第5話 まるでモノクロ映画の中で、貴方だけが鮮やかでした

 震えが止まらない。

「どうして……っ!?」

 アキラが何か言っている。首の後ろが痛い。怖い。何も考えたくない。

「ごめん……アキラ、ごめんね……」

 喪失感。首の傷から、血液と一緒に大切なものが流れていく様だ。

 アキラの顔が見れない。

 目と顔と身体と、色々な所が痛い。

 あの男のものが下半身を汚しているのが分かる。

『お前は一生、俺にぐちゃぐちゃにされる運命なんだよ』

 男の声が呪いのように耳に張り付いていた。

 バサっとアキラが上着をかけてくれるが、傷を隠した所でどうしようも無い。

「カナタ、大丈夫……大丈夫だからな」

 何が大丈夫なんだろうか。

 そっと肩に手を置かれたが、丁度痛めた場所で、ビクリと身体が跳ねてしまった。彼の手も、火に触れてしまった様に離れていく。

「……俺が付いてるから」

「……もういい、……もういいよ……」

 何がもう良いんだろう。

 自分でもよく分からないが、疲れてしまった。

「とにかく、病院に……」

 病院という言葉に、遠い記憶がフラッシュバックした。

 お前も俺に堕ろせって言う気?居るかいないか分からない命の感覚。それを捨てられないのは頭がおかしいのか。

 自分がいけないのか。始めから全て自分が悪いのか。俺がΩだから、どんなに努力しても、最後はこんな風になってしまうのか。闇が思考を覆っていく。

 ガチャ

 なんの前触れも無く、玄関が開く音がした。

 アキラと自分と、二人同時に顔を上げる。

「ヒカル……」

 彼女の名前を呼ぶ低い声が、間近で聞こえた。微かに震えていた自分の手が、更に目に見えて震えて止まらない。

 よりによって、一番見られたくない人に見られてしまうのか。

 ゆっくり近づいてくる彼女は、もうあの無邪気な彼女では無い。ただ、酷く無感情な目で自分を見下ろしている。

「……嫌なもの見せて、ごめん」

 汚いものを見ず、平穏に過ごして欲しかった。それが自分のせいで叶わない。

 ここから居なくなりたい。

 ヒカルは答えず、震える指先に絡みついた髪の毛を1本、するりと引き抜く。抵抗した時に絡んだ、あの男のものだ。ハンカチに包んでポケットに入れて、ふとテーブルの上のものを目に留めた。

「……これ、ちょうだい」

 机の上にあったのは、チープなビーズのブレスレットだった。ありふれたガラスのビーズを、シリコンのゴムに通しただけのもの。

 小さい時から折り紙やあやとりが好きだった。父に男の子らしくないからと言われてあまりやらせて貰えなかったけど、子供が産まれたら、一緒に遊びたかった。我が子への愛しさをぶつける場所を探して、一人で作ったもの。ヒカルと再会してから、触れられないのが寂しくて引っ張り出してしまったのだ。

