻先が掠める感覚。ちろりと舐めて、味まで確かめられる。まるで捕食する獣だ。‪α‬の本質は獣そのものである。

「……匂いが変わった」

 迸る怒りを隠すように、回された腕に力が籠った。

「……俺に言えない事って何」

「……言えないよ、……俺の一番嫌な所を見せて、アキラに嫌われたくない」

「俺の事信用してないからだろ」

 怒りから、徐々に拗ねた空気に変わっていく。

 そろそろ潮時なのはずっと分かっている。

 自分のした事を見つめ直す機会だろうか。これ以上拗れたら、話そうが話すまいが破局しそうなものである。彼は離さないと言うかも知れないが、執着だけで繋がる恋人なんてお互い苦しいだけだろう。

 懺悔を聞いて欲しいという気持ちも、少なからずあった。

「……分かった。コーヒーでも入れて話そう」

 温もりが離れていく。

 心まで冷えきってしまう前に、ドリップが終わればいい。

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