第4話 うれしいこと、かなしいこと
「ねぇ、またカナタさんに会いに来たの?」
ああ?という顔で、志津さんがパソコンから顔を上げた。多少機嫌は悪そうだが、まあ平気だろう。
「今日休みだから居ないよ」
「知ってる、フツーに仕事で来てんだよ」
事務所の中に居るのは、私と志津さんと、ちょっと笑いを堪えている風の事務のお姉さんだけだ。
あれから何日か経ったが、カナタさんとは相変わらず挨拶程度だ。でも、頑張ってなるべく元気に挨拶している。カナタさんも、私と目が合うと自然な笑顔を返してくれる様になってきた。
最近は時間が優しい、と感じる。もう少し時間を置けば、お互い少しづつ歩み寄れると思うし、私から勇気を出して、色んな事を話せる気がするのだ。
「あのね、別に俺は八代さんに会いに来てんじゃねえんだよ、仕事で来てんの!打ち合わせ!」
「へー仕事してんだ」
「仕事しに来てんだよ!つうか店に来なくてもフツーに会えんだよ……お前何で遊んでんだよとっとと働け」
「早く着いちゃってタイムカードあと五分くらいしないと切れないんだもん。フツーに会えるとか、ずるい」
普通に会えるってどんな感じだろうか。カナタさんにメッセージアプリでちょっと連絡したりして、なんの用事も無いのにふらっと会いに行けたら素敵だろう。そういう風になれたら良いなと思うけど、そう思う事自体、育ててくれた両親に申し訳無いような気もする。
ふと、事務机に置いてある黒い皮のケースが目に付いた。スマートフォンと一緒に置いてあるそれは、財布にしては小さい。カードケースだろうか。
「ねぇそれ何?」
「え……ああ、名刺入れだよ」
名刺入れとは?
「名刺!名刺だ!ちょうだい!」
ちょっと大きい声が出てしまって、志津さんが明らかに嫌な顔をする。が、気にしない。この人に愛想は期待しなくていい。敵意が無ければ大丈夫だと思う。たぶん私はこの人も好きだ。勿論恋愛的な意味ではないけど。
「名刺?何で」
「なんとなく欲しい!」
「あー……いいけど」
黒い革の名刺入れは、使い込まれているのかツヤツヤしていて綺麗である。慣れた手つきで名刺を出していると、ちゃんとした大人みたいだ。
「ほら、受け取ったらちゃんと両手で持つ。胸の高さで」
「こう?」
「そう。名刺の扱いは相手への敬意が現れるから、雑に扱わない」
「サラリーマンみたい!」
「いやサラリーマンなんだよ俺は。なんだと思ってんだよ」
ツヤのある紙の白い名刺。会社のロゴと会社名、役職はシニアバイザー。堅苦しい字で「志津 暁」と書いてあるのがなんとなく新鮮だ。
雑に扱うなと言われた手前、エプロンのポケットに直に入れるのもなんとなく躊躇われて、少し迷って普段使っているメモ帳に挟んだ。
「名刺初めて貰った」
はしゃいだ気持ちを隠さずに言うと、志津さんも口元だけで少し笑った。
「名刺ってカナタさんも持ってる?」
「マネージャーは基本作らないけど、八代さんはマスターマネージャーだから持ってるかもな」
なんだか知らない単語が出てきて、首を傾げる。
「マスターマネージャーってなんか普通のマネージャーと違うの?」
「普通の会社で言うと課長くらいだよ、小規模の店なら店長もできるけど、店長は基本生鮮の人間から出すから。マネージャー以外だとシニアバイザーかマーチャンダイザーやらされると思うけど……あとは副店長か」
「えー……余計わかんない。偉いってこと?」
カナタさんは実は結構偉いんだろうか?志津さんは割と偉そうにしているけど、カナタさんは誰に対しても上からものを言うタイプの人では無いので、あまりピンと来ないが。
「等級は俺と一緒。まあ向こうのが長く働いてるけど。抜かされるとダサいから俺も必死なんだよ」
「えーウケるんですけど。カナタさんより偉い方が良いんだ」
「まあ、あの人仕事できる人が好きだからね。俺なんか初めて会った時まだガキで全く相手にされんかったし」
事務のお姉さんが吹き出して、志津さんはちょっと嫌な顔をする。
「笑うなって」
ごめんごめん、とお姉さんが謝った。
「ガキって?若い時って事?」
「初めて会った時まだコーコーセーだっからさ」
高校生。
え?今の私と一緒?
