ジゴクノカナタ

縦縞ヨリ

第1話 好きな人の、好きな人

 怖いものに脅かされず、なるべく美しいものだけを目にして、願わくば愛する人以外に触れられること無く、幸せな子になりますように。




 雨が降っていた。

 真っ暗な空から降り注ぐ冷たい雫。

 獣のような生ぬるい吐息が、擦り切れた頬に熱くかかっていた。乱暴に押さえつけられた口から微かにこぼれる悲鳴も、雨音にかき消される。

 涙で滲む視界。真っ赤に血走った目が見下ろしている。にたりと笑うケダモノが、誰にも暴かれたことの無い奥を、引き裂くように突き上げた。

「……痛いか、痛いだろ、……一生覚えていろ」

 苦しい。痛い。怖い。

 雨水を吸った黒い制服は、まるで枷のよう。

「……この、腹ん中でな」

ああ、もし、こんな身体で生まれなければ。


 暗闇の中で目を覚ます。酷い夢を見た。

 恐る恐る見渡すと、ほとんど物の無い静かな部屋で、すぐ隣に横たわる男の静かな寝息だけが聴こえる。

 自分が一人では無いことにほっとしたが、胃に強い不快感を感じて、重い体を起こし、簡素なベッドを抜け出した。ギシ、とスプリングがきしむ音がする。男二人で寝るには粗末すぎる代物だ。

 足早に狭い部屋を出て、トイレのドアを慎重に開ける。

 せり上る衝動のまま便器に吐くと、生理的な涙で視界が滲んだ。ドアの向こうで休んでいる男が異音で目覚めない事を祈る。

 果たして男が気がついていないのか、それともあえて気が付かない振りをしてくれているのか、自分には分からない。

 最近は特に多い。

 胸にしまい込んだ思い出が今更腹を蹴り上げるのは、あの子に会ってしまったからだ。

「…………」

 一つ名前を口にしてしまうと、情けなくて、苦しくて、更に視界が涙で濡れた。

 出会ってしまった。とうとう、出会ってしまったのだ。

 口に不快感が残ったまま、蹲る。ベッドに残した男は未だ静かに眠っている様だった。


 覚えたての仕事をこなすのは、けっこう楽しい。最近始めた夕方からのバイトは、無難に普通に、近所のスーパーだ。仕事は値下げするものを集めて値下げしたり、商品を補充したり、整理したりという至って簡単なものだったが、友達も働いているので案外飽きずにやっている。

 東条光は高校に入ったばかりの女子高生だ。週に4日、学校が終わると近所のスーパーに行って、夜の九時半までアルバイトをしている。

 仕事自体も割と楽しんでいるが、実はもっと楽しい事があった。

「ケイちゃん、今日カナタさん来てる?」

「居るよー」

 グロサリーのマネージャーである、八代奏多にちょっかいを出すことである。

 若い男性マネージャーで、いつも大抵マスクをしているが、目元だけでも笑うと可愛い。

 ふと見ると、探していた黒髪の頭が見えた。

 いつも通りの白いワイシャツと黒のスラックスに、会社のロゴが小さく入った青いエプロンをしている。ちょうど、何処かのメーカーの営業さんが帰る所らしく、感じよく笑顔で見送っているのが見える。

 ふんわりとした雰囲気で、同僚からも取引先からも、誰からも好かれる優しいお兄さんだ。

 顔見知りらしいお客さんと、ちょっとした会話をして笑っているのもよく見かける。じっと見ていると、視線に気がついたのか、ぱちんと目が合った。ちょっと恥ずかしかったので、照れ隠しに笑ってみると、あちらも照れたように首を傾げた。

