第12話 悲しみを鍛えて、いつか剣にするんだ
家庭裁判所。
ヒカルと深見の関係を明らかにする場所である。
恐喝に対しての賠償については本来地方裁判所で争われる事になるらしいのだが、今回は犯人と被害者に親子関係がある可能性が高く、まずはその詳細を明らかにしなければならないので、家庭裁判所への申し立てとなるらしい。その辺は東条家側の弁護士の領分となるため、カナタは証言に駆り出される形だ。
とは言え、DNA鑑定に対して嘘はつけないので、実際は精神的な被害の金額を争う事になる。
数週間前から、カナタは東条家側の弁護士と証言の詳細についてかなり細かく詰めている。被害者二人の話に齟齬があれば疑われるのと、あとは想定される質問を把握しておかないと、本番でショックを受ける可能性がある為だ。
性被害に対する証言の事例を幾つか見てみたが、かなり胸糞悪い。そして俺はと言えば、相変わらずカナタに引っ付いて、彼が何枚もの印刷物をめくりながら、ブツブツ言いつつ内容を頭に詰め込むのを見ているだけだ。
「……ほんと、人前でこんな事聞かれるのか」
内容は、平素だったら口に出せないくらい生々しいものである。
「聞かれるよ、家裁は傍聴できないみたいだから平気だよ」
平気では無いだろう。一応付き添いは入れるらしく、俺も当日は居ていいらしい。ヒカルも当事者なので出席する様だが、内容が内容なので心配ではある。
「……アキラ、俺ができるのってこれくらいだから頑張るけどさ、当日ヒカルが無理そうだったら直ぐ連れ出してあげて」
「分かってるよ」
意外と早かったな、と思う。
会社側、言うなれば夫側から件の巫山戯た文書が届いた数日後、当てにしていた妻の方から面談の要望があった。
「社長、ロビーに深見様というお客様がお見えです」
「女性かい?」
「はい」
「通してくれ。茶だけ出したら人払いしてくれるかい?」
「かしこまりました」
多少様子がおかしい注文でも、すっかり慣れた秘書は動じることもなく笑みを浮かべている。もちろん詮索する素振りも見せない。彼女は察しが良くて気に入っている。茶菓子は要らないとわざわざ言わなくても出さないで去ってくれるだろう。
「お土産が楽しみだね」
数分待っていると、秘書が件の深見の妻を伴って入って来た。
見るからに青ざめた顔をしている中年の女性に、まずは満足する。手綱は取れている様だ。
「こんにちは。あらあら、わざわざこんなとこまでご足労いただいちゃってすみませんね。まあ掛けてくださいよ」
ベージュのスーツに、緩く分けてセットされたセミロングの髪。
美人でも不細工でも無い、至って普通のβの女だ。しかし下品では無いし、身なりは行き届いている。妻として娶るなら十分だろう。
ただし、深見本人はこの女だけでは不満だったらしい。
裁判の日はあっという間に来た。裁判自体は何回かあるのだが、最初の方は殆ど代理人の弁護士が事実関係のやり取りをする、ほんの数分で終わるような内容である。それを一、二ヶ月毎にやるのだから、非効率的な事この上無い。初めから終わりまで見ていようと気合いを入れて行くのだが、それこそ10分以内で終わってしまう日もあり面食らった。ドラマの様に弁護士同士が大声でやり合うような事は基本的に無いらしい。
そして今日は、血縁上の母親である八代奏多さんが証言をする日である。やはり、いつもよりは時間がかかるようだ。
私はと言えば一応マスクと眼鏡をして、後ろの方に陣取っている。自分の裁判なのに端っこに居るのも不思議な感じだが、未成年であるし、弁護士の先生に殆どお任せという感じだ。
もっと自分の意見を言えるのかと思ったがそうでも無いらしい。ちょっと納得がいかないが、ワガママも言えないのが苦しい所である。
一緒に居るのはお父さんとお母さん。あと今日は志津さんも居てくれる様だ。
「カナタさん大丈夫かな……」
隣の志津さんは、いつもより少しピリピリしている感じがする。
「シュミレーション通りの質問なら問題無い筈だ」
保護の観点からか、カナタさんの居るスペースはパーティションで仕切られている為、姿は見えない。
「練習してきてくれたんだよね?」
「……まあな、お前、無理だったら言えよ」
結構酷い質問をされるという事は聞いていた。
聞いていたのだけど。
「16年前、当日の服装はどういったものでしたか?」
「黒の学ランの上下に白のワイシャツ、紺の靴下と革靴です」
「持ち物に通信機器はありましたか?助けを呼びましたか?」
「携帯電話を持っていました。身体に違和感を感じた時点で父に連絡しましたが、繋がりませんでした」
「誘惑の意図はありましたか?」
「ありませんでした」
どういう事だ。高校に入ったばっかりの子が誘惑って何だよ。
「……落ち着け」
怒りに握りしめた手が震える。右から志津さんが小さな声で諌めるのが聞こえたが、怒りは溢れそうになるばかりだ。質問は続いている。場所、時間、犯人の人相。
「暴行を受けた際に抵抗しましたか?」
「威吼を浴びたのと、頭をアスファルトに叩きつけられたので、抵抗は殆どできませんでした」
「服はどう脱がされましたか?」
「……学ランとワイシャツは左右に引き裂く様な形で、ボタンが飛ぶ様な感じでした。下は脱がされました」
「全部ですか?」
「はい」
「挿入は何センチくらいされましたか」
何でわざわざそんな事きくんだ!?