「えっ!ずるい!」
「ずるくねえよ、ほらとっととタイムカード切れ、遅刻になるぞ」
あの人と初めて出会った日の事を、今でも鮮明に覚えている。
結婚して十年、そのうち不妊治療を七年して、子供には恵まれなかった。毎月裏切る自分の身体に心がとうとう悲鳴を上げて、それでもどうしても、子供が欲しかった。本能というか女としての性というか。
どうしても我が子が欲しくて、児童相談所にボランティアとして通い、里親になるための研修を受けていた。身勝手な両親に捨てられ、あるいは虐待された子供たちを沢山見てきて、子供を欲する反面、私が喉から手が出る程欲しかったものを、無下にする親達への恨みをじわじわと募らせていた頃だ。
コーディネーターから、妊婦への面会を打診された。
入院中で、産んでも恐らく育てられないという。なんて無責任なとは思ったが、新生児を育てられるなんて本当に夢のような話だ。
面会を打診された時、恐らく本当の母親に、子供を自力で育てるのを諦めさせる意図もあったと思う。
当日まで個人情報は伏せられていたので、どんな身勝手な女がいても、決して声を荒げないようにしよう、とそれだけを思っていた。
そしてその日は来た。
コーディネーターと、病院のカウンセラーとに付き添われて、尋ねた病院の個室。
「八代さん、入りますね」
コーディネーターが声をかけて、足を踏み入れる。
機器の微かな音が響く、真っ白な寂しい病室だ。
そこに居たのは、管だらけの細い四肢をベッドに横たえ、蒼白な表情でか細い息をする、小さな少年だった。かけられた薄い上掛けの下に、腹だけが不自然に出たシルエット。
Ωの男の子、しかも恐ろしく幼い。
正直ぞっとした。この子は、腹の中の子は、大丈夫なのか?
「……はじめまして、八代奏多です」
かさついた口元で微かに微笑んだその子の声はまるで吐息のようで、私はあまりの自分の愚かさに、その場で泣き叫びたくなった。
何が無責任な母親だ。
この子は、自分の命を擦り切れるほど削って、お腹の子を育てているのに。
「お母さん」
すっかり手が止まってしまっていた。まな板の上には、切りかけの人参が転がっている。つい物思いに耽ってしまっていた。
包丁をしっかり握り直して、夕飯の支度を続ける。
「ヒカル、何かあった?」
あの時、あのお腹の中にいた子は、その後直ぐに自分の娘となった。幼い母体の限界まで何とか胎内で過ごし、平均より小さな身体で取り出された子だったが、幸いにも元気で逞しく育った。母親である彼は産後の経過が悪く、二ヶ月も病院から出られなかったという。
「あのね、最近カナタさんと普通に挨拶できるようになってきたんだ」
顔は当時の彼にそっくりだ。しかしΩの彼とαのヒカルとでは、既に体格が違う。ヒカルは少女にしては背も高いし体つきもしっかりしている。か細く小さかった当時の彼よりも、随分逞しく見えた。
「そう……」
ヒカルは少し躊躇って、おずおずと切り出した。
「カナタさんともう少しちゃんと話したいんだ。……お家に遊びに行きたいって言ってもいい?」
先方に言う前に自分に許可を求めてくれるのが、少し心苦しい。私は大変自己中心的な女で、本当はヒカルと実母を合わせる事を躊躇っていた。
「……いいわよ。ご迷惑にならない様にね」
八代奏多さんは誠実で、美しい人だ。外見だけではなく、あの病室で見た生命を産み落とす者の、祈りにも似た輝きを忘れる事などできない。
いつでも心のどこかで、愛娘が実母に会ったら、私からあっという間に離れて実母について行ってしまうのでは無いかと不安だった。
「お母さんは、お母さん一人だけだからね」
