『星の宿願Ⅱ』

 プロ棋士というのは、囲碁を打つことで生計を立てている職業碁打ちだ。もちろん、誰にでもなれるものではない。日本においては、囲碁界が定めたプロ試験を突破することで認定される。その数は、年間で十人いるかどうか。アマチュアを凌ぐ圧倒的実力があっても、その枠に入れる保証はない。


 そしてうまく通過したとしても、その先に待つのは血で血を洗う競争社会だ。強い者が弱い者を喰らい、より激しい戦いへと身を投じていく。その食物連鎖の頂点にいるのが一線級棋士トッププロだ。


 ステラの父、桜谷敷さくらやしき仁徳じんとくもその一人だった。彼は多額の賞金をかけたタイトル戦を何度も制し、その手厚くパワフルな棋風きふうから『破壊神』の異名で知られた。その手に頭を撫でられ育ったステラが、プロ棋士を目指すのは当然の成り行きだった。


 ステラは一線級棋士トッププロのDNAを遺憾なく発揮し、幼くして頭角を現した。暴力的かつ奔放な棋風きふうで無邪気に相手を蹂躙していく様は、全国の強者たちに『怪物』とまで言わしめた。同年代の子供たちに敵はなく、彼女は十にもならない歳で、小学生の全国大会を制覇した。


 それからも彼女は順調だった。プロ棋士養成機関――「院生いんせい」に加わり、ランキングを上げていった。プロ棋士になるのは時間の問題だと、誰もが思っていた。


 しかしそれから数年が経ち、ステラは院生を――、囲碁をやめた。


「プロ棋士は碁打ちのスター。憧れですわ。だからこそ多くの者が、命をかける覚悟で、その座を目指している。院生は本当に、熾烈な競争の場所でした」


 プロ試験には年齢の制限がある。限られた時間の中で戦果を上げられなければ、院生に居続けることは許されない。勝ち続けてプロ棋士になるか、勝ちきれずに消滅するか。誰もがその二択を突き付けられる。


 テーブルに両手を置いて、ステラは語る。


「あの場所で囲碁に勝つということは、人の夢を踏みつけてのし上がっていくということ。夢に手を伸ばす人たちを蹴り落としていくようなもの。ちょうどあの頃に《石の声》が聴こえるようになったわたくしは、それを理解して……、囲碁が怖くなったんです」


「囲碁が……怖い?」


 鷺若丸さぎわかまるが思わず聞き返す。ステラは小さく頷いた。


「ええ。それまでのわたくしにとって、囲碁はただただ楽しい遊びでした。ですが、その遊びに勝つことで、わたくしは誰かの夢を壊していた」

「なによそれ。気にすることなくない? 勝負事なんだから、そんなのあたりまえじゃん」


 そう意見するのは雪花せっかだ。彼女の割り切り方はドライだが、正しい。相手の望みを絶ってでも白星を勝ち取る覚悟の持ち主だけが、プロとして上に登っていけるのだ。ステラも頭ではそれを分かっている。しかし心が納得してくれない。


 本気の囲碁を打とうとすると、泣いて悔しがる対戦相手の顔がちらつく。扉を蹴り壊して立ち去った者もいた。路地裏で項垂れている姿を最後に、二度と見なくなった者もいた。


 プロ棋士への道は険しい。そこを這い進む者たちの姿に、ステラの囲碁観は破壊されたのだ。『怪物』は、ただの人になった。その先に待っていたのは、明けることのないスランプだった。


「わたくしには勝利に対する覚悟がない。だからプロを諦め……、囲碁もやめたのですわ」


 勝利への恐れは、いつしか囲碁そのものへの恐れに変わってしまった。もはや石を握ることを、素直に楽しめなくなっていた。それで逃げることにしたのだ。中学生の時の話だ。


「でも、わたくしはこうしてまた囲碁をやっている……。それは寝ても覚めても石に触れながら生きてきた、あの時間が楽しかったことを、思い出したからですわ」


 先代部員たちの姿を見て、彼女は気が付いたのだ。大事なものを置き忘れてきたことに。


「……あの気持ちを取り戻したい。だからこその、団体戦だったんです」


 苦境を支え合って乗り越え、喜びを分かち合う。そんな仲間たちが隣にいてくれれば、勝利を躊躇う必要は無い。先輩たちのように、純粋に囲碁を楽しむことができるはず。そう信じた。


 彼女はうつむきがちだった顔を上げて、一人一人を見渡してみる。


 雪花の瞳は蒼く輝き、明日の大会を睨みつけていた。ここにきて急速に高まり始めた緊張に負けじと、自らを奮い立たせているのが見て取れる。


 天涅あまねの漆黒の瞳は、いつも通り感情を見せないが、光の見えない奥の方でなにか思案をしているようだった。目の前の食べ物に見向きもしていない。


 そして鷺若丸の瞳は一点の曇りもなく、穏やかにすべてを見守っていた。優しくて、ちょっと人より囲碁が好きなだけの華奢な少年。そんな彼の瞳がなにより頼もしく感じて、ステラは我知らず口元をほころばせた。


