第13話 あいたかった、私の世界の始まりである君に
家具もろくに揃っていない安っぽい部屋で、男は目を覚ました。
妻に離婚されるのは予想していたが、あの女、とんでもないものを盗んでいきやがった。
明日か明後日か、世界が終わる。もう終わりだ。しばらく表には出られないだろうし、趣味の散歩もお預けになる。
まあ、悪くは無い人生だった、とは思う。散々Ωを蹂躙できたし、Ωの心に自分自身を傷という形で刻むこともできた、何よりαの娘も作れた。
豚箱も何年かしたら出れるとは思うが、居心地は悪そうだ。
明日か明後日か、はたまたもう少し先か、どうせ捕まるなら、最後にちょっと引っかかっている事を精算したい。
ならば、早い方が良いだろう。何せ時間が無い。
彼には会えるだろうか?
目を閉じると、夢みたいなあの雨の日が蘇る。
無垢な身体は初めての発情に戸惑い為す術なく、恐怖と絶望と意識の混濁、薄ら開いた目の涙を舐め取り、血混じりに受け入れた処女の食い締める様なキツさと、その中を初めて征服した高揚感。
何より、あの子は、喉から手が出る程欲しかったαの子を産んでくれた。
それなのに。
「……酷いじゃないか、俺の事を天災だなんて」
確かに刻みつけた筈なのに。俺の存在を。俺への憎しみを。あの無垢なΩの腹の中に。
ずっと俺を、想ってくれると思っていたのに。俺の事なんて、見ていないだなんて。
息子の職場を見てみたい、と連絡してくれたのはカナタのお父さんだった。
カナタは少し動揺したが、ヒカルの事も少し落ち着いたし、更に言うなら、これを逃すとまた会える機会がいつ来るかわからない。
ならば店で落ち合って、少し売り場を見て回って、そうしたらバックヤードで待たせているカナタと合流して、どこかでご飯でも食べましょう、と提案したのは俺。
この親子、こじれ過ぎて息子の彼氏を介さないと会話すら出来なくなっているのである。
俺はと言えば、彼氏のお父様に気に入られて損は無いし、むしろいずれ結婚を申し込むとなったら仲良くしていただけるに越したことはない。
カナタも俺も非番だが、勝手知ったる店だ。裏に車を停めて、カナタはとりあえず事務所で待たせる事にした。
事務の女性は私服のカナタに興味津々だが、異動の多い会社な事もあって、何か特別変な目で見られたりはしていない。
「ちょっと出てくるから、何かあったらケータイで呼んで」
「分かった」
ちょっと緊張した面持ちで、カナタは何を思ったか監視カメラの画面をリモコンでいじっている。
「お父さん探してんの?」
「見つかるかな?」
「ずっと会ってないんだろ、分かるのか?」
「着物着てるかもしれないから」
「あー……そしたら目立つか。じゃあ後でな」
ちょっと楽しくなってきて、俺は事務所を出た。お父さんの手前、一応失礼にならない程度に畏まった私服を着ているので、時たますれ違う顔見知りには「休日出勤か?」なんて声を掛けられたりもする。
さてさて、カナタと俺と、どっちが先にお父さんを見つけられるだろうか。
先程到着したと連絡が来た所だ。
広い駐車場に車を停めて、ふうと一つ息を吐いた。目の前にあるのは大きなスーパーマーケットで、同じ敷地にドラッグストアや他の店舗も入っているようである。
息子はつい数ヶ月前までこの店で管理職をしていたらしい。比較的新しそうな大きな店舗を見ると、とても立派な事に感じる。
自動ドアを二枚くぐって、入った先は焼きたてのパンの香りがした。良くある店内調理のベーカリーコーナーだが、色とりどりの商品説明と、香ばしそうな焼き色が目を引く。帰りに買って帰っても良いかもしれない。
しかしながら、とりあえず志津暁くんと約束をしている手前、買い物カゴは持たずに少し歩いてみる。
息子はあんなに幼かったのに、店で働いて、一人で暮らしていたのか。水商売に身をやつす事もなく、貧しくとも静かに。