 可愛いなあ。

 力仕事をしているので線が細いと言うほどでは無いが、穏やかで優しげな雰囲気は庇護欲をそそる。

 実は割と良く目が合う様な気がしているのだが、ちょっと自意識過剰だろうか。

 仕事はテキパキとこなす人であるが、本人自体は柔和で優しい雰囲気なので、話しやすい所もとても好印象である。

「八代さんこんにちは」

 へへへ、と笑いながら寄っていくと、いつもと変わらず、優しく微笑んでくれた。アーモンド型の二重の目が綺麗だ。

「こんにちは、東条さん」

「入口のとこの、お菓子の新商品美味しそう」

「ああ、パソコンのとこに試食切って開けたやつあるから皆で食べていいよ」

「わーいやったー!」

 正直カナタさんのパソコンもちらっと見ていたので、予想していた答えではあった。それは分かっているのだろうが、咎めるわけでも嫌な顔をする訳でもない。ただ、いつも通り優しくにこにこしている。

 ずっと一緒に居たいが、流石にいつまでもサボっている訳にもいかない。名残惜しいけど、仕事に戻るか。

「じゃ、八代さんまた……」

 くるりと振り返った拍子に、足元がぐらついた。つるっと足が空振りする。床に落ちていたダンボールの切れ端を踏んだらしい。バランスを崩して、一瞬の浮遊感。

「おっと……」

 膝が床に当たる前に、思いの外力強い手が私の腰を掴んで引き上げた。

「あっ、すみません、ありがとうございます」

 力が、強い。白くて綺麗だけどちゃんと男の人の手だ。そう思ったら心臓が暴れ始めた。頬に熱が集まる。

「ごめんね触っちゃって、ゴミ落ちてるの気が付かなかった……怪我無い?」

「だ、大丈夫です!全然!」

「そう?良かった」

 マスク越しに優しく微笑むのが素敵だ。王子様みたいだ!と脳内に歓声が湧いている。……いや、私からしたらお姫様なんだけど……、サッと手を貸してくれる様は本当に紳士的だった。

 顔がニヤける前に何とかお礼を言って、いつも通りの仕事に戻った。

 八代奏多さん、優しくて穏やかで格好良くて、それでいて笑顔が可愛くて、ダメだ、もう大好き!

 足取りが軽い。スキップでもしたいくらいだが、さすがに仕事中だ。

 私の王子様ことカナタさんは男性だが、聞くところによると、どうやらΩらしい。

 スラッとして、細く綺麗に筋肉がついた、どう見ても男性の体。不思議だがその体内には子供を孕める場所があり、ヒートと呼ばれる発情期がある。実は王子様ではなくお姫様なのだ。

 自分がヒートの際に休みを貰う為か、カナタさんの所のパートさんやアルバイトは、有給休暇をかなり自由に使えるそうだ。もっとも私はまだ入ったばかりなので、有給休暇なんて無いのだが。

 女の子のΩだって1クラスに一人居るか居ないからしいし、男のΩだとたぶん学校に一人いるかどうかくらいじゃないかな?と思う。都市伝説的な存在なので、聞いた時は随分びっくりした。珍しい分大変そうだとは思うが。

 ふふふ、と口から笑いが零れてしまい、慌てて手を当てる。一人で笑ってると思われると恥ずかしい。いや、実際そうなのだけど。

 自分は自分で、女の子にしてはちょと珍しい‪α‬だった。もっとも女の子のΩよりはだいぶ多いので、あくまでちょっと珍しいくらいだ。

 ‪α‬とΩは世間的に見ても相性が良く、結婚にはおあつらえ向きである。

 結婚しなくても、正式な番になれば八代さんにメリットが多い。最たる例としてはΩ特有の誘惑フェロモンが番にしか分からなくなるので、他の輩からちょっかいをかけられることが無くなるとの事だ。

 Ωは‪α‬に守られる事で、生活が飛躍的に安定する。少なくともヒートの影響は減るだろう。

「ふふふ」

 白いうなじに歯を立てる所まで想像して、頬に熱が集まる。にやにやしてしまう口元を誤魔化したい。私もマスクをした方が良いかもしれない。

 そもそも私に手を出したら年齢的に犯罪だろうし、実際の所はお付き合いなんてできないだろうが妄想を膨らませるのは楽しかった。

 運命の番なんて絵空事だと思ってはいるが、実際あるならロマンティックである。

「あーあ、仕事しよ」

 小さく言って、ガラガラと台車を押した。

 妄想は大好きだが、現実的な希望で言えば、今はちゃんとバイトをして貯金がしたい。高校を卒業したら、世話になった両親の元を離れ、一人暮らしをしたいと考えている。大学で学ぶより、社会に出たい。早く1人の人間として自立したかった。