本当に聡い子である。
「ありがとう」
そう返事をすると、満足した様に笑って、ぱたぱたと部屋に戻って行った。
今日はカナタさんが閉店作業だと聞いて、私はこれ幸いとばかりに待っている事にした。カナタさんに聴きたいこと、言いたいことが沢山ある。志津さんは早く帰れと言っていたが、家まで自転車で十分もかからないし、長話しなければ平気だろう。
休憩室で待っていたのだが、皆が帰る時間まで居るとなにか詮索されるかもしれないので、閉店時間の少し前まで近くのコンビニで時間を潰す事にする。
「そろそろかな」
コンビニを出て、道路を一本挟んだ道からそろりと見ると、何人かの社員さんとアルバイトが退店するのが見えた。カナタさんも戸締りを確認したら出てくるはずだ。タイミング見て道路を渡り、暗い搬入口を突っ切った。
その時だ。
「こんばんは、おっと、ごめん知り合いに似ていたものだから」
突然、知らないおじさんに声をかけられた。
背が高くて、質の良さそうなダークブラウンのスーツを着ている。髪も綺麗に撫でつけられていて、上品な社会人という雰囲気だ。
シャープな輪郭に人の良さそうな笑みを浮かべてはいるが、何故か威圧感がズシッと肩にのしかかる感じがした。
多分、α?……店の人じゃない、知らない人だ。直感的に怖いと思った。
店はとうに閉まっている。残っている社員だって殆ど居ない。何の用でこんなとこ居るんだろう。
「え?あの、急いでるんで」
「本当に良く似ているんだ、お母さんはなんて言うの?」
「……お母さん?」
従業員入口のシャッターを閉める音がした。見ると、鍵を掛けたらしいカナタさんと目が合った。
物凄い怖い顔をして、走って出てくる。
相手の腕を掴んで、
「触るな!!」
こんな強い口調で喋るの、初めて見た。
「ああ、待ってたよ。久しぶりだな」
小さく耳元で囁かれて、カナタさんが唇を噛み締める。変なお客さんだろうか。誰か呼んできた方が良いのかな。とは言っても、閉店作業はカナタさんがしていたみたいだし、中にはもう誰も居ないだろう。
ふと見たカナタさんの手が、震えている。
「少し話さないか?その子も一緒で良いから」
人の良い笑みを浮かべていた男の顔が、歪む。
ぞわり、鳥肌がたった。
「カナタさ、」
「逃げろ!!」
平素では考えられない様な荒く低い叫びに、本能的に恐怖が襲った。逃げなければならない。でも、カナタさんを置いていけない。
誰か……
「おい、通報したらこのΩ殺して埋めてしまうよ」
背後から浴びせられる嘲笑混じりの脅しに、背筋が凍りついた。歩けない。足が動かない。この男、絶対にαだ。吐き気が襲うような、酷い威圧感。これはグレアだ。
「……ぅ……」
苦しくて、その場にしゃがみこんでしまった。生理的な涙に視界が歪む。
背後で、カナタさんの細い身体に、男の腕が絡みついた。愛情ではなく捕食の抱擁、まるで蛇みたいだ。
苦しい。辛い。離して。
は、と震える息を吐くその先に、大切な人が居るのに。
「お前の家でいいだろ?子供って可愛いよなぁ、欲しいだろ?二人目……抵抗するならそのガキも連れて行くぞ」
青い顔をしたカナタさんが、グレアを浴びてふらつきながらも無言で歩き出した。私から一歩でも離れるように。
カナタさんが、連れていかれちゃう。
わたしもαだ、なのに、膝が震えて立つこともできない。
二人の姿が角を曲がって見えなくなって、気配も感じなくなった所でやっと我に返った。
追いかけないと、助けないと、でも何処にいるのか。家も分からない。足はまだガクガクと震えている。
「志津さん」
志津さんを呼ばないと。電話番号は?