 異動の度になんでも捨てて、空っぽになって次の仕事に向かう自分が、どうしても捨てられないほんのいくつかのものの一つ。

 渡していいのはせいぜい現金までだ。愛情は里親さんが注ぐもので、自分が自己満足の為に渡してはいけないと、そう思っていた。

 二の句が告げない自分を待たず、彼女は机の上のそれを掴むと、そのまま走って、あっという間に家を出ていった。




「あいつ、帰らなかったのか……」

 心配だが、今はカナタの傍を離れる事が出来ない。仕方なく仕事用のケータイの履歴を辿り、家に着いたら連絡を寄越すようにメッセージを送った。

「……カナタごめん、ちょっとだけ見せて……」

 青ざめた顔で、閉じたドアを呆然と見詰めているのが痛々しい。咄嗟にかけた上着をそっと退けて、シャツをきつく握る手を何とか宥めて、そっと剥ぎとる。

 酷いものだった。

 怒りと共に、苦しさが襲い来る。もう少しでも早く来てやれれば良かったのに。

 いつか噛み付く事を夢見た白い項は、きつく歯を立てられ出血し腫れている。

 ヒートでは無いから番としては成立しないが、心を切り裂くには有り余る。たった一つの神聖な場所を、虐げるためだけに傷つける行為、あまりに卑劣だ。

 左目の周りが腫れているのが目に付くが、シャツに覆われていた身体も痣だらけだった。

 なるべく驚かさない様に、肋骨あたりの酷いものに触れると、じんじんとした熱を持ち始めている。最悪ヒビが入っているかも知れない。

 皮膚を抉るように付いた爪痕が痛々しい。

 脳が焼けるようだ、視界が狭まり暗くなっていく。犯人を殺してやりたい。

「病院行く」

 ぎく、と肩が跳ねてしまった。突然明朗に喋った声に、慌てて目線を合わせる。

 目の前の見知った恋人は、見た事のない顔をしている。目はガラス玉の様に光が無く、俺の先の虚空を見るようだ。

 警察は?と問いかけようとしたが、怪我も酷いので、自分としても病院に連れていきたい。

「診断書が欲しい」

「あ、ああそうだな、手当もしてもらわないと……まずは体拭こう?」

「……自分で支度する、触らないで」

 何も出来ない歯痒さ。内心、自分の無能さに落胆する。しかし、今は何をしても彼を傷つける。

「……分かった、待ってるから」

「うん」

 よろめいて立ち上がる彼の裸体から、そっと目を逸らした。きっと視線すら彼を抉るだろう。

 小さな浴室からシャワーの音が聞こえ始めた時、ショートメールに返信があった。

『家着いた』

 分かったと返事をして、浴室を見る。透過防止の加工がされたプラスチックの窓からはシルエットしか見えないが、無理に傷を擦るその姿を見て、唇を噛み締めることしか出来なかった。


 救急外来での対応は、思ったより淡々としていた。

 Ωの男性である。性的に暴行された。外傷がある。そういう話はアキラがして、自分はじっと黙ったままだ。夜の救急外来はそこそこ来院者も居て、小声でやり取りをするのをぼうっと聞いていた。

 既視感がある。

 あの日の夜、父親に抱えられて訪れたのもここだったらしい。救急外来がある病院というと数も限られてくるし、当たり前と言えば当たり前だ。実際、未だ父が住んでいるであろう実家からもそんなに遠くなかった。

 程なくして呼ばれる。

 なんだか本当にタイムスリップしたみたいである。自分はあの日からまだ抜け出せていないのかも知れない。全部が全部どこか映画のセットみたいで、会話も大体似たり寄ったりだ。

 服を脱がされ診察台へ。消毒液の匂い。レントゲン。

 レントゲンって妊娠してたら良くないんじゃないの?

「あの……」

「大丈夫ですから入ってください」

 何も言っていないのに、医師にそう言い含められた。とぼとぼと歩いて、技師の指示に従う。

「肋骨に二本ヒビが入ってますね……」

 そうですか……としか言い様が無いが。

 アキラは影のように黙って、じっと傍に付いていた。

 医師はこういう件に慣れている感じがする。多分だが、Ωが襲われて駆け込んでくるなんて事はままあるのだろう。医師も看護師も淡々としたものだ。ちゃんと対処に流れが出来ているという感じがする。

「……アフターピルを処方できますが、どうされますか」

「……いえ、」

 今回は聞いてもらえるのか。あの時はなんだか分からないうちに飲まされて、薬が溶ける感覚を感じた途端、誰にも見られないように吐き出したんだっけ。カツンと下に落ちた小さな音に、気がついた大人は居なかった。

 父の声が勝手に再生される。

『お願いします、今子供ができるのだけは困るんです!まだ15歳なんです!……』

「もしもの時は俺が育てます」

 椅子に座る自分の横、影のように寄り添っていた彼が、重く低い声で言った。

「なに……?」

 仰ぎ見上げると、そこには無表情でギラギラした目のアキラが居る。

「旦那さんがそう仰るなら、そうしましょう」

 だってお前、喉から手が出る程、自分の子供が欲しいんだろ?