 19時過ぎの休憩の時間、食堂でサンドイッチを食べていると、やはり休憩なのか、カナタさんが入ってきた。半端な時間なので人は疎らだ。思いがけない幸運に胸が弾んだ。そして更にラッキーな事に、またもパチッと目が合った。綺麗な黒い瞳が微笑む。

「お疲れ様。休憩?」

「は、はい」

 カナタさんが自然に向かいに座って、内心ガッツポーズをした。しかしなるべく平静を装い、出来うる限り愛想良く笑ってみる。ちょっとでも良いから可愛いと思って貰いたい。

 カナタさんは鮭のおにぎりとプリンを買っている。トレードマークみたいな黒いマスクを外すと、普段あんまり見られない顔があらわになる。

 柔らかそうな唇と、陶器みたいに白くて滑らかな肌。

(か、かわいい……!)

 全体にすっきりした造りに、アーモンド型の猫みたいな目が存在感を放っている。あんまりお目にかかれない素顔だが、凝視してしまうのも恥ずかしい。これが目のやり場に困るというやつだろうか。

 直視できなくて、目線をほんの少し下に下げた。ニヤけそうになる口をぎゅっと引き結んで誤魔化してみる。そうしたら何を勘違いしたのか、カナタさんはちらりと手元を見て、プリンをこちらにずいっと寄せた。

「食べていいよ」

「えっ!?いや、あの、欲しかったんじゃなくて」

 慌てて押し戻すが、カナタさんは笑って首を傾げた。

 ぐっ……かわいい、なんてかわいいんだ、男体Ω恐るべし!いや皆こんな感じじゃ無いとは思うけど!

「だって見てるから」

「いや、あの!だって八代さんが食べるのに買ってきたのに」

「いいから」

 何となく押し切られてしまった。ごくごくありふれた焼きプリンのプラスチックのパッケージと、個包装の小さなスプーン。食べたかった訳では無いしちょっと申し訳ないのだが、カナタさんは何故か嬉しそうにおにぎりを開けている。

「ありがとうございます」

「いえいえ」

「おにぎりだけで足りるんですか?」

「もうちょっとしたら帰るから大丈夫」

 ぱくっと一口食べて、海苔のちぎれるパリッとした音が心地良い。むぐむぐしているのが可愛いが、折角なのでちょっとお喋りもしたい。

「お家近いんですか?」

「すぐそこ。歩いて5分くらいだよ」

「へぇ、たまたまですか?」

「いや、近い方が便利だから引っ越してきたんだ。東条さんの家は?」

「自転車で10分くらいです」

 当たり障りの無い会話。

 カナタさんからお話を振ってくれたりしないかな?とも思ったが、私個人にはそこまで興味を持っていないのかも知れない。まあ所詮バイトの女子高生だし。

 ……ついでに言うと、カナタさんは男性のパートナーが居るって噂だ。

「あの」

「ん?」

「彼氏さんってどんな人ですか?」

「んぐっ……」

 ちょっと喉につかえてしまった様で、カナタさんは慌てて立ち上がると、食堂に備え付けのサーバーで緑茶を注いだ。その場で一口飲むと、紙コップを持ったまま席に戻ってくる。

「か、彼氏?」

「社内の人って聞いてるんですけど」

「えっと……どんなっていうと」

「‪α‬ですか?」

 Ωの男性は‪α‬の女性とも、‪α‬の男性とも結婚ができる。無論βやΩの女性とも結婚できるが、世間的には‪α‬とΩのカップルが好まれる傾向は否めない。

 ‪α‬が生まれる確率が高いためだ。

 α‬は身体能力も知能も高い傾向がある。性に優劣は無いと大人は言うが、実際どこまで本当なのか。正直あんまり考えたくないけど、世の中は‪α‬贔屓だと常に感じる。

「……そうだね、‪α‬だね」

 そして、その中でΩは「劣性」と揶揄される事がある。能力的にはβと同等か、場合によっては‪α‬と肩を並べる程に専門分野で活躍するΩだが、それでも肩身が狭いのはやはりヒートがある為だ。