「名刺……名刺どこ……?」
確かに貰ったはずだ。洗うつもりだった制服のエプロンを引っ張り出す。
くしゃくしゃの広告、走り書きのメモ書き、メモ帳を開くと、少し前に貰った名刺が、蛍光灯を反射して白く光っていた。
社用の携帯電話が、妙に遅い時間に鳴った。メーカーの営業では無いだろうし、店でトラブルがあったのだろうか。とは言え、登録されていない番号だ。
「……はい、志津です」
とりあえず出て雑に名乗ったが、何か息遣いのような、声を飲むような音が聞こえる。
「何?」
イタズラ電話か。そう思ったところで、相手がやっと声を出した。小さくか細い、女性の声だ。
『志津さん、志津さん、私です、東条光です』
確かに東条光の声ではあるのだが、様子がおかしい。平素の勝気さは影を潜めており、何か恐ろしいものを見たような声だ。
「……どうした?何があった?」
『変な男の人に声をかけられて……あの、カナタさんが、カナタさんに、……』
「カナタが何かされたのか!?」
しゃくり上げるような声が聞こえて、
聞いた途端に車のキーを引っ掴んだ。
『家でいいって、私も一緒に来いって、……二人目が、欲しいだろ、とか言って、警察呼ぶなって……』
頭に血が登った。
「お前親に迎えに来て貰え!オレはカナタの家に行く!いいか、絶対に一人で動くんじゃないぞ!」
『……うん、わかった』
急がなければ。一秒でも早く。最悪の想定が頭を駆け巡る。
「くっそ……!」
エレベーターを飛び出して、車のキーをリモートで開けながら走る。
『電車、少し苦手で』
車窓に流れる景色、青ざめたまま、取り繕って笑う、今より少し緊張した顔。
『最寄り駅まで送っていく』
『方向逆だよ?』
『そんな遠くないし』
『気を遣わせちゃってごめんね』
ごめんね、が口癖。誰がどう見ても仕事が出来るが、Ω故かかなり卑屈になっていて、何時でも見ていてもどかしかった。
そして、そんなカナタの気持ちを自由にしてやれるのは自分しか居ないと思っていた。そう思いたかった。所詮自分のエゴ、全部自己満足。
あまりに過酷な人生を前にして、俺はただ無力だった。
『俺もそろそろ車買おうかな、SVだと無いと不便だし』
『結構店も回るしね』
『車あればお前連れてどこでも行けるし』
『え?どこか行くの』
『どこでも』
そう言ったらほんの少し間があって、紅潮した頬とキラキラした目が忘れられない。
どうしてだ、どうして彼ばかりがこんな目に遭うのか。ずっと罪の重さを背負って生きてきたのに、やっと娘の赦しをもってそれが終わるかもと言う時に、どうしてささやかな安寧を毟りとるような真似をするのか。
(……Ωだから?)
一瞬過ぎる考えを振り払うようにしてエンジンをかけた。自宅のマンションからカナタのアパートまで、どんなに飛ばしても30分はかかる。
殴られた頬が痛む。口の中は血の味がしている。どこか切ったらしい。
「……おえ……ッ……」
異物感が気持ち悪い。
ずん、と突き上げられて、胃液が上がる心地がした。
怖い。歯が噛み合わない。身体が震える。十六年前の恐怖がまざまざと蘇り、涙で視界が霞む。
蛮行に及んでいる男の顔は、十六年前と何も変わらない。嘲笑、興奮、加虐、そういうものが入り交じった、残虐な顔。嫌悪感に任せて何とか足で蹴りあげようとするも容易く捕まれ、肋の当たりを力任せに殴られる。
「っ……!」
「ガキの頃より多少度胸がついたか、まあ足掻いたところで怪我が増えるだけだぞ、しかし……」
ギリ、と胸に思い切り爪を立てられ、擦過傷がつく痛みにきつく目を閉じた。
「……臭うな、男が居るだろ」
「うるさい……!」
男がすん、と鼻を鳴らした。アキラのフェロモンはこの部屋に染み付いている。αはΩを巡り互いを牽制する生き物だ、鼻につくのだろう。
アキラ。
恐怖に勝る程の悲しみが胸を焼いた。