「皆さん。勝手なことを言ってごめんなさい。でも……、明日はきっと、楽しい大会にしましょうね!」


   ○


「……くそっ!」


 ファミレスから抜け出してきた少女は、人気ひとけのない路地で金網をわしづかみにする。


 彼女は星薪ほしまきいのり。明日の大会に出場する強豪校、灰谷はいたに聖導せいどう女子チームで副将を務める一年生だ。


 実は彼女は一度だけ、かつてのステラと対局をしたことがあった。小学生全国大会、その予選リーグでの話だ。当時、無邪気にプロ棋士を志していた彼女は、ステラに惨敗を喫した。


 あの時の対局は、今でも昨日のことのように思い出せる。ステラは、アリの巣に水を流し込むようにいのりの陣形を崩壊させ、這い出してきたアリを一匹ずつ潰すようにいのりの石を次々と弄んだ。


 その間、ステラはずっと天真爛漫に微笑んでいた。


 こっちの石はうまく殺せた。次はあっちの石を殺そうか。それともそっちの石を殺そうか。どうやって殺そうか。どっちがいっぱい殺せそうか。……そんなことを考えているように見えた。


 そしてどうやら、同じことを感じた者は、いのりだけではなかったらしい。


「あの子は殺戮を愉しんでいる」


 大会を見守っていた賓客棋士が後にそう呟いたのを、いのりは偶然、聞いてしまった。


 他にも、本選で彼女に負けて会場を飛び出したある選手は、半狂乱でこう泣き叫んでいた。


「あの子の石から笑い声が! 笑い声が聴こえる!」と。


 立ち塞がる相手を片っ端から喰い散らかし、あどけない微笑で優勝トロフィーを抱える彼女は、まさに『怪物』だった。


 プロの世界とはきっと、彼女のような碁打ちのためにあるのだろう。そう思った時、いのりの中にあったプロ棋士の夢は自然と冷めた。


 無念ではあるが、諦めはついた。結局のところ自分自身がプロ棋士の器ではなかったのだ。それだけのことだ。だからステラのことも、別に恨んだりはしていない。


 しかし、彼女が明日の大会に出てくると言うのなら……話は別だ。


 今年の団体戦はいのりの先輩たちが出場できる、最後の学生大会なのだ。その大事な時間が、『怪物』のオモチャにされるなんてことは、あってはならない。絶対に!


 そもそもあれほどの腕の持ち主が、プロを諦めた理由が分からない。アマチュアの大会を荒らしにくる理由はもっと分からない。


 やはりあの女は、自分より弱い相手を虐げて勝利に酔いしれたいだけなのか? 囲碁が好きなのではなく、ただ勝つことが好きなだけだったのか? だとしたら……


「絶対に負けられねぇ……!」


 いのりは掴んだフェンスを軋ませた。


 そんな彼女の頭上に、巨大な筋肉の影が舞い降りる。


「おやおや、今日はまた一段と荒れているようですね」


 軽やかにフェンスの上へ降り立ったのは仙足坊せんそくぼうだ。いのりはそちらを見上げようともせず、吐き捨てた。


「……またてめぇかよ。いい加減しつこいな」

「巫女候補様におかれましては、本日もご機嫌麗しゅう。例の件、結論は出ましたか?」

「失せな。カミサマにお祈りするような殊勝な心は、ガキの頃、夢と一緒に捨てたんだ」

「では拾い直せばよろしい」


 仙足坊は街灯の光を背負って、嗤った。


「以前にも説明した通り、拙僧はこのひと月、我が主に仕える新しい巫女を探してきました。そして精査した中で、もっとも高い適性を持っているのが貴女だ」

「……」

「何度も言うように、タダで、とは申しません。巫女として我が主に仕えてくださるのであれば、貴女の望みを一つ叶えてさしあげましょう。ギブ&テイク、と言うやつです」


 仙足坊は胡乱な微笑を口元にたたえる。しかし、仮面の奥の目は笑っていなかった。


「本当なら、貴女の町に疫病や災害をふりまき、無理やり言うことを聞かせることだってできるのです。むしろ神のやり口としては、古来そちらの方が常道。それをしないのは、貴女と良好な関係を築きたいと思っているからなのですよ。どうかこの誠意を信じていただきたい」


 仙足坊はフェンスから浮かび上がると、逆さまになっていのりに囁く。


「どうです? 今、貴女には叶えたい願いが、あるのでは?」

「……っ!」


 いのりの脳裏に、へらへらと笑うステラの顔が浮かんだ。大会は既に明日まで迫っている。いのりは初めて仙足坊の方を見た。面の奥の瞳から不気味な光を放ち、天狗は誘う。


「家内安全、交通安全、学業成就に恋愛成就。我が主に祈れば、どんな願いも叶うでしょう。さあ、さあ……教えてください。貴女が今、求めて止まないものは、いったいなんです?」

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