 ヒートのΩは無差別に人を誘惑するフェロモンを発する為、外に出られない。抑制剤である程度緩和出来るとはいえ個人差が大きいし、学業や仕事に影響が出るのは避けられないのだ。

 あと、‪α‬が発する攻撃的なフェロモンに弱いというのも、劣性というレッテルに拍車をかけている。グレアと呼ばれるそれは、本来は‪α‬同士がΩを奪い合うが故に発するものだが、それに当てられた‪βの人も体調を崩す。更にΩにとっては、その場から動けなくなる程の脅威になってしまう。

 Ωは弱い。だから、‪α‬は大切なΩを他所の‪α‬から守れないといけない。その為でもあるグレアだが、使い方を間違えば簡単にΩを傷つける。

 カナタさんはちょっと困った様に笑った。

「……えっと、普通の人だよ。同僚でね」

 あまり掘り下げて欲しくなさそうである。ちょっとした惚気か愚痴くらい聞けるかなと思ったが、あまり言いたそうでは無い。これは食い下がらない方が良さそうだ。

 ちょっと変な空気になってしまった。話題を切り替えないと。

 自分の身体の一部みたいなスマホを無意識に触る。

「そうなんですか、……あっヤダちゃんの新曲出たんだ!」

 わざとらしくならないようにタップしたスマホの話題を拾うと、カナタさんもほっとした様な顔をしてくれた。

「映画の主題歌だよね?」

「そうなんです!家でゆっくり聴こう、……あ、カナタさんって音楽聴く方ですか?」

「俺?結構聴くよ。The JUMPとかattack LOSERSとか……あと洋楽も結構好きで」

 そう言ってちょっと恥ずかしそうに笑った。TheJUMPもattack LOSERSも男性だけのグループだし、やっぱり男の人が好きなのかな?と思ったが、流石にセンシティブ過ぎて聞けない。

「attack LOSERSは私も結構好きです、あんまり詳しく無いけど……あ、洋楽ってどんなの聴くんですか?私全然知らなくて」

「洋楽?そうだなあ……」

 カナタさんはそっと手を伸ばして、開いたままだった動画配信アプリで、アルファベットの羅列を検索した。程なくして、英語のタイトルの曲が表示される。

『my little Hell』

 サムネイルは女の子二人が抱き合っているもので、絵面の雰囲気はかなりダークだ。Hell…地獄って事は暗い曲なんだろうか。

「君くらいの頃は毎日こればっかり聴いてた」

「へえ……帰ったら聴いてみますね」

 共通の話題が出来るかもしれない事が嬉しくて、でも、カナタさんは少しだけ眉根を寄せて、優しく笑う。ほんの少し違和感があったが、私に対しての不快感とかでは無さそうだ。

 この曲に何か思い入れがあるんだろうか。

 思いを馳せたままプリンカップの蓋を開けて、甘いバニラの香りが広がる。

「……いただきます」

 一口すくって食べると、食べ慣れた優しい甘さが口の中を満たした。

「おいしい」

「そう?ありがとう……」

 なんで、プリンをくれた人がありがとうって言うんだろう。

 カナタさんが頬杖をついて、私が食べるところを見ている。少し気恥ずかしいが、その目がとても優しくて、さっきまでのちょっとした違和感はどこにも無くて、なんだかプリンみたいに甘くて柔らかい気持ちになってしまった。


 その日の夜に聴いたその歌は、女の子二人が歌う激しい恋の歌だった。綺麗な声なのに泣き叫ぶみたいに聴こえて、それが何故かとてつもない艶を伴う。英語の歌詞を聴きつつ日本語の字幕を追って、私くらいの頃のカナタさんに思いを馳せる。

 私が抱く想いはこんなに激しいものでは無く、もっと甘くて、ちょっと酸っぱい、春先のイチゴみたいな気持ちだ。甘いだけでは無いそれに練乳を沢山かけて食べる、いつか思い出しても甘い思い出になる様な。叶わないと分かっている恋は甘美だ。沢山がんばって負けても、悔しくない。