「現在ヒートではありませんから、番の件は心配ありません。念の為血液検査はしておきましょう。

 首の傷も早く処置が出来ましたから、痕も殆ど残らないと思います。3日分抗生剤を出すので飲みきってください。もし痕が気になるようでしたら整形外科で相談できますから、予約を取ってください。今日のうちに来て良かったですよ。

 妊娠については周期からして可能性はかなり低いと思われますが、基本的に安全日というものは存在しません。検査キットをお出ししますので、1ヶ月後に使っていただいて、それで陰性なら終わりという所です」

 ここで多少なりともほっとしてしまったら、ヒカルの出生も否定する事になってしまうだろうか。

 一息に話しきったところで、医師はふと、俺の手を取った。後ろのアキラがあからさまに警戒するのが、空気の重さでわかる。しかし医師は気にも留めていないようだ。

「むごい目に合いましたね。今回は寄り添ってくれる旦那さんが居て良かった」

 今回は。

 ああ、そうか。この壮年の医師は、あの時見てくれた医師と同じ人なんだ。相応に歳を取ってはいるが、四角い眼鏡の奥の実直そうな目を覚えている。

「……前の時も、お世話になりました」

「電子カルテですから、前回の診断書も出せます。警察に行くなら悪質性を裏付けられるかも知れない。ただ、Ωの強姦被害を立件するのは極めて困難です。傷害で訴える方が現実的かと思います」

 ありがとうございます、そう言って手を握り返す。自分の事を覚えてくれていた人が居るのが、何故か心強い。

「娘は里親さんに引き取っていただいたんです。最近やっと会えました。俺は今でもこんな事になって情けない限りですが、せめて娘に恥じない様にしなくちゃ」

「そうですか、元気ならば何よりです。大変な中、良く守りましたね」

 直感だが、多分この医師は、俺が薬を吐いた事にも気付いていたんだろう。

 背筋が伸びる思いがした。呆然としてなんて居られない。

 身体が所々酷く傷んだがきちんと礼をする。

 一緒にアキラも深々と頭を下げた。


「ごめん、明日も仕事なのに付き合わせて」

 院内を出ると、カナタは少し生気を取り戻していた。医師が手を取った時は目を向いたが、概ね丁寧に診察して貰えたし、前回の被害の診断書も一緒に取れた。

 きちんと処置された傷は痛々しいが、特に首に関しては早く来て本当に良かったと思う。

 とにかく今は口から吹き出そうな怒りを押さえ込んで、彼を休ませないとならない。

「診断書もあるし、被害届は明日出そう。仕事終わったら迎えに行くから一緒に行こう」

「うん、ありがとう。俺も明日仕事だし、今日はとりあえず家に帰る」

 ……いや、どう考えてもあんな事があった家には返せないだろう。

「……お前まだテンパってるだろ」

「なんで?」

 小首を傾げる顔は可愛いが、眼帯や包帯で痛々しく飾られていて、胸が痛む。

 長い付き合いである、付き合う前からしたら、かれこれ8年彼を追いかけ回しているのだ。茫然自失は何とか越えたと思うが、次は自分の心に蓋をして空回りするフェーズに入っている気がした。

 カナタは自分の感情を隠したがる。ついでに言えば自分自身から目を逸らして傷なんてないと思い込もうとする。生い立ちから来る無意識の自衛なのかもしれないが、もちろん精神衛生上悪い事この上ない。