俺と番になって、子供が欲しい、そう苦しげに懇願する低い声を思い出す。どうして自分は、彼を傷つける事しか出来ないのだろう。どうして彼を受け入れてあげられないのだろう。全て自分の愚かさのためだ。自分に自信が無いから、罪を償う勇気が無かったから、こうしてアキラを傷つけ続けたのだろう。
「……手垢のついてないガキを犯すのが良かったのに興ざめだな。まぁ、そもそも性根が淫乱だから仕方ないか……あっちのガキでも良かったが、Ωじゃないと色々面倒だ」
「……あの子に指一本でも触れたらお前を殺してやる……!」
ヒカルは無事に帰れただろうか。
半狂乱になって何とか逃れようとするのに、蜘蛛の巣にかかる羽虫のように囚われて、叶わない。
「まあ、よく産んだもんだよ……」
下腹に走る薄い傷跡を、妙に優しく引っかかれて頭に血が上った。
「汚い手で触るな……っ!」
あの子と自分の、赤い絆だ。
空っぽの自分についた、あの子と繋がっていた証。
真っ暗な病院の窓から、自分を救い出した唯一の希望。
「……お前運命の番って信じるか?」
「……は?」
投げかけられた問に、頭がついて行かない。運命の番、出会って直ぐ強烈に惹かれ合う、たった1人ずつのαとΩ。
少なくともこの男では無い。
「は、バカじゃ無いのか……」
バキッと音がしそうな程強く、目のあたりを拳で殴られた。脳が揺れて頭がクラクラする。痛い。が、もう痛みなんてどうでもいい。
「まあ俺だって信じてないさ、でもな?十年以上経って、知らない街でお前をたまたま見つけて、それでまたこうしてお前を犯してるんだ」
にた、と口元が歪むのを、酷い既視感をもって見上げた。最低だ。絶望が心を覆う。黒く、暗く。
「ずっと思ってたんだ……男のΩなんて滅多にお目にかかれないし、あの時もっと抵抗させて遊べば良かったってな。なぁ、これも運命だと思わないか?
お前は、こうやって、俺に一生ぐちゃぐちゃにされる運命なんだよ。今までも、これからもずっとだ」
ずるずると下半身で這いずるもの。恐怖とか怒りとか絶望とか、そんな言葉で表せるものでは無い。ただ、目の前が真っ暗になるような、夜の海に沈んでいく様な、内蔵の奥が焼け爛れる様な。
怖気、吐き気、嫌悪感、まとわりつくフェロモンの香りが濃く重くなって、たぶん終わりが近い。質量がずくんと増すのを感じる。
「はは、お前の中、相変わらず最高だ。……カレシが羨ましいな、まあでもここは俺のものだよ、最初からな」
とん、と下腹を指で指す仕草が、何を意味するかなんて考えたくもない。
アキラ、アキラ、ごめんね。
「中に出すぞ、子供好きだろ?ああ、そうだ」
男がいつの間にかスマートフォンを手に持っている。
「っ……!」
咄嗟に伸ばした手を強く払いのけられ、首を無理やりねじ曲げれられる。男の眼前に顕になった項。心臓が、一気に凍った。
「いやだ、」
「お前が誰の物か、ちゃんとカレシに見て貰えよ」
カナタの家は勤めている店の近所のアパートである。電車だとかバスだとかは余り乗らない様にしており、彼は異動がある度、その店の近くにアパートを借りている。
頻繁に引越しをするためか、彼の部屋は極端にものが少ない。だから家でくつろぐと言えば、彼を自分のマンション連れてくるのが常だった。
送迎が苦になった事は無い。会えるのが楽しみで、道すがらの店を二人で開拓したり、ドライブだねと言いながら、慣れた道を二人で走るのが幸せだった。
こんな恐ろしい気持ちで、その道を走るなんて考えた事も無かった。
店の前を通り過ぎる。一瞬しか見えなかったが、ヒカルは見当たらなかった。無事に家に帰っただろうか。
カナタのアパートは店の程近く、歩いて五分程の所だ。住宅街の中、暗い夜道に車を寄せる。
「カナタ……っ」
白いアパートの二階の部屋、明かりはついて居ない。心臓の音が夜の街に響くような心地がした。冷や汗がこめかみを伝う。