 カナタさんは私くらいの頃、こんなも苦しくて、悲しくて、燃え尽きて死んでしまう様な恋をしていたんだろうか。


「ごめん谷岡、ちょっと前にも言ったけど、多分来週あたりヒート来ると思うんだ。なるべく休みに当たるように薬で調整するけど」

「平気っすよ、何日くらい休みます?」

 八代奏多は、部下の谷岡雄大に缶コーヒーを渡した。2人の中ではこれがお願いの定番である。

「あざぁす!」

「いつも通りだと多分2、3日くらいかな?熱下がったら抑制剤飲んで来れると思うんだけど。俺居る時は谷岡も有給使ってね」

 こんな話を大っぴらにするのは流石に自分の部署の中だけではあるが、幸い部下の谷岡はよく出来た男で、手早くシフトを確認してくれている。

「夏休み取ったばっかりですし。彼女にも八代さんに合わせろってキツく言われてるんで」

「谷岡の彼女さんて、会ったこと無いよ?」

「女の子は色々あるからしんどさが多少分かるって言ってました」

「あー……それはそれで大変そうだよね」

 ねー、なんてちょっと赤裸々な話をできる間柄なので、正直気が楽だ。

 彼女さんという人は別の店舗に務める谷岡の同期だったと思うので、もし会ったらお礼を言わないと。

「夏休みは9月の半ばあたりで良いんですか?」

「20日くらいからかな。その辺しか取れないしね。もうちょっと近くなったら確定できると思うけど」

 サービス業なので無論盆休みなど無いが、代わりに交代で連休を取る事になる。本当は連れと予定を合わせられれば良いのだが、中々難しい。

 しかしながら、ヒートに当たらない連休はあまり無いので、ゆっくり休めるのはありがたかった。

 Ω性は面倒くさいことこの上ない。とりあえずいつも周囲にそこそこの迷惑をかけないと社会でやっていけないのだ。

 Ωのフェロモンは誘惑香とも言われ、‪α‬とβ、特に‪α‬に性的興奮をもたらす。

 幸い谷岡はβなので普段はぼほほぼ感じないようだが、薬の効きが悪いと誘惑香が漏れて‪α‬が絡んでくる。本当に辟易する。

 そして一番厄介なのが、3ヶ月に一度訪れるヒートと呼ばれる発情期だ。

 この時のフェロモンは‪α‬に理性が効かないほどの欲情を促し、強すぎる為にβにもかなり影響が出る。

 その為、ヒートの際にΩを襲っても、不可抗力として罪に問われず、事故として扱われる。

(事故……)