私はなんて愚かな事をしたんだろう。無理矢理にでも自分が信じる「普通」の道を歩かせる事が正しいと思い込んで、そうして強要して、結果ここまで会うことが出来なかった。
だが、だからこそ彼がきちんと自立して、社会の役割の中でその居場所を得ていたのもまた変わらない事実だった。
なんとも言えない気持ちで、夕方にさしかかり、混雑する売り場を避けながら、店の端をそろそろと歩く。
志津くんは大きいから、近くに来たら直ぐ見つけられる筈だ。
悪戯にうろうろするより、どこか邪魔にならない所でじっとしていた方が良いかもしれない。
そう思ったら、視界の端に小さなイートインスペースを見つけた。時間帯なのか他に座っている人も居ないし、ちょっと掛けていても問題無さそうだ。傍にはサービスカウンターがあり、なかの女性店員が男性客の対応をしているのが、夕方の喧騒に紛れて聴こえている。
「……致しかねますので……」
「先日お世話に……」
なんだろう。サービスカウンターでやる事と言ったら、菓子折を買うとか荷物を送るとか、そういう事じゃないかと思うが、どうにも何か、言葉尻は柔らかいが揉めている様に聴こえる。
そちらに目をやろうとした時、ふと、見知った顔が目に止まった。
そこだけ、まるで時が止まった様だ。
真っ黒な艶のある黒髪は若い頃の自分とそっくりで、目は猫のようなアーモンド型、頬は妻に似てふっくらと丸い。
「奏多」
呼ぶと同時に、振り向く。
息子と見間違えたそれは少女だった。
訝しむ様に首を傾げる仕草さえ似ていた。
そして、サービスカウンターに居た男も、少女を振り返った。
瞬間、背筋が凍った。
同時に草履の足が床を蹴る。男の手が少女に届く前に、その汚い手を掴んだ。
「逃げなさい!」
少女は怯んだが、そのまま動かない。
「私の事を覚えて居ますか!?」
感情のまま、叫んだ。憎悪が胃をせり上がり、悔しさが視界を赤く染める。
確かに一度、十年以上前、インターフォン越しに男と話した事がある。
深見は訝しむ用に首を傾げたが、やがて合点がいったらしい。
「ああ、……あなたもΩでしたか、失敗したな。ドアを開けておけば良かったか」
ぐっと顎を掴み上げられて、呼吸が詰まった。
「もっと早くお会いしたかったですね、お若い時にお相手願いたかった。いや、でも今でも充分お美しいですね」
ぐっと力の籠る手を何とか剥がそうとするも、相手の握力が強すぎる。ふと、嫌なものが目に入った。男のジャケットの内ポケットに、ナイフの柄が見えている。
背筋に冷たいものが走ると同時に、男の気配が鉛のように重くなる。
低い、低い声が鼓膜をぞろりと撫でた。
「ここであなたを殺せば、ご令息は俺を憎んでくれますか……?」
恐怖が這い上がり、足元に力が入らない。苦しい。ナイフに手が伸びるのが見える。
殺される。
冷や汗が背中を滑ると同時に、タンッ、と何処か近くで音がした。固い床を蹴る音。直後、身体に衝撃が走る。
床に打ち付けらた身体には、少女が覆いかぶさっていた。
奏多に似ている。似すぎている。まさか。
「奏多の子か……?」
少女はしゃがんだまま、深見に向き直り、私を庇うように手を広げた。
「こっち来んな!クズ野郎!」
愛らしい外見からは想像だにしない怒号が、耳を劈く。
同時にサービスカウンターに警備員を呼ぶ放送が流れているのが聞こえた。先程対応していた女性店員が必死に電話を取っている。
ひらり、と刀身が光った。
サバイバルナイフだ、刃渡りは内蔵に優に届くだろう。
「逃げなさい!私は君に庇われる資格など無い……!」
少女は振り返らず、小さな身体から、精一杯の威圧で相手を押し返そうと気迫を込めている。相手も一瞬怯んだが、にやりと笑う口元からしてあまり効果は期待できない。
吐き気がする。周囲から悲鳴が聞こえる。
私がいれば、この子だけなら逃げられるかも知れない。
少女の肩を掴む。振り返らず、一心に深見を睨み返す彼女に、私は必死に語りかけた。