 被害届を出すなら、事件の現場である私室はなるべくそのままにした方が良いだろう。

 第一、犯人の男がまた戻ってくる可能性がある。

 そう思っても口にするのは止めておいた。多分これは、考えないようにしている方のやつだ。

「今日は俺の家で一緒に寝てくれなくちゃ嫌だ。お前も旦那さんと一緒に居たいだろ?」

 きょとんとしたカナタの傷だらけの顔が、じわりと赤く染った。

 病院ではなんとなく夫という流れになっていて、それは全く嫌ではなかった。状況が状況だけに喜べなかったが、正直まんざらでも無い。

「旦那さんはさ、俺と寝るの?……俺、他のやつに散々汚い事されたのに、まだ一緒に寝てくれんの?」

 助手席の扉を開けてやると、痛む身体を庇いながら素直に座った。人気がないのをちらりと確認して、屈み込む。

 切れた唇に、ゆっくりと口を付けた。

 どうか彼を怖がらせないように。触れるだけの酷く長いキスをした。

 すん、と鼻をすする音がする。薄目を開けるとカナタはボロボロと泣いていた。涙に吸い付いて、身体に負担をかけないようにゆるく抱きとめる。

「怖かったな、帰ろう。腹も減ってるだろ?今日はゆっくり寝ないと」

 ひくっとしゃくり上げるのが子供みたいだ。どうせ俺しか居ないし、子供みたいに泣いていれば良いのだ。

「……明日店に送ってくれる?」

「おい、本当にその怪我で行くの?休めば?」

「そんな忙しい日じゃないし、夏休み明後日からだから大丈夫。発注も確認しときたいし、明日だけ行く」

 止めても無駄そうである。

「熱出るかも知れないぞ、無理そうだったら休むか早退しろ。多少遅くなっても迎えに行くから、どっか家以外で時間潰して。あと、言っとくけど顔やばいから」

「男に生傷あったってそんな気にならないと思うし、マスクと眼帯しとけば平気だよ」

 正直、平気な見た目でも無い。

 ついでに言えば、恐らく出会う人全てが気にすると思う。色々と嫌な予感がしたが、案外頑固なので、こうなったらテコでも動かないだろう。

 渋々了解すると、ほっとした様な顔をした。

「あ、あとさ、ヒカルに連絡したいんだけど」

「ああ、番号わかるよ」

 社用携帯を渡してやると、少し迷って、メッセージを送った。

『八代です。今日は怖い思いをさせて本当に申し訳ございません。マネージャーには自分から言っておくので、明日は休んでください』


 スマホに来たショートメールを確認する。

「……カナタさん」

 痛々しい姿を思い出して、私の身体はますます怒りを溜め込んだ。怪我は大丈夫か、病院は行ったのか、言いたいことは色々あるが、志津さんも付いているし、きっと対処はしている筈だ。

 傷の手当をしたところで、心の傷はどうにもならないだろう。

 返信は思い付かない。

 怪我は平気ですか?そんな訳無いだろう。大好きです。今言う?あんな男の子なのに産んでくれてありがとう。レイプされた直後にそんな事言える訳無い。

 頭の悪さを呪いつつ、今日はもう寝ているという事にした。もう夜の1時を回っているし、ショートメールは既読がつかないから問題無い。

 お父さんには明日相談しよう。

 きっと、私には私の戦場がある。


「八代くん!?その顔どうしたの!?」

「階段から落ちた」

 本日何度目かわからない。朝から精肉のマネージャーは悲鳴を上げたし、青果のマネージャーはドン引きしていた。今のは鮮魚のマネージャーである。物腰が柔らかく、歳が近いので割と仲良くさせてもらっている。

「いや、ええ……階段って自分の家の?」

「うん」

「いやあの、なんでそんな嘘つくの?」

「嘘じゃ無いってば」

 しれっと答えて、内心溜息をついた。案外突っ込まれるものだ。

「だって……いや言いたくないなら無理に聞かないけどさ」

「うん気にしないで」

 笑顔で心をひた隠し、その場その場をなんとか誤魔化した。こんなのを丸一日やるのかと思うとかなり疲弊しそうだが、明日から5日休めるので、休み明けにはある程度見れる状態になると思う。

「あ、店長!おはようございます!」

 振り向くと、そこには今出勤したらしい店長の中澤さんが歩いてくる所だった。やはり俺を見て目を見張る。

「おはようございます」

 軽く会釈した拍子に肋が痛んだ。一応コルセットで固定しているが、やはり安静にしているしか無いらしい。

「おはよう。八代くん、……その怪我はどうしたの?」

「階段から落ちました」

 明らかに怪しんでいる。60歳をとうに過ぎた店長は、定年前は役員と部長を兼任していた人物である。昔から色々な面で随分お世話になっていて、正直頭が上がらない人だ。

「帰りに?」

「はい」

「労災申請しなさい」

「……いえ、業務時間外でしたし、自分の不注意ですので」

 やばいな、と思った。通勤の際の事故も労災扱いにできるんだった。うっかり失念していたというか、実の所、昨日の今日で頭が働いて居ない。そして、店長はどうやら、逃がしてはくれないらしい。