 蓋をした記憶が鎌首をもたげ、心に暗い影が落ちた。

 忌々しい記憶と、後の葛藤と、その結果。

 見ると、東条光がちょうど角を曲がって来るところだった。

 ふ、と息が詰まる。

 ズキン、と身体の奥が疼いた。

「……え?」

「マネージャー?」

 谷岡が首を傾げ、直後熱の上がる感覚に、弾かれたように走り出した。身体が徐々に体温を上げていく。

 唖然としている谷岡に、走りながらも声を張り上げる。

「ごめん!今来たかもしれない!」

「あ、わっかりました!店長のとこ行ってきます!」

「俺トイレに籠るから!」

 鍵のかかる部屋に飛び込む。誰が来ても絶対開けない。それが誰であっても信用しない。ヒートの時の鉄則だ。

「志津さん呼びますか!?」

 谷岡の声が遠くに聞こえる。

「自分で電話するから大丈夫!」

 彼女に聞かれたかな、と意識の隅で思いながら、多目的トイレに飛び込んだ。従業員用のものだし、他のトイレもあるのでまあ大丈夫だろう。

 鍵をガチャンと閉めてようやく安堵した。心臓が悲鳴を上げている。徐々に体内に籠る熱が上がっていく。ぞわぞわと神経が犯され、誘惑の香りがぞろりと手を伸ばす。

 男ながらに雄を誘う呪われた体だ。

 ああ、気心知れた谷岡ですら怖かった。

「ヒカル……」

 ままならなくなってきた思考の中で、罪悪感が胸を焼く。今はまだ大丈夫、彼女は俺が何か、まだ知らないはずだ。



「ねぇヒカルちゃん!マネージャー、彼氏さんが迎えに来るんだって!見たいよね!」

「見たいけど見たくない……」

 畳んだダンボールを積んだ台車が、引っ張る度ギイギイと音を立る。油が切れているらしい。

 不快な音を聴きながらもそもそとゴミを運んでいる横で、友人の圭はペラペラと喋った。

「なんか本部のシニアバイザー?の人らしいよ。Ωの男の人ってカレシと結婚出来るんでしょ?まだ番じゃ無いのかな」

「番だったら隔離しなくてもいいじゃん、カナタさん、まだフリーだよ」

「早く番にしてあげたら良いのにね、大変じゃん、いちいち隠れてさ」

 絶対嫌だ。

 カナタさんに番が居るなんて絶対に嫌である。

 ヒートのΩのうなじをαが噛むと、その二人の間に番と呼ばれる特異な絆が結ばれる。

 一度契れば医療的処置をしない限り解ける事は無く、お互いのフェロモンは番にしか影響しなくなる。また、Ωは番以外を受け入れられなくなり、生涯2人きりの世界で、2人だけの恋をする。

 ロマンティックが過ぎるだろう。

「あーあ、私が番じゃダメかな!」

 言ったところでどうにもならないのは分かっているが、何か思い切り大きな声を出さないと、落ち込んでしまいそうだった。

「ねえ、もしヒカルちゃんとマネージャーが番になったらさ、赤ちゃんはどっちが産むの?」

 ふと思いついたように小首を傾げるケイは、βの女の子だ。私が‪α‬であり、Ωを妊娠させられる事もわかっている。私とカナタさんだったら、基本的にはどちらも妊娠できる事になる。ただし、Ωは妊娠する方に特化している身体の為、妊娠させる方はやや性能が劣るという話も聞く。もちろんβの女性と結婚して子供を作るΩの男性も居るし、確率の問題であって、妊娠させられないという訳では無い。

 ついでに言うとαは一般に妊娠しにくいと言われている。こちらは妊娠させる方に特化しているからであるが、かと言って妊娠しないという訳でもない。結局は個人の体質によるものであるし、実際βやΩの男性の子供を産むαの女性は居るだろう。更に確率は下がるが、‪α‬の男性とも出来なくはない。

 パターンは色々あるが、一般的なのはαとΩが結ばれて、Ωが子供を産む場合である。αが生まれる確率が最も高い為だ。

 子供を性別で分け隔てて育てるつもりなんて全く無いが、αが持て囃される現代に置いては、どうしても世論に流されて、そういう方向になってしまうのは否めない。

「えーっと……それは普通にカナタさんじゃない?」

「まじかー全然わかんない」

 βはβ同士で結ばれるのが一般的だ。根本的に‪α‬Ωと感覚が異なるのだろう。βは女性のみが孕むことができるし、男性のみが孕ませる事が出来る。それはまあ私も理解出来る。

「だってさあ、八代さんのお腹に私の赤ちゃんがいたらめっちゃ良いもん。可愛いに可愛いが入ってんだよ?しかも両方私のなんだよ?好きな人の全部を私のにしたいもん」

「アルオメマジで全然わかんないや」

 力説してみたが、どうやら伝わって居なさそうである。‪α‬のΩへの愛は、所有欲とか、ある種の支配欲を多分に含んでいるものらしい。それを差別的と捉えるΩも多いとは聞くが、本能的に持っている衝動に抗う事は難しかった。

 βにもそういう気持ちはあると思うのだが、そこまで顕著なものでは無いのだろう。

 ケイはケラケラと笑って、自分の仕事に帰って行った。


「私もカナタさんの部署が良かったな……」

 ブツブツつぶやきながら仕事をしていると、夕焼けに染まった搬入口に白いセダンが入ってくるのが見えた。普段は物流センターのトラックか、細かいものを納品に来る業者の車しか来ない所だ。

 なんとなく勘づいた。

 カナタさんの彼氏かも知れない。

 見ていると思われないように、ごみ捨てを続けながら横目で追う。

 バン、と車のドアを閉める音、それからリモートキーで鍵のかかる音。

「でかい……!」

 恐ろしく背が高い。180を優に超えている。下手をすると190センチくらいあるんじゃないんだろうか?