怒りと悔しさに立ち上がろうとした腕を、大きな手が掴む。志津さんは、私の腕を掴んだまま、私の隣に居たお父さんに頭を下げた。お父さんも小さく頷く。
ガタンと音を立てて、志津さんがパイプ椅子から立ち上がる。私もそのまま手を引かれて、すぐ傍のドアから連れ出された。
悔しい。なんであんなわざわざ、カナタさんを疑って、しかも辱める様な事を言わせるのか。
目が熱い。悔しくてたまらない気持ちが溢れるみたいに、涙がボロボロ零れていく。
「……落ち着きな。言ったろ?シュミレーションの範囲だ」
涙を拭って仰ぎ見た志津さんは、険しい顔をしてはいるが落ち着いている。
「だって、あんな、……十五歳の子が、……嘘つくとか、誘うとか、……酷いよ、なんであんな事言うの」
「それがあのおっさんの仕事だからだ」
差し出された紺のハンカチは、綺麗にアイロンがあてられて折り目が付いている。カナタさんは志津さんの家に居ると聞いているし、アイロンもカナタさんがやったのだろうか。
優しくて、穏やかで、綺麗な素敵な、大好きなお兄さん。
その人が、何も悪い事をしてないのに知らない男に強姦されて、……そして、その結果が私だ。
「裁判って正しい人が勝つんじゃないの?何で何もしてないカナタさんが……何も悪いことしてないのに、私の事も、大変な思いして……」
差し出されたハンカチでぐしゃぐしゃの目元を拭う。
「そうだな。……聞きな、お前、なんで今日ここに入れたと思う?」
「……だって私の裁判じゃん?」
一瞬クリアになった視界で、志津さんは閉まった扉をじっと見詰めていた。それもまたすぐぼやけてしまう。
「センシティブな内容の証言をする時は、同場者も被害者が指定出来るんだ。必要なのは代理人の弁護士だけで、俺とお前と、親御さんはカナタが許可してるから入れるって立場だ」
「……えっと……カナタさんは質問内容が分かってて、あえて私に聞かせてるって事?……それが何でかって事?」
「そうだ……あのな、俺もカナタも、お前の親御さんも大人だ。正義なんてものに裏切られるなんてしょっちゅうだし、理不尽な事なんてそれこそ日常茶飯事だ。じゃあ、お前はどうなんだって事だ」
私は、正しい人が幸せになって当たり前だと思っている。
また涙が溢れてくる。そうじゃないとしたら私はどうしたら良いんだ。
考えても、言葉が出てこない。ごしごしと目元を拭う。
志津さんは、扉を見詰めたままだ。
「……そっか」
目線だけで、続きを促される。
「志津さんの好きな人は、向こうに居るんだもんね。……一緒に戻る。戻ってから考えるよ。私も傍にいる。カナタさんだけに嫌な思いさせられないよね」
「……大丈夫なら、行くぞ」
何ができるか分からないけど、何も出来なくても、あの人の傍に居るのだ。それがきっとカナタさんのして欲しい事だ。
一度退室したヒカルとアキラが戻ってきた様だ。とは言え、足音と気配だけで推測しているので、彼らの表情はわからない。
裁判長の男性は粛々と質問を続けた。今の所想定通り。
「16年前の件において、病院で避妊薬は服用しましたか?」
「服用していません。処方されましたが、抵抗があったので隠れて吐き出しました」
「抵抗というのはどういう心境ですか?」
「……お腹に居るかもしれない子を、殺す事は出来ないという気持ちでした」
あの時、彼女は確かにここに居た。死守、という言葉があるが、文字通り彼女を守る事は死を賭してでも守るという事だった。
「人工中絶手術は検討しましたか?」
「父親に強く勧められましたが、断りました。」
「ご家族の理解は得られましたか?」
「得られませんでした。強制的に堕ろされそうになったので、ホットラインを頼って保護していただいて、それで出産出来ました」
