最終話 奏多へ

 それからはあっという間だった。

 まず、深見は完全に強姦致傷で立件される事になった。それと言うのも、俺に対する明確な悪意は、今回の一件で疑い用も無いものになった。父に対する暴行はもちろん、他の被害者に対する強姦致傷も再捜査となる。

 また、父は何年も前に深見の玄関先まで訪問していて、その時かなり侮辱的な対応を受けたらしい。父の強かな所はそれを録画しながら行っていたところである。当時は犯人不明のまま事故として処理され、悪意の証拠にはなり得ないとされたものが、今になって信憑性を持つものになるとは、流石に当時も思わなかっただろう。

 父はそうやって、俺を何とか守ろうとしていてくれたのだろうか。

 また、別の方向の証拠として、深見は俺や、他の被害者を暴行する動画をしばしば撮っていたらしい。何に使っていたのかと思うと身の毛がよだつ。

 驚いた事にその提供は元は深見の元妻だったとの事である。

 正義感などではなくトカゲの尻尾切りで、残された家族からしても刑務所に隔離するのが一番望ましかったのだろう。

 それでも、いつかは必ず出所する。その時深見はどうするだろうか。

 何より大事になったのは、その暴行の様子を撮影したファイルが共有されていたリストの中に、県警の要人が居たことである。

「……だからお巡りさんもあんなに冷たかったのかな」

「……正直、Ωへの暴行を立件しようとすると左遷される、みたいな流れはあったみたいだな」

 アキラに肩をぐっと抱き寄せられて、大きくひとつ、ため息を吐いた。

 世論はあっという間に県警を糾弾し始めており、今ごろ署内はめちゃくちゃになっているだろう。市民を守る通常業務に影響が出ない事を祈るしか無いが、それも彼等の中の膿が原因とあれば、こちらがやるべきは正確な証言くらいである。だが、それもやり尽くした。

「会社で民事訴訟もやるけど並行してやるのはやっぱり難しいみたいで、刑事裁判の後になるみたい」

「まあ色々確定してからだろうしな。長くなるな……」

 正直気持ちはクタクタだが、晴れやかでもある。泣き寝入りせず、逃げず、できることをする。これからも長い期間をかけて裁判が続くが、相手が拘束されているというだけでも気持ちはかなり楽だ。

 さらさらと、アキラの髪を撫でてやる。癖のある猫っ毛が、窓からさす陽の光に透けて、金色みたいな色に光っている。

「……あのね、来年の新卒採用の希望者、物凄いんだ。いつもの三倍くらいでさ、まだ増えるかもだって」

 アキラも薄く目を開けて、頷く。

「へえ……記者会見もなあ、カッコよかったもんな。社長もヒカルも」

 人事部長が言っていた会社側のメリットというのは、正にこの事だ。

 スーパーマーケット業界は常に人材不足、入社したとて膨大なタスクに心身を削られ、若い者からどんどん辞めていく。そして人が減る事で、仕事が回らず更に現場が疲弊する悪循環を常に抱えている。

 しかも、業界としてはすこぶる不人気で、入社希望者は減る一方だ。

 それが今年は例年の3倍も新卒が集まり、しかもΩの希望者もちょこちょこ居るらしい。

 社員の人権を大切にする会社だ、と世間に広くアピール出来たということだ。

 会社としては頭数が増えて悪い事は無いし、Ωが社内に増える事で働き方の見直しを計れる良い機会になるかもしれない。

 そういう意味でも、自分が今人事部に居るのは意味のある事なのだ。

 明日からの仕事も忙しい。

「疲れたね……」

「そうだな……」

 暖かい日差し、ソファーに凭れて、隣には愛する人。もうすぐ夏が来るのだ。

 あの冷たい雨は遠く。

 あんなに酷い事があったのも、もう半年以上前の事だ。

 ヒカルも高校二年生になっている。

 あれから少し話し合いがあって、結局ヒカルと俺は、遠縁の親戚という扱いで良しということになった。母親としてしていた援助は不要、しかし、何か悩みがある時に相談に乗ったり、たまに一緒に出掛けたり、そういうお付き合いは沢山してあげて良いらしい。

 なんて幸せなんだろう。これからも、ヒカルと沢山会えるし、沢山話もできる。

「嫌なこといっぱいあったけどさ、ヒカルとも会えたし、お父さんとも久しぶりに話せたし、悪いことばっかりじゃ無かったよ」

 嫌な事はそれはもう、思い出すのも辛い様な出来事ばかりだ。でもそれだけでは無い。そう思えると、心が救われる様な気がするのだ。

「……痛い時は痛いって言うって、約束して。あのな、ヒカルが可愛いのと、お前が傷ついたのは全然別の話だ」

 アキラは今日も優しい。

 深見とやり合った割には幸い大きな怪我も無い。

「でも今幸せなんだ。とても」

 明るい日差しの中で見上げるアキラは、神様みたいに美しい。その色の薄い優しい瞳が、俺を写している。

「ずっと考えてたんだけどさ……」

 低い声が色っぽいなと思う。

 大きな手は節が太くて、その手に包まれた俺の手は子供か女の人の手みたいに見える。

「俺と結婚しよう。ずっと一緒に居て欲しいんだ、一番近くに、カナタが泣いてても、俺が一番に気がつくように」

 たとえば、あの日雨の中で泣いていた俺に。

「ありがとう」

 柔らかな唇に吐息を塞がれて、微睡むような幸福に溺れる。

 たとえば、病院でお腹を抱え、真っ暗な空を見上げて、不安に震えていた俺に。

 いつかこんなに幸せになるんだよと、言ってあげられたら。




 真っ暗な夕方、バシャバシャと大粒の雨が降っていた。焦燥が胸を焼く。早く。早く。早く。

 見慣れた紺色の傘が、開かれたまま歩道にうち捨てられている。

 車を降りて、身体が濡れるのも構わず見回すのと、コンテナが立ち並ぶ貸倉庫の奥から、すすり泣く用な声が聞こえた。

 この光景を知っている。

 そこには制服を剥がされ、頭から血を流して、明らかに強姦された息子がうずくまって泣いていた。

 男が駆け寄る。

 私だ。

『どうして!なんで呼ばなかった……っ!』

 酷い他責思考だ。奏多から着信はあったのだ。自分が気が付かなかった。

 奏多が泣いている。可哀想に。それを無理やり引き上げるように立たせて、雨でぐちゃぐちゃになっている学生鞄を拾い、奏多と一緒に車に押し込む。もっと優しくしてやれなかったものか。余裕が無かったんだ。せめてもっと。