「君らしくも無い、通勤時の事故はきちんと報告しなさい。……午後落ち着いたら時間を作るから、その時聞くからね」

「本当に大丈夫ですので」

 睨まれた。怖い。隣で鮮魚のマネージャーが縮み上がっている。店長はαだ。番がいるので俺のフェロモンが影響しないが故に、今まで散々迷惑をかけてきた人でもある。

 ものすごく良い人だが、怒るとものすごく怖い。

 じり、と空間に広がるαの威圧感。

 俺は俺で、昨日の事をリアルに思い出しそうになり、咄嗟に首を振って、痛みにギクリとした。

「業務命令です」

「……はい」

 やはり逃げられないらしい。


 呼び出されたのは第二作業室、通称尋問室である。元は喫煙所だったらしい小さな部屋で、時代の流れで改装したそうだ。

 年末年始など繁忙期は主に惣菜の作業室として使われるため、流し台などが備えられている。逆に言えばその時以外は空き部屋だ。

 で、問題を起こすと大抵ここで聞き取り調査が行われる。

 作業台を挟んで向かい合って椅子に座らされ、店長は淡々と話し始めた。

「午前中にアルバイトの東条さんから連絡がありました。しばらくお休みするそうです」

「……はい」

 そうした方が良いだろう、と思っていた。自分を暴行したあの男も馬鹿では無いと思うし、逮捕されるリスクを上げてまで同じ人間を狙うとは思えなかったが、それでも心配はしていたのだ。

「で、その怪我は志津がやったの?」

「え!?あの、いや、……志津さんじゃ無いです」

 まさかという名前に、うっかり動揺してしどろもどろになってしまった。言われてみれば、志津暁と自分が交際しているのは周知の事実だ。そういう風に取られてもおかしくは無いのだが、何せアキラは自分に対してひたすらに優しいので、全くその発想に至らなかったのである。

「DVでは無いと?庇い立てしても君のためにならないよ?」

「いえ……志津さんはそういう人では無いです……」

 誘導されている気がするが、自分と言えばすっかり萎縮してしまったし、疲れて頭も働かないしという体たらくである。まともに抵抗できない。

 ヒカルは何をどのくらい話したのだろう。

「階段から落ちてもそうはならないだろう。目は殴られた様にしか見えないし、首は……余程変な所に当たったとか出なければ、そんな極端な怪我は負わない。正直に言いなさい」

 これはもう無理だな、しかし自分の口から言いたくない事もある。言わないのも権利では無いだろうか。

「……お察し、いただけないでしょうか……」

 それだけ何とか言うと、溜息をついた店長は、社用携帯で何処かに電話をかけ始めた。

 微かに聴こえる数秒のコールがものすごく長い。

「おい志津!お前何したんだ!?」

 電話に向かって、店長が声を張り上げた。思わず身体がすくむ。応答しているアキラも何か言っている様だが、内容は聞き取れない。

「何をしたんだと聞いているんだ!」

「あ、あの……」

 ぎろりと睨む視線が先を促している。

「俺が……」

 電話が切られた。急に怒鳴られて、また急に切られて、アキラもびっくりしただろう。とりあえず、自分で言うしか無いらしい。

「……何処からお話したらいいのか……」

 本当にわからないが、とりあえず言えそうな所から……それはどこだろう。

「あの……昨日、店の前で、以前トラブルになった男に待ち伏せをされまして……」

 無言で先を促される。見た目はおじいさんなのだが、圧がものすごいのだ。

「その時たまたま東条さんも居て、……その、……彼女に何かあるといけないと思いまして……家に行くと言われたので、彼女からとにかく離れたかったので、……家に入れました」

 何とかオブラートに包もうとしているのだが、それを許してくれる雰囲気も無い。

「そこで、その……あの、……」

 情けない。自分はΩである以前にいい歳の男である。あまりにも辛い。

「彼女は」

 店長が重く口を開いた。

「自分の実の父親に、実の母である君が暴行を受けたと言っている。あまりに信じ難いが」

 は、と息が漏れた。

 視界が霞がかる。

 苦しい。

 苦しい。息が、できない。

「……八代くん?」

 意識が真っ暗になった。


 再度、社用携帯が鳴り始めた。

「お疲れ様です。志津です」

『おい、お前今何処にいるんだ』

 中澤氏はカナタの店の店長である。昔気質の男で、今は割と温和になったと聞くが、若い頃は随分厳しい面があったというのは有名な話だ。未だMr.パワハラなんて呼ぶ者も居るくらいである。