助けてください。
父親の怒号にボロボロになりながら、それでもなんとか掛けた電話。番号は高校に入学した際に配られたリーフレットに掲載されていた、オメガの性被害相談ダイヤル。
『助けてください……赤ちゃんが殺されちゃう』
必死だった。必死に二人で生きようとした。
「その時、相手の男性に出産費や養育費等の金銭等を要求する意思はありましたか?」
「ありませんでした」
「それは何故ですか?」
「相手の身元が不明だった事もありますが、分かっていても関わり合いになりたくは無かったですし、娘は私の子ですが、相手の男性の子だとは思わなかったからです」
「他にも父親の候補が居たのですか?」
「いいえ。性的な関係を持ったのはその時が初めてでした。……説明が難しいですが、娘と繋がっているのは自分だけだと思っていました。相手の男性は、私にとって人間と言うより天災の様なもので、正直個人的な興味は全く無いので。父親としては考えられなかったです」
「なるほど……」
プライバシーの保護と精神的な負担の軽減の為、パーティションで仕切られて居るので自分から周囲の表情は分からない。
白く囲われた小さな空間で、次の質問をじっと待つ。
「9月24日に暴行された際、病院で緊急避妊薬は服用しましたか?」
「いいえ」
「それは何故ですか?」
「1度目の時もそうでしたが、私自身は堕胎に強い抵抗があるので」
「妊娠していたら出産の意思があったと言うことですか?」
「そうです」
淡々とされる質問。時系列は現代に移っている。ここまで来ると光と深見の繋がりにはには関係ない話題であると思うが、聞かれる以上は心象のためにも答えるべきだろう。
「今回は相手の身元が明らかになりましたが、妊娠していた際に金銭を要求する意図はありましたか?」
「ありません」
「お一人で育てる意思があったということですか?」
当時の事を思い出して、ほんの少しだけ、胸が温かくなった。
『もしもの時は俺が育てます』
アキラ、あのね、俺は本当にそう言ってくれて嬉しかったんだよ。かつての孤独と不安で泣きじゃくっていた幼い自分が、強く抱き締めて貰えた様な、そんな気持ちになったんだよ。
「パートナーと一緒に、二人で育てようと思っていました」
「パートナー……その方が他人の子を育てる意思があったという事ですか?」
「そう言ってくれました」
ヒカルを孕んだ時、心身の傷は計り知れなかったが、何より辛かったのはただ一人の肉親である父親が、妊娠の事実を受け入れてくれなかった事だ。
『自分が何を言っているか分かってるのか!?猫を拾うのとは訳が違うんだ!学歴も何も無いΩがどうやって生活するつもりだ!水商売で食っていくつもりか!?』
何とかして説得しようとしたが、叶わなかった。本当は、父に『大丈夫だよ』と言って欲しかった。寄り添って欲しかった。
お父さんに会いたい。でも、同じくらい会いたくない。
「妊娠発覚後、パートナーの方の気が変わって、あなたの元を去る可能性は考えましたか?」
「えっ……?」
全く考えていなかった質問に、思わず言葉が詰まる。アキラが裏切る、そんな事あるだろうか。一瞬頭を巡らすも、全く想像がつかない。
何せ、一悶着あってから自分がセックス恐怖症なのを打ち明けて、そしたら随分長いこと手を出さなかった男だ。
お付き合いを始めた頃の、手が触れるのさえ戸惑うような彼の目を思い出す。
「……すみません、全く考えませんでした。パートナーを信頼しているので。本当に、彼と一緒に育てるつもりでした。犯人に何か請求する意図もありませんでした」
ちょっとしどろもどろになってしまったが、大丈夫だろうか?