駆け上がる階段、見慣れたグレーの廊下。2つ目の部屋のドア。
鍵は開いていた。
「カナタ!居るのか!?」
暗いキッチンを抜けて、白い引き戸をガラリと開けた。途端、生々しい情事の臭いが鼻を突く。殺風景な暗い部屋、そこに、彼は居た。
「…………ごめん」
ぞっとした。フローリングに蹲る彼は、血に濡れたワイシャツだけを肩に掛けて居る。
「……っ、お前……!」
「ごめん…………」
震える手でシャツの前をかき合わせているが、隠せないほど傷ついている。
血で汚れた口元、酷く殴られたらしい右目は既に赤く痣になり始めている。
そしてワイシャツの襟、項の当たりが血でべっとりと汚れていた。
「ごめんね……アキラ、……ごめんね……」
「っ、あ、……どうし、……」
心臓が早鐘を打つ。冷静にしろ、目の前のカナタは傷ついている。これ以上それを広げるような事は絶対にダメだ。そう分かってはいる。頭では理解できるのに。
「どうして……っ!?」
項についた、血まみれの暴力的な歯型。自分の一番大切にしたかったものが、先に食い荒らされた事に動揺を隠せなかった。
駐輪場の影で、ずっと動けずに居る。
お母さんに連絡をしないといけない。頭では分かっている。でも、指先が動かないのだ。もうかなり遅い時間で、きっと心配している。
思っていると、電話がかかってきた。
「……お母さん?」
『あ、良かった出た。こんな時間までどうしたの?迎えに行こうか?』
声を聞いて、そこでやっと少しほっとした。
「……ちょっとバタバタしてて」
その時、目の前の道路を見知った白いセダンが通り過ぎるのが見えた。一瞬しか見えなかったが、乗っているのは志津さんだ。息を飲む。胸が早鐘を打つ。
追えるだろうか。
これが本能なのかもしれない。
αの本性は獣だ。負ければ引き裂かれ食い物にされる。
大切なΩを守らないと。守れなかった。でも守らないと。
「友達と長話しちゃった!すぐ帰るから!」
今行かなければ、と思った。
スマートフォンをポケットに突っ込み、自転車に飛び乗るみたいに跨る。住宅街に曲がる車の背中を追って、走る。もしかしたらあの男と鉢合わせるかもしれない。そうしたら、どうする?
県道を外れると、夜の住宅街は途端に真っ暗だ。少し遠くで、車の鍵を閉める電子音がした。位置的に県道にある製菓店の裏にあるアパートだろうか。会社の近くに住んでいるのは聞いていた。
ほんのちょっとの距離なのに、あの日志津さんはわざわざ迎えに来たのだ。たぶんヒート無防備なカナタさんを、誰にも見せずに守りたかったんだ。
闇に目をこらす。
遠くに歩いている人影に、適当な家の前に自転車を置いて、ガレージの車の後ろに咄嗟に隠れた。人影は少し歩いて、たぶん二つ隣のファミレスの駐車場に入っていった。
心臓がドクドクと早鐘を打ち、燃えるように熱い血を吐き出している。県道沿いの道に出るなら、もしかしたらすれ違えるかも知れない。咄嗟にスマートフォンの録画ボタンを押して、自転車を置いたまま元来た道を走る。
息が上がる。恐怖か、興奮か。はたまた獣を狩る本能か。
暗い細い道の影から伺っていると、黒いセダンが一台、駐車場から出てきた。
「見てろよ……」
さっきの男だ。気が付かれては居ない。
すれ違いざま、スマートフォンを構えながら、私は恐ろしく冷えきった頭で、口の中で呟いた。
「絶対許さない」
お前と私の汚れた血で、お前の人生をぐちゃぐちゃに壊してやる。
スマートフォンに動画を保存して、暗闇を歩き出した。
目星を付けていたアパートの前には、案の定見覚えのある白いセダンが止まっていた。
見上げると、二階の階段から二つ目の部屋の明かりが点いた所だった。
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