「今日は本社近くの店回ってますが……何かありましたか」

 そりゃあるだろう。職場には傷だらけのカナタが居るはずだ。流石に突っ込まれるとは思っていた。

『あの怪我は君がやったのか?』

「はあ!?」

 思わず大きな声が出てしまい、周囲でパタパタと働いているパートの女性達がビクッと振り向いた。恐れの目線を感じるが、気にしては居られない。

「俺が!?やるわけないでしょう!」

 怒声から逃げる様に、周囲から人の気配が消えた。

 全くもって信じられない事を言うジジイだ。相手もαである。電話口とは言え遠慮はしない。

『どう見ても殴られてんだろ!なんだあの首は!?お前性欲に負けて無理に噛み付いたんじゃないのか!?』

「俺じゃありません!いい加減な事言うならヘルプラインに通報しますよ!」

 一応敬語にしているのを褒めて欲しい。

 あの白い首に、本当は俺が噛みつきたかったのに。あまりにもやるせない。

『じゃあ誰がやったんだ、知ってるんだろ』

 唐突に空気が変わった。

 嫌なジジイである。パワーハラスメントというか、尋問が上手いタイプだ。

「八代さんはなんて言ってるんですか」

『質問を質問で返すな』

 答えるべきか否か。カナタも同じ様に詰められただろうが、こちらにかかってくる辺り答えなかったのでは無いだろうか。

「俺ではありません。俺に言えるのはそれだけです」

『アルバイトが、暴行したのは自分の実父だと言っている』

 胸のあたりが急速に冷える様な感覚に陥る。まさか光が会社に言うとは思わなかった。

『俄には信じ難いが、八代くんが実母だとも言っている。君はどこまで本当かわかるか?』

 あの少女は何を考えているのか。

『あのアルバイトは、実父という人物を訴えるそうだ』


 はっと意識が戻る。混乱する頭で周囲を見渡すと、何やら圧迫感のある狭い部屋だ。第二作業室……店長と話をしていたはずだ、自分はどうやら一人で、机に突っ伏して意識を失っていたらしい。

 背中には、紺のジャケットがかけられていた。

「……え、俺寝てた?」

 仕事中である。血の気が引く思いで立ち上がるが、酷い目眩がしてまた座り込んでしまう。

「うう……」

 視界が斜めに歪んでいく様な気持ちの悪さ。どうにかしなければと思うのに、力が入らない。

 ガチャ

 ドアノブの音にはっと顔を上げると、先程まで話をしていた中澤店長が入ってきた。

「……!すいません、俺、……」

「すまない、つい力が入ってしまったな。飲めるかい?」

「……ありがとうございます……」

 差し出されたミネラルウォーターのペットボトルを受け取り、何とか一口飲んだ。冷たい水が体内を通るのに、少しほっとする。

「単刀直入に聞いてしまうが、東条さんは本当に君の娘なのかい?」

 そういえば、その話の最中に意識が飛んだのか。相手が卒倒しても問いかけを止めない中澤さんも、流石と言うかなんと言うかである。妥協するつもりは無いという事だ。

「……16の時に産んだ子です。すぐ養子縁組で里親さんに引き取っていただいて、一緒に暮らした事もないんです」

「……親子か、そうか……言いたくないだろうが、父親と言うのがその傷の犯人という事で良いかい」

 皺の深く刻まれた、狩りをする前の獣の様な目。αを人狼と呼ぶ人が居るが、つい納得してしまう。

「……ええ、そうですね。情けない話ですが……店長、俺ってΩじゃないですか」

「ああ、そうだね」

 中澤さんは怒ると怖い。しかし何回助けて貰ったか分からない。本社で急にヒートの状態に陥って、会議室に鍵をかけて籠った時、部屋の前に群がるαを追い払って家まで送ってくれたのも中澤さんだった。

「Ωって元々産むのに特化してるからか、母性本能が強いそうで。俺は見ての通り男なんですが、あの子を妊娠したかも知れないって時に、どうしても堕ろす選択ができなかったんです。それで自分の父親にどれだけ迷惑をかけたかわからない、父は凄く落胆したし、激怒しました……」