カナタさんは淡々と答え続けていた。話は私を妊娠した頃から、数ヶ月前の事件の話に移っている。
小さな会議室みたいな家庭裁判所の一室で、裁判長はこちらをじっと見ていた。目は合わない。
いや、志津さんを見ているんだ。
そっと仰ぎ見ると、志津さんも裁判長を、睨むでもなく見つめ返している。
「妊娠発覚後、パートナーの方の気が変わって、あなたの元を去る可能性は考えましたか?」
質問の内容に一瞬びっくりしたが、志津さんは平然としていた。
パーティションでみえないが、カナタさんも一瞬言葉に詰まるのが伝わってくる。これは結構踏み込んだ質問じゃないか?ついでに言えば、私と犯人の血の繋がりとかは全く関係が無い質問な気もする。
「……すみません、全く考えませんでした。
パートナーを信頼しているので」
ゆっくりと答える声には、静かながらも力強い響きがあった。信頼、という言葉の通り、カナタさんは志津さんを信じてるんだ。そこに一点の陰りもない。
「パートナーは私を傷つける様な嘘は言いません。酷い事も、不誠実な事もしません。責任感があって、穏やかで優しい人です」
静かにはっきりと告げる声は凛として澄んで、迷いは無い。
カナタさんは志津さんを信頼しているのだ、というのが痛いくらいに伝わって、私は改めて志津さんの顔をちらりと見てみる。
きっと、優しい顔をしている筈だと思ったのに、志津さんは能面のような無表情を貼り付けて、カナタさんが居るブースを、ただ静かに見ていた。
その日の公判を終えて、合流したカナタは疲れ切った顔をしていた。それでも俺に気が付くと、困った様にへらりと笑った。
「カナタさん……!」
結局俺とずっと一緒に居たヒカルは、姿を見るなり慌てて駆け寄る。そのまま飛び付きそうな勢いだったが、そうしないだけの節度はある様だった。
「あの、あの、……わたし、」
上手く言葉にできないのか、カナタの袖口をすがるように摘んで、俯く。
その手をそっと取って両手で温める様に握って、カナタはヒカルに困った様に微笑んだ。
「……聞き苦しかったでしょう?大丈夫?具合悪くならなかった?」
「私は平気なんです、……あの、カナタさん、……私あんな酷い事ばっかり聞かれると思ってなくて……」
やはり耐えられなかったのか、ぽろぽろと零れた涙を空いた方の手で拭う。カナタは手を離すと、スーツのポケットから紺のハンカチを取り出して、涙を拭ってやった。今日のヒカルは良く泣く。当たり前だ。どんなに腹を括ったって、まだ高校生の女の子なんだから。あんな凄惨な話しを延々と聞いて、平気な訳が無い。
「そんなに擦ったら痛くなっちゃうよ」
「だって……ごめんなさい、わたし、……わたしのワガママで……」
無意識に小さな頭を撫でる。ごめんなさいと言うが、別にこの子が悪いんじゃない。悪いのは全部カナタを暴行した男だ。艶やかな黒髪はカナタによく似ている。
「平気さあのくらい。伊達に年取ってないからね」
そう笑うカナタに綻びは見えない。実際質問はほぼシュミレーション通りだし、嫌な思いはしたと思うが、何より結果が出る方が大切という考えだ。
ひっく、としゃくり上げるのといっしょに、学生服の細い肩が震えている。
「でも、……わざわざあんな嫌な思いさせるくらいなら、やらない方が良かったかもしれない……」
どうだろうなあ。
人生は選択の繰り返しだ。強姦と私生児の事実は深見の社会的地位に大きなダメージを与えるだろう。ヒカルの復讐心は多少なりとも満たされるかも知れない。
しかしそれは、同時にカナタの傷を抉る事にもなり得るし、ヒカルにとっては実の父親が如何に腐った人間であるかを確認する事にもなる。自分に入った血の半分を見つめる事で、何も思わない訳は無い。
「ヒカルさん、ちょっとお顔見せて」
優しく語りかけられて、ヒカルは既に腫れぼったくなりつつある目元をそっと上げた。泣いたあとの顔もいつかの夜のカナタに似ていて、それがちょっと面白くて、笑ってしまわないように気合を入れる。本当に並ぶとそっくりだ。
ふ、とカナタは笑みを零した
「世界一可愛い」
でしょう?とヒカルの父親に同意を求めると、そちらも神妙に頷いた。母親もうんうんと頷いて笑った。
ちなみに俺は、お前が世界一可愛いと思うぞ。
内心語りかけるが、とりあえず今は黙っておく。