 のそりと出てきたのは、髪色の明るい若い男だった。猫背だが高い身長に、多少着崩した黒いスーツの上からでも、厚みのある筋肉があるのがわかる。短く整えた明るい茶色の髪はやや癖があるものの、襟元から耳のあたりまでをすっきりと刈り上げて、清潔感があった。

 鼻が高く輪郭も鋭利で、顔立ちは整っている方だろう。なんとなく、西洋系の血が入っている様な雰囲気の男だ。

 目付きが悪いが、少し垂れ目の二重。

 平たく言えばイケメンである。

 しかし、ギチギチに眉を寄せた表情からして最高に機嫌が悪いのがわかる。あと、目付きが悪すぎていっそ目が死んでいる。

 うっかりジロジロ見ていたら、従業員入口で目が合ってしまった。

「お、お疲れ様です!」

「……っす」

 挨拶雑すぎだろ、近所のコンビニの兄ちゃんのがまだ愛想いいわ。

 内心突っ込んだが、不機嫌な男の圧というか、オーラが凄すぎて思わず顔を逸らした。

 ‪α‬特有の、気配に重さがある感じだ。縄張りを争う獣みたいな、威嚇に似た存在感。別にわざとやっている訳では無いが、Ωとβにめちゃくちゃ嫌がられるやつである。無論、そういう態度をするのはマナー違反だ。大変感じが悪い男である。

 男が事務所に入ると直ぐ、バックルームにアナウンスが流れた。

『業務連絡です。八代さんが早退しますので、今から5分間、廊下を閉鎖します。残っている方は速やかに離れてください』

 店長の声だ。

 廊下を閉鎖。という事は私はこのまま外に居ればよいのだろうか?

 仕方なく搬入口から少し離れたところで待っていると、ほんの2分くらいで、革靴の足音が聞こえてきた。カツカツと高く響く音。1人分だけだ。

 男はカナタさんを肩に担いでいた。

(うわ……)

 カナタさんは立つこともままならないのか、荷物の様に担がれていても抵抗する事もない。ただ、ヒューヒューと苦しそうな呼吸をしているのが微かに聞こえた。顔は見えなかった。

「ごめんね……」

「黙ってろ」

 息に溶けるような声で謝るのを、ぶっきらぼうに遮るのが忌々しい。もっと優しく言ってあげたら良いのに。

(ヒートってしんどいんだ……)

 可哀想だなあと思いながら見ていると、男は後部座席を開けて、あろう事か、カナタさんを乱暴に放り込んだ。

「はあ!?」

 結構離れているから、声は聴こえていないだろう。

 衝撃で車が揺れている。ついでとばかりに鞄も投げ込んだ。

 何をしてくれるんだあの野郎。

 そう思ったのが伝わったみたいに、男と目が合った。

 視線が交錯する。口元が微かに笑ったような気がした。

 後部座席に上半身だけ入れた男は、少しの間そうしてから、ゆっくりと出てきて、バタンとドアを閉める。

 あれ?今、もしかしてキスしてなかった?

 ちょっと顔が熱くなりつつキリキリと睨みつけるが、男はそのまま運転席を開けて、もうこちらにはなんの興味も無いとばかりに車を出した。

「喧嘩売ってんのかよ」

 しばらく白い車が遠ざかるのを見ていたが、やがて廊下の排煙窓が開く大きな音で、我に返った。

 なんて優しく無い男だ。私だったらもっと大切に扱ってあげられるのに。


 何とか連れて帰ってきたが、正直頭が沸騰しそうだった。

 殺風景な部屋に居るのに視界が赤い。簡素なシングルベッドに寝かせた彼から、甘くドロっとした香りがする。獣じみた性欲を掻き立てる発情の香り。口の中が唾液で溢れる。犬歯が疼く気さえした。