 血筋がそんなに重要だろうか。いまヒカルが生きている事が全てでは無いだろうか。彼女が今幸せに暮らしていてくれれば生まれた時の事なんて些細な顛末に過ぎない。

 自分は哀れみも感謝も要らない。ただ彼女が幸福であればいいのだ。それだけで、自分は十分生きている意味がある。

「店長、俺はお気付きの通り、15の時に強姦されて東条さんを妊娠して16で産んで、昨日また同じ男に待ち伏せされて襲われました。でもそれがどうしたって思ってるんです」

 じっと見つめる目が微かに見開かれる。

 無言で先を促されて、いっそ清々しいくらいの気持ちで応えた。

「嫌な思いをさせて申し訳ないとは思っていますが、彼女に指一本触れさせないで済んだ。俺が殴られようが、何をされようが、別にいいじゃないですか。俺は殺されたって構わないと思っていました。東条さんが、娘が、無事でいる。それだけで充分です」

 一息に言ってしまった。正直な所、ずっとこう思っていた。アキラを酷く傷つけて、沢山心配させて迷惑をかけて、それでもヒカルが無事な事に満足している自分が居る。

「私にも娘が居る、君の気持ちも少しは理解出来るつもりだ」

 中澤さんは静かに、できるだけゆっくり喋ってくれる。親が小さい子供に言い聞かせるみたいな口調だ。こういう風にお子さんと話をしていたのかな。

「でもね、想像力をもう少し持ちなさい。君が彼女を傷つけまいとした様に、君の親御さんも、君を傷つけまいとして、そしてそれが叶わなかったはずだ。君は君の身体をもっと大事にしなきゃいけないよ」

 中澤さんは怒ると怖い。怒ると怖いがとっても良い人で、何回も、何回も助けて貰った。

 家を出て16年、今たまらなく父に会いたい。



「思った以上に当てにならないな!」

 仕事を終えてカナタを向かえに行き、その足で交番に行って事情を説明したのだが、結果はかなり拍子抜けするものだった。

 そもそも、被害届を出すの自体渋られる有様だ。

「まあ、正直そんなもんだろうと思ってたから。実況見分もしてもらえて、とりあえず傷害で出せて良かったし、なるべくあの辺のパトロールもしてくれるって言ってくれたし」

 ある程度予想していたのだろう、カナタは淡々としたものだ。

「傷害って……どう見ても強姦致傷なのに。どうなってんだよ」

 診断書も持って行ったが、とかく申し訳なさそうに言われたのはやはり「たとえヒートでは無くてもΩだと厳しい」という事である。Ωのフェロモンは誘淫作用があり、αの性欲と凶暴性、身体能力をも助長してしまうからだ。仕舞いには件の血塗れのシャツを持ったまま、

『なんでわざわざついて行ったんですか?』

 などとのたまった。彼等からしたら日常茶飯事なのかもしれないが、Ωでなければもう少しまともに調べるんだろう。本当に酷いもんだ。

 そりゃα側からしたら、不可抗力と言うことにしないと、いざ自分がたまたま本能に負けて手を出してしまった際にまずいと言う事だ。世の中のルールはαが作っている事を痛感する。

「事故って事だよ。同じ相手と2回目の事故。まあ分かってはいたよ」

 しれっと言っているが、内心は酷く傷ついた筈だ。

「……余程悪質であれば逮捕できる事例もあるってネットに書いてあったんだけどな。俺からしたらカナタにした事はどう考えても悪質だ!」

 対応に不満を隠せない自分とは対照的に、被害者である彼はひどく落ち着いていた。

 助手席のシートに深くかけて、カナタは淡々と喋りながら、やはり疲弊した顔をしている。迎えに行った時に中澤氏と少し話したが、聴取の最中に倒れたとのことだった。倒れる程酷く詰めるなという話だが、中澤氏は中澤氏で、何か思考している様だった。

「監視カメラは悪意を証明できない。せめて声が入ってれば良かったんだけど、映像だけだと俺と一緒に歩いてるだけだしね。何処の誰かも分かんないし、まあこんなもんだよ。出来ることはしたよ。あとはヒカルのケアをどうするかだ」

 カナタにはまだ言っていないのだが、実は相手の素性はほぼ特定しつつある。逃亡する犯人の車を、東条光のスマートフォンが録画したらしい。会社の弁護士を通して受け取る予定で、警察にも追って連絡する。