ヒカルは一瞬で真っ赤になった。それはもうゆでダコみたいに。
「嫌な事もあれば良い事もあるものなんです。それで、嫌な事と良い事って案外いつも一緒に来ます。光と影みたいなものです」
涙に濡れた目がキラキラしている。いつか、この傷がこの子の糧になる様、俺たちは祈るしかない。灼熱の中打たる程、強度を増す鋼の様に。
「わたし、あの曲、聴いたんです、……現地語の古い方の、……」
一瞬潤んだ彼の瞳の意味を、俺はまだ知らない。もっと沢山時間をかけて、これから知っていけばいい。ヒカルだってそうだろう。
「俺にとって、あの時の事は確かに辛くて苦しい思い出です。でもそれがあったから今のヒカルさんに会えた。それはもう、比べ物にならないくらい最高に幸せな事です」
そう言って笑った顔を、俺はただただ美しいと思った。
判決はそれから一月程で出て、当たり前だがヒカルと深見の親子関係は認められた。十数万程度の慰謝料は本命ではない。ここからいかにして、深見に社会的制裁を与えられるか。ここからが本番だ。
液晶の画面に、身知った顔が神妙に映っている。フラッシュが無数に光る中、社長はマイクに向かって、毅然と声を張った。
『この件につきまして、弊社は被害の大きさを鑑み、当該社員と他被害者の弁済を求める事と致しました。Ωの人権の軽視は常々議論をされている所では有りますが、地域に根ざす企業の社会的責任をーーー……』
ローボードに置かれたコーヒーはとっくに冷めている。カナタは俺に少し凭れるようにして、画面をじっと見つめていた。
『……最後に、被害者のご息女からお手紙を預かっております』
カナタははっとして、俺と目を合わせて首を傾げた。今の所子供を産んだ被害者はカナタだけだと言う事だし、手紙はヒカルのもので間違いないだろう。
『“私は、母が十五歳の時に暴行されて、その時に出来た娘です”』
何を語るのか。裁判の後は流石に疲れて早々に解散して、あれ以来会っていない。カナタの肩を抱きせると、預けられた身体が微かに震えている。
『“母は私を守ってくれましたが、それを機に家に居られられなくなり、学校も退学しました。私とも一緒に暮らすことはできなくて、私は養女に出されました。私は優しい義両親の元で大切に育てて頂きましたが、母のその後の苦労と、心の傷は計り知れません。母は、……”』
一瞬、読み上げるのを戸惑う様な間があった。
『“私の実父と、生まれた私に人生を奪われました”』
そんな事言ってくれるなよ。
ほら、泣いちゃったじゃないか。言わんこっちゃない。
カナタが俯いて、膝にぽたりと涙が落ちるのが見える。
『“でも、母はそんな私の事を、憎い相手の血が流れる私を、世界一可愛いと言ってくれました。離れていてもずっと、私の事を想っていてくれました。本当に、穏やかで優しい、とても強い人です”』
カナタはお前の前で見栄張って強がってるけど、実際は結構泣くし、お前に嫌われるのが怖くてしょうがないんだ。ついでに駄々っ子だし甘ったれだし、でもお前が大切で、自分なりにものすごく頑張って、それでやっと今ここに居る。
『“母は、実父の事を天災みたいなものだと言っていました。恨まず、身に起きた不運として受け止めて、私の事を愛してくれました。でも、実父は再び母に酷い事をしました。私は、それが許せません。母は良い事と悪い事は一緒に来ると言っていました。そうして身に起きた不幸を昇華させていると思います。でも、私は実父がどうしても許せません。これを聞いている人に、お願いしたい事があります。”』
社長は画面の中で、ひとつ大きく息を吸う。
大気が震えた。
『“Ωの人を軽視しないでください。私の大切な人を、その身体に受けた悪意を、事故という言葉で片付けないでください。私の母は犯罪に遭いました。事故じゃありません。私の前で悪意を持って襲われました。お願いします。”』
これが彼女の答えだ。
『“どうか、実父を許さないでください。そしてどうか、Ωの人達の生活を、人権を、社会全体で守ってください”』
カナタはとうとう俺の膝に顔を埋めて、声を上げて泣いた。ヒカルは、俺たちの前でどんどん大人になってゆく。憎悪に抗い、悲しみに立ち向かう。
きっと世界は彼女の声に耳を傾けるだろう。だって、俺の胸だって、こんなに震えるのだ。