 頭痛がする程強い抑制剤を飲んできたが、ヒート初日の彼の前では飴玉同然だ。ただし凶悪な急性発情ラットは回避出来るだろう。我を忘れて大切なパートナーに怪我をさせたくは無いし、怖い思いをさせるのも嫌だ。

 見下ろせば、じっとりと熱を含んだ目が、モノ欲しげに潤んでいた。

 汗が滲む額に前髪が張り付いているのを、さらりと梳いてやる。

「……ん、……」

 口付けと言うにはいささか暴力的。どちらかと言えば捕食だ。溢れる唾液もそのままに口腔を貪りながら、片手でネクタイを引き抜き、背広をフローリングに投げ捨てる。

 カナタは口の周りを酷く濡らしたまま、もたつく手で俺のベルトを外そうとしているが上手くいかない。待つ余裕は無いので、自分でガチャガチャと外して、その辺に放ってしまう。本当は彼の所作の一つ一つをゆっくり楽しみたいが、ヒートの時はまあ不可能な話だ。

 苦しげな呼吸をする彼が気の毒ではあるのだろうが、同情する余裕すら無い。優しくしなくては。でも抑えきれない。

 早く、早く、早く。

「……熱い……」

 剥ぎ取る様に脱がしたYシャツはベッタリと湿って、誘惑香で噎せるようだった。花の香りに例えられるそれに、また唾液が溢れる。

 首筋の汗を舐めとると甘く溶けて、目がチカチカするような心地だ。息が上がっていく。

 入れたい。溢れるほど中に注いで。突き上げて。

 Ωを孕ませたい。

「ゴム付けて」

 息を切らして震えているカナタが、理性の切れないうちにと、焦るような口調で言った。彼は彼で限界なのだろう。ボクサー越しの俺のものに頬を擦り付けて強請り、身体は本能に従い雄を求めている。彼のものもとろりと雫を零しているのが見て取れた。

 ベッドの横に置きっぱなしになっている箱をちらりと見る。0.02ミリの隔たり。優しくしてやりたい気持ちは確かにあるのだけど。

「子供欲しい」

 自分は本気だと目で訴えたつもりだ。途端、カナタが青ざめた。

「あ……」

「……ごめん、忘れて」

 口でゴムの封を切ると、強ばっていた身体が安心したように弛緩する。手早く着けて、欲動に身を任せ、先程の言葉を塗りつぶす様に、既にしとどに濡れた彼の中を押し開いた。

 子供が、欲しい。彼と俺の子。血を分けた魂が欲しい。間違いなく自分は傲慢な‪α‬だった。

「あッ……、ゆっくり、……ん……っ!」

 聞こえているが、すでに脳が意味を理解しようとしない。

 細い腰が軋む感覚。突き上げる度押し出される様な喘ぎ。前戯もろくにしない、獣じみた本能の営み。

 それでも中はドロドロに濡れて歓喜で震えている。Ωは生来、性的な刺激に弱い。種の保存に特化した可愛くて淫らな生き物。

「ひっ、……!」

 ろくに触れないままだったカナタのものが、とくんと飛沫を吐いた。中が痙攣する。

「あっ、ぁ……やっ、やだ……!」

 中が気持ち良い。そのままで居て欲しかったので、雫を吐いた直後ものを右手できつく擦りあげる。ドロドロだ。多分これも飲んだら甘い。ぎゅうぎゅうと締まる中を更に深く抉る。ごつんと奥に当たる大切な部分の感触に目眩がした。

「あ、ん……!や、うあッ!」

 欲望の赴くままに突き上げて、汗でピタリ重なる肌あい。もう境目が分からないくらいだ。このまま溶け合ってしまいそう。

「あ、あきら……っ」

「なに……?」

「……すき……ごめんね…………」

 真っ赤に染まった眦を拭い、ラテックス越しの衝撃に震える身体を抱き締める。優しさからではなく、本能から。一晩中、決して自分から逃れられないように。


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