 ただ、今はまだカナタには言わないようにと、中澤氏から指示が来ていた。


「俺はもう少ししたら仕事行くけど、カナタはなるべく家に居ろよ。あと、帰りお前ん家行って来るけど何か持ってくるものある?」

 自分は今日から季節外れの夏休みだ。サービス業としては非常に貴重な5日間の休暇である。

 本来だったらあちこち出歩いて羽を伸ばすのかも知れないが、生憎と自分は公共交通機関が得意では無いので、連休と言っても大抵は家に籠って暇を楽しんでいた。

 外に出ないのは問題ないのだが、着替えが足りないのが不安だ。頻繁に泊まるのでアキラの家にも少し服を置いてあるのだが、心許ない。

「うーん……申し訳ないんだけど、服とか下着とか靴下とか、二日分くらい適当に持ってきてくれると嬉しい」

「他には?」

 ちょっと考えてみるが、そもそも自分は物を持たない質で、家には大したものが無いのだ。無趣味と言う訳では無いが、趣味と言っても動画を見るのとちょっとした読書、くらいのものである。それも荷物を増やしたくないので、大抵近所の図書館で借りるか、電子書籍で買うかだ。

 今借りている本が無い事を頭の中で確認する。

「あ、冷蔵庫の中ちょっと確認して欲しいな。危なそうなのあったら持ってきて欲しいかも」

 何せ、連休も基本的には自宅に居るつもりだったので、何も整理をしていない。

「分かった。家にあるもんは何でも使っていいから。ちゃんといい子で留守番してるんだぞ」

「ははっ」

 真顔で冗談を言うから、思わず笑ってしまう。

 つられてか、アキラもふっと笑った。お互いずっと笑っていなかった気がした。

「初めて会った時はあんなに可愛かったのに、いつの間にか大人みたいな顔しちゃってさ」

「毎度可愛いしか言われないクソガキから、よくカレシまでのし上がって来たって自分でも思うよ」

 初めて会ったのは彼が高校三年生、自分が23歳の時だった。

 背はすらっと高かったが、まだ少年らしい体躯をしていて、色の薄い猫っ毛を遊ばせた、本当に可愛い少年だったのだ。

 目つきがちょっと悪くて、無愛想で、思春期らしくいつも難しい顔をして。

『八代さん、俺が誘ったらご飯食べに行ってくれるの?』

 ムスッとしてそう言ったのは、今にして思えば照れ隠しだっのだろう。言われるがままに待ち合わせをして、彼が食べ放題の焼肉を気持ち良いほどよく食べるのを見て非常に癒された覚えがある。そして、元々奢るつもりだったので、先に会計を済ませておいたらものすごく落ち込まれた。健気にもバイト代で奢ってくれるつもりだったらしい。懐かしい話だ。

 まさかその後、こんなガタイの良い美青年になるなんて全く思っていなかった。

「今でも世界一可愛いと思ってるよ」

「ヒカルには敵わないだろ」

 何を拗ねてるんだ、本当に可愛いなお前は。

「比べるものでも無いだろ」

「ふーん」

 ちゃんと警察に行ってよかった。出来ることはしたのだ。身体はまだじくじくと痛むし、たまにフラッシュバックを起こして悲鳴を上げそうになる。でも、気持ちはすっきりしていた。

「いつまでも子供扱いしてるとそのうち痛い目見るから、楽しみにしてろよ」

「はいはい」

 そろそろ時間なのだろう。恵まれた体躯に黒の背広を羽織る姿は、本当に色気のある良い男だ。

「なるべく早く帰るから」

「うん。行ってらっしゃい」

 いつか、これが日常になったりするのだろうか。

 背中を見送って、鍵をしっかりとかけた。

 いつかの前に、ヒカルとしっかり話し合わなければならない。怖い思いをさせた事を謝って、とにかく出来る事をしよう。あと、安全の為にもバイトは辞めてもらう。ご両親にも謝罪しなくては。

「夜に電話するか……」

 平日の昼はきっと学校と仕事がある。なるべく邪魔にならない時間に、まずは連絡をしなければ。何とかヒカルと話せると良いのだけど。

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