「私は、奏多の父親だ!……私が、君の存在を誰より否定した人間だ……!」
「そんなん仕方ないじゃん!おじいちゃん、カナタさんが一番大事だったんだから!」
時間が止まる。
『まだ15歳なんです……!』『水商売で食っていくつもりか!?』『ふざけるな!絶対に認めないからな!』『早く病院を探さないと……』
『……あいつ一体何処に……!』
そうだ、仕方なかったんだ。
でも、ごめんな。本当にごめんな。守ってやれなくて、大切にしてやれなくて、本当にごめんな。
私は一体、今までなにをして来たんだろう。
ただ、私は……
悲鳴を縫って、大きな人影が現れた。
深見が振り向く一瞬を待たずして、凶器の様な拳が首を折る勢いで頬にめり込む。
「志津さん!」
少女の叫びに返事もせず、志津くんは倒れ込む深見の腕を恐ろしい勢いで踏み抜き、取り落としたナイフを蹴り飛ばした。
「なんだ、思ったより丈夫そうじゃん」
呻く深見を見下ろして、声は極めて落ち着いている。が、その中の感情は読めない。
しかし身のこなしは明らかに場数を踏んだそれだ。彼がどうしてそんなに喧嘩慣れしているのかは分からないが。
よろりと立ち上がる深見が、見下ろす彼の顎に右の拳を撃ち込む。
急所だ、脳が揺れれば脳震盪を起こしてしまうだろうが、殴られた志津君はビクともせず、不釣合いなほど冷静に叫んだ。
「不審者をバックヤードに確保します!従業員は警察が来るまでお客様を決して近づけない様に誘導してください」
「は?」
そう間抜けに返した深見の胸倉を掴むと、容赦なく眉間に頭突きを叩き込んだ。
「あんたちょっと俺とサシでダベろうぜ」
舌をかんだらしい、深見の口からはボタボタと血が溢れている。
志津くんはそれを無理矢理立たせてサービスカウンターのさらに奥の、物置の様な場所に引き摺って行った。
「うわあ……やっぱ元ヤンだ」
「……君、済まなかった、ありがとう、怪我は無いかい」
少女はやっとグレアを収めて、くるりと振り返った。
「大丈夫!あのね私、東条光って言います!おじいちゃんは?」
αであろう彼女はグレアの高揚もあってか、目がキラキラと輝いている。額の汗を拭い、興味深そうにこちらを見る目は、先程まで凶悪な男と対峙していたとは思えない程年相応の愛らしさに満ちていた。
「私は……」
「お父さん!!」
人混みの中から声がして、少女と一緒にその声の主を探す。
「ヒカルちゃんも……」
十六年ぶりに見た奏多は背も伸びて、中性的ではあるがそれなりに大人の男に成長していた。しかし目に涙をいっぱい貯めて、私と、娘であろう少女を抱きしめる。人目も憚らず泣く様は、当時の泣きじゃくる姿を思い出させて、胸がぎゅっと痛む。
「アキラは……?」
「クソ野郎連れて奥行きました。アキラくんの方が全然強そうだったから大丈夫だと思うけど……あいつ刃物持ってたけどそこに落ちてるし」
「ちょっと見てくる……」
フラフラと立ち上がる奏多の腕を少女が掴む。
「危ないから警察の人来るまで待ってください。それに、志津さんサシでダベろうって言ってたから、きっと大丈夫です」
少女はハッキリとそう言って、奏多をなだめた。よしよしと背中をさすってやっているあたり、なんだか恐ろしく肝がすわっている。
「おじいちゃん」
「はい?」
思わず返事をしてしまったが彼女の中では既に祖父の扱いで良いのだろうか。
罪悪感があり、そして少しくすぐったい。
「もう呼んじゃってるけどおじいちゃんって呼んでいいですか?わたしお父さんとお母さんとカナタさん居るけどおじいちゃんってポジションの人居ないの!」
少し戸惑って、息子の表情を伺ってみる。潤んだ目のまま多少驚いた顔をして、困ったように笑った。
「……君の好きな様に呼んでくれ、光さん」
「おらちゃんと歩けよ」
「クソガキ、離しやがれ!」