「相手さん、とりあえず社長をクビになったみたいですよ。まあ入婿ですからそんなもんですね」
「成程、まあそうしますでしょうね……」
八代祐氏は、秘書が煎れた玉露にそっと口をつける。細い白い手は年齢を表すように筋張って、しかし所作の一つ一つが美しい。
「まあ、あたしも雇われ社長ですから、人の事は言えないんですがね」
「そうなんですか?」
「うかうかしてるとクビになりますからね。株主は怖いんですよ本当に」
今日足を運んでいただいたのは何も世間話をするためだもなければ、先日の記者会見の報告をするという訳でもない。
目の前には日本茶一式と茶菓子。あと閉じたノートパソコン。その上に、安っぽい黒のUSBが蛍光灯を反射している。
先日、深見の妻……今は元妻、が持ってきたものだ。
女は、目に見えて青ざめた顔で社長室の重たいドアをくぐった。
「この度は……私の夫が、」
「御託はいいから本題に入ってくれ」
ビクッと肩が跳ねる。生憎と、この女に優しくしてやる義理はない。
震える手が、ハイブランドのバッグから封筒を取り出した。
「……写真と、USBです。被害者の方の動画が入っています」
「へえ、それはどこで見つけた?」
「……自宅のパソコンから……クラウドにパスワード付きで保存されていました……」
「……共有されていた?権限は?」
「……」
返事は無い。
俯いた女の顔は見れないし見たくもないが、喋らなくなると困るので意識して威吠は控える。
卓上に置かれた封筒を取り上げて、中の写真を取り出した。
思わず、顔を顰める。こんなもの、あの人にどんな顔で見せたら良いのだろう。
「八代か……」
暗い室内の為写りが悪いが、藻掻く様な四肢は間違いなく男性だ。身体の所々に血が滲み、首の後に血にまみれた酷い歯型が付けられている。
頭を押さえつけられて居るので顔は見えないが、間違いなく先日ここに呼んだ八代奏多だった。
父である八代佑氏にも、これを見せることになるだろう。親子の心の傷を思うと流石の自分でも胸が痛む。
「あんた、あたしにこれを渡してどうしたいの?」
冷たく言い放つと、女はしばらく押し黙り、口を開いた。
そうして聞いた内容に満足して、とりあえず部屋から追い出す事にする。
「どうか、お願いします、娘だけは許してください……!」
お前も母親だろうが、それが何だって言うんだ。自分は身内にしか興味が無いし、お前がどうなったって何の感慨も無い。
「こいつの内容次第だね。まあ、精々離婚を急ぐこったね」
そうして追い出した女が持ってきたのがコレである。
「本当にご覧になりますか?」
問いかけた彼の手は、震えを抑える様にきつく握られている。
「……ええ、私が……私が見なくては、……これは、私が起こしてしまった事でもあるのですから……」
未だ幼さの残っていた令息を、追い出した事を酷く悔やんでいるのだろう。かと言って、成人してからも子供を守り続ける事は不可能だ。
しかしもし、一度目の事件の時に犯人を捕らえられたとすれば、被害者はもっと少なくて済んだはずだし、何より八代奏多も二度目の被害を受けなかった。
そう、八代祐氏は、犯人の尻尾まで手が届いていたのだ。後悔が拭える筈もない。
「では、私は席を外します。何かご不便がありましたらそこのベルでお呼びくださいね」
八代祐氏は白い顔で頷く。目の前に開かれたノートパソコンは、女が持ってきた動画が準備されている。
応接室の扉を出て数分、廊下に据えられたソファーに凭れているとガチャんと音がして八代祐が出てきた。青い顔で口元を抑えて、焦るように左右を見渡している。
「お手洗いはこちらに」
足早に立ち上がり、細い着物の背中を庇うように横に着いた。
近くの手洗いに案内し、個室から響く苦しげな嘔吐の音を聴く。それに混じって、八代祐氏の嗚咽が、私の鼓膜を震わせた。
「……私の子です……」
苦しげに呼吸をする合間に何とか絞り出す様にして、八代祐氏が言う。
「あの男も……あの男も、間違えありません、…………」
「八代さん、聴いてください。裏が取れました。深見の悪意を、……いや、深見だけじゃない」
あのファイルはどす黒い悪意を持って共有されていたのだ。
多くのファイルが共有され、恐らくは取り引きされていた。
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