 場面が変わる。ここは家だ。

『なんてことだ、直ぐに堕ろさないと……』

『お父さん、待って、ねぇ、』

『病院を探そう』

『嫌だよ、お腹に赤ちゃんが居るんだよ』

『……何を言っているんだ?』

『赤ちゃんに聞こえたら可哀想だよ、もうやめてよ』

 そう言った奏多の顔は、霞がかかったように思い出せないのに、頬を叩いた手の感触は、刻み込まれた様に忘れられない。

 私が悪かったのだ。俺がもう少しでも、この子の言葉に、この子の傷に寄り添ってやれていたら。

『お腹の子を殺すなんてできない、そんな事したらこの先ずっと、悲しくて生きていけない……!』

 奏多が泣いている。

『巫山戯るな!学歴も何も無いΩが子供を抱えてどうやって生活するんだ!水商売で食っていくつもりか!!?』

 泣いている。傷ついた子が、更にその傷を抉られて。

『どうして、お父さんは、俺の話を、聞いてくれないの?』

 聞くべきだったのだ。

 例えば妻が生きていてくれたら、この子にどうしてあげたのだろう。

 あの日、奏多は、きっとどうしようもなくて、辛くてたまらなくて、頼る人も居なくて、妻の墓の前で泣いていた。

 方方走り回ってやっと見つけた私は、その腕を掴んで、車に載せる。

 病院の予約を取った日だった。

『帰るぞ』

 奏多は応えない。後部座席で鼻をすすって俯いている。

 もう、私には何を言っても無駄だと知っているのだ。

 もっと奏多に言えることがあっただろ。

 なんで俺はこうなんだ。

 なんで奏多を守れなかった。

 全て終わってしまった後でも、どうして心を守れなかった。

 奏多が行ってしまう。

 自分の手の届かないところ。

 名も無き我が子を守るため。

 俺から、お腹の子を守るため。

『どうして面会出来ないんですか!?あの子はうちの子です……!』

 言いたいのはそんな事じゃ無いだろう。

 どうして。

『早くどうにかしないと』

 どうして。

『進学はどうする』

 どうして。

『お前の為を思って言ってるんだ!』

 どうして。

 ちがう。

 そうじゃないだろう。

 私は、あの子に、ただ、

 ただ、奏多を幸せにしたかっただけなのに。

 ただ、あの子はあの日、心から傷ついていたのに。

『奏多』


 ぺたり、と頬に手の感触がして目が覚めた。

「…………なに……?」

 布団を並べて横に眠っていた奏多は、記憶より遥かに大人ではあったが、眠いのかあどけなく首を傾げている。

 自分は魘されていたのか、どうやら起こしてくれたらしい。寝巻きにびっしょりと汗をかいていた。

 夢に見たかつての記憶の中、奏多はずっと泣いていた。

 今はと言えば、一連の騒動もひとしきり落ち着いて、こうして生まれ育った家で、結婚前のほんの一時、布団を並べて寝ている。

 手を伸ばすと、容易く黒い髪に手が届く。そのまま、震える両手で、恐る恐る抱き寄せる。すっかり大人になった奏多は多少身じろきしたが、大人しく腕に収まっている。

「……ごめんな」

「……ん」

「ごめんな……痛かったろ、怖かったろ……可哀想になあ……」

 腕の中の奏多の中の、あの幼い少年に、届くかは分からない。それでも、おずおずと抱き返してくる腕は確かに我が子のものだ。

「私が…私が悪かったんだ、……辛い思いをさせて、本当にごめんな……」

 奏多はうん、と頷くように腕の中でもぞもぞとして、

「……あのね、……心配かけてごめんね……」

 そのまま眠ってしまった。

 ああ、そうだ、うちの子が帰ってきたのだ。




「おかあさーん、お手紙!」

「はいはいちょうだいね」

 ランドセルからちょっとくしゃくしゃになった封筒を出して、奏多は得意げにそれをくれた。大事なお手紙は直ぐに出すお約束。

 えらいえらいと頭を撫でると、嬉しそうにパタパタ跳ねた。やっと三年生になったが、なんだかまだまだ小さくて、背の順も前から二番目か三番目くらいだ。

 封筒に印刷された文字列を辿る。

 ほんの少しだけ勇気を出して、封を切った。

 ああ、そうか。やっぱり。

『診断結果 Ω』

 驚きは無い。そうだろうなと思っていた。だって、こんなにも可愛らしいのだ。

「かなちゃん、ぎゅーってしよ」

 両手を広げると、満面の笑顔を浮かべた奏多は、文字通り胸に飛び込んできた。温かい体温。柔らかい頬。小さな手。きつく、きつく抱きしめる。どうか祈りが届きますように。

 神様、出来ることなら、どうか。

 心無い人に脅かされず、なるべく美しいものだけを目にして、願わくば愛する人以外に触れられること無く、いつか大切な人と巡りあって、世界で一番幸せな子になりますように。


 終

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