口から血を撒き散らしながらもそう言われて、おっしゃる通りにクソ野郎の腕を離すとすかさず襟首を掴まれる。そこそこめかしこんで来たのに、いちいち血で汚れてイライラする。
何よりこいつ、全く喧嘩慣れしていない。
喧嘩してる奴は襟首なんかまず掴まないし、掴むとしたら思い切り上にあげて首を絞め上げる。そうしないと、
ガンッ
隙だらけだからだ。自ら間合いに入って突っ立ってる様なもんだ。
さっき一度頭突き食らって同じとこにもう一度叩き込まれてんだから世話無い。
「ホントクソだな。自分より弱い相手しか殴ってこなかったんだろ、なあ?」
頭を抱えて蹲る胸元を容赦無く革靴で蹴り上げた。面白いくらい耐久性が無い。みっともなくゴロンと横たわって、ゲホゲホ咳き込む横腹を更に蹴り上げる。
「オエッ……」
「ははっ、今まで散々自分もしてきたんだろ?奏多も酷いもんだったよ」
すかさず足が飛んでくるのを適当に受けた。ある程度こちらも痣を作っておかないと過剰防衛と捉えかねられない。
腹の底に力を込める。血が煮え滾る様だ。この男を許さない。久しくしていなかった本気の
「酷いもん、ねえ?楽しかったよアレは。お前が何回抱いたって、結局あれの人生の真ん中は俺だ、俺が潰した男だよアレは!」
血混じりの唾を吐いて叫ぶ男は汚いことこの上ない。
俺の怒りは滾る一方で、空間一体をグレアがジクジクと汚染する。Ωだったら吐いて失神してもおかしくない程の重さだろう。
徐々に青ざめてきたこいつも一応αだろうが、悪いが格が違う。
努めて声を搾って、その間抜け面に吐き捨てるみたいに語りかけた。
「……そうだな、お陰さんで、俺が初めて抱いた時も酷いもんだったよ、泣き叫んで、怯えて、暴れて……」
たまたまだった。たまたまヒートの時に居合わせてしまったのだ。カナタは泣いて謝る俺に、震える声で「これは事故だ」と言い聞かせたが、はたしてこいつと俺と、根本的に差があるだろうか。
深見は荒い呼吸をしてはいたが、それでも罵ることを止めはしない。
「は、所詮同じ穴の狢だ。お前だって泣き叫ぶΩをヤってんだ、しかものうのうと口元を拭って、彼氏面してんだから質が悪い。お前だってあいつの腹を好きに掻き回して、プライドも何もかも踏みつけて犯してんだ!当たり前なんだよ、あいつはΩなんだから!」
にた、と笑う男は平素なら二枚目なんだろうが、今はただただ醜い。それは俺だってそうだろう。
「俺達は所詮獣だ!αがΩを蹂躙するのは本能だ!Ωの本質は俺達に股開いて孕むことだ!」
αの本質は結局、我が子を望み、Ωを犯すケダモノだ。
そうして、Ωは誘い、孕み、産み、育むもの。
それは確かにそうだろう。
「ふーん、あんたが正しくて、世の中の法律だとかルールが間違ってるって思ってんの?」
冷たく問いかける。深見はとうにルールを破り、結果裁かれる事になる。
「そうだ!知ってるだろ、Ωとのセックスがなんであんなに良いんだと思う?生き物として正しくそうあるべきだからだ!」
だからって、αとΩ、二人の関係がそれだけで説明できるわけが無いじゃないか。
αとΩである以前に、俺とカナタは人間だ。
与えられた人生の中で、もがき苦しみ、それでも互いに寄り添う事を望んだ、二人の人間だ。
「……なあ、お前は本当に惨めだよな」
殊更優しく見下ろしてやる。
「結局何人抱いた所で、お前のものになったΩは一人もいないじゃねえか。俺はお前と同じクソ野郎だけどさ、それでも上手く取り入って、八代奏多を手に入れた。アイツは身も心も腹ん中まで、全部オレのもんだ。……全部をさらけ出してるΩってめちゃくちゃいい匂いがすんだよ」
カナタが無防備に注ぐ愛情を、全身で感じられるのはこの世でただ一人。それはこいつじゃなくて俺だ。
「お前は、通りすがりのΩとヤッただけ。最高のセックスなんてしてないし、誰も手に入れてなんかない。そんな中途半端な事して挙句はムショ送りの本当に惨めな男だ。カナタの中にお前への気持ちなんか一欠片も無いんだよ」
深見が獣のような声で叫んだ。
大したグレアだが俺にとっちゃ造作もない。
そう、俺たちの本質は獣だ。
だから俺たちは人である為に、愛する人を大切に、大切にしなければならないのだ。
まもなくお巡りさんが到着して、ボコボコになっている深見と、ちょっとやり過ぎ風の俺を警察署にご案内してくれた。
警官に伴われてバックヤードから出てきたアキラくんは涼しい顔をしていたが、一応事情聴取で警察署に同行するらしい。
深見は白目を剥いて気を失っていた様だが、アキラくんが「暴れるんで蹴っちゃいました」と言ったら労われていた。そもそも刃物を持っていた相手だし、先にΩが襲われている。過剰防衛にはならないだろう。
カナタさんは付き添うと言ったが、お父さんと一緒に居るように言われて、私も一緒に救急車で病院に行く事になった。とは言え私は無傷だし、おじいちゃんはグレアで体調を崩しちゃったのと、私が体当たりしたときあちこち痣を作っちゃったくらいのものだ。それに関してはちょっと申し訳ない。
すぐ近くの病院で処置してくれる事になり、私はカナタさんと二人きりで、おじいちゃんが手当してもらうのを待つことになった。
ロビーは幸い空いている。
「カナタさんあの、……あの歌、あの、食堂で教えてもらったやつ……」
「うん?」
「現地語の難しい方、あれ、赤ちゃんがお腹に居る女の子の歌だったんですね……」
カナタさんはちょっと困った様に笑う。
あの歌詞は、若くして妊娠した女の子が書いたものだった。抽象的ではあるが、曲を聴いているとパズルのピースがハマるみたいにストーリーが浮かんでくる。
『パパ、ママ、許して』『彼女だけなんだ、彼女が必要だ』『何でもする』『彼女と生きたいの、お願い、』『私は何も欲しくないから』『許して、パパ』
「『きっと二人で生きていける』」
和訳の歌詞を、カナタさんが優しい声でなぞって、そして俯いて、私の手を握って。
「ごめんね、二人で生きられなかった」
パタパタと、カナタさんの綺麗な目から、また涙が零れていた。
カナタさんは、私と生きようとしたんだ。私はそれが嬉しかった。
「良いの。カナタさん。私、今とっても嬉しいんだ。……一個だけお願い聞いてくれる?」
目尻を真っ赤にしたカナタさんは、うんうん頷いて、震える声で言う。
「うん、俺ヒカルちゃんが良ければ何でもするよ……」
涙で目がキラキラしている。可愛い人だ。こうしていると、職場の上司だった頃よりずっと幼く見えた。それこそ、雰囲気だけなら子供みたいな無垢さだ。
それを隠して、私を守ってくれたんだ。
「抱きしめて」
ふわりと両手が広げられるのに、ストンと飛び込んだ。おずおずと手が回される。暖かい身体。この身体から、私は生まれた。
「……それで、1回だけ、お母さんって呼んでもいい?」
前髪が温かい水で濡れる。カナタさん、明日には兎みたいに目が真っ赤になっちゃうだろうな。
「……う、ん……」
絞り出すみたいに聞こえた返事に、私はこれ以上無いくらいカナタさんをきつく抱きしめる。
1回だけ。これが最後。初恋も、実母に思う恋しさも、全部ここでおしまいにしよう。
「……お母さん、一生懸命産んでくれてありがとう、私、世界で一番幸せになるよ」
二人で、くっついちゃうくらいきつく抱きしめあって、私たちは、笑顔でその手を離した。
これでおしまいなのだ。
私はただの東条光。カナタさんは、たまたま仲良しの、優しいお兄さんだ。それでいいんだ。
腕につけたままだったビーズのブレスレットが、ぱちんと弾けた。水色の小さなガラス玉がキラキラ舞って飛んでいく。通していたシリコンのゴムが寿命だったらしい。
でも全然いい。構わない。拾って集めて、また新しい物を作ればいいのだ。
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